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しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける

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東京裁判② 
パール博士とはいかなる人物か(1)



第2次世界大戦後 行われた「極東国際軍事裁判」 通称「東京裁判」で、判事の1人として
裁判を真摯に行った、インド代表判事 ラダ・ビノード・パール博士。
博士はいかなる人物であったのか。
この裁判のあり方、そして判決を理解するために、博士の小伝をご紹介する。

出典は、パール博士に 「永遠に私の息子だ」 と言わしめた田中正明氏の著書
「パール判事の 東京裁判 日本無実論」 を参照する。
本記事はその巻末にあるエピローグ部分である。




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パール小伝

ラダ・ビノード・パールは1886年1月27日 インド・ベンガル州の小村にビビン・ベハリ・パールの長男として生まれた。彼は3歳にして父を失ったために、家は非常に貧しく、村の学校においてすら 給費児童として勉強しなければならなかった。爾来、彼は大学を終えるまで、その修学の全過程を通じて、経済的な苦難の途を歩んだ。あるときは同情者の慈悲にすがって勉学し、あるときは苦学して、辛うじて苦難を乗り切った。

1905年、彼が19歳のとき、アジアの小国日本が、ロシア帝国と戦って勝利を博したという報道が全インドに伝わった。彼はこのときの感動を次のように回顧している。


「同じ有色人種である日本が、北方の強大なる白人帝国主義ロシアと戦って ついに勝利を得たという報道は、われわれの心をゆさぶった。私たちは、白人の目の前をわざと胸を張って歩いた。先生や同僚とともに、毎日のように旗行列や提灯行列に参加したことを記憶している。
私は日本に対する憧憬(=あこがれ)と、祖国に対する自信を同時に獲得し、わななくような思いに胸がいっぱいであった。私はインドの独立について思いをいたすようになった」


彼は中学校でもズバ抜けた成績であった。苦学を重ね、カルカッタ大学の入学試験に合格し、第一部
に入った。入学と同時に奨学金を得て、卒業まで主席を通し、カルカッタ大学を終えると、さらに州政府の大学に入った。そこでも月20ルピーの奨学金を得た。しかしこの学では、州立大学の授業料を支払えば、ほとんど残るところはなかった。彼はまったく行き詰った。
そのとき、1人の紳士が彼に救いの手をのべた。スリ・プルナ・チャンドラ・パール氏が、彼を見込んで援助を申し出たのである。
しかもチャンドラ・パール氏は、当時公共事業庁の一技官補にすぎず、さして裕福ではなく、そのうえ家族が多かったので援助金などはほとんど出せなかった。ただ、パール青年がこの家に住み、食事をさせてもらって大学へ通うことが約束されただけにすぎなかった。このチャンドラ・パール氏がのちの彼の義父である。

彼はその翌年、チャンドラ・パール氏の11歳になる娘と結婚した。そのとき彼は19歳であった。日露戦争における日本の勝利の報道は、このとき彼の心をとらえて放さなかったのである。(ブログ注:東京裁判①で病床で博士に日本に帰るように訴えた方である)

1907年に彼は理学士の試験に合格し、数学賞を受けた。その翌年、数学の理学修士の学位を受けた。(中略)彼はさらに法科に進んだ。1909年、リスボン大学で法科の課程を終えた。ついで翌10年にはインド連合州会計院に就職し、初めて月収70ルピーの書記生となった。これが彼の最初の就職である。 (中略)

しかし、彼の母は、彼を法律家にすることが終生の念願であった。彼に法律の勉強を勧めたのも彼女であった。

彼女はインドのナイチンゲールといわれるほど慈悲深い、そして聡明な、しかも激しい愛国の情熱を胸に秘めた意志の強い女性であった。インド民衆の不幸を救うためには、インドを英帝国の手から奪い返すには、息子を立派な法律家にすることだという強い信念をもっていた。
この点、ネール首相やガンジー翁の母の願いも同じであった。

インドにおいて、白人と平等の立場において ものが言えるのは法律家のみである。
ことに、当時カルカッタ高等法院には、グノルダース・バンドバッチャ卿という愛国的な、衆望を集めた名判事がいた。彼の母のパール青年に対する期待と熱望は、バンドバッチャ判事であった。

そこで彼女は、卿のごとき つねに虐げられたる者の味方、インド民族の救世主たれと、パール青年を鼓舞した。


「お母さん、僕はあのような立派な裁判長になれるでしょうか」
「なれますとも。それ、お前の背丈は人並みすぐれて高いでしょう。そのように、お前の精神も高いのですよ。お前のことは、このお母さんがいちばんよく知っているんですから…」
これがいつもかわされる母と子の会話であった。

彼女の念願がかなって、パール青年は法学士の試験にパスした。そこで彼女は彼を高等法学院に入れようとした。しかしそうするためには、経済的な問題を解決しなければならなかった。彼女はこういった。
「私は家族を連れて田舎へ戻りましょう。月40ルピーもあれば暮らせるでしょうから・・・。そうすればお前は収入の残りをぜんぶ使って、必要な法律書を買うなりして存分に勉強できるでしょう」 (中略)


彼は教べんをとるかたわら自分の法律書庫をつくり、法学修士の学位を得るために勉強し始めた。不幸にして彼の母は、1917年12月この世を去った。
困難は再び加わった。しかし彼の妻は姑がやったと同じように、家事万端を引き受け、多くの家族の面倒をみながら、経費を切りつめて夫の研究を助けた。

彼は1920年に法学修士の試験を一番でパスした。そして4年後には、法学博士の学位を得た。同じ年に、彼は母校のカルカッタ大学タゴール教授職をいう名誉ある地位に任命された。タゴール教授職というのは、インドにおける最高の名誉と権威ある職責で、全インドの各大学からとくに推薦を受けた者の中から、年々少数が選ばれる仕組みになっている。

わずか38歳の年少で、この栄誉に浴したということは稀有のことに属する。
彼は1925年と30年と38年の3回にわたってこの栄職に指名されたのである。3回も指名されたということは、カルカッタ大学創立以来のことといわれる。


パール氏は、この後、1923年9月、カルカッタ大学の法学部教授に任命され、37年にはハーグ国際法学会の総会に招へいされ、その会議の議長団の1人に選ばれた。インド人としては最初の議長であり、彼の国際法学会における名声は高まった。
1941年にカルカッタ高等法院の判事に就任。

1944年には選ばれてカルカッタ大学総長に就任。早々から名総長の名をうたわれたが、46年には
総長を辞職した。
なぜなら、
ネール首相が彼を、日本のA級戦犯を裁くための極東国際軍事裁判のインド代表判事に任命したからである。
パール博士の判事就任は、親友であるネール首相の懇請と期待に応えたものである。


東京裁判において、ひとり敢然と全員の無実を判決し、世界の注目を浴びた。彼の堂々たる正論と該博なる知識は、国際法学界にその名声を高めた。

その後、彼は郷里のカルカッタにおいて弁護士を開業した。

1952年には故下中弥三郎の招へいにより再び日本を訪れ、世界連邦アジア会議に出席し、各大学、法曹界で講演するとともに、戦犯ならびに戦犯の遺家族をねぎらった。

1960年、インドの最高栄誉であるPADHMA・RRI勲章を授与された。その後、ジュネーブにある国連司法委員会の議長の要職につき、世界連邦カルカッタ教会会長に就任し、同時に国際法学会の中心メンバーとして活躍をつづけ、1967年1月10日、カルカッタの自邸において多彩な生涯を終えられた。



*これに続き、(2)で、来日時に博士が託したことをご紹介する予定です。


イメージ 2




それを貫く精神は 
ときを経て 多くの人へ伝わる


 
success







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閉じる コメント(33)

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敬天愛人さん
まだまだあるんです、心にずっしり響く話が。
この後のほうが、響きます。

2010/8/25(水) 午後 8:27 [ success ] 返信する

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aix**cyさん
え!
>民主党小沢がみんなの党、たちあがれ日本と連立する偽装政権を画策しています。
たちあがれ、だめじゃないですか・・。平沼さん、出し抜かれましたか?
みんなの党は、お父さんの時代から売○○だからなあ…

2010/8/25(水) 午後 8:29 [ success ] 返信する

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誇り君さん
そうなんですよね。
日本人は、ひたすら「申し訳なかった」と思ってますから、
1つ1つほぐしていかないとけませんね。

2010/8/25(水) 午後 8:30 [ success ] 返信する

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おれは27だよさん
イギリス人は結構黒い人びとです。
真珠湾をアメリカにけしかけたのは、イギリスが黒幕とも言われていますね。
アメリカにやらせる、のがいつもの手のような。。。

2010/8/25(水) 午後 8:31 [ success ] 返信する

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ジャガイモ4さん
そうなんです。
周りの方が、「彼がそうなるように支えた」のですね。
インドには、すばらしい「母」が存在したのだと、強く感動しました。

2010/8/25(水) 午後 8:32 [ success ] 返信する

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パール博士の生き方は誰にも真似は出来るものではない。周りの助けがあり、自身の努力によって勝ち取った結晶である。
過去の日本国もそうであった。貧乏であり、努力家である。戦争で金儲けするような鬼畜米英とは違うのだ。

傑作

2010/8/25(水) 午後 11:47 田村哲哉 返信する

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【茨城〜上海・片道を4000円のチョー格安販売へ 中国のLCC 】
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/100825/biz1008251209005-n1.htm
格安航空券は、日本時間30日午前9時からインターネットで販売さ
れる。販売数は1便当たり全席の10%の18席程度。残りの席は通
常通り、8000〜2万6000円で販売する予定。

【車・船・乗り物の掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kfn/kfn.cgi


今日の内閣支持率はこちらをカッチとね
http://www.jra.net/ank/online/naikaku.php

PS:
底抜け株価
http://www.aixin.jp/AJI0.cgi

2010/8/26(木) 午前 0:53 [ aix**cy ] 返信する

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右論者 さん
そうですね、真似できません。
神に選ばれし者、そういう感じがします。
世の中の光になるように、選ばれた者、そしてそれを まさに実戦された方なのでしょうね。

2010/8/26(木) 午前 1:20 [ success ] 返信する

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aix**cyさん
あれ? LCCは日本市場を狙ってるんですか?
でも怖いですね。 堕ちそうです。 笑

2010/8/26(木) 午前 2:08 [ success ] 返信する

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転載させて頂きます。

傑作 ポチ凸

2010/8/26(木) 午前 5:03 hito 返信する

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hitoさん
転載ありがとうございます。

2010/8/26(木) 午前 6:37 [ success ] 返信する

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おはようございます。

パール博士のことはうっすらとしか知りませんでした。
もっと深く正確にあの当時を知らなければならないと再認識しました。

転載させてください。
傑作☆

2010/8/26(木) 午前 7:05 dunubの窓 返信する

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英国の植民地であった印度の人が、白人に始めて抵抗した日本を英雄視するのは当然でしょう。しかも、戦争で英国が衰退したお蔭で印度は独立出来た。日本が間接に独立を助けたことになる。
それに、感動したあまり、パール判事は日本が同じ亜細亜国家を侵略した史実には、目を瞑っている。

2010/8/26(木) 午後 2:43 [ johnkim ] 返信する

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もう一つ知っておくべき事実は、印度が独立出来たのは、第二次世界大戦後、新しく覇権国として登場した米国が、勢力を伸ばす為に、植民地解放を政策として、英国を圧迫したからである。

2010/8/26(木) 午後 2:48 [ johnkim ] 返信する

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dunubの窓さん

よく知りましょう! この東京裁判は「肝心」の部分です。

2010/8/26(木) 午後 2:51 [ success ] 返信する

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johnkimさん
>パール判事は日本が同じ亜細亜国家を侵略した史実には、目を瞑っている
いいえ、そんなことはありませんよ、johnkimさん。
この本をシリーズで解析しますが、パール氏は膨大なる文献を、日本側から、アメリカ側から、英国側から、アジア側から、多方向で集積して、これを読破したのち、この結論を出しています。
私は、まだこの部分の知識が少ない。
私も全力で、この部分の解析を進めます。
そして、あなたが言うように、本当に「同じ亜細亜国家を侵略した」レベルにあるのかを、私自身の目で確かめたいと思います。
命がけでやります。

2010/8/26(木) 午後 2:54 [ success ] 返信する

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johnkimさん
>印度が独立出来たのは、第二次世界大戦後、新しく覇権国として登場した米国が、勢力を伸ばす為に、植民地解放を政策として、英国を圧迫したからである。

緩衝地帯はどこにでもあるものです。
インドが、英国とアメリカの緩衝地帯であっても何の不思議もありません。
ただ、第2次世界大戦は、英国主導で、アメリカを戦争に参入させてできた戦争であるということを忘れてはなりません。
つまり、英国(イギリス)とアメリカは一蓮托生であったわけです。
そのうえでの緩衝地帯など、一種の談合の域でしょう。

2010/8/26(木) 午後 2:57 [ success ] 返信する

「現在、全世界にわたってイデオロギーの戦争が進行中です。この戦争に勝つためには、建設的理念をもち、相反する国際的、文化的イデオロギーを調和させなければなりません。イデオロギーの相違を固執してはいけないのです。」

日本は その後 民主主義 資本主義 に 資本主義 を 取り入れ バランス を保ち 発展 を遂げた…

かに見えたが 何時からか バランス を崩し始める。

見える者 には 見えていたかもしれない。然しながら 大衆もセレブも経営陣も 官僚 政治家 或いは 専門家や学者でさえ 見落としていたものは?

教育 と 少子化 そして イデオロギ の 派生及び細分化

その根っこである、三国人の存在 こそ 忘れてはならない。


「宣伝が大衆を支配するために案出された実に警戒すべき
手段」

「宣伝の恐ろしさは、たえず感情に働きかけ、知らず知らずのうちに、自分の本性
と矛盾することを信じこまされる点」


まさに パール判事の言葉であり 危惧された通りの 展開 と 顛末 が 日本の そして日本人の現状である。

脱却 しなければならない。

2010/8/27(金) 午前 9:14 [ 柳虫 ] 返信する

西洋の「分割して統治せよ」という政策を警戒…


「どんなに大切なイデオロギーのためでも、分裂してはいけないのです。分裂していると、その場かぎりのことでも絶対的なことに見え、肝心の重要問題から注意がそらされます。」



パール判事 の この言葉は まさに 本質を突く核心部分 でありましょう。

現在の 日本人 のみならず おそらく 人種 民族 部族 拘わらず 科学を持つ 全ての社会に於いて 起こっている現象です。


殊 日本人の性格上 より悪化していると思われます。



パール判事 が この事まで深く考察されたことは 当時の社会通念 や 倫理 背景 世情 から見ても 驚異的な予測 と言えるかもしれません。



パール判事 の 惜しみない公正への努力 及び 先見の洞察と思慮を無駄にする訳にはまいりません。


By柳虫

2010/8/27(金) 午前 9:39 [ 柳虫 ] 返信する

「本物とにせ物を見分ける能力、お国の将来を形成していく力についての知識を得てください。特に、宣伝に惑わされない判断力を得てください。」



パール判事 に 合掌



By柳虫

2010/8/27(金) 午前 9:41 [ 柳虫 ] 返信する

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