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以下、野口健さんの記事です。
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私の祖父は第二次大戦でビルマのインパール作戦に参謀(第三十三師団)として参加した。
生還を果たした祖父は、私に会うたびに、当時の話を語ったものだ。
「夜、洞窟のなかで仲間の兵士が泣いている。『どうした?』とみると、彼の足がウジだらけだ。
『ウジが自分の足の肉をかじっている音が聞こえる……』。
足は化膿し、黄色い膿が垂れていた。彼は衰弱し、三日後に死んだ」
「当時、体力の限界にきた自分の部下たちを、竹で叩いて歩かせた。
竹が割れるほど強く何人も叩いた。なぜなら歩けなくなった兵士には、
手榴弾をもたせなければいけない。自分のかわいい部下にそんなことできようか。
だから心を鬼にして、無理やりにでも歩かせるんだ。
それでも、やむをえず手榴弾を渡すこともあった」
「あの作戦は生き地獄だった。餓死やマラリアで、みな目の前でバタバタと死んでいった。
参謀だった私には何百人という部下がいたが、その八割以上が死んだ。
いまだに彼らの骨はあの場所に放置されている」
話を聞きながら、人間の「死」とはたいへんなことなのだ、と感じずにはいられなかった。
そんな私は五年前、八千mを超すヒマラヤ登頂中、自身も「死」を覚悟する事態におちいった。
何日も猛吹雪が続き、真っ暗なテントに閉じ込められ、ついに酸素も尽きようとしていた。
そのとき私は、心の底から思った。
「日本に帰りたい……! オレもまもなくテントごと吹き飛ばされて、雪のなかに埋もれてしまうだろう。
せめて、だれかがオレの遺体を見つけて日本へ連れて帰ってくれないものか……」
このとき、ふいに祖父の話を思い出し、
「戦争で亡くなっていった方も、こんな思いで逝ったのだろうか。
彼らもひと目、家族に会いたかっただろうな……」と考えた。
そして私は、もし生きて帰ることができたら、必ず戦没者の遺骨収集に取り組もう、と心に決めたのだ。
日本人のなかには、「遺体は丁重に扱う」という哲学があると思う。
たとえば私の経験でいうと、エベレスト登頂において仲間を失う事態になったとき、
八千mを超す山での遺体収容はかなり困難で、欧米人は遺体を放ったらかしにする。
彼らにとっては「あれはただのボディ」、つまりモノにすぎないというわけだ。
しかし日本隊だけはいつも、遺体収容に最大限の努力をはらう。
ところが不思議なことに、遺骨収集となるとこの姿勢が逆転する。
アメリカは現在、第二次世界大戦、朝鮮戦争などで行方不明となっている兵士の捜索、遺骨収集に
年間約五十五億円もの予算をあてている。
五十五億円というと、戦後から今日に至るまで日本国が遺骨収集にかけた総額だ(!)。
さらにアメリカは、硫黄島にあるたった一体しか残ってない米兵の遺骨を、いまだ探索している。
一方、日本政府の態度は非常に冷たい。
遺骨収集は国家事業としては行なわれていないし、予算も先に述べたとおり、
アメリカと比べものにならない。
管轄のトップである歴代厚生労働大臣も、言葉では
「遺骨収集は国の責任できちんと取り組むべき」
というにもかかわらず、アクションはなにも起こさない。
自民党政権末期になって、ようやく心ある代議士の方々に議員立法を提出しようという動きが出てきた。だがそれも、民主党に政権交代してからは頓挫している。
民主党はどちらかというと、遺骨収集には無関心。
二〇〇九年十月、鳩山由紀夫首相(当時)に、遺骨収集に対する政府の姿勢を問う公開質問状を
提出したが、その返答も、非常に無味乾燥なものだった。
ながらく続く政府の消極的な姿勢ゆえ、遺骨収集は民間団体で取り組むしかなく、
私も力になりたいと思ったのだ。
無念にも海外で亡くなった方のご遺骨は、なんとしてでも日本にお帰しすべきである。
そこでいま私が訴えているのは、遺骨収集活動は「オールジャパン」で取り組もうということだ。
というのは、社会事情の異なる海外からご遺骨を帰還させるためには、
日本が一丸となって相手に強く働きかけないと、物事が進まないからだ。
私はこの五年間、NPO法人「空援隊」に所属し、約五十二万人という、
海外ではもっとも多くの遺骨が残されているフィリピンで遺骨収集活動をしてきた。
日本政府のバックアップがないなかでの活動は、苦難の連続であった。
たとえば遺骨を発見した場合、現地の村や市の長は、必ずといっていいほど裏金を要求してきた。
お金をくれれば遺骨をもっていっていいよ、というのだ。
この手の話は、遺骨収集にかぎらず海外で活動する団体が必ずぶつかる問題である。
昨年も、レイテ島の横に位置するポル島(セブ州)で遺骨を収集しようとしたら、
州知事の秘書のような人間がきて
「最近、日本からのODAが減っている。ODAがない以上は、遺骨収集はさせない」
と、ODAと取引しようとする。
さらにフィリピンは考える以上にはるかに危険な場所であった。
都市部から外、とくに遺骨が残っているような地帯は、数多くのゲリラが潜伏している。
日本人が丸腰で行けば、まちがいなく襲われるだろう。
二〇一〇年三月、フィリピンの外れにあるカラミアン諸島に行ったのだが、
島の岸壁までボートで行く際、フィリピンのゲリラ船がすぐに近づいてきた。
向こうの船からは銃口がチラッとみえ、緊張が走った。
幸い、別のボートで護衛をつけていたので、それをみたゲリラ船はスーといなくなったのだが。
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(中 略)
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遺骨収集にはもう時間がない。
おそらくあと数年で、実際に戦争を経験した方の生の情報が途絶え、
収集活動はいちだんと難しくなるだろう。
国内の組織同士で争っている場合ではなく、いち早く「オールジャパン」で取り組むことが
必要だと思っている。そして、遺骨収集活動に空援隊の活躍は不可欠だとも思っている。
今後も、協力の方法を模索しながら、私なりに精一杯取り組んでいくつもりだ。
たしかに現実には、「オールジャパン」への道のりは遠いかもしれない。
組織同士の対立を別にしても、国内には戦後、遺骨収集を口にすれば「右翼ではないか」と
どこか色眼鏡でみられる風潮があり、そういった空気はいまも残っているからだ。
教育現場ではその傾向が強く、遺骨収集を「戦争に行った人を大事にすること」、
つまり「先の対戦の美化につながる」として嫌悪する人たちが、たしかにいる。
私が小中学校での講演で遺骨収集の話をすると、あからさまに嫌な顔をする先生がいるし、
「あの戦争の話は余計でしたね」と校長先生に直接いわれることもある。
とくに日教組勢力が強い地域はそうだ。
ただ最近は、一般の国民が遺骨収集に無関心にみえたのは、けっして避けているからではなく、
ただ実情を知らなかったということがわかってきた。
通常の講演会でも、遺骨収集の話を始めると、観客の空気がクッと変わる。
また講演を聴いた多くの方が、応援の手紙を寄せてくださる。
二〇〇九年八月、産経新聞社主催で日本初の遺骨収集シンポジウムが行なわれたが、
定員数千二百名の大ホールに入りきらないほど応募が殺到したほどだ。
さらに、わたしがまだ空援隊に所属していた二〇〇九年に遺骨収集基金を立ち上げたのだが、
そこにあるご婦人が五百万円を寄付してくださった。
御礼に伺うと、さぞかし豪邸にお住まいなのだろうと思ったら、小さなお家で、
じつに質素な暮らしをされている。その方がこうおっしゃった。
「私はもう先が長くない。あなたの遺骨収集の記事を読んで、
日本兵の骨がいまだに散乱しているという事実にショックを受けました。
私のお金は天国にもっていけないので、ぜひ使ってほしい」
先のご婦人は戦没者遺族ではない。
一人の日本人として、そのように行動されたのだ。
遺骨収集に対して同じ思いをもつ日本人が、きっと日本中にいるはずである。
このように、遺骨収集と第二次大戦に対する賛否は、別問題である。
そして、日本のために戦ってくれた方に対する感謝や敬意の気持ちを忘れてはならない。
かつて私たちの祖先が命を賭けて戦ってくれたからこそ、いまの日本があり、私たちが生きている。
そういった方々を大切にしない国は、必ず滅びる。
この気持ちを忘れないとともに、それを後世に語り伝えていかなければいけいない。
私自身、遺骨収集をするなかで、当時戦争に参加した方にお話を聞く機会が増え、
当時について多くのことを知ることができた。
最後に、そのなかでもっとも感動し、ぜひ多くの日本人に知ってほしい話を紹介したい。
二〇一〇年三月、私は台湾で蕭錦文(ショウキンブン)さんにお会いした。
蕭錦文さんは一九四二年に高砂義勇隊(台湾原住民によって編成された日本軍部隊)に志願し、
ビルマのインパール作戦で十五師団に加わったのち、奇跡の生還を果たした。
彼はきれいな日本語で、私にこう語ってくれた。
「台湾義勇志願兵には私たちは自らが志願したのです。合格したときは泣いて喜びました。
名誉なことだと嬉しかったのです。日本の軍人たちも、私たちを大切に扱ってくれました。
苦しい戦いでしたが、私はいまでも誇りに感じています。
戦後、日本政府は日本人ではない私たちには補償してくれませんでした。
でも私たちはお金がほしかったわけではありません。
ただ、日本の総理大臣から『よく日本のために戦ってくれました。ご苦労さまでした』の
労いのひと言がほしかった。
私たちは自分たちの意志で参加し、日本のために立派に戦ったのですから。
私たちは傭兵とは思っていません。正規の軍隊、軍属だと思っています。
ですから、他の日本人と同じように扱ってほしかった。それだけなのです。
戦争はするべきではないけれど、実際に戦った者としていわせてもらうならば、
日本が好んで始めた戦争ではありません。
そして台湾は、日本の植民地時代にとても大切にしてもらった。
教育もインフラも、日本と同じように日本人は一生懸命、台湾をよくしようとしてくれました。
イギリスはシンガポールを二百年も統治していたのに、汚いみずぼらしい街でした。
当時のシンガポールは九〇%の人たちが文盲でした。
教育を受けていないから字が読めない。日本人は私たちに教育の機会を与えてくれました。
同じ植民地でもこんなに違うのかと思いましたね。
戦後のほうがたいへんでした。中国から蒋介石がやってきて多くの台湾人を拷問し殺しました。
私はいまの日本がとても心配です。もっと自信をもってほしいのです。
素晴らしい国だと胸を張ってほしいのです。
私たちが命を賭けてまで志願し日本を守ろうとしたのは、日本が好きだったからです。
それなのに、いまでは日本人が日本の悪口をいう。とても悲しいことです。
私たちにはまだ大和魂が残っています。日本人にも大和魂を取り戻してほしいのです。
あなたが遺骨収集を始めたと聞いて、とても嬉しかった。
一体でも多くの兵隊さんを日本に帰してあげてください。
日本のためにありがとう。ありがとうございます――」
話を聞きながら涙が出た。
私は先人たちを誇りに思い、遺骨収集活動をなんとしてでも続けよう、と心に誓った。
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