| 大きな不幸やとてつもなく理不尽なことに出遭った時、人はしばしば「神も仏もない」という言葉を口にする。他人から受けたひどい仕打ちとか炸裂する原子爆弾とか愛する者たちのいのちをゆえなく奪う「テロ」や戦争とか。そのような出来事に遭遇した時、「これは神の計画の一部なのだ」とか「人間の罪に対する神の懲らしめなのだ」と言う「信仰」に私は与しない。これらの出来事をそのような解釈で片付けることは非常な冷淡さと感じるからであり、敬虔で冷淡なキリスト教徒になるより、人間らしい心を持つ迷える無神論者でいた方がはるかにましだと感じるからである。 |
| ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中で、シニカルな無神論者であるイワンはこの「不幸や苦難の意味」について、虐待されて泣き叫んでいる一人の子どもを取り上げて問いかける。子供を引き合いに出したのは、「罪の連帯性」という考え方を締め出すためだとイワンは言う。「罪の連帯性」とは何か。たとえばヒロシマとナガサキに原爆が落とされたことを「日本がアジア諸国を侵略し殺害を行なったことに対する神の罰であり、戦争をやめさせるための神の計らいである」と言うことなどがそれに当たるだろう。日本人全員が戦争に対して責任があり、「罪」を背負っているのだから、被爆者は「罪」に対する「罰」を受けたのだという考え方。しかし戦争を止めなかった大人に責任と「罪」があるとたとえ仮定したとしても、物心つかない子供に責任と「罪」があるだろうか。原爆は子供たちの頭上にも落とされたのだし、昨年のレバノン爆撃で殺された多くは子供たちだった。子供たちの頭上に爆弾が落とされ、無力なひとりの子供が虐待されているのを前にして、「『主よ、あなたは正しい!』…と俺は叫びたくないんだよ」とイワンは言う。キリスト教はさらに「人間の原罪」ということを持ち出すかもしれない。アダムとイヴの楽園追放の物語が語るように、すべての不幸や苦難はこの「原罪」から由来し、キリストの十字架によって、あるいは「最後の審判」によって遠い将来、報われるのだと考えるかもしれない。そういう教義上の「調和」とキリスト教的「真理」を拒否して、イワンは言う。 |
そんなことを俺は認めるわけにはいかないんだよ。…(中略)…俺はそんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さな拳で自分の胸をたたきながら、臭い便所の中で償われぬ涙を流して《神さま》に祈った、あの痛めつけられた子供1人の涙にさえ値しないよ!なぜ値しないかといえば、あの子の涙が償われずじまいだったからさ。あの涙は当然償われなけりゃならない、それでなければ調和もありえないはずじゃないか。しかし、何によって、いったい何によって償える?はたしてそんなことが可能だろうか?迫害者たちが復讐されることによってか?しかし、俺にとって復讐が何になる。なぜ迫害者たちのための地獄なんぞが俺に必要なんだ。子供たちがすでにさんざ苦しめられたあとで、地獄がいったい何を矯正しうると言うんだ?それに、地獄があるとしたら、調和もくそもないじゃないか。俺だって赦したい、抱擁したい、ただ俺は人々がこれ以上苦しむのはまっぴらだよ。そして、もし子供たちの苦しみが、真理を買うのに必要な苦痛の総額の足し前にされたのだとしたら、俺はあらかじめ断っておくけど、どんな真理だってそんなべらぼうな値段はしないよ。結局のところ俺は、母親が犬どもにわが子を食い殺させた迫害者と抱擁しあうなんてことが、まっぴらごめんなんだよ!いくら母親でも、その男を赦すなんて真似はできるもんか!赦したけりゃ、自分の分だけ赦すがいい。母親としての測り知れぬ苦しみの分だけ、迫害者を赦してやるがいいんだ。しかし、食い殺された子供の苦しみを赦してやる権利なぞありゃしないし、たとえ当の子供がそれを赦してやったにせよ、母親が迫害者を赦すなんて真似はできやしないんだよ!もしそうなら、もしその人たちが許したりできないとしたら、いったいどこに調和があるというんだ?この世界じゅうに、赦すことのできるような、赦す権利を持っているような存在がはたしてあるだろうか?俺は調和なんぞほしくない。人類への愛情から言っても、まっぴらだね。それより、報復できぬ苦しみをいだきつづけているほうがいい。たとえ俺がまちがっているとしても、報復できぬ苦しみと、癒されぬ憤りとをいだきつづけているほうが、よっぽどましだよ。
| イワンは敬虔なキリスト教徒である弟のアリョーシャに向かってこの話をするのだが、アリョーシャは、この子供の涙の上に(キリスト教という)「真理の殿堂」を築くことを承認するかというイワンの問いかけに対して、敬虔なキリスト教徒であるにもかかわらず、「いいえ、承諾しないでしょうね。認めることはできません、兄さん」と答えさせられてしまうのである。犬を放って母親の目の前で子供を食い殺させた迫害者を赦すことができるかという質問に、「銃殺です!」と口走ってしまうのである。 |
| ドストエフスキーにとっての問題は、「神が存在するか」ということではなくて、「そのような現実を承認するか」、「そのような現実をゆるしている神を承認するか」ということであったのではないかと考える。この問いと対決しないキリスト教を私は「信じない」。そしてこの問いと対決する無神論者と私は連帯する。この問いと対決しないのならば、信仰は生き方の問題であるとは思えず、生き方とはとりもなおさず、目の前の現実とどう向き合うかということに他ならないからだ。聖書という矛盾に満ちた書物はこの問いと格闘し、イエスはこの問いを生きたと考えるからこそ、私はキリスト教とつながっている。 |
| それにしても聖書は「矛盾に満ちた書物」である。であればこそ、この書物を高々と掲げて「対テロ戦争」を叫ぶこともできるし、現実の秩序を、それがどんなに人間を抑圧し疎外するものであったとしても全面的に肯定することもできるし、他者の苦しみに対する無関心と冷淡さにすぎないものを「愛とゆるし」という言葉で正当化することもできる。この「矛盾」を私自身がどう読み解くかということを一挙に語ることはできないし、そもそも読み解いているのかどうかもさだかではないけれど、最近読み終えた書物から一つの示唆を受けたことだけを記しておこうと思う。心理学者として知られるユングの著した『ヨブへの答え』(みすず書房)。ヨブは旧約聖書の「ヨブ記」の主人公で、何ひとつ罪のない正しい人であるにもかかわらず、神から言語に絶する苦しみを与えられる人物である。神がなぜヨブを苦しめるかというと、神自身がサタンの挑発に乗ったためである。ヨブが神のみこころに叶った正しい生き方をしていることを神がサタンに自慢すると、サタンは、それはヨブが健康にも経済的にも友人にも恵まれ幸せだからだ、ひとたび病気になったり財産を失ったり友人に裏切られたりすれば、神を呪うにちがいない、と答える。神はヨブの忠実であることを証明し、サタンとの賭けに勝つために、ヨブを不幸に陥れることとする。次々に襲い掛かる不幸の中で、ヨブは次のように嘆く。 |
神よ
わたしはあなたに向かって叫んでいるのに
あなたはお答えにならない
御前に立っているのに
あなたは御覧にならない。
あなたは冷酷になり
御手の力をもってわたしに怒りを表される。(ヨブ記30:20−21)
| このヨブの嘆きは不幸の中に置かれている全ての人の嘆きであろう。アウシュヴィッツで、ヒロシマで、ナガサキで、パレスチナで、レバノンで、またそのような世界史的惨劇とは別に、学校でいじめを受けている生徒たち、親に虐待されている子供たち、そのほか他人には語られないようなそれぞれの不幸の中に置かれている無数の人々の叫びであろう。 |
| ユングの『ヨブへの答え』が衝撃的なのは、このような不幸を神は看過しているだけでなく、サタンとの賭けに勝つために神自身が(サタンを介して)不幸を作り出していると指摘していることである。神ヤーヴェとヨブとの息詰まるやりとりを通し、神がヨブを正義ではなく力で圧倒しようとしていることが明らかにされる。自分がこの世界の全てを創造したのだ、お前はたった一度でも太陽に命令して朝をもたらすことができるか、と神はヨブに問い、己の優越性を誇示する。ヨブは自分が無力であることを神に言われる前から身にしみて知っている。しかしそれでもヨブが神に対して一歩も引かないのは、正義であるはずの神が、なぜこの世の不正義をゆるしているのかを納得できないからである。ヨブ記はヨブの次の言葉で終わっている。 |
ヨブは主に答えて言った。
あなたは全能であり
御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
「これは何者か。知識もないのに
神の経綸を隠そうとするとは。」
そのとおりです。
わたしには理解できず、わたしの知識を越えた
驚くべき御業をあげつらっておりました。
「聞け、わたしが話す。
お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。 (ヨブ記42:1−6)
| ヨブは最後まで自分がなぜ苦しまなくてはならないのか理解できなかった。そして自分の理解を超える神の前に「自分を退け、悔い改め」る。神とヨブとの丁々発止がなぜこんな形で終わらなくてはならないのか私にはどうしてもわからなかった。ユングは述べる。ヨブと神とのこの対決において、ヨブは最後に引き下がったかのように見えるが、実はヨブが神に勝ったのだ、と。神ヤハヴェは創造者であり、全能であり、力においてヨブを圧倒する。ヨブは被造物であり、無力であるが、正義を希求し、神の「こころ」をさぐる。盲目な無意識である超越者の神は、この「意識」においてヨブに負け、「人間に追いつく」ために人間に生まれ変わろうと決意するに至った。イエス=キリストの誕生である。キリストは人間としての生涯を送ったのち、生涯の終わりに、十字架上でヨブと同じ叫びを上げる。「エリ、エリ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。)」旧約聖書から新約聖書への移行のダイナミズムをユングはそのように読み解くのである。 |
| 神は私たちと同じ無力な者となり、私たちと同じ不条理を生き、私たちと同じ問いを生きた。キリストと共に生きるとは、そのことを受け止めつつ生きることに他ならないと考える。十字架上のキリストの叫びに父なる神は答えないが、ヨブの叫び、キリストの叫びは真実の響きを持ち、私たちの胸を打つ。この感動はたしかに私に生きる力を与え、不思議な化学変化を魂のうちにもたらされる。「信仰」を語ることができるとしたら、この点を措いて他にない。 |
(PC明け早々、長くて難解な記事になってしまいました。ノンクリスチャンからは多くの疑問を、クリスチャンからは多くの批判を受けることと思います。あるいは興味ないかも…笑。。。でもむしろお気軽にコメントをつけていただければ嬉しいです。)
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