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今日は私が非常勤で勤めるカトリック学校の卒業式です。君が代を歌いたくないので、私は今年も欠席します。2年前に英語の授業を担当した生徒たちが今日の卒業式で巣立っていきます。Hさん、おとなしかったあなたが勇気を出して私に話しかけてくれて、そのあと泣き出して学校を抜け出してしまったときは心配したけれど、あなたのこと、ずっと忘れません。
そう、あのクラスは学校でも有名な「ハチャメチャなクラス」で、あなたは授業を集中して聞きたいのに、隣の席の子がおしゃべりをするので我慢がならず、「先生、ナメられてますよ」と授業後私のところに来て言ったのでした。私は「そう、ざんねんだけれど、私は自分のできることしかできない。あなたが隣りの席の人のおしゃべりが迷惑だ、静かに聞きたい、と思うのであれば、あなた自身が隣りの席の子たちにそう言いなさい。」…そうしたらあなたは泣き出してしまいました。私は「生徒にナメられやすい、『力のない教師』」かもしれないけれど、『力』で世の中をよくすることはできないと依然頑固に思っています。その「力」が暴力であろうと、テクニックであろうと、「人格」であろうと。重要なことは、私たちがそれぞれ非力な人間でありながら、その非力さと小心さを抱えながら、自分のふり絞れるささやかな勇気をふりしぼって周囲の人間に向き合うことではないでしょうか。そして「私」の言葉で、隣りの人に話しかけることではないでしょうか。あのときも同じことを言いました。「友だちに『私は授業を聞きたいのだからおしゃべりをやめて』と口で言うのは、すごく勇気のいることだ、ってことはわかるわ。私も高校生だったとき、そういうことをいえなかった。だからいつもイライラしながら、何も言えずにいたわ。だけどね、口ではっきりそう言うことができなくても、イライラしているそぶりを見せたり、目線を送ったり、小さなことだったらなんとか勇気をふりしぼってできるのじゃないかしら。教師に全ての問題の解決をゆだねるのではなく、あなたが問題だ、困る、と感じることを、あなた自身で正していこうとすることは全くできないの?」 なぜ、「被害者」である自分が「責任」のあるはずの教師にそんなことを言われなくてはならないのか、あなたはわからなくて混乱したかもしれません。泣き出して、学校を途中で抜け出し、学校はそのことを知って大騒ぎになり、ご両親と警察にまで連絡して、私も警官が待ち構えている校長室によばれて、あのときはさんざんでした。でも、校長先生と教頭先生にもあなたに言ったのと同じことを言いました。「私はやはりそう思うのです」…これでクビになったらいたしかたない、と思っていました。あなたの方からはあれから話しかけてこず、私の方から話しかけることは差し控えていますけれど、あの出来事は私にとっても忘れられない出来事です。あなたが今あの出来事をどう感じているのか、今日卒業式の謝恩会で会ったら、もしかしたら、話してくれたのでしょうか。話すこともなく思いをかかえたままで別れていってしまう人間関係はいくつもあるけれど、あなたのこと、忘れません。どうかこの人生をささやかな勇気とちっぽけで尊い自分を大切に生きていってくださいね。応援しています。 ダメ教師より 君が代を歌っているのだろう卒業式に、私なりのせいいっぱいの「愛校心」をこめて以下の記事を一部加筆の上、再掲します。キリスト教会やミッションスクール、キライなところいっぱいある(ありすぎる)けど、私はそれでもキリストをとおした人と人とのなんらかのつながりを感じて、以前の「名門校」を退職してこの学校に勤めました。今でもありがちな欺瞞に苛立ちながらも、その「かすかな」つながりは感じています。(えらそうですいません。。。えらそうなのは地なので。。。)だから私なりの「愛校心」をこめて、再掲いたします。 私が非常勤で勤めているカトリック学校では、卒業式で君が代を歌う。卒業生が入場するやいなや聖歌よりもお祈りよりも先に君が代を歌う。ぶったまげた。着席する勇気はなかった。着席したら翌年はクビになるだろう。非常勤だからクビにするのは造作ない。「君が代を歌わなかったから」と言われるのではなく、「来年の授業のコマがないから」といわれて終わりだろう。 キリスト者よ、なぜ君が代を歌うのですか。キリスト教会が戦時下でどんな目に遭ってきたか知っていますか。君が代は天皇をたたえる歌です。「千代に八千代に」天皇制が続くことを願った歌です。戦時下で、キリスト者は宮城遥拝や靖国参拝、教育勅語への礼を強制され、神以外のものを拝むことを強制されました。「それは国民としての義務であり、国家儀礼だから、キリスト教信仰とは相反しない。」と言われました。それなら、ということで天皇を拝みました。そして日本の戦争に協力しました。韓国や台湾のキリスト者に天皇を拝み、日本の「解放戦争」に協力するよう訴えて回りました。(韓国のクリスチャンの中にはこれを拒んで逮捕投獄された方々も多くいます。)そうして日本は戦争への道を突き進み、国民への統制も日ごとに厳しくなり、そのうち聖書を読むことさえ禁止されるようになりました。もし私たちがその罪を悔いるならば、今なぜ君が代を歌うのですか。靖国参拝は国家儀礼であり宗教ではない、というかつてと同じ政府の説明に黙するのですか。「一粒の麦もし死なずば」「己を守ろうとするものはそれを失い、失うものは永遠に生きるであろう」…「教会」を守ろうとしたことは正しかったのでしょうか。キリスト者が迫害され、教会が滅びてしまったとしても、そのことで守れたものはあったのではないか、と考えます。 さらにカトリックは靖国参拝と宮城遥拝の是非をローマにいる教皇にお伺いを立てました。「キリストへの信仰とその国の慣例は別だから、安心して参拝、遥拝するがよい」と教皇は言いました。ローマ教皇はナチスのユダヤ人迫害を最後まで容認していました。ローマまでユダヤ人狩りが及んで、助けを求めるユダヤ人の声が教皇の耳に届いたときさえも。ナチスドイツを「キリスト教の敵」共産主義の防波堤と考えたためです。私たちは今この時代にあって、どう行動することがキリスト者であることなのでしょうか。 学校の80年誌を読んでみた。「本校においても国策に沿う教育をすることが要求され」たが、「今日の冷ややかな客観的見方から、これを評価することは果たして正鵠を得るだろうか」と書いてあった。むしろ圧迫された当時の学校当局者の苦衷を知り、戦時下をけなげに生きた生徒の純真を思うべきなのではないか、と。 私は今日の高みから当時の学校当局者やクリスチャンを批判することはしない。 しかし、ならなぜ今君が代を歌うのですか。教育基本法が改悪され、愛国心(戦時下の日本のように、国の支配者が考え、定義する愛国心です)が押付けられようとしているときに、隣国の人々の傷をえぐるようにして、首相が靖国参拝を続けているときに、この流れにさからわず、率先して君が代を歌うのですか。 悔い改めは神様とのつながりを回復することです。過去の日本の過ちを反省しようとすると、「自虐史観」などと言われるけれど、キリスト者は悔い改めることによってより大きな神の恵みを受けることをしっています。今日本は大変な時期にさしかかっています。どうかこの時代を見てください。どのような時代に私たちが生きているのかを。
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