東京訪ね歩き

,その時の話題に合った写真を沢山載せるので目で楽しんで下さい!!

歴史上の人物・事件を訪ねて・銅像

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芝の増上寺には徳川15代将軍のうち6代(2代秀忠・6代家宣・7代家継,9代家重
12代家慶、14代家茂)の将軍の霊廟がありますが、今週(4月2日〜8日)
 一般公開されているので今日、見学してきます。
増上寺は浄土宗の大本山で、江戸時代は、徳川将軍家の菩提寺として栄えた巨刹です。
初代・家康は日光 東照宮、その他の将軍の霊廟は上野寛永時霊園内(国立博物館裏)
にあります。
写真1:三解脱門です。国の重要文化財に指定されています。1620年頃建てられた
ようです。
写真2と3:本堂です。すぐ近くに東京タワーがあります。昭和20年5月の空襲で
三解脱門、黒門などを残して焼失し、本堂は昭和49年、鉄筋コンクリートで再建
されました。
今日、写真に撮る将軍家霊廟については、後日紹介します。

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初期設定のままのレイアウトで読みにくいのに沢山の方々に見て頂き有難うございます。
レイアウトは変えたいと思います。
さて、吉良上野介は、3回屋敷を変えているようです。最初は江戸城外堀の鍛冶橋
(現在の銀座1丁目:有楽町駅に近い)にあり、上野介はここで誕生しているようです。

上野介は東京銀座の生まれなんですね。その屋敷が火事で焼けたので、1キロほど
北の呉服橋(東京駅に近い)に約3000坪の土地を割り当ててもらい屋敷を構えました。

元禄14年3月、浅野内匠頭から刃傷をうけたのち、8月にこの地から本所松坂町
へ屋敷替えになりました。屋敷替えになったのは、赤穂義士の討ち入りを予期した
幕府が江戸城の近くで事件を起こされたは困るという幕府の意図からというのが通説
で(中には赤穂義士が仇討ちをし易いように警備が手薄な郊外に移転させたという
説もありますが・・・)私もそのように思っていました。

昨年12月末に出版された「東京時代マップ・大江戸編(光村推古書院)」によると
上野介は元禄15年3月下旬に責任をとり、高家としてのお役を返上し隠居したので、
江戸城の近くに住む必要がなくなり隠居所として本所松坂町に屋敷替えをしたという
説を採っていますが、そのほうが説得力がありますね。

写真1は、江戸城大手門です。天守閣跡・松之大廊下跡・二の丸庭園などがある皇居
東御苑に入場無料で入れます。(北側の平川門からも入れる)
写真2は、東京駅を丸の内側から撮ったものです。現在の三角の屋根を戦災で被害を
受ける前の丸いドーム型に復元する計画が進められているようです。
写真3・4は本所松阪(現在、両国3丁目)の吉良邸と説明板です。

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昨日掲載した写真を改めて見て、個々の史跡がある現在の環境が分かりにくいという
ことに気がつきました。例えば、浅野内匠頭邸跡は中央区明石町の聖路加国際病院の
敷地内にあると説明してもイメージが湧きません。補足のため何枚かの写真を追加します。
浅野内匠頭は赤穂の殿様なのに東京都中央区明石町で生まれ約1.7キロ西に位置す
る港区新橋4丁目で僅か35才の生涯を終わられたことになにか悲哀を感じさせられま
す。
1.聖路加国際病院遠景
 現在95才の高年齢でありながら当院の理事長・名誉院長としてご活躍中の
日野原重明先生がお勤めの病院です。写真で見る通り大きな病院です。隅田川方向
から病院を撮ったので、浅野内匠頭邸跡は向こう側で病院の近くにあります。
2.浅野内匠頭終焉之地の全景 歩道上にあり後方にお弁当屋が見えて、車の音が
うるさく終焉之地の雰囲気がないのが気の毒な気がします。
3.歩道側から見た標柱です。車道に出て見ないと何物なのか理解困難です。
4.江戸城天守閣跡の説明板 お読みいただけば説明不要と思います。
追記:写真は100Kb以下に圧縮するようにしていますが、地図などは過度に圧縮
すると文字が判読できないため200KB程度に抑えています。開くのに少し時間が
かかるようですがお許し下さい以上

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初投稿です。史跡や名所巡りが好きでデジカメと地図・古地図を携えてあちこち
歩き回っています。
今回は最初ですから日本人なら誰でも知っている忠臣蔵の史跡を写真で紹介します。

元禄14年(1701)3月14日、午前10時頃、浅野内匠頭が松の廊下において
吉良上野介に斬りつけた。その日の夕刻、浅野内匠頭(35才)は田村右京太夫邸にて切腹。

元禄15年(1702)12月15日、早朝4時頃、赤穂浪士は吉良邸に討ち入り2時間余
りの激戦ののち6時頃、吉良上野介を討ち取り、8時頃泉岳寺に到着し首級を主君・
浅野内匠守の墓前に供え仇討ちの完遂を報告した。

4家に預けられた46人は元禄16年(1703)2月4日幕命により切腹した。
この経過に従って写真で紹介します。

1.史跡の所在地の地図です。関係位置と縮尺を参照し概略の距離をご確認下さい。

2及び3.浅野内匠守邸跡とその説明板です。この地に8900坪の屋敷がありました。
内匠守はこの地で生誕しました。現在は聖路加国際病院の敷地です。

4.江戸城天守閣跡で皇居東御苑にあります。最近、観光と木造建築技術を後世に伝える
ことを目的に五層の木造の天守閣を再建する話が一部に出ていますがどうなりますか。

5.天守閣跡の近傍に、松の大廊下跡の石碑が建っています。皇居東御苑は立ち入る
ことが出来ます。日本庭園などもあり四季の散策に適しています。

6.浅野内匠守終焉の地。奥州一関藩・田村右京太夫の上屋敷跡でこの地で切腹をしました。
新橋4丁目の交差点の傍にありますが、石柱の表が車道側を向いているので気がつかないで
通り過ぎてしまう怖れがあります。写真を撮るときは車に注意!

7.浅野土佐守下屋敷跡。浅野内匠守の奥方・阿久利ノ方は長矩の切腹後、実家である
三次浅野家に戻り仏門に入りこの屋敷に住んでいました。
屋敷跡は六本木2丁目の赤坂氷川神社の境内にあり、その地だけは銀杏の大木などがあり
昔の姿を留めていますが、すぐ東南側はアメリカ大使館宿舎で周囲は近代的なビルが林立
しています。なお、赤坂9丁目は旧防衛庁があった地区で現在再開発中うで巨大な
クレーンが高層ビルの屋上に活動しています。

8.JR両国駅の南250メートル程のところに松坂町公園という小公園の姿で保存され
ています。園内には首洗い井戸や稲荷社があります。かっての吉良邸は8400平方メートル
を占める敷地だったので、現在はその1,1%の29坪だけ保存されている訳です。

*次回は討ち入り、赤穂義士を預かり、最終的には切腹の場所となった大名屋敷、泉岳寺
などについての写真を紹介します。
初回のため記事の間の写真を配置し読み易いようにするつもりでしたが、うまくいきませんでした。
写真だけは色々撮りためてありますから、史跡に限らず色々紹介したいと思います。以上

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