キリスト者として今を生きる

風は冷たいけれど春の訪れを感じます。。。

神と人のあいだ

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私の年はもうだいたいバレてると思うのだけれど(「だいたい」どころか、「私はstarさんと同い年ですが」というコメントを前にいただいた。どうして「同年代」じゃなくて「同い年」と言い切るのか。。。もしかしてジャスト、バレてます?ま、どーでもいいけど)、『ベルサイユのばら』にハマった世代だ。(あまりにハマりすぎて何度も読み返し、受験勉強の妨げになるので、捨てたくらいだ。ああ、私の十字架。。。)で、「ベルばら」の二番煎じである『オルフェウスの窓』っていう、オスカルと同じような男装の麗人を主人公にした劇画も愛読してた。自分が女性であることを隠して男子音楽学校に通う悲劇のヒロインの物語だ。ヒロインはこれまたロシア革命の闘士であることを隠してドイツの音楽学校に通う青年に恋をし、精神のバランスを崩していく。青年の親友である大人の高校生が、精神のバランスを崩したヒロインに語りかける。漫画はとっくに手元にないので、うろ覚えだけど、こんなセリフ。

畢竟、異なる二つの魂が理解しあうことなど、不可能に等しい。だからひとは傷つくことを怖れて魂を閉ざしてしまう。けれどそうやって閉ざされて行き場を失った魂は、狂気の中に解き放たれるしかない。狂気の中に解き放たれずにいるためには、傷つくかもしれないことを怖れず、愛するしかない。

これを読んだときは大学生だったので、実はよくわかんなかった。だけど漫画なのに「畢竟」なんて言葉を使う作者の池田理代子に感心したし、なんかカッコいいと思った。(彼女は東京教育大、現筑波大学の哲学科を出たインテリだ。)で、今の私はもう立派なオバサンで、じゅうぶん人生経験を積んだので、「そのうちわかるかもしれない」じゃなくて、「わかるものはわかる」「わからないものはわからない」とそろそろ断言してもいい年なので、再び考えてみると、ひとは「魂を閉ざしてしま」っても「狂気」に陥るとはかぎらない。それどころかたいていの人とつきあっていて感じるのは、「魂」なんてどこにあるのかわかんない。いや、ぜったいあるんだけど、深く深く埋もれていて、本人も気がつかないし、長いこと埋もれているので、これを活性化するのは、処女の性感帯を開発するよりむずかしい。だから「魂を閉ざしてしまって」も、別段痛みを感じないし、っていうか魂はたいていの人の場合、「閉ざす」んじゃなくて初めから埋もれているので、その存在を本人も知らないのだ。むしろ日常生活をつつがなく送っていくためには魂なんてよけいなものは介在させない方がいいのであって、「魂を閉ざしてしま」っても、仕事も、近所づきあいも、家庭生活も、恋愛さえ「正常に」できる。そういう人はむしろ社交的だし、人当たりがいいし、周囲から尊敬される「人徳」の持ち主や「善人」でさえある。ハンナ・アーレントは『エルサレムのアイヒマン』という本の中で、ユダヤ人をガス室に送った首謀者であるアイヒマンが、会うと実に善良な人物であったという驚きを綴っているが、そんなもんだろうなあとオバサンになった私はさして驚かないのである。

ところがたまに、「魂」をブラブラ露出させているような人に会うことがある。たまにだけど。(でもブロガーにはけっこういる。っていうかブログってそういう場所なのかも。)で、そういう人が世間からどう見られるかというと、当然「露出狂」と思われるのだ。だから「傷つく」。そう考えてみると、上の池田理代子の劇画の中のセリフは、間違ってはいないけど、言葉足らずだと思うのである。

「露出狂」の人々を比較的あたたかい目で見ている私は考える。なぜ彼らの魂は「むきだし」になってしまったのだろう。キケンなのに。。。魂を覆っている身体や服や家が暴力によって叩き壊され、ズタズタにされてしまったからではないかと考える。毛皮のコートを着ている人や立派な家に住んでいる人は、魂という傷つきやすいデリケートな代物を頑丈に保護できる。セキュリティを万全に、金庫に入れて、そのうち金庫に預けたことまで忘れてしまうくらいだ。トタン屋根が飛びそうな家に住んでいる人や、なけなしの服まで剥ぎ取られてしまった人、身体を鞭打たれ、殴られて、骨まで折れてしまった人は、身体の中を流れる血や内臓が飛び出るように、魂が飛び出てむきだしになってしまうのではないだろうか。むきだしになってしまった魂は、服を剥ぎ取られてしまった裸体やすりきれた皮膚と同じように、寒くて痛い。寒くて痛くて、むきだしの魂はアルコールに手を伸ばしたりもする。

シモーヌ・ヴェーユは『神を待ちのぞむ』という著作の中で次のように述べている。

神に仕えるときイスラエルの司祭にはぶどう酒が禁じられていた。けれどもキリストは公生活のはじめから終りまで、人々とともにぶどう酒を飲んだ。彼はギリシア人の目にはディオニュソスの象徴的な住居と見えるぶどうの株に、自分をたとえていた。キリストの最初の業は水をぶどう酒に変えることだった。最後の業はぶどう酒を神の血に変えることだった。
ノアはぶどう酒に酔って、幕屋の中にはだかでいた。罪をおかす前のアダムとイヴのようにはだかだった。不従順の罪によって、彼らは自分の体を恥じるようになったが、それ以上に自分の魂を恥じるようになったのだ。彼らの罪にあずかっているわたくしたちはみな彼らの恥にもあずかっていて、いつも自分の魂のまわりに肉の思いや社会的な考えの衣服をまとうことに大変な気をつかっている。もしわたくしたちが一瞬間でもこの衣服を脱いだなら、恥ずかしくて死ぬに違いない。けれどもプラトンの言うことに従うなら、いつかその衣服を失わなければならないだろう。なぜならプラトンによれば、すべての人は裁かれ、死んだはだかの裁判官が魂そのもので、かれらの魂を凝視することになる。かれらの魂もすべて死んではだかなのだ。ただ何人かの完全な人たちがこの世で生きながら、死んではだかになっている。たとえば、いつも十字架のキリストのはだかと貧しさに思いを注いでいたアッシジの聖フランチェスコや、精神がはだかになること以外には、この世で何も望まなかった十字架のヨハネである。しかし彼らがはだかでいることにたえられたとすれば、それはぶどう酒に酔っていたからだ。毎日祭壇の上を流れるぶどう酒に酔っていたのだ。このぶどう酒だけがアダムとイヴをとらえた恥をいやすものだ。

「ぶどう酒」って何かな。。。

はだかを恥ずかしいと思うこと、むきだしになった魂に人々がしばしば嫌悪感さえ示すこと、「不幸」が魂をむきだしにしてしまうこと、だから「不幸」を通じてはじめて人間が「神」と接点を持つこと。。。。シモーヌ・ヴェーユはけっしてこの世の不幸を肯定しなかった。戦争や貧困を「神の意志」として肯定することをしなかった。自ら女工として働き、偏頭痛に苦しみ、ナチズムとたたかった。不幸は望むものではない。禁欲して身を置くものでもない。不幸は襲い掛かり、衣服を剥ぎ取り、魂をむきだしにする。そしてむきだしになった魂だけが、もうひとつのむきだしの魂と出会い、愛し合うことができる。

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細木数子と江原啓之

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実はどっちもよく知らない。(タイトル立てたくせに。。。)でも今とっても人気があって有名だってことは、週刊誌やワイドショーを見なくても情報が入ってくることでわかる。で、この人気はなんなのだろうと考えてしまう。でも知らないから批判はしない。ただ「占い」とか「霊」とか「スピリチュアル」とかについて考えることを書こうと思う。

私はウチもキリスト教ではなくオトナになってから洗礼を受けたので、中学生のときはコックリさんもやったし、「霊」について考えもしたし、占い師に手相をみてもらったこともあるし、血液型や星座占いの本を買ったこともあったし、「金縛り」に遭って寝室の壁の四隅から「霊」がぞろぞろ出てきたという友達の話に聞き入ったこともあったし、新興宗教に突如ハマッた母親に連れられて教祖様のご託宣を聞きに行ったこともあった。(ふう。。。)

若い頃、街角の占い師に手相をみてもらったことがあった。「貴女は三人の子宝に恵まれる」と占い師は言った。今○歳なので、これから3人一挙に産むのは物理的にムリだ、、、と思う。。。「貴女にはお兄さんがいますね」と同じ占い師は言った。父が母以外の女性との間にひそかに「兄」を作ったのではないかとしばしホンキで疑った。あるTVで、占いは人間以外の生物にも当てはまるのかという問いにたいして占い師は「生まれた年月日と時間がわかり、名前がわかれば占える」と答えた。番組のディレクターはプランクトンのミジンコを持ち出し、「ミンコちゃん」とかなんとかテキトーな名前をつけて、占い師に占わせた。「ミンコちゃんは長生きする」と占い師は言った。ミジンコのミンコちゃんはその数分後、小魚かなんかにパクっと食べられてしまった。占い師はうろたえ、「ミジンコとしては長生きの方でした」と取りつくろった。

「当たらない占い師だったのではないか」「もっとよく当たる占い師だったらちがうことを言ったはずだ」というのは、古代の人々が雨乞いをして、雨が降らなかったときに、「雨乞いの踊りの手順のどこかがまちがっていたからだ」というのと同じだ。雨乞いも占いも「当たらなかった」としても決定的には反駁できないようになっているのだ。

そんなわけで、占いや霊の存在を完全否定することはムリだ。「当たるかもしれない」し「ツイてないのは霊がたたっているから」かもしれない。で、それじゃなんで私は今占いも霊もクソクラエだと思うのかというと、そういうことを信じることが人間を、といって言いすぎならば少なくとも私を自由にしないからだ。何年か前、たしかに厄年だったけど、他人からみれば「不幸」「不運」とよぶんだろうと思うようなことが立て続けに起きた。(プライバシーだから詳細はカンベンしてちょうだい。)ぶったまげたのはその時、「先祖代々の墓」(といっても入ってるのはおじいちゃんとおばあちゃんだけだが)の墓石を父がウン十万だかウン百万だか払って取り替えてしまったことだ。
私:「おとうさあ〜ん、墓石って高いんでしょおおおおおお??????!」
父:「おう、御影石だった。。。」
私:「…」

黒い色の墓石は不運を呼び込むというので、白っぽい色の墓石に父は取り替えた。この話を父の娘に対する愛という美談として語ることもできるのかもしれないが、本人の私がそのときイヤ〜な感じがしたのは、私の経験した出来事を「不幸」「不運」と決めつけるその解釈だった。大人になって遭遇した出来事というのは、「運」もあるかもしれないが半ば自分の選択の結果でもあるし、またその出来事がどういう意味を持つかはいちがいに判断することはできないのである。「人間万事塞翁が馬」ではないが、「不運」が「幸運」に転じることもあるし、「幸運」が「不運」に転じることもある。「幸福」と「幸運」が同じものかどうかもわからない。「不幸」を通して自己や人生や世界についての深い洞察を得ることもある。父の「愛情」はわかる。それだけにこのフクザツな思いを私は胸の奥にたたまねばならなかった。。。

「スピリチュアル」についてもよく知らないのだけれど、血液型と同じで、「背後霊」とか言うより科学的で今風な感じがするんだろう。経験的に「気」を感じることはある。樹齢何百年とかいう大きな木の下を通り過ぎると、身体が「いのちの源」のような「気」を感じて、清々しく、身体の芯からみずみずしくなっていく「気」がする。こういう感覚はけっこう鋭敏で、反対にファミレスとかコンビニとかに足を踏み入れ、食事すると、身体全体も心もズドーンと文字通りむなしく空洞になっていくような「気」がマジでする。(しません?)人間に会った時も「この人はなんだかイヤな『気』を発してるなあ、あんまり近づきたくないなあ」とか「この人はいい『気』を発しているなあ。この人の傍にいると魂が洗われる」と感じることもある。だから江原氏の言ってることが全てデタラメだとは思わない。

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だけどそれじゃあ人間の問題や社会の問題をすべて「霊」や「スピリチュアル」で解決できるのか。あるいは人間と社会の問題はすべて「霊」や「スピリチュアル」や「風水」のせいなのか。アフリカのエイズやイスラエルに爆撃されるレバノンやアメリカのイラク攻撃の映像をテレビで観ながら思うのである。アフリカやレバノンやイラクの人たちはよっぽど前世で悪いことをしたのか、あるいは先祖がよっぽど祟っているのか、あるいはアフリカ大陸の位置が風水から見て、よっぽど縁起の悪い位置にあるのか。


クリスチャンだから他の宗教を排撃しているのだと思われては困る。私は仏教もアメリカ・インディアンの宗教も尊敬している。宗教や思想というものは、いやしくも宗教や思想とよぶかぎり、普遍的なものでなくてはならない。細木数子の占いが「夫がなぜ次々に浮気するのか」「いい年をした息子がなぜ家でブラブラしているのか」を言い当てるというのならば、「アフリカがなぜ干ばつやエイズに苦しまなくてはならないのか」にも答えなくてはならない。
細木数子にきいてみたい。
江原啓之にきいてみたい。
で、なんでみんなきかないんだ???

そんなもんにメクジラ立てなくてもいいじゃないかと思われるかもしれないけど、私たちの視野と関心を私たちの「身近な」日常だけに閉ざしてしまう宗教や思想はやっぱり有害だと思うのである。そしてまた、私たちを自由にしないのではないかと思う。福沢諭吉は「迷信」を試すために、お守り札を便所(「御不浄」?「トイレ」とは当時よばなかった。。。)に捨てたという。長年染み付いた日本的感性のゆえにこの私ですらそういう行為はたしかにためらうところがある。お葬式から帰ってくれば、やっぱり塩を振りかけたほうがサッパリするかなあとか思い、祖先のお墓をきちんとしないと運勢が悪くなるといわれればいい気分がしなかったりもする。(クリスチャンなのに。。。)だけど諭吉と同じで、あえてお守り札を便所に捨てるのだ。「不運」とは何か、「不運」と「不幸」は同じか、人間の「幸福」とは何か、「幸福」になるために私たちは生きているのか、お守り札一つで、あるいは霊のたたりとやらで左右される「人生」とは何なのか、そんなものが「人生」だとしたら「人生」の意味とは何なのか、あと幾ばくも生きないんだから、その問いを突きつめるために、あえてお守り札を便所に捨てるのだ。「祟り」があっても後悔しない。そのハラだけはくくっておこう。。。

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大きな不幸やとてつもなく理不尽なことに出遭った時、人はしばしば「神も仏もない」という言葉を口にする。他人から受けたひどい仕打ちとか炸裂する原子爆弾とか愛する者たちのいのちをゆえなく奪う「テロ」や戦争とか。そのような出来事に遭遇した時、「これは神の計画の一部なのだ」とか「人間の罪に対する神の懲らしめなのだ」と言う「信仰」に私は与しない。これらの出来事をそのような解釈で片付けることは非常な冷淡さと感じるからであり、敬虔で冷淡なキリスト教徒になるより、人間らしい心を持つ迷える無神論者でいた方がはるかにましだと感じるからである。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中で、シニカルな無神論者であるイワンはこの「不幸や苦難の意味」について、虐待されて泣き叫んでいる一人の子どもを取り上げて問いかける。子供を引き合いに出したのは、「罪の連帯性」という考え方を締め出すためだとイワンは言う。「罪の連帯性」とは何か。たとえばヒロシマとナガサキに原爆が落とされたことを「日本がアジア諸国を侵略し殺害を行なったことに対する神の罰であり、戦争をやめさせるための神の計らいである」と言うことなどがそれに当たるだろう。日本人全員が戦争に対して責任があり、「罪」を背負っているのだから、被爆者は「罪」に対する「罰」を受けたのだという考え方。しかし戦争を止めなかった大人に責任と「罪」があるとたとえ仮定したとしても、物心つかない子供に責任と「罪」があるだろうか。原爆は子供たちの頭上にも落とされたのだし、昨年のレバノン爆撃で殺された多くは子供たちだった。子供たちの頭上に爆弾が落とされ、無力なひとりの子供が虐待されているのを前にして、「『主よ、あなたは正しい!』…と俺は叫びたくないんだよ」とイワンは言う。キリスト教はさらに「人間の原罪」ということを持ち出すかもしれない。アダムとイヴの楽園追放の物語が語るように、すべての不幸や苦難はこの「原罪」から由来し、キリストの十字架によって、あるいは「最後の審判」によって遠い将来、報われるのだと考えるかもしれない。そういう教義上の「調和」とキリスト教的「真理」を拒否して、イワンは言う。

そんなことを俺は認めるわけにはいかないんだよ。…(中略)…俺はそんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さな拳で自分の胸をたたきながら、臭い便所の中で償われぬ涙を流して《神さま》に祈った、あの痛めつけられた子供1人の涙にさえ値しないよ!なぜ値しないかといえば、あの子の涙が償われずじまいだったからさ。あの涙は当然償われなけりゃならない、それでなければ調和もありえないはずじゃないか。しかし、何によって、いったい何によって償える?はたしてそんなことが可能だろうか?迫害者たちが復讐されることによってか?しかし、俺にとって復讐が何になる。なぜ迫害者たちのための地獄なんぞが俺に必要なんだ。子供たちがすでにさんざ苦しめられたあとで、地獄がいったい何を矯正しうると言うんだ?それに、地獄があるとしたら、調和もくそもないじゃないか。俺だって赦したい、抱擁したい、ただ俺は人々がこれ以上苦しむのはまっぴらだよ。そして、もし子供たちの苦しみが、真理を買うのに必要な苦痛の総額の足し前にされたのだとしたら、俺はあらかじめ断っておくけど、どんな真理だってそんなべらぼうな値段はしないよ。結局のところ俺は、母親が犬どもにわが子を食い殺させた迫害者と抱擁しあうなんてことが、まっぴらごめんなんだよ!いくら母親でも、その男を赦すなんて真似はできるもんか!赦したけりゃ、自分の分だけ赦すがいい。母親としての測り知れぬ苦しみの分だけ、迫害者を赦してやるがいいんだ。しかし、食い殺された子供の苦しみを赦してやる権利なぞありゃしないし、たとえ当の子供がそれを赦してやったにせよ、母親が迫害者を赦すなんて真似はできやしないんだよ!もしそうなら、もしその人たちが許したりできないとしたら、いったいどこに調和があるというんだ?この世界じゅうに、赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか?俺は調和なんぞほしくない。人類への愛情から言っても、まっぴらだね。それより、報復できぬ苦しみをいだきつづけているほうがいい。たとえ俺がまちがっているとしても、報復できぬ苦しみと、癒されぬ憤りとをいだきつづけているほうが、よっぽどましだよ。

イワンは敬虔なキリスト教徒である弟のアリョーシャに向かってこの話をするのだが、アリョーシャは、この子供の涙の上に(キリスト教という)「真理の殿堂」を築くことを承認するかというイワンの問いかけに対して、敬虔なキリスト教徒であるにもかかわらず、「いいえ、承諾しないでしょうね。認めることはできません、兄さん」と答えさせられてしまうのである。犬を放って母親の目の前で子供を食い殺させた迫害者を赦すことができるかという質問に、「銃殺です!」と口走ってしまうのである。

ドストエフスキーにとっての問題は、「神が存在するか」ということではなくて、「そのような現実を承認するか」、「そのような現実をゆるしている神を承認するか」ということであったのではないかと考える。この問いと対決しないキリスト教を私は「信じない」。そしてこの問いと対決する無神論者と私は連帯する。この問いと対決しないのならば、信仰は生き方の問題であるとは思えず、生き方とはとりもなおさず、目の前の現実とどう向き合うかということに他ならないからだ。聖書という矛盾に満ちた書物はこの問いと格闘し、イエスはこの問いを生きたと考えるからこそ、私はキリスト教とつながっている。

それにしても聖書は「矛盾に満ちた書物」である。であればこそ、この書物を高々と掲げて「対テロ戦争」を叫ぶこともできるし、現実の秩序を、それがどんなに人間を抑圧し疎外するものであったとしても全面的に肯定することもできるし、他者の苦しみに対する無関心と冷淡さにすぎないものを「愛とゆるし」という言葉で正当化することもできる。この「矛盾」を私自身がどう読み解くかということを一挙に語ることはできないし、そもそも読み解いているのかどうかもさだかではないけれど、最近読み終えた書物から一つの示唆を受けたことだけを記しておこうと思う。心理学者として知られるユングの著した『ヨブへの答え』(みすず書房)。ヨブは旧約聖書の「ヨブ記」の主人公で、何ひとつ罪のない正しい人であるにもかかわらず、神から言語に絶する苦しみを与えられる人物である。神がなぜヨブを苦しめるかというと、神自身がサタンの挑発に乗ったためである。ヨブが神のみこころに叶った正しい生き方をしていることを神がサタンに自慢すると、サタンは、それはヨブが健康にも経済的にも友人にも恵まれ幸せだからだ、ひとたび病気になったり財産を失ったり友人に裏切られたりすれば、神を呪うにちがいない、と答える。神はヨブの忠実であることを証明し、サタンとの賭けに勝つために、ヨブを不幸に陥れることとする。次々に襲い掛かる不幸の中で、ヨブは次のように嘆く。

神よ
わたしはあなたに向かって叫んでいるのに
  あなたはお答えにならない
御前に立っているのに
  あなたは御覧にならない。
あなたは冷酷になり
御手の力をもってわたしに怒りを表される。(ヨブ記30:20−21)

このヨブの嘆きは不幸の中に置かれている全ての人の嘆きであろう。アウシュヴィッツで、ヒロシマで、ナガサキで、パレスチナで、レバノンで、またそのような世界史的惨劇とは別に、学校でいじめを受けている生徒たち、親に虐待されている子供たち、そのほか他人には語られないようなそれぞれの不幸の中に置かれている無数の人々の叫びであろう。

ユングの『ヨブへの答え』が衝撃的なのは、このような不幸を神は看過しているだけでなく、サタンとの賭けに勝つために神自身が(サタンを介して)不幸を作り出していると指摘していることである。神ヤーヴェとヨブとの息詰まるやりとりを通し、神がヨブを正義ではなく力で圧倒しようとしていることが明らかにされる。自分がこの世界の全てを創造したのだ、お前はたった一度でも太陽に命令して朝をもたらすことができるか、と神はヨブに問い、己の優越性を誇示する。ヨブは自分が無力であることを神に言われる前から身にしみて知っている。しかしそれでもヨブが神に対して一歩も引かないのは、正義であるはずの神が、なぜこの世の不正義をゆるしているのかを納得できないからである。ヨブ記はヨブの次の言葉で終わっている。

ヨブは主に答えて言った。

あなたは全能であり
御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
「これは何者か。知識もないのに
神の経綸を隠そうとするとは。」
そのとおりです。
わたしには理解できず、わたしの知識を越えた
驚くべき御業をあげつらっておりました。
「聞け、わたしが話す。
お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。   (ヨブ記42:1−6)

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ヨブは最後まで自分がなぜ苦しまなくてはならないのか理解できなかった。そして自分の理解を超える神の前に「自分を退け、悔い改め」る。神とヨブとの丁々発止がなぜこんな形で終わらなくてはならないのか私にはどうしてもわからなかった。ユングは述べる。ヨブと神とのこの対決において、ヨブは最後に引き下がったかのように見えるが、実はヨブが神に勝ったのだ、と。神ヤハヴェは創造者であり、全能であり、力においてヨブを圧倒する。ヨブは被造物であり、無力であるが、正義を希求し、神の「こころ」をさぐる。盲目な無意識である超越者の神は、この「意識」においてヨブに負け、「人間に追いつく」ために人間に生まれ変わろうと決意するに至った。イエス=キリストの誕生である。キリストは人間としての生涯を送ったのち、生涯の終わりに、十字架上でヨブと同じ叫びを上げる。「エリ、エリ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。)」旧約聖書から新約聖書への移行のダイナミズムをユングはそのように読み解くのである。


神は私たちと同じ無力な者となり、私たちと同じ不条理を生き、私たちと同じ問いを生きた。キリストと共に生きるとは、そのことを受け止めつつ生きることに他ならないと考える。十字架上のキリストの叫びに父なる神は答えないが、ヨブの叫び、キリストの叫びは真実の響きを持ち、私たちの胸を打つ。この感動はたしかに私に生きる力を与え、不思議な化学変化を魂のうちにもたらされる。「信仰」を語ることができるとしたら、この点を措いて他にない。


(PC明け早々、長くて難解な記事になってしまいました。ノンクリスチャンからは多くの疑問を、クリスチャンからは多くの批判を受けることと思います。あるいは興味ないかも…笑。。。でもむしろお気軽にコメントをつけていただければ嬉しいです。)

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子どもの頃のこと

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私の子どもの頃は「Always三丁目の夕日」より少しあとのことだったので(年はもうバレてますね)、まだ貧しさの記憶も残っていて、あのなつかしい汲み取り便所の匂いだとか、トタン屋根を張り合わせただけのバラックだとか、継ぎを当ててもらった服だとか、そんなハンドメイドな幸せに満ち満ちていた。まだ舗装されていない道路に野良犬もウロウロして、よく犬のうんこを踏んでしまって、道端の石で靴の裏についたうんこをこそげおとしたものだった。幸せな気持ちで思い出すのは、そんな汚いことばかり。人間の記憶は嗅覚と結びついているというから、「匂い」に記憶をよびさまされるのかも。

お稽古事や塾に通っている友達もいたけれど、まだ少数で、日が暮れるまでむちゅうになって表で遊んでいた。4つ下の妹が物心つくころから日本は高度経済成長を始め、「とびだす絵本」とか「お歩き人形」なんて豪華なオモチャも出回りはじめたけれど、私の子どものころまではオモチャなんてそんなになかった。またほしいともあまり思わなかった。少し大きくなってから「タミーちゃん」とか「ペパーちゃん」とかのちのリカちゃん人形みたいなのを父親が買ってきてくれて、その着せ替えの洋服がべらぼうに高かったのを子供心に覚えている。買い与えられると着せ替えの服もほしくなってねだったら、母が画用紙に人形の絵を描いて切り抜いて、平面の着せ替え人形を作ってくれた。着せ替えの洋服はやっぱり画用紙に絵を描いて、そっちの方が面白くなって…。


勉強はまるきりしなかったけれど、本を読むのは大好きだった。アラビアン・ナイトとかアンデルセンとかグリムとかの童話が好きだった。わくわくして、ときめいて、心の底に深い井戸が掘られるような、なんていったらいいのかな、「穴」がうがたれるような、そんな経験だった。その「穴」はグリム童話と同じようにちょっと怖くて、見知らぬ世界に誘われるような、わくわくする「抜け穴」でもあった。その「穴」はむなしくはなく、不快なものでもなくて、むしろぎっしりつまっていたら苦しくなったりむなしくなったり疲れてしまうところを、こっそり内側に向かって解き放ってくれる深い深い井戸で、その井戸の底ではきっと泉が湧いていたのだ。こんな年になっても穴はまだあいている。この井戸は「いのちの泉」だったのだと思う。涙もそこから湧いてくる。涙は私たちを解放し癒し、生きる力を与えてくれる魔法の水だから。

つい最近、グリム童話について宮田光雄というクリスチャンの先生の書いたものを読んだ。グリム童話の中で傲慢な二人の兄王子とバカにされているけれど謙虚な弟の王子が、父親で病気の王に飲ませるための「いのちの水」を取りに出かける話だ。道端に立って話しかけた小人を二人の兄王子は邪険に扱い、「いのちの水」のありかを聞き出すことに失敗する。弟王子は小人にこまっていることを正直に打ち明けて、小人から「いのちの水」のありかとどうやってその場所までたどり着いたらいいかを教えてもらう。宮田光雄は解説している。小人はつまらない者、取るに足りない者と思われている。しかし人生において私たちに秘密を解き明かしてくれるものはこの「取るに足りないもの」との出会いなのだ、と。権力欲や上昇志向はしばしば「取るに足りないもの」との出会いを軽視あるいは無視してしまう。その結果私たちは「いのちの水」を得ることができないのである。(宮田光雄『内面への旅』)
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私のこれまでの人生を振り返ってみても、私の人生をゆたかにしてくれ、生きる力を与えてくれたのは、思いがけない出会いだった。ブログを始めて7ヶ月が経ったけれど、ここでも思いがけない出会いを与えられた。ブロガーが「取るに足らない者」だってことはないけど(笑)、世間的にみれば「勝ち組」じゃないだろうなあ、と思う人たちがなんて素晴らしくゆたかであることか!私に「いのちの水」のありかを教えてくれるかも(笑)。


2006年12月、教育基本法が「改正」された。子供たち同士、学校同士を競わせて「学力」を向上させ、子供たちに身につけさせるべき徳目も具体的に盛り込んだ「改正」教育基本法。教員免許更新制を導入して、「ダメな先生」にはやめていただく。私はこんな法律に基づいて運営される学校が、「いのちの水」のありかを教えてくれるとは思わない。この学校はきっと小人を「取るに足らない者」として無視してしまう。


童話はわくわくしてときめいた。童話をむちゅうになって読んだおかげで、私はふつうじゃないかもしれない思い込みを持つようになった。たとえば、人間は生まれてくる前にこの人生の旅の目的を知らされて、その目的を果たすよう勇んでこの世に生まれてくるのだけれど、幼児のころには覚えていたその旅の目的を大人になると忘れてしまって、富とか権力とか地位とか人々の賞賛とかそんなものを求めるようになってしまう。死んで魂があの世へ行ったとき、忘れていた使命を思い出し、一体何をしていたのだろうと心から後悔する……童話の中にはそんなモチーフが沢山あるから。「いのちの水」を取る前にベッドで眠り込んでしまう王子の話とか、森の中でお菓子の家をみつけお菓子をむちゅうになって食べてしまうヘンゼルとグレーテルの話とか、『雪の女王』に出会ってゲルダを忘れてしまうカイの話とか…。
手放したり捨てたりしないと宝物が得られないというモチーフも沢山出てきた。「自分のいのちを守ろうとする者はそれを失い、わたしのために命を捨てる者はそれを得る」(マルコによる福音書10-29)私が大人になってクリスチャンになったのは、たぶん童話をたくさん読んだからだと思う。だってお話を今でも信じてるもん。そして冒険にでかけるのは神様にほめてもらいたいからじゃなく、冒険そのものがワクワクするから。禁欲とか道徳とかはきらい。でも宝物のことを考えるとワクワクする。それでね、宝物は死んだ後もらえるプレゼントじゃないんだよ。今ここに、私たちの現実のただ中に埋まってるの…と信じてる。だっていくつかもらったもん!(今年は年の始めからブリッコ)


2006年、みなさま、ありがとうございました。2007年の今年もよろしくお願いします。

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クリスマスの意味

そのころ、皇帝アウグストウスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行なわれた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなづけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカによる福音書2:1-7)

驚きをもって受け止める事実…「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」

神の子キリストが占める場所がこの世界のどこにもなかったということ、かろうじて人間ではなく馬がつながれている馬小屋の片隅にその場所を与えられたということ。

クリスマスの意味

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華やかなクリスマス。街はイルミネーションで飾られて、赤と緑の鮮やかなクリスマスカラー。太ったサンタがユーモラスに煽り立てるにぎやかでせわしい都会の喧騒。たくさんのご馳走とシャンパン、リボンで飾られた山のようなプレゼント。恋人たちの甘い夜…。


There was no room for them in the village inn.
「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」
There was no room for Christ in this world.
「キリストにはこの世に占める場所がなかった」


私たち人間の想像力

カトリック教会は「神」を王のような権力者になぞらえて具象化した。ローマ法王の壮麗な法衣と金の冠、天空を突き刺すゴチック式の教会、金ぴかのサンチャゴ=デ=コンポステッラ…

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あの金はスペインが「新大陸」を「征服」した時、インディオを鉱山で酷使して略奪したのだ、サンチャゴ=デ=コンポステッラの金ぴかの祭壇に圧倒されながら思った


「奇跡」は私たち人間の想像力を超える
「神の子」が粗末な宿屋の一室さえ与えられず馬小屋で産声を上げたということ、
それが奇跡

キリストがもし今日の日本にいるのならば、このクリスマスをどんな格好で過ごしているのだろう

イチゴのショートケーキもローストチキンも食べられないで、
サンタからもプレゼントをもらえないで、
暖かい部屋、クリスマスツリーの傍で笑いさざめく人々の仲間にも入れてもらえず、
甘い夜を一緒に過ごす恋人もいず…
都会の片隅で独り寒さに震えているホームレスなのかもしれない



メリー・クリスマス!

神は奇跡です
どうしたら私たちはこの奇跡をとらえることができるのだろう
グリム童話の『黄金の鳥』。黄金の鳥をどうしたらつかまえることができるか、狐が王子に教えてくれる。

「お城のお部屋をひとつのこらず通りぬけると、いちばんおしまいに、黄金の鳥が木のかごにはいってぶらさがってるお部屋へはいります。その籠とならんで、からっぽの黄金のかごがかざってありますが、あなた、かんじんの鳥を、その鳥のはいっている粗末なかごからだして、金ぴかのほうへ入れかえないようにね、いいですか、そんなことすると、あなた、とんだめにあうかも知れませんよ」

とてもかんたんでとても難しいこと。黄金の鳥を見たら、粗末な木のかごじゃなくて黄金のかごに移しかえたくなる。神さまを王さまのように飾り立て、威厳を持たせてこの世を支配させたくなる。

神は人として生まれた最初から、王や皇帝の権威と鋭く対立した。皇帝アウグストウスは全領土の住民に、住民登録をさせようとした。住民登録の目的は税を取り立てること、労役を課すこと。身重のマリアとヨセフが100キロ近い道のりを仮借ない支配者の命令を拒むこともできず過酷な旅をしていく。神の子イエス=キリストは人の住まない馬小屋で、支配者の住民登録を免れてこの世に産声を上げる。
イメージ 6



2006年のクリスマス

イエス=キリストの生まれたパレスチナでは大勢の人々が殺され、

「神」の名の下に戦争が行なわれ、

レバノンでは多くの子供たちが瓦礫の下敷きになって幼いいのちを失った

メリー・クリスマス!

富と権力を持てる者が持たざる者を残酷に支配できるようさまざまな法律が制定された冬

メリー・クリスマス!

「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」

メリー・クリスマス!

この弱く貧しい者が、弱く貧しいままで愛によってつながる時

メリー・クリスマス!

微力な私たちが微力なままに、平和を築いていく力となれますように

メリー・クリスマス!




追記:クリスマスは過ぎましたが、MGMさんから次のサイトのご紹介をいただきました。クリックしてみて下さい。
   http://www.youtube.com/watch?v=_z35z8b9U9M
世界の子供たちの現状・・・。
   http://www.office4-pro.com/
皆さん。クリスマスは、いったい、なんでしょうか。

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