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シモーヌ・ヴェーユは「不在なる神を待ち望む」と言った。この言葉はクリスチャンの語る「神様のお導き」「神の摂理」という言葉より一層純粋だ。曰く、「この学校に勤めることになったのも神様のお導きだ」「ヒロシマに原爆が落ちたのも神の摂理だ」等々。ヴェーユはこの考え方を嫌い、拒絶した。もし神の意志がこの世界に働いており「摂理」とか「お導き」とかいうものがあるのだとしたら、この世の悪もまた神の意志だということになってしまう。原理主義者はそういう考え方をする。「このテロ戦争は神の再臨に先立つ神の計画(摂理)だ」「イスラエル建国は神の意志だ」。通常のクリスチャンはもっと穏健で、かつ思考を突きつめない。自分が校長に就任したのが神のお導きなら、米兵にイラクで子供を殺させたのも神のお導きか。(どうちがうのか?!)
この世界を共感と想像力をもって眺めるならば、神の意志は働いていない。もし何らかの意志が働いているのなら、それは悪魔の意志である。(異端のグノーシス派は、この世の創造主は悪魔であると考えた。神は悪魔の創造したこの世の向こうに隠れている。ヴェーユはグノーシス派に共感する。)あるいは神はいない。
私も神はいないと思う。それが受肉の意味であり十字架の意味だと思う。神はこの世に介入しない。少なくとも権力者がこの世に介入するような仕方では介入しない。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」-----それがキリストの十字架における祈りだった。
二通りのキリスト。壮麗なシスティナ礼拝堂の天井に描かれた、筋骨隆々たる体躯で被造物の上に君臨するミケランジェロのキリスト(『最後の審判』)。ルオーの描いた、貧しく、弱く、暗闇の中で涙を流すキリスト。(ルオーの絵はこのブログの画像。)権力は従順を要求し、痛みと悲しみは愛を求める。私は神がこの世界に、張り裂ける悲しみで涙を流しておられることを信じる。
この世の悲惨は神が作り出したものではなく、また神の意志でもない。この世の悲惨の解決は人間の手に委ねられている。だから人がこの悲惨を取り除かなくてはならない。権力者のようにではなく(どのみち私たちに権力などあるわけもないのだが)、十字架上のキリストの痛みと悲しみをもって----。
先日アウシュヴィッツを訪れたローマ法王の祈り---「神よ、なぜこのようなことをおゆるしになったのですか。もう二度とこのようなことをおゆるしになりませんように」。
神はゆるしたのではない。この世の権力者のようには介入しなかっただけだ。ナチスによるユダヤ人虐殺をゆるしたのは人間であり、カトリック教会だ。(カトリック教会がこのことの総括をしないで、このような祈りをすることはおぞましくすらある。告白し、懺悔することで、教会は権威を失うのではなく浄められ、強められていくと思うのだ。)神はこの世の出来事に権力者のようには介入しないけれど、ユダヤ人迫害とナチスに命を賭してたたかったボンヘッファーの中に、見えない形で神は働いておられた。ボンヘッファーは祈りの中でキリストに会い、たたかう力を得たのだ。そのような出会いを私もしたと思うから、私はキリストを確信している。そのように人間が働き、世に平和を実現することを神はひたすらに望んでおられると確信している。
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