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1.松尾寺の参拝を終って東舞鶴駅に戻ってきました。バスで引揚公園に行こうと思いましたがバスが1時間以上待たないときません。 またまたタクシーで2220円かけてたどり着きました。 東舞鶴駅です。 引揚公園前に到着してすぐに駅に行くバスがあるか確認しました。1日に8本しかバスがありませんが、17:16と17 :48分があるのでこのいずれかで駅に戻ろうと決めました。 空白が多いバスの時刻表です。 2.舞鶴引揚公園入り口と公園の全景です。 1枚目は引揚桟橋を見下ろす展望台です。2枚目は、展望台から左手に広がる桟橋に進む船が通過してきた進入航路です。 3枚目は、右手に見える桟橋があった地区です。現在、煙を上げている工場がある地区に引揚援護局がありました。 4枚目は、引揚船が停泊しランチで引揚者が桟橋に上陸している状況の模型です。(記念館にあります) 公園に建っている「岸壁の母」と「異国の丘」の歌碑です。昭和53年、舞鶴市によって設置されたもので、広く全国で歌われている二つの歌で、極寒のシベリアの地で遙か祖国に想いを走らす望郷の心を表現していますと書かれていました。 3.公園に隣接した舞鶴引揚記念館に入りました。(入場料300円) 昭和20年(1945)第2次世界大戦の終了(敗戦)に伴い、当時海外に残された日本人は660万人以上ともいわれ、これらの方々をすみやかに帰国させなけらばならくなりました。これを、引き揚げといいます。 舞鶴港は、政府が指定した引揚港の一つとして、昭和20年10月7日引き揚げ第一船の入港から昭和33年(1958)9月7日の最終船まで、実に13年間の長きにわたり、その使命を果たしました。 昭和25年以降は唯一の引揚港として「引揚のまち、舞鶴」の名を全国に広めましたL。(記念館のパンフレットによる)」 引揚記念館の外観と内部の状況です(写真撮影可) 4.舞鶴は旧ソ連邦(現ロシア共和国)、中国などの大陸からの引揚者を迎え入れました。13年間に66万4531人の引揚者と1万6269柱の遺骨を受け入れました。 終戦時、大陸に残された日本人およそ57万人がソ連に送られ、その内の訳47万2000人がシベリアの収容所で、長い年月辛い抑留生活を強いられました。 ここでは、当時の辛く悲しい集団収容の様子や抑留生活のすべてについて展示しています。(記念館のパンフレットより) シベリア収容所の建物は丸太小屋のひどいものです。収容された日本人たちは隙間風が通らないように外壁を、また熱が屋根から逃げないように天井を泥で補強するなど知恵を絞ったようです。 6名〜8名のグループに分けられシベリア鉄道の建設に関連する重労働に従事させられました。ノルマを達成出来ないときには食事を減らされなどの罰をうけました。 この状況は6人のグループがパンを分け合っている状況です。上で寝ているのは体調が悪い人で、下よりは少し暖かいので体調を回復させるために良い場所与えています。働き手が少ないとノルマが達成できませんから・・。 収容所の食事は、一日3回の食事のうち2回は雑穀のうすいおかゆが飯ごうに約四分の一程度、あとの1回は、僅か200〜400gの黒パン1個だけでした。 写真の1枚目は、朝食と昼食で雑穀のおむすびです。 2枚目は夕食でカーシャ(薄いスープ?)と雑穀のおむすびです。 1日の摂取カロリーは800キロカロリー程度で、必要なカロリーの三分の一程度のひどさです。 引揚船が到着し引揚者が桟橋に上陸している風景画です。右の建物は引揚者のお世話をする引揚援護局です。 「岸壁の母・岸壁の妻」:引揚船が着くたびに、平桟橋や五条桟橋にたたづみ、遥かシベリアの空を仰ぎ、消息不明の子や夫のかえりを待つ婦人の姿がみられ、誰言うともなく「岸壁の母・岸壁の妻」という言葉がひろまり、その切々たる姿は人々の涙を誘いました。 こうした情景を歌った岸壁の母」のレコードは人々の共感を呼び、全国隅々まで広まりました。(記念館の説明文) 「岸壁の母」のモデルとなった端野いせさん(東京)です。最後まで一人息子は帰ってくると信じて36年間待ち続けましたが、昭和56年7月、81歳で帰らぬ人となりました。 引揚者の一人、故三波春夫さんの書です。きれいな張りのある声で、華がある歌手でしたが苦労をされていたのですね。 *前々回の予告編の時に書きましたが、記念館見学の際にNさんというボランテイアガイドの方(NPO法人「舞鶴引揚・語りの会」事務局長)に、抑留者の体験談を基にした詳細な話を聞くことが出来ました。書物からは得られない多くの裏話も聞きました。Nさん有難うございました。 舞鶴引揚記念館を訪問することがあったらガイドの方からお話を聞くことをお勧めします。 余話になりますが、私が浦和からやってきましたと言ったところ、Nさんの奥様も浦和出身でご実家は我が家とは700mくらいの近距離、しかも卒業した高校が私たち夫婦と同じでした。偶然とはいえ奇遇でした。 *googlなどの検索サイトで「シベリア抑留」とうちこむと色々な記事が出てきて実態や問題点が理解できます。 私は改めて勉強しています。 舞鶴市内のマンホールも引揚船の風景でした。 舞鶴の宿泊は駅から徒歩3分の銀水閣というビジネスホテル(旅館)にしました。インターネットで探したところ、宿泊した人の感想がよく、料金が2食付で6500円と安かったためです。 17室のこじんまりとした旅館ですが、館内は清潔で10畳の和室も明るくきれいでした。若いおかみさんがてきぱき応対してくれ、母親の手造り感のある家庭料理をきれいな庭を見ながら食べました。 部屋の入り口は格子戸で鍵がかかり、一歩入ると唐紙がある和風の部屋でした。この手のビジネスホテル(旅館)も落ち着けていいですね。 今回は長くなってしまいました。次回は天橋立を載せます。また訪ねてください。
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こんにちわ。
すごい模型が細かいところまで作ってあるのですね。戦争の悲惨さは、こうして人々に伝えてもらいたいですね。平和な世界であるために・・・。
2008/9/6(土) 午後 4:36
本当に大変だったんだなぁとつくづく思います。知ってはいましたけど、胸がつまる想いになります。天橋立、楽しみです。
2008/9/7(日) 午前 0:12 [ - ]
静御さん、祖母様もお待ちになった方ですか・・。
戦争は沢山の不幸をもたらしますね。ロシアの侵攻でグルジアでは沢山の犠牲者がでました。大国のエゴはこまります。あらゆる国の戦争、特に侵略戦争は絶対に許せません。
2008/9/7(日) 午前 11:11 [ star☆tk ]
syariさん、舞鶴に行かれたことがあるのですか。
叔父さんを戦争でなくされたとか…戦争の被害に遭われた方は多いですね。
九段方面に行くと靖国神社を参拝して戦争で亡くなった方々の冥福を祈り、感謝しています。
戦没された方々を思うと胸が痛みます。
2008/9/8(月) 午前 10:38 [ star☆tk ]
阿陀無有さん、二葉百合子さんが歌う「岸壁の母」もこの地を訪れてから聞くと一段と哀しさが伝わってきます。二度とこのように悲惨なことが起こらないように祈ります。
2008/9/8(月) 午前 10:41 [ star☆tk ]
oumeさん、お知り合いにも抑留された方がおられるのですか。ご苦労されたのでしょうね。
ポチ有難うございました。
2008/9/8(月) 午前 10:43 [ star☆tk ]
りぼんさん、二度と戦争を起こさないように戦争の被害などについては若い人たちにも知ってもらいたいものですね。
2008/9/8(月) 午前 10:47 [ star☆tk ]
stath6様お邪魔致します。。
豪雨を避けられ。。天橋立御見聞の旅にお出ましで御座いましたか。
何よりで御座いました。。逆さ天橋立良いですね。。。お試しで、羨ましい限りで御座います。。お詳しくブログ下さいましたから。。
初めての私も一人旅楽しめそうで御座います。。幸せ気分で御座いまう。。。ポチポチチ☆!☆!
2008/9/8(月) 午前 10:48
ショートさん、本などである程度はしっていましたが、遺品・模型や写真、そして抑留された方々から聞いた話しを基にしたガイドさんの説明を聞いて旧ソ連の国際法を無視した不法な行為や悲惨な生活が実感として分かりました。
2008/9/8(月) 午前 10:52 [ star☆tk ]
ここには、田舎(徳島)の3年前に亡くなった母と今現在も健在の父と一緒に行きましたが・・亡き母がここで感慨深そうに眺めている姿が思い出されました。
2008/9/8(月) 午後 1:23
★野さん、記事を拝読して、行った気分になり
ました。36年待つ心中は本当にいろいろあっ
たでしょうね。
信じて待つ・・これが本当なのですね。
今日も良き日でありますように。
ポチ!!
2008/9/10(水) 午後 0:13
今晩は、
良い勉強になりました。戦争の無い世界であって欲しいと感じました。
貴重な取材をありがとうございました。ぽち!
2010/3/16(火) 午後 5:43
トラバをさせて下さい。
2010/3/16(火) 午後 5:47
ありがとうございました<m(__)m>
何だか涙がにじみます。
2010/8/22(日) 午後 6:10
昭和20年(1945)8月15日の終戦から、70年ちかくの年月が過ぎようとするなか、戦争を体験された方々が高齢化し、また亡くなられることで、その記憶を語り継ぐことが難しくなってきています。
しかし、戦後生まれの「戦争を知らない」世代であっても、当時のさまざまな事物や写真、そして人々の語りや記録などから、戦争の体験を知ることができるのです。
紀伊田辺も、最前線で戦った人々や、海外で暮らしていた人々が台湾やインドネシアなどから日本へ帰ってくる際、引揚港としてお迎えした、という歴史があります。
当時のことを懐かしんで、遠くからはるばる、田辺を訪れる人々もいらっしゃいます。
そして実際に引き揚げた方々からは、さまざまな思い出の品、それも戦争を物語るような貴重な資料をたくさん紀伊田辺市立歴史民族資料館で預かっています。
皆さんがこの展示をご覧になって、かつての戦争と、引揚港としての紀伊田辺の役割について、いろいろと知っていただければ幸いです。
2014/7/20(日) 午前 9:31 [ 観光立国 地方創生 ]
Kyon2さん、見てくださり有り難うございました。返事が遅くなりました。
2014/8/12(火) 午前 10:13 [ star☆tk ]
RURIさん、コメント有り難うございました。
2014/8/12(火) 午前 10:14 [ star☆tk ]
NOROさん、コメント有り難うございました。
2014/8/12(火) 午前 10:16 [ star☆tk ]
さゆりさん、コメント有り難うございました。
2014/8/12(火) 午前 10:17 [ star☆tk ]
観光立国さん、コメント有り難うございました。
2014/8/12(火) 午前 10:18 [ star☆tk ]