東京訪ね歩き

,その時の話題に合った写真を沢山載せるので目で楽しんで下さい!!

歴史上の人物・事件を訪ねて・銅像

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

元禄15年12月15日の夜、3人の目付けが泉岳寺に来て、全員、仙石伯耆守の屋敷に
来るように指示された。
寺坂吉右衛門は、内蔵助の命を受け、広島にいる故・浅野内匠介の実弟の浅野大学に顛末
を報告するために出発していたため、46名の義士達は一旦、仙石伯耆守の屋敷に移動し
たのち、細川越中守の屋敷に17名、毛利甲斐守の屋敷に10人、久松隠岐守の屋敷に10人、
水野監物の屋敷に9人がそれぞれ預けられた。
1名少なくなっていたのに、深く追求されなかったのは仙石伯耆守の温情という説がある。
この後、裁定が決まるまで、約50日間を、それぞれの屋敷で過ごす事になる。
各大名家、特に細川家では内蔵助以下17名を武士の鑑として非常に丁重にもてなしたよう
です。
写真1:赤穂義士が預けられた4大名家の位置(切腹場所)
写真2・3:旧細川邸のシイ及び説明板
泉岳寺に隣接する西側地域一帯が細川家の下屋敷跡で、最近までこの地区に高松宮邸があり
ました。このシイは細川邸内にあったもので東京都指定天然記念物です。
写真4・5:毛利藩上屋敷跡及び説明板
最近、ライブドアで特に有名になった「「六本木ヒルズ」ビルの傍にある日本庭園で、旧
毛利藩の庭園でした。説明板をお読み下さい。
写真6:松平隠岐守の中屋敷跡は現在イタリア大使館で、立ち入り禁止です。次回、大使館
のホームページを紹介します。
写真7.8:水野監物邸跡及び説明板
慶応大学にほど近い、三田2丁目の商店街の細い路地の奥に、説明板が立っているだけで、
当時を偲ぶ物は何もありませんでした。石灯籠が残っていると本に書いてありましたが、
気が付きませんでした。
次回は切腹の場所等の史跡の写真を紹介します。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

両国の回向院は赤穂義士が休憩を申し入れたが断られた寺院ですが、そこに鼠小僧の
供養墓があります。その写真などを紹介します。

写真1〜2:=鼠小僧次郎吉の墓:明治9年、歌舞伎役者市川団舛が狂言大当たりのお礼に
建てた供養墓。鼠小僧は天保2年(1831)に処刑された大名屋敷専門の盗賊。
盗んだ金を貧民に与えたので義賊として庶民の人気を集め、講談・歌舞伎にも取り上げ
られた。写真2の手前の白い墓石が削っても良いもの。

*清水次郎長や大前田英五郎などの博徒の親分の墓石を、賭け事に勝つ為に削って持ち
帰る気持ちは少しは理解できますすが、盗賊の墓石を欠いて持ち帰るのは泥棒の成果を
上げるためなのでしょうか?(素朴な疑問)

写真3〜4:回向院の説明及び付近の案内図
案内図に「赤穂義士義挙の跡碑」がありますが、そこには気がつかずに立ち寄って
いません。この付近は時々散策するので、次回は写真を撮りましょう。
この付近の路上には力士の像が沢山あるので、そちらを撮るのに熱中してしまいました。

写真5:伝奏屋敷跡。朝廷が派遣した勅使や印使の江戸滞在中の宿舎で、勅使御馳走役
を命じられた浅野内匠頭も吉良上野介の指導の下、元禄14年(1701)3月10日から
この屋敷に泊まり接待にあたっていた。
写真は和田蔵門(東京駅から約500メートル西)から東北約150メートルの東京銀行
協会(赤レンガ)を撮ったもの。その付近に伝奏屋敷はあった模様。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

無事、本懐を遂げた赤穂義士は、吉良邸西隣りの両国・回向院に休憩場所の提供を
申し入れたが、関わりあいを恐れた住職は寺の門を開けなかった。
やむをえず、休憩は勿論、衣服を整えることも出来ず、血まみれの姿で泉岳寺まで
移動することに決めた。

両国橋を渡って江戸の市街地に入ることをさけて、隅田川の左岸を泉岳寺に向かった。
万年橋を過ぎ約1キロ先の永代橋のたもとで、大高源吾の知人から甘酒の提供を受け
しばし休憩。永代橋を渡り、浅野家の上屋敷があった鉄砲州(明石町)付近を通過し、
築地本願寺前を通り汐留橋、金杉橋を経て10時前後(全くの推定?、ある書物では
9時頃になつています。)に泉岳寺に到着した。

負傷者とともに堀部弥兵衛(76歳)・間喜兵衛(68歳)・間瀬久太夫(66歳)
等の高齢者、大石主税(15歳)・矢頭右衛門七(17歳)など若年者もいて、
更に吉良上野介と姻戚関係にある上杉家の追跡を警戒しながらのこの移動は大変なも
のだったろうと改めて痛感しています。

写真1:両国回向院 現在も同じ場所にあります。この寺は明暦3年(1657)正月
の明暦の大火の焼死者10万8000人余の菩提を弔うために建立された。墓地に義賊
「ねずみ小僧」の墓があり、賭け事に勝つために墓石を欠いて持ち帰る者はいるために、
そばに「削って持ち帰り可」の別の墓石が設置されてあるのが面白い。(後日写真を載
せます)

写真2:万年橋  徳川家康の命を受けて開削された運河、小名木川に架かる橋。
赤穂義士は泉岳寺に引き上げるときに通った。この橋から富士山の眺望が素晴らしかっ
たので、広重の「名勝江戸百景」や北斎の「富嶽三十六景」に描かれている。

写真3:「赤穂義士休息の地碑」  永代橋のたもとにあり、大高源吾の知人が、
ここで赤穂義士に甘酒をふるまった。先日、永代橋のたもとの交番で中年の巡査に
場所を聞いたら親切に教えてくれて、この付近の史跡の手作りの地図をくれた。
永代橋左岸の橋から80メートル北のビルの前にあった。
写真4:前項の「碑」がある場所です。白い車の左側にある小さい碑がそれです。
    巡査に聞かなければ気がつかないで通り過ぎたかもしれません。

写真5:永代橋 赤穂義士一行はこの橋を渡ったといわれている。
現在の橋は、橋中央が力強く突起した男性的デザインのアーチ橋。185メートル。
大正15年竣工。

写真6:築地本願寺 赤穂義士はこの寺の前を通った。元和年間(1625〜23)
浅草浜町に建立、明暦の大火で類焼、この地に移転。現在の建物は、関東大地震
後、昭和10年に再建されたもの。赤穂義士 間新六の供養墓がある。

写真7:泉岳寺山門 赤穂義士達が到着した時には、噂を聞いて大勢の人達が集まって
いたようです。丁度、桜が咲いているときに撮りました。この右手に大石良雄
の銅像があります。

写真8:首洗いの井戸(泉岳寺)  泉岳寺で吉良上野介の首級を浅野内匠頭の墓前
に供える前に洗ったのでしょうか。泉岳寺境内に残されています。

写真9:浅野内匠頭之墓  大石良雄らは線香をたいて墓前に吉良上野介の首級を
供え主君に本懐を遂げたむね報告した。義士達は順次焼香した。
その後、寺から支給された粥と少量の酒を頂き、上杉からの追手がくる気配もないので
しばしの間、仮眠したようです。

*いままで字が小さくて読みにくいとのご指摘を頂いて、文字のサイズを「中」から「大」に
修正したつもりですが、あまり変わっていませんね。メニューバーの表示→文字のサイズ
→「大」を選択したのですが・・・。
写真は全て、私がデジカメで撮ったものです。他から借用した場合には注記します。
次回は「忠臣蔵の史跡を訪ねて(その3)」赤穂義士、4大名家へのお預け、切腹まで
です。写真はすでに撮ってありますから、近日中に載せます。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

元禄15年(1702)12月15日明け方4時頃、吉良邸に討ち入りした大石良雄
以下47名の赤穂義士は、6時頃吉良上野介の首を挙げ本懐を遂げた。
寝込みを襲われた吉良方は死者17名(或いは20名)、負傷者約28名に対して、
完全武装の義士は軽い負傷者が出た程度だった。

引き上げの際、吉良家の西隣にある回向院に休息のため境内を借りたいと申し出たが
門を開けてもらえずに、そのまま泉岳寺に向かうことになった。

万年橋を過ぎ隅田川に架かる永代橋を渡り、この橋のたもとで吉田・富森の2名
が大目付・仙石伯耆守に事態を報告するために派遣され、総勢45名となり僅か
1年9ケ月前までは浅野の藩邸があった場所の近くを通り、東海道を金杉橋、芝を経て
泉岳寺にたどり着いた。(吉良邸から泉岳寺までは地図上で約14キロあるので、
負傷者や高齢者もいる義士達の引き揚げは大変だったと思われる。何台かの駕篭(かご)
を雇ったと書いてある本もありますが…)

寺坂吉右衛門は泉岳寺に入る前に(回向院前でという説もある)大石内蔵助の命を受け
浅野大学に状況を報告するため旅立った。(寺坂については吉良邸の裏口を出た時に
逃亡との説もありますが…)

内蔵助以下、浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首級供え、仇討ち成就を報告した。
泉岳寺の住職から粥と酒のもてなしを受けた義士達は、しばらくの間、寺の部屋で
休息したようです。

写真1:赤穂義士引き上げ経路図 吉良邸から泉岳寺までの大まかな経路図です。
に写真の概略の場所を理解して頂くために記入したもので正確とはいえません。

写真2:泉岳寺山門前にある大石良雄像です。連判状を手にしています。

写真3:赤穂義士連判状。吉良邸跡に掲示されているものです。

写真4:吉良家臣20士の碑 吉良邸跡に祭られています。これには20士
    と書いてあるので、20名戦死したということでしょうか。

写真5:首洗い井戸 吉良邸跡に残されています。吉良上野介の首級を洗った
    と云われています。

写真6:吉良上野介追慕の碑 吉良邸跡に冥福を祈り設けられています。

写真7:吉良邸跡 広大な敷地は現在「松坂町公園」という小さな公園にな
    っています。(JR両国駅の南約250メートル)
    僅か150メートル東に勝海舟生誕之地である両国公園があります。
    この付近は相撲部屋が多いところです。
    以下、両国回向院から泉岳寺までは「その2−2」に載せます。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

都内・港区芝公園の増上寺にある将軍家墓所が公開されているので昨日、参拝しました。
以前は、芝公園地区の広い地域に国宝に指定されていた壮麗な木造の霊廟が南北に配置
されていましたが、昭和20年3月〜5月にかけての米軍機の空襲で殆ど焼失し
残ったのは中門、総門、二天門など僅かな数だけのようです。

現在の墓所は昭和33年以降、焼け残った石塔、青銅の塔等を一ケ所に集め増上寺御霊屋
・徳川将軍家霊廟として維持・管理されています。通常は立ち入れません。

6人の将軍のうち、良く知られている2代・秀忠公、14代・家茂公、その奥方の皇女
和宮の墓所(塔)及び二天門を写真で紹介します。
4月8日(土)まで一般公開されています。

写真1:将軍家墓所特別公開入り口
写真2:徳川家将軍墓所の門 6代・家宣公の霊廟のの中門(1712年・旧国宝)
写真3:徳川家将軍墓所説明
写真4:秀忠公夫妻墓所(石塔)
写真5:家茂公墓所(石塔)
写真6:皇女和宮墓所(青銅の塔)
写真7:二天門 7代・家継公霊廟の門(1716年建造、国の重要文化財)


.
star☆tk
star☆tk
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(5)
  • きよちゃん
  • 気ままな散歩・散策
  • 若紫
  • 弥勒如来宝船aya*_*214
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

標準グループ

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事