東京訪ね歩き

,その時の話題に合った写真を沢山載せるので目で楽しんで下さい!!

歴史上の人物・事件を訪ねて・銅像

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

 前回、西郷隆盛と勝海舟の銅像を紹介しましたが、この両者についての歴史上
の一コマというと「江戸城無血開城についての両雄の会見」を思い出す人が多い
事でしょう。

今から138年前の慶応4年3月、官軍(政府軍)の江戸城総攻撃(15日)の
3日前に、江戸100万市民を悲惨な火から守るために、勝海舟が西郷隆盛
と会見し、戦をやめて江戸城を官軍に引き渡すことを取り決めました。

官軍は、決して退却しない覚悟で、自軍の進んだ後の市街に火を放ちながら
江戸城めがけて突進する計画で、勝海舟はこちらの申し出が受け入れられない
時には、官軍の進路の市街地を燃やして妨害する焦土作戦を準備してこの会談
に臨みました。(避難民を救う舟の準備もしていた)

その会見場所は、実際には1ヶ所と思いますが、おかしなことに数箇所、史跡が
残されています。(会見が複数回、場所を変えて行われたのなら理解できますが…)

勝海舟の日記には「高輪薩摩の藩邸(下屋敷)」と書いてあり、勝海舟の「氷川
清話」には「芝 田町の薩摩蔵屋敷」と書いてあるようです。
以下、史跡として残されている場所を写真とともに紹介します。

(1)JR田町駅近傍(薩摩蔵屋敷跡):写真(1)会見場所全景(2)会見の碑
 現地の説明版には、「この蔵屋敷の裏はすぐ海に面した砂浜で、当時は薩摩藩
 国許より送られてくる米などは、ここで陸揚げされた」と書かれていますが、
 埋め立てられて現在海まで約1kmあります。
 

(2)港区にある愛宕山 :写真(1)愛宕山全景(2)愛宕神社(3)愛宕山
                  から見下ろす
 愛宕山は、「忠臣蔵の史跡を訪ねる:3月28日掲載」で浅野内匠頭が切腹
 した場所から 西約300mの地点にある海抜26mの山です。
 山頂にある愛宕神社の説明板には「勝海舟が西郷隆盛を誘い山頂で江戸市中を
 見回しながら、江戸城無血開城へ導きました」と書いてあります。

(3)大田区にある池上本門寺の庭園「松涛園」:写真「松涛園」 
  この庭園で会見が行われたとパンフレットや人文社刊の「郷土資料辞典」
 、東京案内の他の本にも書いてあり、都の史跡に指定されているようです、
  (「郷土資料辞典」にはJR田町(薩摩蔵屋敷」も載っている)
  庭園内に「西郷・勝両雄会見之処」碑が建っているとの事です。
  立ち入り禁止なので窓越しに写真を撮りました。(年に一度は公開される
  ようです)

’(4)その他
    海舟の日記にある「高輪薩摩の下屋敷」の他、上記「郷土資料辞典」には
    「四国町の上屋敷」の名前もあげられています。
    後者については江戸切絵図で探していますが分かりません。ご存知の方は
    コメントで教えて下さい。

開く トラックバック(1)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

東京都内にある銅像のうち特に知られているのは、皇居外苑にある楠木正成、
上野公園にある西郷隆盛、それに靖国神社にある大村益次郎の銅像で、東京
3銅像と言われているようです。

西郷隆盛・大村益次郎は尊敬する人物ですが、ともに討幕軍(薩摩・長州を
主体とする官軍)の指揮官で、それに対する幕府側にも勝海舟のような
優秀な人材がいたのに江戸城があつた当地に東京3銅像匹敵する銅像がない
のは淋しいものだと思っていました。

ところが、今から3年ほど前(平成15年7月)に、墨田区役所(浅草の対岸)
に隣接した墨田川を見下ろす台地に、勝海舟の銅像が「勝海舟の銅像を建てる会」
により建てられました。

新聞報道を見てすぐに訪問し、その後も浅草方面に出かける時には、立ち寄り
雄姿を見上げ感慨にふけっています。
その地に建てられた「建立の記」には次のように記されています。

「勝海舟は文政元年(1823)1月30日に江戸本所亀次町(両国4丁目)で、
父小吉の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899)1月23日、赤坂の
氷川邸で逝去された。
勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し卓越した見識
と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。

西郷との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から
救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
以下、省略」

徳川幕府や藩などという狭い枠から出て、世界の中の日本という視点で近代国家
の育成に尽力し、初対面で坂本竜馬も師と仰いだ程の見識がある海舟が今の
世にいたら、恥を知らずに金儲けばかりを追い求める現在の乱れた世相に対し
て何と言うことでしょう。

写真1〜3 海舟の右手は東京湾を経て太平洋を指差しているように思えます。
      次に訪問したら磁石で測って見ましょう。
写真4・5 上野公園の入り口に立つ、筒袖に兵児帯姿、わらじばき、
      子犬を連れた西郷さんの姿は、今でも広く親しまれています。
写真6・7 大村益次郎のこの像は、上野彰義隊との戦の際、江戸城本丸
      で指揮をとる姿といわれている。破れた彰義隊の墓は、西郷
      さんの銅像のすぐ後ろにあります。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

今からおよそ200年前、伊能忠敬が17年かかって約4万キロ・地球一周と
同じ距離を踏破して、全国の海岸線を測量して作り上げた地図は、現代の地図
と重ねてもほぼピッタリ一致する正確なものです。

使用した道具は、羅針盤を杖の先に取り付けた杖先羅針と、歩数から距離を割り出
す「歩測」、縄や鎖程度だったようです。

NHK取材班編の「堂々日本史18巻:(KTC中央出版)」という本がありますが、
伊能忠敬について約40ページを割いて興味深いことが書いてあります。
以下、その本に書かれている要点を抜粋します。

(1)忠敬の夢は、地球の大きさを計測することだった。そのためまず、江戸から
  蝦夷までを測定して地球の緯度1度の長さを計算しようとした。

(2)1800年、忠敬は幕府の許可を得て5人の隊員とともに初めて蝦夷地測量
  の旅に出発し、その後も東北や北陸の海岸線の調査を行ったが、いずれも私財
  を投じての個人的な調査だった。

(3)1804年、これまでの測量結果を元に作られた地図を、11代将軍家斉に
  披露した。これを契機に忠敬は幕府の役人に取り立てられ、忠敬の測量は幕府
  直轄の国家事業となった。各藩には測量に協力するよう幕府から命令が出され
、「御用」の旗を掲げて全国自由に立ち入り測量を実施した。

(4)幕府の狙いは、地図作成だけではなく、この国家プロジエクトを通じて直接、
  全国各地の情報を集め、全国支配の建て直しを図ることにあった。
  56才から測量を開始し、17年間にわたる測量がすべて終わったのは文化13年
  (1816年)忠敬72才の時でした。その2年後に忠敬は74才で亡くなり
  ました。

死の間際まで、地図の完成に精力を傾けていたと伝えられています。
蝦夷北部の測量結果も含めた日本地図の完成は忠敬の死から3年後のことでした。
以上で、「伊能忠敬の史跡の紹介」は終りといたします。

写真1と2:伊能忠敬測地遺功表及び説明板
     港区芝公園内の丸山古墳の頂上にあります。忠敬の測地測量の功を讃え、
     明治22年東京地学協会が建立したもの。戦災で失われたが昭和40年
     に再建された。
写真3〜5:伊能忠敬像  佐原市の諏訪公園の近傍にあり、1918年(大正元年)
    に建てられたものです。杖羅針を携え測量中の姿。地元の英雄を誇りに
    した大きな銅像です。
写真6:伊能忠敬の墓地入り口 JR上野駅から東約600mの源空寺(東上野6丁目)
    にあります。「高橋至時先生の傍に葬って欲しい」という忠敬の遺言により
    師の脇に葬られている。
写真7:伊能忠敬の墓  「伊能先生之墓」となっている。師の墓が「君」と刻まれて
   いるのに、弟子の忠敬の方が先生になっているのは日本地図を作成した実績の為か。
写真8:高橋至時(よしとき)の墓  「高橋君之墓」となっている。1804年に
   41才で亡くなっている。

  

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

江戸の大相撲は、寛永元年(1624)初代横綱・明石志賀之助が、四谷の笹寺境内
で6日間の勧進相撲を興行したのが始まりですが、貞享元年(1684)からは、
毎年晴天の日8日間、富岡八幡宮で開かれ、寛3年(1791)両国の回向院
(4月7日、忠臣蔵その2で紹介した)に移るまで続いた。

富岡八幡宮境内の本殿奥に、明治28年、第12代横綱・陣幕久五郎が世話人となって
建立した重さ約22トンの巨岩の「横綱の碑」があります。
初代横綱から歴代横綱の名が刻まれています。
また、大鳥居を入ってす右側には「大関力士碑」が建っています。

写真1:横綱力士碑
写真2と3:横綱」力士碑の裏面で歴代横綱の名前が刻まれている。
写真4:大関力士碑:
写真5:八幡橋(旧弾正橋)都内最古の鉄橋。明治11年に工部省赤羽製作所
  で製造された。国の重要文化財。富岡八幡宮の境内の東側にある。
   

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

4月上旬以来、都内各所を訪ね歩くたびに偶然、伊能忠敬の銅像・顕彰碑・墓所など
に出会い、また2年前に忠敬が30年余過ごした佐原を訪問して写真を沢山撮って
あるので、伊能忠敬の史跡の写真をブログで紹介してみる気なりました。

しかし忠敬については、誰でも知っている程度の知識きりありませんから、手元の本
や新聞記事などを参考に、写真の紹介に必要な最小限度のことだけ書いています。

これではいけないと思い、津本陽氏の「おおわらんじの男」という伊能忠敬に
ついての小説(これは全くの勘違いでした!)がある事は知っていたので、インターネッ
トで図書館に予約を入れたところ「貸し出し準備ができました」という連絡が入りま
した。  便利な時代になったものです。
 (*これを書いてから約2時間後に古本屋に行ったところ「おおわらんの男」
   が売っていて、副題に八代将軍・徳川吉宗とありました。全くの私の思い違い
   でした。今さら図書館に断るのも悪いので読むことにします。
   徳川吉宗についてブログに載せようと思っているネタもありますし・・・)

さて、今回は50才になった忠敬が佐原から江戸に出てきて住居を構えた江東区
門前仲町附近の史跡について紹介します。

写真1:富岡八幡宮付近の図  図の左上の赤⇒の先の所(門前仲町1丁目14)
    に居を構えました。 図の右端に富岡八幡宮があります、

写真2:伊能忠敬住居跡  ガードレールの傍で車道側に向いているので見逃しそう。
     忠敬はここから徒歩で、現在のJR浅草橋の近くにあった「浅草天文台」    
     に毎日通い、幕府天文役 高橋至時(当時31才)から天文・暦学を
     学びました。(住居から天文台まで概算7〜8km。毎日歩いて往復は大変
     でしたね)
     *この写真は「旅行読売:大江戸を歩く・2001年」から借用。

写真3〜4:富岡八幡宮大鳥居と社殿
     社殿によると天平宝字年間757〜65)右大臣 藤原豊成の創建。
     江戸の繁栄とともに社運は盛んとなり、深川の木場を中心に信仰を集めた。 

     神社の本祭りは、江戸時代から浅草三社祭・神田明神の神田祭・日枝神社
     の山王祭と並び称される江戸の大祭として良く知られ、水をかけながら
     練り歩くので「水かけ祭り」の名もある。

 写真5〜7:伊能忠敬銅像と説明板 大鳥居を入ってすぐの左側にあります。
     忠敬は、測量の旅に出発するつど弟子や従者を連れて参拝し、無事成功
     を祈ったようです。
     像は、先日紹介した佐原の「伊能忠敬記念」にあった小型の像と同じ
     形なので、あの像を基にして平成13年に建てられたものと思われます。
*次回は、富岡八幡宮の境内にある「横綱力士碑」「大関力士碑」「八幡橋」などに
  ついて紹介する予定です。(17日までには載せます)

開く トラックバック(1)


.
star☆tk
star☆tk
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(5)
  • 弥勒如来宝船aya*_*214
  • 気ままな散歩・散策
  • きよちゃん
  • 若紫
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

標準グループ

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事