東京訪ね歩き

,その時の話題に合った写真を沢山載せるので目で楽しんで下さい!!

歴史上の人物・事件を訪ねて・銅像

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伊能忠敬の銅像の写真ばかりでは飽きてしまうと思われますので、今回は彼が30年
余り住んだ佐原の風景を紹介します。
アヤメが咲く時期には水郷佐原がTVで紹介されることが多く、私も平成16年6月
に訪問しましたが、古い歴史と日本的な情緒が残る水が豊富な爽やかな場所で好きな
町の一つになりました。

佐原市は千葉県の北端、利根川べりにあり、近世、利根川舟運の河港として開けたところ。
水郷情緒にあふれた静かな街で、香取神社や伊能忠敬旧宅、加藤洲十二橋、水生植物園
といった見所があり、水ぎわの真菰にまじってアヤメが咲く初夏の風情は、水郷佐原なら
ではのものです。(人文社「郷土資料事典」から)

ここかしこに江戸時代の町屋の形式を伝える古い家並みが残っていて「小江戸」と呼ば
れています。(埼玉県の川越も小江戸と呼ばれています。)

次回は東京江東区の門前仲町付近の史跡を紹介します。

写真1:  佐原市内の景観
写真2と3:佐原市内の小野川沿いの景観
写真4〜6:佐原の水生植物園の景観  園内を巡る水路を娘船頭がこぐ小舟に乗り舟上
      から見物できます。
写真7〜9:香取神社  今から2200年前の神武天皇8年の開基と伝えられている。
古来、武神として皇室・諸武将(頼朝・足利尊氏・徳川歴代」将軍等)の尊信を集めてきた。

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50才から天文学・暦学を学び、55才から17年かけて全国の海岸線を測量
して精密な日本地図を作り上げた伊能忠敬のパワーに驚嘆しています。

最近、都内を散策して芝公園の丸山古墳の頂上にある「伊能忠敬測地遺功表」石碑
と出会い、別の日に富岡八幡宮の鳥居の傍に「伊能忠敬の像」が建てられてい
るのを見て、更に3日前には東上野6丁目にある彼の墓(源空寺)を参拝してきました。

平成16年6月には彼が30年余り過ごした家(千葉県佐原市/国の史跡)を見学し
ているのでそれらの写真を紹介しようと思ったわけです。

伊能忠敬は、1745年現在の千葉県九十九里町の名主の三男として生まれましたが、
17才のとき、佐原の豪商・伊能家(酒造)に婿入りしました。
たちまち商才を発揮して身代を増やし、若くして名主を務めました。大飢饉の際には、
多くの村民を飢えから救い名字帯刀を許されました。
 この間、算術・測量・天文学などを研究し、50才で長男に家督を譲って隠居の身
となり、30年余り過ごした佐原を離れて江戸に出て、現在の東京都江東区門前仲町
に居を構えました。

幕府の天文方・高橋至時に入門し「天文・暦学」を学び、55才の時から、幕府の命
により何回も測量旅行に赴き、17年もかかって全国の海岸線を測量して精密な
地図を作りはじめました。(読売新聞日曜版の記事等を参考にした)

彼は、測量旅行の旅ごとに、その地方の地図をつくり最後にその総まとめとして日本
全図を作り始めわけです。

1818年、伊能忠敬は江戸八丁堀で73才で亡くなりましたが、日本全図は友人や
弟子たちの協力によって、その3年後に完成しました。
日本の国土の正確な形は、伊能忠敬によってはじめて明らかにされ、この「伊能図」は
、つい最近までわが国の地図作成の基準となっていたほで正確なものです。

写真1と2:伊能忠敬が婿入りし30年余住んでいた旧宅で、国の史跡に指定されていま
      す。
写真3:  上記旧宅の庭に建てられている像です。
写真4:  旧宅は佐原の中心街を流れる小野川沿いにあります。佐原の歴史は古く、
 東部には鹿島神宮(茨城県)とならぶわが国有数の古社とされるか香取神宮があり、
 北部の利根川流域一帯は、水郷筑波国定公園の指定地域で、水郷巡りの表玄関に
 なっています。

写真5:  伊能忠敬記念館にある像。
写真6:  伊能忠敬記念館 この記念館は伊能忠敬の業績が一目で分かるように
      資料が豊富かつ整理されていて大変勉強になります。 

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建久3年(1192)、源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開いてから、1333年
新田義貞、足利尊氏が兵を挙げ鎌倉幕府が滅びるまでの約140年間、日本の政治は
鎌倉を中心におこなわれました。
鎌倉の文化は質実剛健をむねとする武家文化といわれ、多くの重要文化財や史跡が残
されていて、自宅から電車で1時間半と近いこともあり年に1〜3回は訪れています。
頼朝公の墓は何回も訪れましたが、花も線香も供えられていない事が多いのに、先日
訪ねたときには花が沢山供えられていたので気分良く参拝できました。

写真1と2:源頼朝公の像は、鎌倉の源氏山公園に高さ約2メートルの座像があり、
      鎌倉市街を見下ろしています。

写真3と4:源頼朝の墓は、大倉山の南麓、50数段石段を登ったところにあり、鎌倉
      幕府が所在した大蔵幕府跡を見下ろしている。
      墓は約2メートルの多層塔、頼朝は1999年に53歳で世を去り、この
      地に葬られた。
      1789年に薩摩藩主 島津重豪(ある本では頼朝の子孫と記載されています)
      が、      頼朝墳墓堂跡にあった高さ90cmほどの五輪の塔を現在の
      塔に換えたと言われている。

写真5と6:寿福寺の境内の山腹の横穴(やぐら)に、政子の墓といわれる五輪の塔が
      ある。この寺は、頼朝の妻政子が夫の菩提を弔うために京都から栄西をよんで
      建立した。この寺地は平治の乱(1202)で戦死した、頼朝の父、義朝
      の館跡である。
      隣の横穴に3代将軍 実朝の墓といわれる五輪の塔がある。

*頼朝公の墓と奥方政子さんの墓は、直線距離で約1,5キロ離れています。
     先日、東京都港区・芝増上寺の徳川将軍家墓地を参拝したときには、将軍と
     奥方が同じ墓に葬られていることが多いのを見ているので、どうしてかな?
     という疑問がわきました。政子さんの意思なのか、北条家の方針なのか、
     そ意外の理由があるのか調べてみようという気になりました。
     (最近、新聞の身の上相談などで、夫と同じ墓に入りたくないという女性の
      投稿を時々目にしますし・・・。)

写真7:  鶴岡八幡宮は、源頼朝が現材木座付近にあった由井若宮を移して、鶴岡若宮
      と称し源氏の守り神としたのが始まり。
      写真左の大銀杏は、実朝が2代将軍頼家の遺児公卿にこの木の陰から切り
      つけられて暗殺された場所。


 

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浅野長矩(ながのり)及び赤穂義士の墓は、国の史跡に指定されています。
重層八脚門の山門が天保年間(1830〜43)の再建で古いものですが、
その他は戦災で焼け再建されたものです。

境内には上野介の首を洗ったという首洗いの井戸(紹介済み)、義士の遺品・
古文書を展示する義士館、入り口に大石内蔵助の銅像(紹介済み)があります。

赤穂義士の人気は今でも高く、墓前に線香の煙るが絶えることはありません。
いまから紹介する写真を撮った時は、平日の午後4時過ぎで、4時以降は線香を
上げるのは禁止されているので少し淋しく見えます。

以下、「郷土資料事典:東京都  人文社刊」から引用します。
長矩の墓(紹介済み)は、高さ2メートル余り、一本石の墓石で、大名の墓
らしからぬ質素なものである。その隣に、夫人の瑤泉院の墓がある。

赤穂義士の墓は大石良雄・主税父子の墓を軸に、玉石垣に囲まれている。
討ち入り後、本家の浅野家に報告のため、広島へ行ったため、切腹をせず
85歳の天寿を全うした寺坂吉右衛門の「節厳了信士」を除き、義士の
戒名の字はすべて「刃」となっている。

四十七士というが、墓石は48ある。一個余分の墓は、「刃道喜剣信士」
と刻まれている。
村上喜剣の墓というが、喜剣は伝説上の人物。討ち入り前に切腹した、
萱野三平の供養墓といわれる。

*萱野三平は、父の仕官の勧めを断ることができずに、忠義と孝行の間で
進退がきわまり、悲壮な遺言状を残して元禄15年1月14日に割腹自殺
を遂げた。

私は通常、地下鉄・都営 浅草線「泉岳寺駅」で下車して参拝していますが、
先日は泉岳寺から西の方角、熊本・細川藩の下屋敷に建てられた「加藤清正公」
を祀る「覚林寺(清正公)」を参拝したあと訪れたので、泉岳寺の南地区の
坂が多い高級マンション地区に迷い込み、午後4時過ぎに参拝することになった
次第です。この時間では義士館も閉館しています。

写真1:浅野内匠頭・赤穂義士墓地入り口の門

写真2:泉岳寺墓所案内図
 赤穂義士の墓は、細川家お預かり17名(大石内蔵助以下)のグループ、
 毛利家お預かり10名のグループ、松平家お預かりの10名のグループ
(萱野官幣三平含む)及び水野家お預かりの9名のグループに区分し配列
 されています。

写真3:浅野内匠頭の墓
写真4:浅野内匠頭夫人の墓
写真5:大石内蔵助の墓
写真6:大石主税の墓
写真7:細川家お預かりの義士の墓、奥に大石内蔵助の墓
写真8:手前は毛利、後方は松平家お預かりの義士の墓
写真9:水野家お預かりの義士の墓

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熊本藩細川屋敷には大石内蔵助をはじめ小野寺十内、間瀬久太夫等、17名、
伊予松山藩松平家(久松屋敷)には大石主税・大高源吾・堀部安兵衛・不破
数右衛門ら10名、吉田沢右衛門ら10名は毛利屋敷に、また神崎与五郎
ら9名は岡崎藩水野屋敷に預けられ沙汰を待っていた。

当初、世論は勿論、将軍綱吉も忠義の行動として赤穂浪士の行動を是認する
方向だったようですが、1ヶ月半もの時間をかけて慎重に検討した結果
「徒党の禁止という幕府の定めを犯した暴徒であり助命などは不適切、
忠義の心情を考慮して士の礼をもって切腹」という裁定が下り、元禄16年
(1703)2月4日に切腹と決まり、当日の4時ころから始まり1時間位で
全員、切腹して果てたということです。

一方、吉良佐兵衛義周は領地没収の上信濃高島にお預けという裁定になった。

写真1:旧細川邸の敷地にある大石良雄以下17名、切腹の地入り口の門
現在は高松中学校の敷地の一部になっていて、保存のため塀と門が設置されて
いて通常は入れない。
写真2:同上の説明板

写真3:写真1の門のすき間から3枚の写真を撮りパノラマにした写真です。
前回紹介した「細川邸のシイの木」はここから西約100メートル地点にあ
ります。

写真:4 旧伊予松山藩・松平壱岐守の中屋敷跡は現在、イタリア大使館
になっていて立ち入れません。写真は、イタリア大使館のHPの画像を
デジカメで撮ったのでボケています。「在日イタリア大使館」で検索すると
HPが出て、忠臣蔵の史跡の説明と写真が紹介されています。
切腹で血に染まった土地を掘って池を作り、余った土で築山を築いたようです。

写真5: 毛利屋敷付近は前回紹介した日本庭園があるだけです。
六本木ヒルズの写真を載せました。あまりの変貌ぶりにこの地で最後を迎えた
赤穂義士の方々もビックリされることでしょう。


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