キリスト者として今を生きる

風は冷たいけれど春の訪れを感じます。。。

靖国と十字架

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下の記事は「憲法を真剣に考えるブログ」から転載させて頂きました。(記事の全文はこの前の記事に載せてあります。)

 「新憲法草案」第20条3項では、政教分離原則について、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」内において、政府による宗教教育・宗教的活動が可能とされている(第89条1項も参照)。これにより、首相の靖国神社参拝を合憲化するとともに、教育の現場においても、神道に関する教育を可能になっているように見える。もともと、日本国憲法で、政教分離原則が採用されたのは、国民を戦争へ駆り出すための精神的支柱となった靖国神社と、それを利用した政治とを分離するためであった。その反省を忘れ、「新憲法草案」のような条文を盛り込むことは、憲法9条の改定にも劣らない、現行憲法の根本的な改定であると言えよう。

キリスト者がこの新憲法草案に対してなんの関心も示さないとしたら、それは悔い改めをしていないということになるのではないでしょうか。戦争中、多くのキリスト者は宮城遥拝や靖国参拝を「社会的儀礼」として、信仰と対立しないものと解釈し(そう解釈するようにとの国家の見解を受け入れ)、戦争協力をしてきました。私はキリスト者が戦争協力という罪を犯したことを責めはしません。私も他人も皆、罪を犯すことは避けられないと思うから。絶望するのは、その過去の罪を認めようとしないこと、また同じ過ちを犯そうとしていることです。私は不敬虔なキリスト者です。けれど、私は新憲法草案の上の条項を認め、首相の靖国参拝を認めるキリスト者をけっしてキリストにつながっているとはみなしません。なんでお前はそう他人の信仰を裁くのか、といわれてもこの点だけは引けない。裁いた罪で地獄に落ちたとしてもぜったい引けない。

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沖縄のチビチリガマの前で平和ガイドさんが語った言葉を私は何年も忘れられません。

「戦争で殺された人たちを『英霊』と呼んでいるかぎり、戦争はなくならないのです。戦争をなくしたい

のなら、この人たちの死を『犬死に』と呼ばなくてはならない。」

ガ〜ンと頭を殴られたようなショックを受けました。愛する父母や子供の死を「犬死に」なんて呼べるだ

ろうか。「英霊」と呼ばないまでも、「彼らは今日の平和のために犠牲になったんだ」くらいは言いたい

んじゃないだろうか。そういう意味づけをしないかぎり、愛する人の死なんて受け入れられるものでしょ

うか。でも沖縄戦は住民を守るためにあるはずの日本軍が、自分たちが生き残るためにと住民に銃を突き

つけたり集団自決を強いたりした酷い戦争だったのです。「平和のために犠牲になったのだ」という言い

方ではやはりこの酷さと不条理をすくい取ることはできないのです。軍隊の本質、戦争の本質はどういう

ものであるのかをガマの中での地獄の日々を描いた手記は語っています。沖縄南部の「平和祈念資料館」

で是非この手記を読んでみてください。キリストも酷い十字架の死を死にました。その十字架の死をどう

受け止めるか。「平和のために犠牲になったのだ」「今日の私たちの繁栄のために犠牲になったのだ」と

いう言うのでは平和は守れないのだ、と語った平和ガイドさんの言葉が今でも耳に響いています。

「人間はなんのために生きているのか」生と死について深く考えることなしに、靖国神社を参拝すること

を根本から批判することはできません。「英霊」とは呼ばない、「尊い犠牲」とも呼ばない、あえて「犬

死に」と呼ぶ、しかしいつも死者を思い、死者に寄り添って生きる、そんな生き方があるのではないでし

ょうか。

 福音書では、イエスが十字架につけられるまでの出来事が、歴史的な事実であると同時に、時代と場所を越えて繰り返される人間的な事実として、圧倒的なリアリティを持って語られています。祭司長たちがねたみのためにイエスを引き渡したこと、イエスを「十字架につけろ」と叫んだのが群衆であったこと、兵士たちがイエスを侮辱しているうちにイエスを惨めな、侮辱して当然な存在だと思い込んでしまっただろうこと、善意の人ピラトの取った行動、敵対していたヘロデとピラトがイエスを送り返したことで仲がよくなったこと等々。歴史的には一回限りであるはずのそれらの出来事とパラレルな出来事を、私たちは私たち自身の現在、この場を生きることの中で経験し、それらの出来事の意味を私たち自身の生の真只中で考えます。「キリストの犠牲によって私たちは救われた」と言うだけでは、この出来事のリアリティ=私たち自身の生のリアリティもまた見えなくなってしまうように思います。また「罪」の具体的な姿も見えなくなってしまうように思います。あたかも靖国談話で小泉首相が「今日の日本の平和と繁栄が、その尊い犠牲の上に築かれていることに改めて思いをいたし…」というとき、「英雄死」とは到底いえないジャングルの中での兵士の餓死や、日本が他国に対して行った残虐行為、「非国民」を摘発する相互監視システム、沖縄戦での軍隊が住民に銃を突きつける戦争の実態などが見えなくなってしまうように。またどうして戦争への流れを止めることができなかったのか、どうしてイエスを十字架につけることになってしまったのかということの考察も不必要なものとしてしまいます。ましてその過去の歴史的事実を現在の日本のあり方や自分の生と重ねて考えることは、思いもよらないことになってしまいます。「尊い犠牲」への感謝は、その捧げ物が加害者としての罪をも負うものであるか、無実な「きずのないもの」であるかの違いにかかわらず、生のリアリティを覆い隠す効果を生み出しているのではないかと思います。

 「罪深い女」やペテロが赦され、救われた瞬間においては、キリストのまなざしとの出会い、キリストとの人格的な関わりがありました。ペテロはキリストの痛みと深い悲しみをキリストの深い愛とともに受け止めたはずです。私たちは痛みと悲しみに対するこのような感受性なしに「犠牲」を捧げ、犠牲に感謝することができます。「犠牲」として捧げられる人々がその中で生きてきたところのリアリティとなんら関わることなしに、彼らを「神」とし「感謝」することができます。ジャングルの中を幽霊のようにさまよい餓死していった兵士のリアリティ、南京で無抵抗な住民を虐殺し女性を強姦した「やさしい日本人」のリアリティ、強制連行され母国のためでない戦争に狩り出され死んでいった韓国・朝鮮人兵士のリアリティ、そして韓国・朝鮮人兵士が今なお加害国である国の「護国の英霊」として祀られることの痛み、そうしたリアリティや痛みのすべてを無視して「犠牲に感謝」することができます。靖国神社で捧げる小泉首相の「尊い犠牲への感謝」と「平和への祈り」が、表面的にはどんなに美しかろうとそこに「まがまがしさ」を感じるのは、感謝と祈りによって殺されるものを察知するからかもしれません。キリスト者の礼拝はどうなのでしょうか。

 福音書の中にはまだまだ私には読み取れない部分がたくさんあります。次の箇所は今日始めて発見したのですがどういう意味なのでしょう。
 「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。…祭司長とファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「…このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そしてローマ人が来て、われわれの神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」…この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」(ヨハネ11:45-53)

 高橋哲哉の『国家と犠牲』読みました。メチャメチャ面白かったです。このごろ自分がキリスト教に対して募らせつつあった違和感というストライクゾーンにスポッとハマって、靖国のこと、ナショナリズムのこと、キリストと共に生きること等々について深く考えさせられました。

 聖金曜日にあるプロテスタント教会(私はカトリック教徒)の礼拝に出席したのですが、なぜかとても苦しくて、そこで祈りつづけることは魂にとってよくないのではないだろうかとさえ思ったほどでした。その教会の礼拝が特に苦しかったというわけではありません。カトリックの聖金曜日のミサにあずかっても尚一層苦しかったような気がします。また聖金曜日ではありませんが、カトリックの告解の秘蹟は私の現在の魂が受け入れられないでいるものの一つです。告解しなければならないという義務は私の魂をしめつけます。そして魂がしめつけられるのは、「自分の罪と向き合い自分の罪を認めたくないから」ということではないという直感的確信があります。自分に罪がないなどとは思っていません。しかし私は自分の目下の最大の罪についてはたぶん気づいていない。罪というのはたぶんそういうもので、一方告解は「自分が気づいている罪」について告白し、ゆるしを請う儀式です。聖金曜日と告解の秘蹟に感じる同じ苦しさを「ヘブル人への手紙」の次の言葉にも感じます。高橋哲哉が『国家と犠牲』で引用している箇所です。

 「けれども、キリストは、…雄山羊と雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。…こうして、ほとんどすべてものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。…キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(ヘブライ人への手紙 9:11-28)

 雄山羊と雄牛を「犠牲」として捧げることとキリストの十字架のちがいは、後者が「永遠の贖い」であり、「度々」(前掲25節)捧げなくてもよい、一回限りでよいということにすぎないのでしょうか。そこでいう「永遠の贖い」という言葉の意味も、雄山羊や雄牛の犠牲がもたらす期限つきのおゆるし(賞味期限やクーポンのような「おゆるし有効期限!」)でなく「無期限」という意味にすぎないのでしょうか。私には、上の手紙で語られる「罪の贖い」が、福音書のリアリティを欠いているように感じられるのです。聖金曜日の祈りと告解の秘蹟に感じる違和感もこの「リアリティのなさ」なのです。(まあ、パウロにたいしてあたしごときがナマイキな…。)福音書に描かれている「罪」とその贖いとはどんなものか見てみたいと思います。(えらそうだな。。。)

 一つはペトロがキリストを三度「知らない」という場面です。
「ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(マタイ26:74-75)
 この出来事より前にペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:33-35)と言っていました。こういうペトロが受難週の始まりの前にどういう告解をしたらいいのでしょうか。「わたしは決してつまずかないなんて私は思っていますが、そんなふうに思う私は傲慢なのだと思います。それこそ私の最大の罪です。こんな傲慢な私をおゆるしください。」という告解でしょうか。なんだかこういう「謙虚さ」こそウソの謙虚さだという気がします。「わたしは決してつまずきません」と言うペトロがすでに罪の中にいたとしても、その時点でペトロには気づきようもなかった。自分の罪に本心から気づいたときペトロは「激しく泣いた」のであって、鶏が鳴く前にいくら「自分の罪」に思いを馳せたところで「激しく泣く」心にはなれなかったでしょう。

 もう一つはルカ福音書の中の「罪深い女」と女に対するイエスの応答です。
 「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」(ルカ7-37-38)
 「罪深い女」(マグダラのマリア?)は鶏の鳴く声を聞いたときのペトロと同じように泣きますが、どんな思いで泣いたのかが、ペトロの場合より詳しく描写されているように思います。イエスの足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗る女に、イエスは「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ないものは、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」といわれた。(ルカ7-46-48)

 ユダについては、なぜ彼が罪をゆるされず自殺してしまったのか、強い問題関心を持っています。何か考えることがあったら教えてください。
 「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「われわれの知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」(マタイ27:3-5)

 「罪深い女」のこのときの気持ちについては福音書の記述がすでに活き活きと描いているのですが、ペテロが自分の罪に気づく瞬間は、イエスがペテロを振り返っておられる姿が目に浮かびます。深い悲しみを湛えた静かなまなざし、すべてを鋭く見通しながらすべてをゆるしている憐れみを湛えた深いまなざし…。こんなまなざしに出会った時、私たちは自分の罪にハッと気づき、「激しく泣く」のではないだろうかと思います。それは罪の気づき、キリストの抱える痛みと悲しみに対する初めての気づき、痛みと悲しみを黙って耐えている深い愛に対する気づきです。
 己の罪への気づきと悔悟と赦しはほとんど同時に生起しているように思えます。罪深い女もペテロもこの瞬間に「激しく泣き」、キリストを深く愛したのではないでしょうか。自分が罪を犯したという自覚と悔恨だけでは、たぶんペテロや罪深い女のように泣くことはできないのではないかと思いました。まなざしに出会わなければ…。ユダは犯した罪を自覚して悔いたのに、どうしてペテロや罪深い女のように泣くことができなかったのか、(あるいはユダも泣いたのか)、私の中での大きな問いです。

 キリストは十字架の上で、十字架につけられる前にペテロを振り返った時と同じように、痛みと悲しみに耐え、同じ深いあわれみのまなざしを十字架につけろと叫んだ人々に注いでおられるように感じられます。このまなざしに「出会い」、激しく泣くことが、「救われた」ということではないのかと漠然と思います。その時、自分の犯した罪の重さよりも、キリストの愛の深さに触れた感動の方が大きく心を占めるのではないだろうかと思います。
私が描く罪からの解放のイメージは、重苦しい悔恨や罪とのきびしいたたかいのイメージではなく、福音書の次の箇所が描くイメージです。
 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイ13:44-46)

 雄山羊と雄牛の犠牲をキリストに移し変えるだけでは、このキリストのまなざしを捉えることはできません。キリストが私たちの罪のために十字架につけられ、死んでくださったから、私たちが罪をゆるされ救われるのだ、というのは何か直感的に「まがまがしさ」を感じます。またそんなことで私たちは救われるのでしょうか。罪深い女においてもペトロにおいても、「己の罪への気づき」はキリストのまなざしを通して、私たちのいる次元よりも高い次元から降りてくるように感じられます。一方、私たちは自分の立っている次元においても漠然と己の罪への不安感のようなものを感じ、この罪が報いを受けるのではないかという怖れを感じることはあるでしょう。この不安感と怖れから犠牲を捧げ、罰を免れたいと思うのならば、神は「怒れる神」「裁く神」であり、犠牲は「とりなし」です。キリストが「父なる神」の怒りをとりなし、裁きを免れさせて下さったという解釈を何度か聞かされました。そのようなキリストに対して捧げる感情はやはり「感謝」であり、愛ではありません。動物実験で犠牲になった動物に捧げるのと同じ「感謝」です。(高橋哲哉の言う、実験動物が「科学の発展のために犠牲になってくれた」という「感謝」の裏には、自分たちの目的のために動物を殺したという罪責感からくる漠然とした不安があるのではないかと思います。)私たちの罪に怒り、裁きを下す「父なる神」がいなければ、キリストもまた不必要だったにちがいありません。直感的に感じる「まがまがしさ」は、私たちの現在のありようを守るという目的のために、キリストを犠牲に差し出し、感謝の儀式によってキリストの痛みと悲しみを相殺するというプロセスゆえかもしれません。キリストの十字架を雄山羊や雄牛の犠牲と等価なものに(その有効期限が期限付きか無期限かのちがいがあるだけの等価なものに)してしまったとき、私たちの「現在」が「ゆるし」とともに固定され、キリストの痛みと悲しみが見えなくなってしまうように感じるのです。(後半に続く)

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