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【偉人物語】 吉田松陰 貫いた「共に学び共に育つ」 2011.5.21 産経 http://sankei.jp.msn.com/life/news/110521/art11052107540003-n1.htm http://www.ysn21.jp/furusato/know/03history/image/09yoshida/syoin-zao.jpg
http://www.ysn21.jp/furusato/know/03history/history09.html 吉田松陰 吉田松陰(1830〜59年)の名を不滅としたものの一つは、松下村塾での教育であった。松陰が関わった僅か3年足らずの小さな私塾から、幕末維新の変革を担う人材がまさに綺羅星(きらぼし)のごとく輩出したことは「奇跡」という他はない。
「わずかに十八でふ(畳)の古い家の塾であつた。しかし、このせまい塾に 集まつた青少年の中から、久坂玄瑞(くさか・げんずい)、高杉晋作を始めと
して、明治維新のをり、身を以(もっ)て国事につくした大人物がたくさん出た。 (中略)松陰の塾を松下村塾と呼んだ。ここでは、武士の子も、農家の子も、
へだてはなかつた。また松陰は、決して先生だといふ高慢(こうまん)な態度 をとらなかつた。先生と塾生の膝(ひざ)と膝とが、くつついてゐる。礼儀は正しいが、へだてはなかつた」。修身教科書は、松下村塾の教育の特徴を的確に描写している。 松下村塾。 行ってみるとわかるが、本当に狭い。 ここで数十人が並んで学んだという。
久坂玄瑞 高杉晋作
教育者としての使命感に溢(あふ)れ、日夜、塾生の教導に尽力した−というのは、松陰の心情からすれば誤りである。孟子の「人の患(うれい)は、好んで人の師になるに在り」を評して、「学を為すの要は己が為にするにあり」「己が為にするの学は、人の師となるを好むに非ずして自(おのず)から人の師となるべし」と松陰はいう。「共に学び共に育つ」者として絶えず努力を続けていく。その生き方が松陰を教育者とした。 http://sankei.jp.msn.com/images/news/110521/art11052107540003-p1.jpg
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110521/art11052107540003-n2.htm 徹底した平等主義と一人一人を生かす教育−。松下村塾の教育には、すべての人間の本性が善であると信じて疑わず、どのような人間にも可能性があることを信じ続ける松陰の生き様が貫かれていた。
1858(安政5)年6月の日米修好通商条約を機に松陰の言動は過激さを増していく。自重を促す
久坂、高杉に松陰は「僕は忠義をする積もり、諸友は功業をなす積もり」といって取り合わず、翌年、
江戸伝馬町の獄舎で露と消えた。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」 の辞世で書き出された遺書「留魂録(りゅうこんろく)」に接した塾生たちは、師の遺志を継いで敢然と
動き出す。志ある者として、自己の可能性を信じ求めるという松陰が身を以て示した教えを塾生たちは忠実に受け止めたのである。そんな彼らの強い絆と結束は、しばしば「松下村塾党」と称された。 なお、修身教科書は、松陰の父母の人となりについても伝えている。この親にしてこの子あり。偉人の陰には、優れた父母の教えがあったのである。(武蔵野大学教授 貝塚茂樹) 以下、吉田松陰のお母上のお話を、「すかたんの法話−親鸞聖人のお話ー」さんから 転載させて いただきます。 http://ameblo.jp/wasedaman125/entry-10301183832.html#main
私は山口県出身でして、私の両親は 松下村塾のある萩市に生まれ、育ちました。 これらの文章が、とても その 「萩の地」 の雰囲気をよく現しています。 萩には萩城があり、城下は今でも、素朴ながら ひきしまった雰囲気に 満ちています。 国に何事か起これば、その身を捨てて馳せ参じる。 今では古臭い言い回しですが、この地には、未だ そのような気流に 満ちています。 維新はここからはじまった。 なんとなく、うなずける感じがしております。 success http://dreams.world.coocan.jp/photo/znif/honshu/hagi/t_a_shoin_03.jpg http://www.ne.jp/asahi/yume/dreams/main/Photo_honshu_hagi_shoin.htm 松下村塾 わずか50㎡。 この場所から、多くの志士が生まれ、旅立っていきました。 |
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一旦緩急あれば義勇公に奉じ 以って天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運(こううん)を扶翼(ふよく)すべし
尊皇の気風溢れる山口ならですね。
日本人は斯くありたい。
傑作
TB
2011/5/21(土) 午前 11:41
こんにちは。
なんという秀逸な記事でしょうか。
感動で胸がいっぱいです。
わたしもこのような人でありたいです。
ぜひ、転載させてくださいませ。
傑作
2011/5/21(土) 午後 0:17 [ - ]
カマちゃんさま
>一旦緩急あれば義勇公に奉じ 以って天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運(こううん)を扶翼(ふよく)すべし
ああ、まさに…。
山口は今、外国人が多数入り込んで、行政も混乱していますが、生粋の長州人は、いまだその気質は変わっていないように思います。
いつもお出でくださり、本当にありがとうございます。
2011/5/21(土) 午後 6:31 [ success ]
琴鈴さん
吉田松陰先生は、貧しい下級武士の家に生まれながらも、志高く、いばらず、人を貶めず、多くの門下生を国のために正しく生きる道を示されました。
家は狭く、小さく、本当にここに多くの門下生が集まったのかと思うほどですが、壁にかかった規則の文言を見ると、まさに礼節を尽くしながら平等闊達、そのような気風に満ちています。
日本は基本に戻るべきなのかもしれません。
山口という田舎の土地で、一介の武士からも優れた人物がでる国です。今が、なにか方向が異なってしまったことを感じます。
いつもありがとうございます。^^
2011/5/21(土) 午後 6:37 [ success ]
松陰先生がすばらしいのはご両親様が大変優れた方々であったのですね。
よい記事ありがとうございます。
傑作です。
2011/5/21(土) 午後 7:58 [ - ]
あの時代でこそ、後に続く志士たちが大きく育ちました。今は・・・
2011/5/21(土) 午後 8:12
なんだかなぁさん
恥ずかしながら…、この産経の記事からたどって、今回はじめてご両親のことを知りました。
「親思う 心にまさる親心 今日のおとずれ何ときくらん」
「今日のおとずれ」とは…、そういうことだったのですね。悲
2011/5/21(土) 午後 8:38 [ success ]
アナリスト杢兵衛さん
いらっしゃいませ。^^
>今は・・・
私もそう思っていたんですが、そうでもないようなんです。^^
日本の体たらくに、今の日本の若人が心をいため、中学生や高校生が「ぼくたちの時代に、必ず日本を復興させる」と言っているという話をあちらこちらで聞きます。
日本は、今「捨てたもの」でもないのかもしれません。
2011/5/21(土) 午後 8:45 [ success ]
僕も長州っぽであります。
高杉の像の下で遊んでおりました。
高杉は松陰先生には絶交されたままですが、桜山招魂社には松陰先生が真ん中におられます。
長州は関ヶ原で負け、禁門の変で負け、連合軍にも好き放題やられましたが、最後には勝利をおさめました。
「長州は負けりゃあせん」
功山寺で誓っています。
長州のプライドを見せつけてやりましょう。
badboy拝
2011/5/21(土) 午後 9:31 [ badboy ]
badboyさん
>長州は関ヶ原で負け、禁門の変で負け、連合軍にも好き放題やられましたが、最後には勝利をおさめました。
そうでした。badboyさんは、長州の方でしたか。^^
打たれても打たれても、ひどく恨みに思う事なく、乗り切り、立ち上がってきました。まっすぐで辛抱強い県でした。
関ヶ原で負け、領地が6分の1になって、長州の国の武士は、自ら農民となって下野し、半士半農となりました。
いざ、国になにかあれば、身は農民となろうとも、主の元に馳せ参じる、という気質はここから生まれました。
高杉晋作の奇兵隊は、日本で初めての身分を超越した兵と言われましたが、もともとは農民の人材が他県とは事情が異なっていました。
「負けりゃあせん」
うちの母の口癖です。^^
負けんようにやらんといけんね。badboy さん。^^
2011/5/21(土) 午後 9:41 [ success ]
( ´ー`)y─┛チァーパーボェー
五、六回は行っていますけど 中年になってからはまだなので 萩に行きたいです。
ポチ
2011/5/22(日) 午前 1:55
にっぽに屋にっぽんさん
いらっしゃいませ。
乗換えがあって、行きにくいところですのに、お出でくださったのですね。ありがとうございます。^^
田舎ですが、見ることろがいくつかあって、ゆっくりできる所です。
ぜひまた、いらっしゃいませね。笑
2011/5/22(日) 午前 5:31 [ success ]