キリスト者として今を生きる

風は冷たいけれど春の訪れを感じます。。。

日本という国、風を…

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シッコ

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HPはこちらhttp://sicko.gyao.jp/

話題の映画『シッコ』を観た。

ボウリング・フォー・コロンバイン』、『華氏911』に続くマイケル・ムーアの新作ドキュメンタリー。アメリカの医療制度をムーアが笑いとともに鋭く突く。
なんとアメリカの健康保険充実度は世界37位、泣く子もだまる超大国が、先進国中最下位だ!!

先進国で唯一国民健康保険制度のないアメリカ。6人に1人が無保険で、毎年1.8万人が治療を受けられずに死んでいく。しかし、『シッコ』はちゃんと保険に入っている人々についての映画だ。

アメリカの医療保険の大半はHMO(健康維持機構)という、民間の保険会社が医師に給料を支払って管理するシステム。
保険会社は、治療は不必要と診断した医者には、「(無駄な)支出を減らした」という旨の奨励金を与え、加入者には何かと理由をつけて保険金を払わない。さらに多額の献金で政治家を操り、都合のいい法律を作らせる。そんな政治家たちは公的医療保険を求める動きに対して、「国による健保の管理は社会主義への一歩だ!」と完全につぶれるまで恫喝する。結局、国民は、高い保険料を払っても、一度大病を患えば、治療費が支払われずに、病死か破産だ。
「I am sick of it!(もう沢山だ!)」とムーアは叫ぶ。

ムーアの批判精神とユーモアが炸裂する映画。仕事中に事故で指2本を切断された中年の大工。健康保険を持っていない彼に、医師は聞く。「薬指をくっつけるのは1.2万ドル。中指は6万ドル。どっちにしますか。」大工は安いほうの薬指を選ぶが、ムーアはユーモアを忘れない。「彼はロマンチストだったので、エンゲージリングをはめる薬指を選んだ。」


治療費を払えないからといって、寝巻きのまま路上に文字どおり棄てられる患者。

医療保険を民間にゆだねるとどうなるか。民間保険会社は利益を上げることが最大の目的だから、保険料を払わなくてもすむよう、徹底的に努力するのだ。たいしたことない既往症を(たいしたことない上、治療済みだ)申告し忘れていたとすると、「病歴を隠していた」と難癖をつけ、金を払わない。「その治療は必要ない」と言い張ってまたしても金を払わない。

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秀逸なのは、ムーアがグアンタナモ基地に拡声器を持ってボートで出かけていくところ。あんなにヒーロー扱いされた9.11のボランティアの救助隊員たちは今、塵埃を吸った後遺症で重い症状に苦しんでいる。その手当てすら国はしていないのだ。ムーアは彼らをボートでグアンタナモ基地の傍まで連れて行く。なぜならグアンタナモ基地はアメリカで唯一タダで治療が受けられ、そこに収監されている囚人はその恩恵にあずかっているからだ。「9.11の英雄に容疑者たちと同じ治療を受けさせてくれ!」とムーアは叫ぶ。



これは他人事か?

·マイケル・ムーアはインタビューで『日本の医療制度はすばらしい、だが、政府はそれをつぶそうとしている』と発言している。 
·リスクが高く診療報酬の低い小児科や産婦人科には医者のなり手がなく、急患患者のたらい回しが起こっている。
·郵政民営化で、アメリカ資本と日本政府はグルになり、国民の汗と涙の結晶である郵貯と簡保の345兆円が外資に流れる。
·来年4月から「後期高齢者医療保険制度」が実施される。「年寄りは死ねと言うのか」と怒りも炸裂している。
後期高齢者医療保険制度については中日新聞 http://www.chunichi.co.jp/article/living/health/CK2007091402048665.html


もっとも、ムーアの主張に100パーセント同意するわけではない。カナダやフランス、イギリスの医療制度のいいところばかりをクローズアップしているけど、これらの国の医療制度に問題はないのか。医療技術がこれだけ進歩してかつての「不治の病」すら治せるようになった今、「そういう治療を国民全員にタダで受けさせろ」と要求するのもいかがなものか。入院病棟を訪れると、入院患者のほとんどは高齢者だ。老人ホームより病院の方が安いし、自宅で面倒を看る手間が省けるから、追い出されるまで入院させておこうと家族は思うらしい。「延命治療」は胃に穴を開けてチューブでつなぎ、人間を何年でも(ってのは大げさだろうが)生きながらえさせることができる。健康保険で?

医療制度がパンクしているのはたしかだろう。しかしパンクしたから民間に丸投げ、とか一律保険料アップとかは乱暴すぎるだろう。セーフティ・ネットとはネットワークだ。国民がどこまでお互いに助け合っていけるかが基本であり、相手を助けるとは自分の欲望を多少なりとも抑えるということだ。こら、酒をしたたか飲んでいながら、痛風の薬をもらうんじゃない!(どっかの誰かさんへ)

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むだ使い?

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かつて数年間住んだことのある山形を久しぶりに訪れた。

収穫を待つ田んぼ、一面のススキにオニヤンマ。東北はもう秋。

でも電車の接続はますます悪くなった。ローカル線から他線への乗り換えに2時間以上待たなくてはならない。電車の本数がさらに減らされたから。


東京23区より大きな面積の土地にたった一つだけある県立高校が、廃校になる。

何十年にいっぺんの水害に備えて立派なダムができ、ダム建設のために新たに道路ができ、ダムで沈む位置にある家は、移転させられ「ダム御殿」といわれる立派な家をかわりにあてがわれた。


田んぼは緑色から黄金色に色づきかけ、収穫を待っている。

巨額の金を投じたダムはもうすぐ完成する。



けれどこの田んぼを引き継ぎ、お米を作りつづける若い人は残るのだろうか。

そして巨額を投じたこのダムによって水害を免れる家々に残る人々はいるのだろうか。


田舎を抱えていくのは「ぜいたく」で、「税金のムダ使い」ですか。

車通りも少ないだだっ広い道路、たった数戸のために繰り出される除雪車。



田舎をつぶしてしまったほうが、「経済的」でしょうか。

青々とした田んぼは打ち棄てて。



すでにそうやって打ち棄てられた部落はある。

たった数戸のために除雪車は出せないと言われて、

除雪車が来なくなり、

豪雪地帯の人々は部落を棄てた。


お米なんて外国から輸入すればいい。日本は競争力のある分野で国際競争をすればよい。

田舎なんて棄てておけ!

そういう決断をしようとしているのだろう最近のニッポン。。。
敬老の日である。「老人を敬う」日である。「たいせつにする」のでも「いたわる」のでもなく「敬う」のである。これはなかなか現代の日本人にとって、むずかしいことなのではないだろうか。

自分の孫でもない若輩者から「おじいちゃん」「おばあちゃん」とよばれたらどんな気持ちがするだろうかと考える。私は自分が老人になったとき、知らない若い人から「おばあちゃん」と話しかけられたくはない。だから年配者を自分が「おじいちゃん」「おばあちゃん」とよぶことにも抵抗がある。「おじいさん」「おばあさん」ならまだしも、自分よりはるか年上の先輩を「ちゃん」づけで呼ぶことには抵抗があるのである。たしかに「ちゃん」は親しみの表現である。「おばちゃん、これちょうだい」なんて子供が駄菓子屋のおかみさんに話しかけたりする。しかし親しみの表現だからこそ、よく知らない他人から「ちゃん」づけでよばれることには、「無礼」と感じるのである。若い人だって実はそれを知らないわけではないだろう。生徒はたまにイヤガラセのつもりで私を「おばチャン」と呼ぶ。

「おばあちゃん」と呼ばれて、ニコニコ温厚な笑顔を浮かべてフレンドリーに受け答えできるほど私は可愛い「おばあちゃん」になれそうにない。老人になったら可愛くならなければならない…これはこれまで「可愛い」路線から大幅にハズれて生きてきた私にとってはきっと至極むずかしいことである。これまでやってこなかったことを、タダでさえ順応性が弱くなっている老齢になってから身につけるというのは、「70歳を過ぎてからデングリ返しをマスターする」よりむずかしいことのような気がする。


「おばあちゃん」でないならば、自分が年取ったとき一体なんと呼ばれたいのか。
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朝の連続ドラマ『ちゅらさん』でみたような、「おばあ」なんて呼ばれ方は悪くないなと思う。『ちゅらさん』は沖縄の話で、「おばあ」もそれなりに可愛い老女なのだけれど、原始信仰が息づく沖縄の「おばあ」には巫女的要素もあって、電話がかかってくる数秒前にそれを予知したり、と不思議な力を持っている。老人はもともとこういう不思議な力と「知恵」とで敬われてきた存在だった。「もともと」っていきなり何千年もワープするけど、洞窟の中とかで火を焚いて、焚き火の周りに大人から子供まで集まり、「長老」の語る物語に耳を澄まし、心躍らせた、なんて光景が思い浮かぶのである。文字が発明される以前は、人間は聞き落とすまいと人の話をよく聴いたように思うし、文字に書き写して空間を持ち運びすることができないから、「知恵」は老人の身体に抜きがたく結びつき、老人は「知恵」の体現者だった。


「文字の発明」の話からさらに、技術は人間を幸せにしたかどうか考えるワケだけど、こと老人問題に関しては、トータルにいえばプラスよりマイナスのほうが大きかったような気がする。もちろん医療技術が発達したから寿命はここまで延びたわけだけど、それが「幸せ」をもたらしたかどうかは別問題である。短い間だったけど、姑を看取るまで介護して、老人は延命治療で何年でも生きながらえさせることができることを知った。姑は結局「老衰」で亡くなった。それまで「老衰」というのもどういう意味なのだかよくわかっていなかったのだけれど、どこか病気というわけでもないのに身体機能そのものが老いて衰え、食べ物や飲み物を呑み込む力、下腹をいきんで排泄をする力、など私たちが「力」とも特に考えていないような「力」さえ弱くなって死んでしまうことである。胃に入れるべき飲み物が誤って肺に入って肺炎を起こしてしまったり、うんこが自力ででなくて苦しかったり、気管支が細くなって呼吸が困難になったりする。現代医療はこの「老衰」した身体機能を機械で代替させることができる。たとえば飲食物を呑み込むことができなくなった場合、胃に孔を開けて、食べ物を人工の管から胃に直接(口と食道をとおさず)送り込むのである。そのようにしてでも生きていてほしいと願う近親者の情愛を軽視することはできないけれど、自分自身の将来を考えたとき、このような状態で生きながらえるのはイヤだ。姑を看取ったあと、私は「尊厳死協会」に問い合わせて書類を取り寄せ、自分が危篤状態に陥ったとき「延命治療をしないように」という生前遺書(リヴィング・ウィル)を書いた。


「老いる」ことを尊いこととしてみつめられない私。姑は最期のひと月を除いて自宅で介護したけれど、たいせつに心をこめて介護したとは言いがたい。私自身、日々ストレスと戦い、バランスを取ることで精一杯だったのだ。老人を大切にし敬う社会は、若い人たちにとっても幸せな社会なのだろうとは思う。なぜなら「老い」は若い人たち全てにとって「未来」であるから。「未来への希望」=「老いの意味」を根付かせた社会は、貧しくても幸せな社会だと思う。「知恵」が「知識」に代わり、「知識」が「情報」に取って代わられた社会で、私たちは年齢を重ねることの意味をどうしたら再び手にすることができるのだろうか。

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チョイスの苦楽

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「チョイス」というのはもちろん「私」が幸せになるためになすものなのである。でもこのごろチョイスするのがメンドくさい。電話会社とかガス会社が始終なんかのお知らせを送りつけてきて、「お得なプラン」を勧めてくるけど、「オトクかどうか」はよく読むとケースバイケースで、「自分がオトクなケースに該当するかどうか」を考え判断するのに、トロい私は時間がかかる。メンドーになり、かといって郵便を捨てるフンギリもつかず、そこらに置いておくうちに、なんとなく「自分はもしかしてソンをしているのではないか」というかすかなストレスが積もっていく。テレビは今の住居にはなくて、別に不自由もしていないんだけど、多チャンネルとかインターネット・テレビとか聞くと、なんだか「スグレモノのツールを私は利用し損ねているのではないか」とまたかすかなストレスが積もる。かすか、だけど。

「チョイスの自由」がなかったら、私のようなタイプの女は生きづらい。それはわかりきってる。裁縫キライでニガテだし、姑や夫にかしずくのもきっとできない。来る日も来る日も繕い物しなくちゃいけなくて、気が狂ってしまうかもしれない。明治時代だったらきっと、私の前に開かれたチョイスは、「気が狂うか、出戻り女として周囲の白い目に耐えるか」しかないだろう。今に生まれてよかった。


しかしそれでも、始終「チョイスすること」を強いられているストレスはバカにならない。昔、日米文化比較かなんかで、日本人の配慮は相手の飲みたい飲み物を察して何も聞かずさっと熱い緑茶を出すことだけど、欧米人の配慮は「コーヒーを飲みたいか、紅茶を飲みたいか」「コーヒーはホットにするかアイスにするか」「ミルクと砂糖を入れるか入れないか」「それを食後にするか食前にするか」たずねることだ、欧米人はそれが親切だと思っているらしいけど煩わしい、と書いてあるのを見て、なるほど、と思ったことがある。ファミレスはその「欧米型配慮」を採用している。いいかげん慣れたけど、それでも「選ぶことを強制されている」というストレスを感じることはしばしばある。

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「適切なチョイス」をするためには訓練と数多くの失敗の経験が必要で、膨大な時間がかかるのである。若くて私が一番きれいだったころ(茨木のり子みたい。。。)、私は洋服の選び方がよくわからなかった。高校、大学くらいになって友達がオシャレを始めているのをみて、私もオシャレしようかなあと思って、とりあえず原宿とか元町とか行ってみたけど、何を買ったらいいのかよくわかんなくて、テーストのよくわからない猫の柄のついたセーターなんか買ってみたりしたけど、たくさんの商品に圧倒されて、ワケがわからないので、途方に暮れてなぜかネコにしたのである。元町まで出かけてわざわざネコを買わなくてもよかっただろうに、と今では思う。試行錯誤を経て、今では洋服を選ぶのはあんまし悩まない。まず肌ざわりである。木綿とか麻とか、肌にやさしいものがいい。パンツはなおさらである。第二に値段である。服に1万円以上かけるのはマチガッテいる。リサイクルとかフリマとか、「時代よ、ありがとう!」むかしはこんなものなかったね。第三に、クリーニングに出さなくてすむことである。たとえ800円のワンピをリサイクルでゲットしたとしても、クリーニング代が1000円かかったのでは、結局高い買い物になるのである。第四になるべくアイロンをかけずにすむことである。そしてもちろん「オシャレ心」を満足させてくれて、安いけど安物にみえないもの。ってキリがないのでやめておく。「自分に何が似合うか」「本当は何が好きなのか」も含めて、今でもまあ失敗はあるけど、だいたい「適切な」買い物ができるようになった。しかしここまで到達するのに40年余りかかったのである。この事実は重い(何が?)。

洋服選びはだいたいわかったけど、化粧品と髪型はイマイチよくわからない。だから行きつけの美容院とかもなくて、テキトーに通りすがって入った美容院で、「アタマが絶壁なので、丸く見えるようにしてください」とか「ブローだけで格好がつくようにしてください」とかカンタンなことだけ言って、「なんか仕上がりがイマイチだなあ」とか思っても、「なんかヘンだけど、どこがヘンなのかわかんないし、まあ、そのうち伸びるからいっか」と美容師さんにやさしい顧客である。

食べる物も洋服ほどポリシーがない。だいたい私には煩悩があるのである。「添加物の入っていない産地直送の自然食品だけを食べる」などという立派なことができないのである。若い頃一度そんなこともやってみようとしたことがあるが、「産地直送野菜まずありき」なので、献立を野菜に合わせなくてはならず、「今日は疲れたし時間もないので鍋物でごまかしたい」と思っても、「さつまいも3本」を使わなくてはとか「小松菜」が萎びないうちに茹でなくては、というプレッシャーがかかったりするのである。かといってコンビニ弁当とかスーパーの惣菜とかは「やっぱり添加物が心配よね」なんて、「手軽さ」と「安全」のハザマでハムレットのように「ポテトサラダ」や「辛子明太子」を手に悩んでいたりする。「安く、手早く、カンタンで、おいしくて、栄養があって、安全で、頑張ってる良心的な生産者を応援する献立」を迷わず選んで作れるようになるためには、あと10年は修行が必要だと思う。それも、これらの条件が相互に矛盾しなければ、の話だけど。

週末だというのでいいかげんダラダラ書いてきたけど、ようするに「適切なチョイス」を迷わずできるようになるためには、試行錯誤の長い長い年月が必要なのである。で、現代生活を飾るすべての物事に「適切なチョイス」が出来るようになったころにはもう認知症になるか寝たきりになってしまっているのではないかとフト思うのである。「いい男」とめぐり合うのを何年も待って年老いていく女たち、「自分にふさわしい職業」を待って離職を繰り返す若者たち(フリーターの全てがそうだとは言わない)。。。試行錯誤にはもちろん大きな意味がある。しかしあまりにも「チョイス」自体に労力をとられるのである。そして不思議なことに、こんなに文明技術が発展してるのに、私たちはいっこうヒマにはならない。パソコンはたしかに学校の成績処理業務をカンタンにしたけど、その分、生徒のいろんな側面を数字化して入力しなくちゃいけないことになった。ガリ版印刷のころは、教科書とは別のプリントなんてめったに出なかったけど、今では毎授業ごとにプリントを作って配る。子供たちはどうなのかな。生まれたときからたくさんの選択肢に囲まれて、何かにつけてチョイスを強いられている(ゆるされている)けど、「適切なチョイスができるようになる」というのは「自分を知る」ということとイコールなんだから、「選ぶ」ことってムズカシイのだ。子供たちにたくさんの選択肢を与えて「個性を尊重」するのは、本当に子供にとってやさしい(親切な)ことなのかな。

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ネットは中学生にとって新たなイジメの温床でもある。ネットに実名あるいは本人が特定できるような書き方で中傷を書かれたり、あるいは自分が書いてもいない中傷を自分の名前で載せられたり。そのたびに学校に「なんとかしてくれ」と通報が入るけど、学校はお手上げである。せめて「ネットとどう付き合うか」をあらたに教育しなくてはならない。

さっき別の記事をせっかく書き終えたところで、YAHOOからのパスワードの確認画面が出たが、「YAHOOを装ってパスワードを聞き出そうとすることがあります」との但し書き。「わたしはウソをつくことがあります」という言葉をどう受け取ったらいいのかという論理学の命題を突きつけられているようで、どう反応したらいいのかアポリアに落ち込む。この画面は初めてではないので迷った挙句パスワードを打ち込んだが、なぜか入力画面は消えてしまっていた。ふ・あ・ん。。。(で、その記事を再び起こす気力はなかった。。。)

このところ、お友だちブログのいくつかがアラシの攻撃にさらされていて、ハンドル・ネームとアイコンがそっくりに模倣されたものがコメント欄に登場する。アバターまで。このブロガーがこんなコメントを残すはずはないなと思うので、これはニセモノだろうと判断するわけである。さっき削除したのは、うつ病に苦しむブロガーのハンドルネームとアイコンとアバターをそっくり盗んだニセモノだった。ファン登録までしていったが彼女はすでにファン登録を同じアイコンでしてくれている。こんな二重の登録がどうして可能なのかワケがわからない。ヤフー、どうなってるの?!「私」の顔も素性も知られていないネット空間で、こんなことをされたら本人はどんなに傷つき不安を感じるだろうかと、盗まれた彼女の心中が心配でならない。

実名も素性も隠したネットでのコミュニケーションはバーチャル空間であり、生身のコミュニケーションとはちがうのだろうか。ブログを始めて1年以上になったが、訪問しあったりコメントを付け合ったりするうちに、実名も素性も知らない相手の「人格」がなんとなくわかってくるものだ。とはいえずっと「女性だ」と思い込んでいたブロガーが会ってみたら男性だったことにびっくりしたこともあるけど、それでも「なぜ彼を女性だと思ったか」を後から納得したりして、ネット上で相手を推し量ることの深さを再認識したりしたものだ。

そんな経験から私は、さきほどつけられたアイコンとハンドルネームがコメントの内容からして「ニセモノ」だと判断したワケである。(しかしどうしてこんな「なりすまし」が可能なのか、ヤフーは責任をもって処置にあたってもらいたい。)

ネットやケータイで言葉をやりとりすればするほど、中学生は言葉に過敏になり、言葉に容易に傷つく。「なりすまし」の中傷を乗り越えられるほど強い中学生がはたしてどれくらいいるだろうかと思うと、中学生にとってネットやケータイは手に余るのではないかと感じたりもする。

ネット社会をどう生きるか…それは究極のところネットというバーチャルな空間で、「自己」を拡散させ「無」に帰してしまうか、それともここでもリアル世界と同じように「人格」との出会いを信じ、そこに楽しみを見出すかいう選択に帰せられるのではないか。

さて、どうなりますことやら。ネットに嫌気がさし(たのかどうか)ブログを閉鎖していった友人たちを思い返しながら、ネットとの付き合いにもなかなかコツが要るなあと思う今日このごろ。。。

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