キリスト者として今を生きる

風は冷たいけれど春の訪れを感じます。。。

神と人のあいだ

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リトル・チルドレン

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映画を観てきた。「ヒロシマ・ナガサキ」でもなく「夕凪の街 桜の国」でもなく「リトル・チルドレン」だ。http://www.little-children.net/

スターは別に年がらねんじゅう「戦争と平和」や「教育」についてだけ考えているわけじゃないのよ。いやあ、面白かった。ヒロインのケイト・ウィンスレット(タイタニックのレオ様の相手役の女優さん)も上手かったけど、まぶたに焼き付いて離れないのは、性犯罪者の役をやったジャッキー・アール・ヘイリーの演技である。頭が禿げ上がった変質者役のヘイリーは、往年のヒット作「がんばれベアーズ」の子役だそうね。ラスト、伏せておきます。ラストは月並みじゃない。


ところでこの映画のサブ・タイトルには「大人になれない大人たち」ってあって、アメリカの郊外で豊かな生活を送り、可愛い子供までいながら、不倫に手を出し駆け落ちまでしようとする、現状に満足できない大人、現実と折り合いをつけていくことのできない大人たちを「リトル・チルドレン」と呼んでいるのだけど、そういうタカビシャな見方はわたしはキライです。「少女みたい」って、その前に「いい年をして」と付け加えたいんだろうなあという評をブログ上でもリアル世界でも時たま頂いたりするから、きっとわたしも「リトル・チルドレン」なんだろう。

それで、じゃあ「大人」ってなんなんだろうと考えてしまうワケだ。「リトル・チルドレン」(アダルト・チルドレン)と同じくらい、「仮面夫婦」も「家庭内別居」もある。ブラッドみたいな司法浪人で夢想家の男が、バリバリのキャリア・ウーマンに養われるのは現実にはあんまりありえないことで、一方、サラのように郊外の裕福な家庭の専業主婦におさまってしまったら、その生活と身分を捨てようとはまず思わないだろう。結果としてサラとブラッドは潜在的にはともかく現実的にはマジョリティではなく、公園でブラッドとキスを交わすサラを道徳的に断罪する公園ママのメイたちがマジョリティなのだ。「大人」にはまず打算があり、その打算が動機となって「現実との折り合い」をつけていく。夫にはもはやトキメかなくとも、「ヨン様」とか「プロム・キング」とかでエロスを「安全に」処理していく。サラの夫リチャードだってそう。妻にはトキめかないが、ネット上の仮構の女には欲情する。

現実と折り合いをつけていくことがそういうことを意味するのだとしたら、実につまらない。そしてそのくだらなさをサラもブラッドも身をもって感じているのだ。だからサラはメイの道徳的断罪にたいして「ボヴァリー夫人」擁護で自分の不倫も正当化してみせようとする。「自分自身の人生を生きようとした」と。


「リトル・チルドレン」はしかしイノセントではない。元警官のラリーや変質者のロニー、サラ、ブラッド、それぞれある場面で決定的に罪を犯しているのだ。

元警官のラリーは、変質者ロニーから大切なものを奪ってしまう。ロニーは他の女性にならともかく、彼に対して心を開いた精神的に不安定な女性に、けっしてやってはならないことをしてしまう。その行為は他の女性になら彼が「変質者」とレッテルを貼られることですむことかもしれないが、心に傷を抱える女性にたいしては、法的道徳的な意味での「罪」の概念を越える「罪」である。サラは、ブラッドとの情事に夢中で、娘ルーシーのいじらしい愛に気づかない。ブラッドは自分を養ってくれる妻キャシーが今度こそと期待をかける司法試験をすっぽかして、サラとの不倫旅行に出かけてしまう。

これらの罪はあまりにもさりげなくて、見過ごされてしまいそうだけれど、不倫や幼児性愛を断罪するブルジョアジーのモラルを取り払ったところで残る罪なのだ。どんな罪かっていうと、好むと好まざるとにかかわらず自分がすでに関わった人間と、きちんと向き合うことをしなかったという罪だ。「テーゼ」にたいして「アンチ・テーゼ」を主張している間は決して気づかないけれど、これらの現実をどれだけ眼を見開いてしっかり見るかということが、じつは「大人」ということなのではないだろうか。サラとブラッドがお互い元のさやに戻ったところで、未来を築いていくことはけっして生易しいことではないだろう。エンディングは解決ではなく、むずかしい課題と向き合う新たな始まりなのだ。

監督のまなざしはあたたかでヒューマンだ。紋切り型の「裁き」とは異なった光が全編を満たしている。


「リトル・チルドレン」渋谷・文化村ル・シネマで8月末まで上映中。

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生きるかなしみ

「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」の脚本家である山田太一が編集した『生きるかなしみ』というタイトルの本がある。http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480842183/

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「生きるかなしみ」とは、本を読んだ私の解釈では、「このようであらざるをえない自分のありようと身近な他者のありようを受け入れざるを得ないこと」であり、短く言うと「断念」である。編者の山田太一はこの「断念」を肯定的にとらえており、「可能性」に満ちているかのようにみせかける今日の日本社会は、「可能性の断念」を欠いているからこそ、落ち着かない社会なのだという。「やればできる」「できないのはお前の努力が不足しているからだ」というのは確かに、人生の真実ではない。努力してもできないことがあり、努力してできることなど、むしろわずかな事柄である。断念とやりきれなさをせめて「かなしみ」として淡々と受け入れないことには、「生きぬく」こともまたできないのにちがいない。


五木寛之と大塚初重の対談集『弱き者の生き方』も、「断念」を肯定的にとらえようとしている。「あきらめる、とは明らかに究めることです」と語る五木寛之はまた、「今はやりのプラス思考とは、単なる楽天にすぎず、本物のプラス思考とは、究極のマイナス思考のことです」という。究極のマイナス思考は、楽天にしかすぎない「希望」をしりぞけ、現実と自己を精査した挙句、「それはムリだ」という断念に達する。http://item.rakuten.co.jp/book/4404782/


山田太一と五木寛之の人生のとらえ方は、時代の主流ではない(だろう)。しかし私は、久しぶりにしっくりする言葉に出会えたと感じた。「かなしみとやりきれなさ」を欠いた人間肯定を私は信用せず、強い違和感を覚える。「みんなちがってみんないい」という詩なんかが「共感」を呼んだりしているけれど、「みんなちがう」こと、私が私のようなあり方で存在していること、親兄弟や友人が彼、彼女のようなあり方で存在していることをほんとうに「みんないい」と明るく笑顔で肯定できるのか。子供を虐待する親や養育すら放棄した親がいることを「みんなちがってみんないい」と本気で言えるのか。一方、山田太一が編集したエッセイの著者たちは、たとえばシベリアで捕虜収容所に入れられ、心をかよわす故国すら存在しなくなってしまった石原吉郎であり、朝鮮人の貧しい父親が首吊り自殺をしようとし、息子が12歳で自殺してしまった高史明である。在日一世である高史明の父親と二世である高史明の間には断絶がある。在日一世の父親は日本語を解さず、「敵の言葉」と思い、過酷な労働で疲れ果てて帰ってきたときは、子供たちと朝鮮語で言葉を交わす間もなく寝てしまう。子供の高史明は、だから朝鮮語を家でほとんど聞いたり話したりする機会もなく、日本語を話すようになる。貧しく過酷な労働の日々に疲れて父が天井の梁に首を吊り、自殺しようとしたとき、息子は日本語で「やめて!」と叫ぶ。父にとっての「敵の言葉」で。このことのせつなさ。しかし理解しあえなかった父親と自分のありようの「どちらも仕方のないもの」と、大人になった高史明は振り返るのである。この肯定は「あきらめ」、自分と他人のありようを成り立たしめているものへの明らかな認識から生じている。自分と他者双方へのゆるしではあるが、せつなさと共にあるゆるしである。


「みんなちがってみんないい」とは私はいえない。たとえば私にこういう「癖」のあることは厭わしく、いつも同じ失敗を繰り返してばかりの自分の進歩のなさが情けなくて嘆かわしい。友人のアイツがいつもあんなふうであるのは、本当に困ったものだと苦々しく思っている。友人のことが心配で、「君は今の君のままでいいんだよ」なんて言えない。生活は大丈夫か。けれど私には私の、友人には友人の、「こうであらざるをえない」必然があり、こんなふうなありようしかできない。そんな自分自身をも友人をも私はかなしく、やりきれない思いで眺めている。



私の好きな画家の描く絵画も、かなしみを湛えている。ブログの画像にしているルオーの絵、そしてユトリロの風景画。ユトリロは少年時代からすでにアル中で、「モンマルトルのいわゆる『ごろつき』のように酒臭い息をはきながら往来を徘徊し、道行く人にからみ、とりわけ身重の女には病的な憎悪をもよおしてこれを追い回し、あげくの果て、乱暴狼藉におよんでは、拘置所の冷たい壁を見つめながら一夜を明かさなければならなかった」「酒場に行けば彼に会えることは確かだった。カウンターのそばに立っているか、あるいはもう酔いがまわってしまって、ドアの外のどぶの中に寝て、ときどき"畜生"とどなっている。わたしはサン・ヴァンサン街で彼が酒の空き瓶を抱きしめ、愛情をこめて愛撫し、ついで突然それを打ち砕くのを見て、胸がしめつけられる思いをした。彼はどこへ行っても鼻つまみ者だった。人々は不まじめにも彼を追い払った。そしてもう歩けなくなるまで彼をなぐって追いやる。彼は倒れ、うめき、そして泣いた。」
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ユトリロの絵にはどれも、人物は描かれていない。酒臭い息を吐きながら、彼はモンマルトルの建物、とくに教会を描き続けた。ユトリロの絵には「神」への癒しがたい渇望である祈りが感じられる。しかしそれでもなお、ユトリロについて次のように語るユトリロの同級生と解説者を「いい気なものだ」と思うことも事実なのである。
彼は常に犠牲の子羊であった。誰もが、彼の母も、その愛人も、彼に石を投げる子供たちも、警官も、誰もが彼をなぐりつけた。彼ほど人からなぐられた芸術家は他にはいなかった
モンマルトルとは元来「mons martyrum」、つまり「殉教者の丘」を意味すると言われるが、ユトリロはそのことを知っていただろうか。

ユトリロの中の「欠落した部分」こそ、「聖なる部分」「尊厳」そのものであったのかもしれないが、それは「心の闇」こそが祈りと「聖なるもの」へと通じているという意味においてであり、「心の闇」自体は、やはり近親者や配偶者や友人にとって、はた迷惑で破壊的なものであるにはちがいないのだ。自己の中のこの闇、他者の中のこの闇が織りなす人生は、どうしたってかなしく、やりきれない。

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ペンテコステに寄せて

去る5月27日は、ペンテコステ(聖霊降臨祭=五旬祭)でした。遅ればせながら、その意味するところについて考えてみたいと思いました。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、

この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、

フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、

ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。

しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
                                                                (使徒言行録2章1節〜13節)



新約聖書中の上の箇所は、旧約聖書に出てくる有名な「バベルの塔」の出来事に対応しているように思われます。

世界中は同じ言葉を使って、

同じように話していた。

東の方から移動してきた人々は、   

シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。

彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。
 
石のかわりにれんがを、

しっくいの代わりに

アスファルトを用いた。

彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。

そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。

「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、

このようなことをし始めたのだ。

これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。

我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、

互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。

こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。

主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、

また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

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                                 (創世記11章1−9節)



「互いの言葉が聞き分けられない」ということを私たちはしばしば経験します。上の聖書の記述はいずれも、文字通り受け取れば、かつて世界共通の言語を話していた民族が、それぞれの言語に分化し、お互いに言葉を聞き分けられなくなったという出来事についての神話的な説明のようなのですが、私は、「同じ日本語を話していても、相手の意味するところが私には伝わらず、私の意味するところは相手には伝わらない」という経験について語ったものとして受け取るのです。私と相手とのあいだに起こるこのような「誤解」は悲しいものですが、どうしたら「誤解」を避け(あるいは乗り越え)、「相互理解」に到達できるのでしょうか。

わたしも最近、このような「誤解」を経験しました。相手を傷つけるつもりではなかったのに、「深く傷つけられた」と言われてしまいました。言葉を尽くして自分の言った意味について説明しましたが、どうしても伝わりませんでした。相手がどのような意味でわたしの言葉を受け取り、どうして傷ついたのかということは理解したように思いましたが、わたしの側のその理解も十分ではなかったのでしょうか。こんなとき、同じ日本語を使って話していても、自分と相手とのあいだに横たわる意味の深淵について考え込んでしまいます。

どうしたら「誤解」を乗り越え、相互理解に達することができるのか。心理学者の河合隼雄(この人は最近、文科省のブレーンのようになって、「?」なのですが、彼が以前書いた本は私は好きでした)は、「主観の共有」こそが、そこに至る道だと述べています。

ある高校生が来て、「うちのお母さんは鬼みたいな人です」というとき、それではお母さんに会ってどんな人か確かめようとはしないのである。私は、その人が「お母さんは鬼」と思っている主観の世界をできるかぎり共有しようとする。もっとも、これは危険きわまりない仕事である。だから、われわれは相手の主観の世界にできるかぎり入りこもうとしつつ、それに溺れてしまわないように訓練されているのだ。

なぜそんなことをするのだろう。ここで、私がその母親に会い、彼女が鬼でもなんでもなく、普通の女の人であると判断して、それをその高校生に伝えたとき、彼はどうするだろう。彼が私の意見に同意してくれることは、めったにないだろう。ものわかりの悪い先生だと思うくらいで、彼はおそらく私のところに来るのを止めてしまうだろう。

私が彼と主観を共有しようとしていることを知って、彼は来談を続けるだろう。そして、あえて主観の共有に踏み切った私と彼とが、話し合い、見直し、考え直しているうちに、主観の世界に見えていたものの様相が変わってくるから不思議なのである。それは、「たましい」への接近の道なのである。

「お母さんは鬼だ」と高校生が言ったとします。「君のお母さんに会ったけど、鬼じゃないよ。君のことを本当に心配して愛してくださっているんだよ」「もう、いいです!先生には僕の気持ちなんかわからないんだ!僕は毎日こんなにつらい思いをしているのに!」「お母さんだってつらいんだよ、なんでそのことをわかってあげようとしないんだ、君は自分の気持ちしか考えてないじゃないか」…想定される会話です。誤解、コミュニケーションの破綻はこのように、「善意」にもかかわらず起こります。

相手を理解しようとすることは、相手の主観を共有しようとすること、相手の生きているリアリティを共有しようとすることでしょう。そのことの重要性を知りつつ、現実に生きているなかでは、そのことの実践はなかなか難しいものがあります。なぜなら私も私自身のリアリティを生きており、そのリアリティを相手にもわかってもらいたいという欲求を抑えつけることはできないからです。「私にはあなたの言葉はこのようにしか受け取れないのだ」と言う相手のリアリティを推し量ることはできます。そのリアリティを支える痛みがあり、痛みと結びついた否定しがたい「現実感」があります。一方で私のリアリティにも、私の生きている状況と抜きがたく結びついた痛みや疲労といった身体感覚があります。河合隼雄のようなカウンセラーならともかく、現実に他者と向きあうとは、私自身のリアリティも背負いながら相手のリアリティとからみあう困難な作業なのです。

私と彼/彼女との言葉がお互いに通じ合わないのは、私たちがバベルの塔を建てようとしたからでしょうか。それではバベルの塔とはいったい何の比喩なのでしょうか。聖霊が降ったとき、人々は自分の国の言葉ではなく相手の故郷の言葉を語りはじめました。相手の故郷の言葉で、すなわち相手の現在を構成する経験に沈潜し、かくして誤解とディスコミュニケーションを乗り越え、たましいに届く言葉を語りはじめました。それは私自身の故郷=私自身の経験とリアリティを切り捨てないでもできることなのでしょうか。ペンテコステに寄せて、そのようなことを考えました。


 

わたしの隣人とは誰か

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた。…(中略)…イエスは、父がすべてをご自分の手にゆだねられたこと、また、ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたにはわかるまいが、後でわかるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
(ヨハネによる福音書13:1-8)

「愛する」ということと「かかわる」ということは不可分ではないでしょうか。そして「かかわる」とはどういうことか。身をかがめて相手の足を洗うこと。汚れた足、臭い足を洗うこと。足を洗ってもらうのは気持ちいいです。足指を一本一本拭いてもらったりするととても癒されます。こうやってイエスは人を愛し、かかわりました。
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「隣人を愛せ」と言い、「わたしの隣人とはだれですか」問われたイエスは、次のように答えます。

「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
(ルカによる福音書10:25−37)

ここで「わたしの隣人とはだれか」と最初に問うた律法の専門家は、親子、兄弟、夫婦、同僚、隣家の住人、同じユダヤ人(同じ日本人)などの静的に固定された関係における「隣人」を念頭において、そのうちのだれか、と問うたでありましょう。イエスはそれに対して、たとえ話を話し、「隣人になった」のはだれか、と問いそのものを変容させます。同じような、言葉の定義そのもののドラスティックな転換は、母マリアと兄弟たちが戸口で待っていると告げられたイエスが答える「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」という切返しにもみることができます。(マタイによる福音書12:46-50)母マリアにたいしてイエスは世間的にみればずいぶん冷たいと感じられる言葉を投げかけています。カナの婚礼で、母マリアがイエスに「ぶどう酒が足りなくなりました」と言うと、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と答えます。(英訳聖書では"Why do you involve me?"となっています。)「かかわる」ということがここでもテーマになっています。

弟子の足を洗ったイエスが弟子とかかわりを持ったのであり、追いはぎに襲われた人を介抱し関わった人が彼の「隣人となった」のであり、「わたしの天の父の御心を行なう人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」のです。

祭司とレビ人はどうして「かかわらなかった」のでしょうか。彼らは敬虔に神に仕える者であり、礼拝を捧げるために道を急いでいたからでしょう。行き倒れになった人にかかわっているヒマは彼らにはなく、自分の務めではないと思われたのでしょう。

「汝の隣人を愛せ」という言葉はこうして捉え直してみると、不思議な言葉となります。「汝の隣人」があらかじめ存在し、「愛する」という行為が結びつくのではなく、「愛した」とき、すなわち「かかわった」とき、はじめてその相手が「わたしの隣人」となるのだというふうに。同じユダヤ人(同じ日本人)だから、血縁だから、同じ会社の同僚だから、すなわち隣人だから愛するのではなくて、愛し、かかわったときにはじめてその相手が隣人となるのだ、とは大きな発想の転換ではないでしょうか。

イエスは別の箇所で、「姦淫するな」「父母を敬え」という掟を守れと言っておきながら、さらに食い下がって問う者がいると次のように言います。「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」(ルカによる福音書18:29−30)これを「神の国を第一義に求めよ。そのためには全てを犠牲にせよ」と模範解答的に解釈すると平板かつ抽象的となり、イエスのヴィジョンのパラドクシカルな躍動感が失われるように感じられます。「わたしの母とはだれか」と問うた前掲部分と読み合わせると、愛すること=かかわることは、静的かつ固定したこの世の人間関係を破壊するエネルギーを持っているように読み取れます。

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。
 人をその父に、
 娘を母に、
 嫁をしゅうとめに。
 こうして、自分の家族の者が敵となる。    (マタイによる福音書10:34−36)
 

イエスの教えは「博愛」であると高校の倫理の教科書に書いてありますが、ほんとうにそうなのでしょうか。家族愛、郷土愛、同胞愛、祖国愛を同心円的に広げていけば「博愛」「人類愛」にたどり着くのでしょうか。福音書のいくつかの部分を読み込んでいくと、そんなふうには読み取れないのですが。

イエスが弟子の足を洗い、「かかわりを持った」洗足木曜日(聖木曜日)がおととい、十字架にかかって死んだ聖金曜日が昨日、復活した日曜日が明日、復活祭(イースター)です。あわただしく聖週間を過ごしてしまいましたが、復活祭の前にかんがえなければならないことがたくさんあり、消化しきれないでいます。かんがえたことのおぼろげなスケッチを記事にしてみました。クリスチャンでない方の感じ方もコメントいただけたらうれしいです。「追いはぎに襲われた人」を見捨てた祭司とレビ人は現在に置き換えると敬虔なクリスチャン、かかわって隣人となったサマリア人は異邦人、現在におきかえるとノン・クリスチャンだったのですから。

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灰の水曜日

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今日は「灰の水曜日」

カトリックの儀式の中で一番好きな儀式

「あなたは塵だから塵に還るのです」と言って、司祭が信者の頭に灰をパラパラ振り掛ける

「あなたは塵だから塵に還るのです」…なんか存在の奥底からの解放感を感じるのはなぜ?

「塵に還るのです」と言われて、むなしくはならなんだ。。。

なんでかなあ。。。



私たちの「所有」は私たちを縛る

所有物を増やすための数々の努力

所有したものを失うのではないかという不安

所有したものを失うまいとする緊張

「あなたは塵だから塵に還るのです」という儀式は

そうした強いられた努力や不安や緊張から私たちを解放してくれる



この社会で、私たちは「所有する」ためのスキルを学校で身につけ

「所有」に応じて評価され、価値を計られ

「所有」するための努力を人生だと思ってきた



でも後半生は「失う」ことに備えるのが課題

若さを失い、

美貌を失い(もともとなかったという説は無視。。。)、

健康を失い、

知性さえ失っていく(もうろくしていく。。。あっこれも「差別語」?めんどう。。。)


「所有する」ことばかりに気をとられ、

「失う」ことに備えていないと

私たちは後半生を死に至るまで

戸惑い、

不安と孤独のうちに過ごすことになるのではないだろうか



「失う」ことを解放とする生き方

「あなたは塵だから塵に還るのです」

一緒に失っていきましょう

そして失うことで解き放たれる

生の輝きを

一緒に生きていきましょう

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