キリスト者として今を生きる

風は冷たいけれど春の訪れを感じます。。。

神と人のあいだ

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主の平和

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キリスト教は十字軍をやったり新大陸侵略の手先になったりしてきたし、旧約聖書には戦争と血の匂いもするけど、「神の名においてなら戦争をしても異教徒や異民族を殺してもいい」なんてイエスは一度も言っていない。「テロリスト」を退治するためならアフガニスタンやイラクを攻撃してもいいとは言ってない。北朝鮮のミサイルから防衛するために軍備を持たなくてはならないなんて言ってない。軍備を持ち、集団自衛権を行使することが世界の秩序と平和を回復する道だなんて言ってない。

イエスは子ろばに乗ってエルサレムに近づき、エルサレムが見えたとき、エルサレムのために泣いて言うのだ。「もし、この日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。」(ルカによる福音書19:41−42)

子ろば、なのである。馬ではないのである。ここからイエスが言う「平和への道をわきまえる」とはどういうことなのかが推察されようというものだ。ろばは従順に人や荷物を担って運び、汗して野良仕事をする人とともに歩き、庶民の暮らしを支える。しかし戦争をするのにろばに乗っていく兵士はいないだろう。軍馬でも戦車でもなく子ろばに乗ってイエスはエルサレムに入城した。そしてエルサレムのために泣いて言った。「もし、この日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。」

平和への道は庶民の生活を支え、重荷を担うろばの歩みである。イエスは東京のためにもニューヨークとワシントンのためにも泣いて言われるのではないだろうか。「もし、この日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。」

「主の平和」と平和のあいさつを交わすとき、教会は信徒にこのことを思い起こさせてほしいと願います。戦火におびえている人たちのために祈るのに加えて、給油活動をしたり軍備を増強しようとしている日本と世界の動きにたいして、「それは御心ではない」とはっきり確認してほしいと願います。教会が政治的な事柄について発言することを「教会のあり方ではない」と言うけれど、そうなのでしょうか。私は心から祈りたいのです。教会が生きた教会であってほしい、2000年前の中東という現実に身を置き、子ろばに乗って「力」と対峙したイエスのように現実と対峙する教会であってほしいと願っています。「主の平和」という挨拶を具体的な、生きた内容を伴った祈りとして交わしたいのです。

クリスマスの食事

主の食卓を囲み 命のパンを頂き
救いの杯を飲み 主にあって我らは一つ

マラナタ マラナタ 主の御国が来ますように
マラナタ マラナタ 主の御国が来ますように

待降節第一週です。私はカトリックなんだけど、今日は浅草の聖公会の教会へ行きました。聖公会はその昔、離婚して好きな女の人と結婚したかったヘンリー8世が、カトリックだと離婚できないのでカトリックを辞めて作ったイギリス国教会が基になってて、「離婚して再婚したかった」ということだけが動機なんで、プロテスタントなんだけど「礼拝はどっからどうみてもカトリック」です。だけどイチオウ宗派はちがうので、聖体拝領(ってキリストの肉であるパンと血であるぶどう酒をいただく儀式です)は「聖公会の洗礼と堅信」を受けてない私はしちゃいけなかったのかもしれないけど、「ここでどうしても聖体拝領受けたい」と思ったので、やっちゃいました。これって罪?なワケない、と確信しているstarです。


で、前に「上野公園でみたホームレスの礼拝」について記事を書いたんだけど、http://blogs.yahoo.co.jp/starstory60/37487400.html
浅草っていえば近くに山谷があって、ホームレス(野宿生活者)の人々が大勢いるのです。で、この教会では7年間のあいだ毎週日曜日に炊き出しを行なっているんだって。礼拝が終わって教会を出るとホームレスの人たちがズラーっと教会の入り口に並んでいました。炊き込みご飯が300食出たそうです。つまり300人。今週は少ない方なんだそう。

で、私がいいなあと思ったのは、上野公園でみたようにお食事の前に説教を聴くことなんか条件にしないでご飯を渡してること、それから順番待ちの列の数箇所に灰皿が置いてあったこと。教会(特にプロテスタント)は酒タバコに眉をしかめるところが多いんだけど、ホームレスの人々の中には煙草を吸いたい人多いよね、それで灰皿を行列の間に置いてるっていうのが「いいなあ」と思った。


こういうことを毎週している教会っていうのは生きてる教会って感じがして、私がカトリック教会で大ッキライな「主の平和」って言って隣近所の席の人と笑顔(これがまた作り笑顔にみえるのだ)で挨拶を交わす儀式もここではとってもよかった。「主の平和」って言って握手を交し合うのがとってもよかった。上の「マラナタ」の聖歌も聖餐式も、目の前のホームレスの人々と食事を分かち合ってこそ初めて生きてくる。


「クリスマス・パーティー」が私は大っ嫌いだ(大ッキライなものが多いワガママ者)。トンガリ帽子をかぶってクラッカー鳴らして、クリスマスケーキやチキンを食べてシャンパン飲んで、「メリー・クリスマース!」なんて騒ぐのが大っきらい。クリスマスのご馳走っていうのも嫌いです。

でも「一緒に食べて飲むこと」はキリスト教ではとても重要なことなのです。ミサの中心である「聖体拝領」はキリストの身体と血を信徒みんなで分け合っていただくことだし。「共にお食事をすること」の中に神さまもいると思います。

クリスマスの一日だけ、日本人みんながホームレスの人々と一緒に食卓を囲むことにしたら、世界的にも歴史的にも忘れられないクリスマスになると思う。炊き出しみたいに次々に渡して帰すのではなく、金持ちも貧乏人も一緒にお鍋でも囲むことができたら素敵だと思う。できればいつも寒気にこごえているホームレスの人々の方の空間で、ベツレヘムの星の下、暖かい焚き火をパチパチと燃やして。それは「恵んであげる」のではなくて私たちの魂にいつまでも残る糧を与えられる食事のように想像するのです。

クリスマスにそんな食事ができたら、すごくすごくステキなのに。。。

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※本当はホームレスの人々が自立できる雇用を創出できたらそれが一番いいのだと思う。

[ビッグ・イシュー]という雑誌は、東京や大阪などの首都圏の路上で、ホームレスの人々からしか買えない雑誌。政府も草取りやペンキ塗りなどの雇用を創出していて、新聞によると日給5800円くらいになるそうだけど、働き口にたいしてホームレスの人々の数が多すぎるので、一人当たりにするとひと月1万5千円くらいにしかならないそうです。

不在なる神を待ち望む

内田樹はなんだか気が合うと思っていたら、こんなことまで書いていたのだ。(「『おじさん』的思考」晶文社、あとがき)そういえばレヴィナスの研究をしてるんだった、レヴィナスは聞いたことはあるけど読んだことはない。内田さんはクリスチャンじゃないんだろうけど、こういうのを読むと、多くのクリスチャン以上に自分と通じるなあと思ってしまう。(もしかして私の方が「クリスチャン」じゃないだけかもしれないけど。)

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「不在なる神を待ち望む」っていうのは私が哲学科の卒論で選んだシモーヌ・ヴェーユの代表作のタイトルでもある。私がクリスチャンであるギリギリの線はここなんである。ここを超えると私は「ついていけない」のである。で、たいていの教会はここを超えちゃってるので、「ついていけない」のである。

「神の不在」っていうのは、悪いことした人が天罰も受けずにのうのうと甘い汁を吸って生き続けていて、善人が泣きを見るような社会に私たちは生きてるってこと、「神も仏もない」ってことである。古今東西人間はその理不尽を解消するために「死後の世界」をこしらえあげて、善人は極楽へ行って、悪人は血の池地獄で苦しむというふうに考えようとしたんだと思う。だってそうでもしないと納得できないもの。

だけどレヴィナスは神や仏が「よいことをした人間には報償を、悪いことをした人間には罰を下す存在」、「正義の配分を行う存在」なんだとしたら、神や仏っていうのは人間をずいぶん幼児扱いしてるんじゃないですか、と言うのだ。(レヴィナスはユダヤ人なので「仏」のことは言ってないけど。)そして神っていうのは正しい人が苦しんでいるのを救いに来るんじゃなく、善が勝利し得ない世界における受苦を通して、「地上的不正の責任をすべておのれの身に引き受けるような人間の成熟をこそ要求する」のだと言う。内田さんはレヴィナスを解説する。

神に真に神的な威徳があるとすれば、それは「不義なるものが勝利し、義人が受難する」ような状況のもとでも、「人間が人間に対して犯した罪は人間が償う他なく、神といえども人間が人間に対して犯した罪を償うことはできない」と断言できるような、自立した人間の成立を要求したことである。

クリスチャンは「復讐」を神の領分だと考える。「自分で復讐しようとしてはいけない、復讐は神様のなさることだ」…そんなあからさまには言わないけど、「裁き」ってそういう発想だ。では「償い」はどうなんだろうか。イエス=キリストの十字架によって私の罪も他人の罪も償われたと考える点で、「償い」も神の領分としてしまっているのではないだろうか。

私にはレヴィナスと内田さんの言うことの方がしっくり来る。償いは「私」がする他はないのだ。日本人が戦時中にアジア諸国に対してしたことは、日本人自身が償うより他にない。では十字架はナンなんだと言われるかもしれないけど、十字架は「受苦」の象徴なんだと思う。他人の犯した不正は、私に苦しみをもたらす。規制緩和のせいでワーキングプアに転落した人たちとか、日本軍に踏みにじられた人たちとか、いじめられてる中学生とか。その苦しみゆえに私は「世界の不正」をヒシヒシとこの身体で感じ取るのだし、他者の苦しみをもかろうじて想像することができるんではないだろうか。そういう人間の立場に身を置くために、イエスは十字架にかかったんだと思う。

で、「世界の不正」は正されなければならない。神は世界の不正を容認してなんかいないと思う。ただ、世界の不正を正すのは神じゃなくて人間がしなければならないことだ。神が「万能の存在者」として世界の不正を正すのはある意味カンタンなことだろう。「怒りの神」は怖いから、どんなに権力を握り、威張って自己チューに振舞ってる人間だって、ひれ伏して、「ひぇ〜、ごめんなさい、もうしませんからおゆるしください」って謝るだろう。私だって子供の頃、父親に殴りつけられたときは、悪かったと思おうが思うまいがとりあえず謝ったし。だけどそれは心からの謝罪にはならないのだ。「心からの謝罪」は弱き者、権力を持たぬ者、ナメても大丈夫な相手、「謝らなくてもべつにソンしない相手」にたいして初めて行われるものだ。だからイエス・キリストは「十字架から飛び降りて自分を救う力さえも持たない無力な者」となって、「謝らなくてもべつにソンしない相手」を演じたのだと思う。

私たちが謝るべき相手は、絶大な権力を持った旧約聖書のヤハウェではなく、この十字架上のイエス・キリストだ。だからイエス・キリストを再び金キラキンに飾って礼拝しちゃっちゃ、せっかくイエスが「謝らなくてもべつにソンしない相手」を演じた意味がなくなっちゃうと思う。祭壇を飾るヒマがあったら、「いつもボーっとしているバイキンの山田君」に「おはよう」のひとつでも言ったほうがいい。自民党にテロ特措法に反対するメールを送るとか。あっめっちゃクリスチャンから反論食らいそう。。。

かまわずに続けると、「世界の不正を正す」っていうのも、ヤハウェのような権力者として恫喝して正すんじゃなくて(アメリカは恫喝してるな、イラクとかアフガニスタンとかを)、十字架上のイエスのような「不正を自分の身に受苦として引き受けているような弱き者、非力な者」として正すんである。もちろんそういう非力な者が「不正を正そう」なんてすると、ますますバカにされたり、嘲笑されたり、よけいイジメを受けたり、脅されたりすごまれたりするだろうけど、めげない。「ボクをいじめるな。いじめられるとボクは痛いんだ。ボクをいじめて喜んでるキミらの気持ちがボクは痛いんだ。」というふうに言って「不正を正す」のだ。もちろん時にはめげるけどまたヨロヨロ立ち上がるっていうのがレヴィナスのいう「人間的成熟」ってことだと思う。居丈高にもならず卑屈にもならず。


私は神さまを信じてるんでしょうか。信じてるんだと自分では思うんですけど。。。

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今日は上野公園内の国立美術館に「フィラデルフィア美術館展」を観に行った。http://www.phila2007.jp/tokyo_access.html
たまにはこういうのを観に行くんだよ。グ○○ピーさん。。。だけど混んでた。


書こうとしているのは絵の話じゃなくて、美術館へ歩いていく途中でみた異様な光景のことだ。美しい歌声に惹かれてなんだろうと耳を澄ますと、賛美歌のようだった。教会が伝道のためにストリートで賛美歌を歌う光景はたまに見かけるけど、ふと歌声の方向をみると、驚くほどの人数の人々が集まっている。ギター伴奏でマイクで歌っている前の方の人を除くと、坐っている「信者」の中で口を開けて歌っている人は多くはない。よく見ると、坐って歌う格好をしている人のほぼ全員が初老の男性である。それでこの礼拝は上野公園内のホームレスの人たちを集めた礼拝なのだとわかった。

興味が湧いたのでパンフをもらうと、「トポス上野公園教会」とあった。賛美歌とお祈りが終わると、説教になった。牧師らしき女性が話した。「寝ないでくださいと何回もお願いしました。おなかすいているよね、早く食事にしたいですよね、でもね、頭を下げていると、神様のよびかけて下さる言葉も頭の上を通り過ぎていっちゃうのよ。ここで頭を上げない人、このあとお食事はあげませんよ。」拍手するホームレスの人が二人くらいいた。他の人々は無反応だった。「あのブルーのケースの中身ばかり気になるんですか。あのブルーのケースなんてどうでもいいのよ。もちろん一生けんめい作りました。だけどあんなもの、一日でトイレに行けばなくなってしまうものなのよ。それより神様の言葉は本当の救いになる食べ物なのよ。」ホームレスの人々は何も言わず、なんの反応もみせずに、おとなしく坐って「聞いて」いた。


この光景、私はめずらしくなんのコメントもつけずにそのまま記事にすることにする。なんのコメントもできないのだ。自分自身が熱心な教会員でない私は、「伝道」ということをどう位置づけていいのかわからないのだ。だからいちいちインターホンを押して一戸一戸訪問伝道をしている「エホバの証人」なんかを「すごいな」と思い、「でもこういう伝道の仕方に『ひく』マジョリティ日本人の気持ちはわかるな」と思い、「でもそんなに石投げなくてもいいよな、大多数に嫌われて冷たくあしらわれてもこれで信者になる人が少数いるから続けてるんだろうし」とも思う。私はカトリックだけどカトリックはこういう体当たりの「捨て身」の伝道はしない。カトリックはプロテスタントに比べて信者に豊かな階層が多い(気がする。)この3月まで勤めていた丘の上にある瀟洒なお嬢さん学校では、花壇の中に白いマリア像が立ち、大理石の廊下を歩いていくと、ステンドグラスに飾られた美しい礼拝堂(カトリックでは「お御堂」という)があった。娘をこの学校に入れたことをきっかけにミサや聖書の学びに参加するようになった父兄もめずらしくなかった。裕福な家庭の奥さまで、ガーデニングなんかに精を出しながら、「わたくしはカトリック信者なんですの。娘を○○女子学園に受け入れていただいて、そこのごミサに何度か出席させていただいたのがきっかけなんだけど。よかったら一度教会へいらっしゃらない?みなさまとても気持ちのいい方ばかりよ。」と何かの拍子に誘うのは、誘いに乗るかどうかは別として、日本社会では受け入れられるんだろうと思う。そこへいくと、創価学会とかエホバの証人とかの伝道は泥臭い。ふつうのプロテスタント教会(日本基督教団とかルーテル教会とか。。。)の伝道はその中間で、ちょっと泥臭さがある。(泥臭い、はダサい、と言いかえてもよい。これも死語かもしれないけど。)

むかし「イエスの方舟」という映画をビデオで観た。ビートたけしが千石イエスを存在感たっぷりに演じていた。「子供を誘拐したカルト教団」と大騒ぎになったこの事件に別の光を当てている映画で、なかなか面白かった。「結局プロテスタントとかカトリックとかエスタブリッシュメントだと許容されるけど、そうじゃないと「いかがわしい宗教」とみられるのね。」「神父がドイツ語もヘブライ語もギリシャ語も読めて、ドイツに留学してたりして信者の中に大学教授なんかいると一応一目置かれるけど、中卒だったり牧師の資格がなかったりするとキビシイのね。」と思った。芹沢俊介も『「イエスの方舟」論』という本を書いていて、この本も面白かった。

で、結局私自身は伝道らしき伝道をしないし、このブログも「どこがキリスト者なんだよ!」状態なんだけど、世間のヒンシュクを買い、「オウム真理教」以後はとくに白い目でみられてる泥臭い伝道者たちをべつに否定はしないのである。「えらいなあ」なのかどうかはよくわからないのだけど。
ミぶどうさんからケンカを売られたようなのだが(笑)http://blogs.yahoo.co.jp/budou102000/50626427.html、完全に同意してしまったので、ケンカにならない。それどころか、触発されて記事まで書いてみようと思ってしまった。

クリスチャンは聖書の中の次の箇所をどんなふうに読むのだろうか。

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。(…中略) 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。               (コリントの信徒への手紙 一. 12:12-26)


「教会の中には色々な人がいるが、それぞれに役割があり、みんな信徒でありキリストにつながっているのだから兄弟なのだ」ですか。悪いけど私はそんな「なかよしコミュニティ」で完結するほどヒマじゃないんです。この話を「教会内部の話」にするから、教会は退屈なんです。現実の社会では目が手に向かって「お前は要らない」と言って、リストラしてるじゃないですか。「体の中でほかよりも弱く見える部分」が、生活保護を打ち切られ、餓死しているじゃないですか。「一つの部分が苦し」んだって、黙殺しているじゃないですか。


クリスチャンよ、教会を出でよ!



改正教育基本法 第一章 教育の目的及び理念 (教育の目標) 第二条


二. 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。

「みんなそれぞれ、なにかしら輝くものを持っている」「その個性をのばして自分にふさわしい職業をさがそう」…そういって幻想だけを与え、現実を整備せず、大量のフリーターばかりを吐き出しているではないですか。


教師よ、学校を出でよ!


勉強のできない子、スポーツも苦手な子にだってもちろん「輝くもの」はあり、能力はあります。「職業及び生活との関連を重視」するんなら、政府はちゃんと雇用を創出せよ!社会に受け皿も作らないで、きれいごとばかり言うんじゃない!


猫も杓子も、分数のできない子も大学へ進学するのは、エリートしかこの社会で優遇されないからだと思う。分数ができなくてもアルファベットが書けなくてもまじめで、他人のことを思いやって生きてる子に、生きがいと居場所を確認できる仕事を与えてあげて下さい。エリートがさらに金を儲けるための道具じゃなくて。エリートは「ノーブレス・オブリージュ」を自覚して、人々のために奉仕して下さい。



子供たち思いの熱心な教師がなぜこの世の中に怒らないんでしょう。敬虔なやさしいクリスチャンがどうしてこの世の中に怒らないんでしょう。怒ってばっかりいるスターは、人間ができていないんでしょうか。。。

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