|
東京武道館を訪問し、避難している臣民に話しかけられる天皇陛下、皇后陛下 御尊影 (30日)
天皇陛下、皇后陛下 ご動静 31日(木)(宮内庁発表分)
【午前】
天皇陛下 皇后陛下 人事異動者拝謁《宮内庁退職部課長など8
人》《宮内庁永年勤続退職者9人》《皇宮警察本部退職者25人》《宮
内庁侍従職退職者など5人》《皇宮警察本部異動者10人》(宮城・御
所)
【午後】
天皇陛下 離任する駐日トルコ大使をご引見(御所)
【夜】
天皇陛下 ご執務(御所)
昭和天皇陛下全国御巡幸昭和天皇陛下 全国御巡幸 御尊影
畏くも天皇陛下、皇后陛下にあらせられましては30日、東日本大震災の被災者約290人が避難している東京都足立区の東京武道館を訪問あそばされ、被災者を見舞われました。
災害の多い日本國土。
今上陛下、皇后陛下にあらせられましては、即位後、災害が起きる都度、被災地に入られ、生きる希望を失いつつある臣民を励まされ、臣民は天皇陛下、皇后陛下より賜った大御心を糧に、復興の原動力としてきました。
畏くも今上陛下の大御心は、先帝陛下より継承あそばされたものです。
私は戦後生まれなので昭和天皇陛下の終戦直後の全国御巡幸を知りません。
戦後の学校教育においてはこの御巡幸については一切教えていませんが、この御巡幸こそが当時の日本国国民と当時の昭和天皇陛下と国民の強い絆がみられます。
敗戦直後の昭和20年10月昭和天皇陛下は宮内府次長に
「この戦争により先祖からの領土を失ひ、国民の多くの生命を失ひ、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればよいのかと考へ、また退位も 考えた。しかし、よくよく考へた末、全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。こ のことをどうしても早い時期に行ひたいと思ふ。ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだらうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりであるか ら、健康とか何とかはまつたく考へることなくやってほしい。宮内官はその志を達するやう全力を挙げて計画し実行してほしい。」
と指示されました。 当時は占領下にありましたので、占領軍総司令部に打診した。占領軍総司令部は、「親、兄弟、夫」を殺されたのだから石の一つでも投げられりゃいいんだ。と天皇陛下と貶める目的で許可したそうです。
しかし、占領軍総司令部高官たちの思惑とは全く信じられない結果となったのです。
昭和天皇陛下は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られ、行程は3万3千キロ、総日数165日。各地で数万の群衆にもみくちゃにされたが、石一つ投げられたことはなかった。
昭和21年2月19日の最初のご訪問の地は、昭和電工・ 川崎工場。この時昭和天皇陛下は工員たちに対し、「生活状態はどうか」、「食べ物は大丈夫か」「家はあるのか」と聞かれた。感極まって泣いているものも多かったそうです。二度目の御巡幸は、2月28日、都内をまわられた。大空襲で一面、焼け野原である。新宿では、昭和天皇の行幸を知った群衆が待ちかまえ、自然に「天皇陛 下、万歳」の声が巻き起こり、天皇陛下が帽子をとってお応えになると群衆は警備の米兵の制止をふりはらって車道までなだれこむ現象がおき以降の御巡幸先でも同様の光景がみられた。 昭和21年には、関東、東海地方の各県を廻られ、22年6月には、大阪、兵庫、和歌山。そして8月の酷暑の中を東北全県の巡幸を希望されたが、側近が驚い て、涼しくなってからでは、と延期を願ったが、「東北の運命(食料の増産)は、真夏にかかっている。東北人の働くありのままの姿を是非この目に見て激励し てやりたい」と許さず、当時は敗戦直後で陛下の宿泊される場所もままならず、列車や学校等で泊られることもあったそうですが、陛下は。「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」と言われて、行幸を続けられました。
2ヶ月後には休む暇なく、甲信越地方9日間の御巡幸に出られた。最初に浅間山の雪の中を2キロも歩かれて、山麓の大日向開拓村を訪問された。大日向 村は満洲への分村移民を全国で最初に実行した村である。しかしソ連の満洲侵略により、移民694名中、半数の323名が生き残って、村に帰ってき た。そして標高1095mの荒れ地を切り開いて入植。 陛下をお迎えした開拓団長堀川源雄の奏上は、幾度となく涙でとだえた。昭和天皇のお顔も涙に濡れた。 12月5日、広島。広島市では戦災児育成所の原爆孤児84名に会われた。原爆で頭のはげた一人の男の子の頭を抱えるようにして、目頭を押さえられた。周囲の群衆も静まりかえって、すすり泣く光景がみられた。 平和の鐘が鳴る中を元護国神社跡で7万の奉迎を受けられ陛下は、「このたびは皆のものの熱心な歓迎を受けてうれしく思ふ。 本日は親しく市内の災害地を視察するが、広島市は特別な災害を受けて誠に気の毒に思ふ。広島市民は復興に努力し、世界の平和に貢献せねばならぬ。」とのべられた。原爆を落とされた広島の地ですら誰一人天皇陛下を恨む者がいないことに、ただただ驚くばかりであったは、目付役として同行していた占領軍総司令部民政局のケント氏。 兵庫県で小学生達が禁止されていた日の丸を振ってお出迎えしたのを「指令違反」であるとして、以後の御巡幸中止を命じた。占領軍総司令部民政局はこれを口実にした理由は民政局は天皇廃止を目論んでいたのです。陛下を貶める目的で許可した御巡幸であったはずが、かえって国民との結びつきを強くしてしまったと。
御巡幸を期待する九州、四国地方からの嘆願や議会決議が相次ぎ、陛下から直接総司令官マッカーサーにお話しされた結果、翌々年に再開が許可。
昭和24年5月18日から6月10日にかけては、九州全県を巡幸された。因通寺には、40余名の戦災孤児のための洗心寮に立寄られ、位牌をふたつ胸に抱えた女の子を励まされた。
因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。 陛下は最前列に座っていた老婆に声をかけられた。「どなたが戦死をされたのか」 「息子でございます。たった一人の息子でございました」声を詰まらせながら返事をする老婆に「どこで戦死をされたの?」 「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。・・・天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きをしてください」と答え、 老婆は泣き伏してしまった。じっと耳を傾けていた陛下は、流れる涙をそのままに、老婆を見つめられていたそうです。 引き揚げ者の一行の前では、陛下は、深々と頭を下げられた。
「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」とお言葉をかけられた。一人の引き揚げ者がにじり寄ってきて、 「天皇陛下さまを怨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは私だけではなかったのでした。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが今わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に私も頑張ります。」と述べたそうです。 九州御巡幸では約190カ所にお立ち寄りになり、各県とも6、7割の県民が奉迎したので、約700万人とお会いになられました。御巡幸はその後も、四国、北海道と昭和29年まで続き、8年半の間に陛下は沖縄をのぞく、全都道府県をまわられ、奉迎者の総数は数千万人に達した。 日本国民は帝国の敗戦によって国が崩壊してそれまで現人神であった陛下と接する機会を得、人々と共に悲しみ、涙を流す陛下の姿でした。一人ひとりが孤独に抱 えていた苦しみ、悲しみに、陛下が涙をされた時、人々は国民同胞全体が自分達の悲しみ、苦しみを分かち合ってくれたと感じ、そこからともに頑張ろう、と いう気持ちが芽生え、戦後のめざましい復興の原動力はここから生まれました。
陛下が晩年御病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れ、陛下の回復を祈った。 陛下は御病床で「もうだめか」と医師に尋ねられた。
自信の御病気のことではなく、最後の御巡幸先である沖縄の事だったのである。陛下の御心は今上陛下により平成5年に果されましたが・・・・
当時イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれ、欧米人の常識では理解できないことが起こった昭和天皇陛下全国御巡幸。
当時の英国新聞紙も「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。」と・・・・・
日本国が天皇中心となり再びたちあがり連合国に刃向かうことを恐れ天皇廃止を目論んだが、国民と天皇陛下との強い絆と結びつきをまのあたりにし、断念した。
今上陛下も災害等で被災された方々を励まされ、励まされた方々はそのお言葉を生きる糧としている。
天皇陛下万歳。皇后陛下万歳。皇室万歳。
これからも日本国の心ある国民は永久に叫ぶでしょう。 皇尊 彌榮 彌榮 彌榮
天皇陛下、皇后陛下 万歳! 万歳! 万歳!
被災地の皆様の苦難を思い、
依然、安否の確認のとれない方々の無事を祈り、犠牲になられた方々に哀悼の意を表します。
また、自衛隊、各国の救助隊はじめ、関係者一同の皆様の努力に敬意を表します。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
|
ちょっとブレイク
好っきやねん、日本 ちょっとつらくなったとき
この歌を聞いて励まされています。 その曲を、ご紹介させていただきました。 元気出そうや
我が国、日本 http://www.design24c.com/blog/images/2011/03/japan.jpg
http://www.design24c.com/blog/2011/03/16/0316.html |

- >
- エンターテインメント
- >
- 音楽
- >
- 邦楽
|
日本は まだがんばれる
超親日国 台湾に感謝! 義援金100億円 プロ野球日本チーム、 アジアシリーズ参加へ! アジアの中で、親日国が台湾である。 台湾は 日本が統治していた時代がある中、その時代を 「よい時代」 として 懐かしむ方が多く、アジア諸国の中では タイと並んで 「超」 といってもいいほど 親日国である。 日本の統治時代、日本人は台湾で学校を整備し、日本人と同じ学校で、分け隔てなく 台湾の子どもたちを育て、識字率をあげた などのことも、親日のベースにある。 その台湾が、日本にあたたかい手を差し伸べてくれている。 「我々が応援している日本よ、さあ、がんばれ」 と。 ニュースここから スポーツ報知 2011年4月5日 http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20110405-OHT1T00038.htm プロ野球12球団による実行委員会が4日、東京・内幸町の日本野球機構(NPB)で開かれ、3年ぶりに復活するアジアシリーズ(11月11日開幕・台湾)への参加方針を改めて確認した。4月中にNPBと、台湾の中華職業棒球大連盟(CPBL)の代表者が会談して善後策を話し合うことになった。
きっかけは、台湾での支援の輪の広がりだ。関係者によると、台湾内でこれまでに集まった東日本大震災に対する義援金が政府、民間を合わせて計100億円を突破した。実行委でも話題に上がり、「(韓国や台湾から)手を差し伸べてもらい、被災者に温かくしてもらっている。前向きに考えさせていただきたい」(オリックス・村山球団本部長)、「台湾でやるということで他の国とのかかわりは大切」(西武・飯田専務)など、参加するべきとの意見が大勢を占めた。
震災による公式戦開幕延期の影響で、日本シリーズも11月12日開幕へと延期。アジアシリーズと重複した。NPBは是が非でも参加するつもりだが、日本一チームを派遣できない事態に変わりはない。加藤良三コミッショナー(69)が3月28日に韓国・ソウル市内で開かれた韓国野球委員会(KBO)創立30周年記念式典に出席した際にも、CPBL幹部からアジアシリーズへの参加を要請されたという。今月中に行われる会合ではアジアシリーズの延期など、代替案が検討されそうだ。
台湾がどのくらい 日本に好感をもっていてくれるかというと・・・
次の、台湾で編集された、「2009年 WBC 「侍JAPAN」」 の画像をご覧ください。日本と韓国が、最後まで死闘を繰り広げた 伝説の試合です。 日本代表への カッコいい編集を目にすると、胸が熱くなります。 台湾、ありがとう。 ありがとう、台湾
そして 「がんばろう!日本」 http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/010/344/27/N000/000/001/123790471438116309859_090324wbc_01.jpg ■がんばれ日本!①− すばらしい日本人たち http://blogs.yahoo.co.jp/success0965/2656438.html ■がんばれ日本!②− すばらしい日本人たち http://blogs.yahoo.co.jp/success0965/2656119.html |
|
日経ビジネス
被災者がかかりやすいPTSDの特徴−外傷後ストレス障害 テレビ映像で類似の症状に陥る恐れも 2011年4月5日 http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110401/219272/ 「津波に追い立てられるようにして、命からがら逃げた人もいた。本当に怖い目に遭ったようだ」――。
想定外の津波が、多くの人命を奪った東日本大震災。宮城県南三陸町などの避難所で診療に当たったある医師は、被災者の印象をこう話す。震災から3週間余りがたち、被災者には疲労の色も濃くなってきた。そんな中、必要性が高まっているのが被災者の精神的ケアだ。
自然災害などで生死の境をさまようような体験をすると、人は誰しも心に傷を負い恐怖感や無力感にさいなまれる。こうした感覚は通常、時間の経過とともに徐々に消えていく。しかし、被災者の中にはいつまでも消えず、外傷後ストレス障害(PTSD)にかかる人がいる。
過去の災害では被災者の5〜10%が発症 PTSDは、1960〜70年代に米国や英国などで注目され、研究が進んだ。背景には、戦場からの帰還兵の中で、社会に適応できず、暴行や虐待を受けた被害者と類似した症状を見せる人が目立ったことがあった。1980年代には精神的な病気の1つとして認知され、診断基準も確立した。日本では、阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件でPTSDに苦しむ被災者や被害者がクローズアップされ、社会的な関心が高まった。
PTSDが疑われるのは、心に傷を受けた体験から1カ月以上たっても次のような症状が消えない場合だ。
(1) 思い出したくない出来事を思い出してしまう(侵入症状) 過去の自然災害では、被災者のうち5〜10%がPTSDにかかったと言われる。防衛医科大学精神科講師の重村淳氏によると、被災者の中でも特に子供や女性、障害者、外国人や貧困者などの社会的弱者がPTSDにかかりやすいという。 PTSDを治すには、まず、支援物資の供給や医療体制の確立といった被災者への社会的支援を充実させることが不可欠だ。また、意識的にゆっくり腹式呼吸をしてリラックスする、これまでやっていた趣味や娯楽などを再開するなど、自分自身をいたわるセルフケアも大切。その上で、医師が必要と判断したときは、抗うつ薬などを服用する。
テレビ映像で頭痛や不眠に陥る人たちも 精神的ケアが求められるのは、被災者ばかりではない。東日本大震災では津波や火災、被災地の
悲惨な状況などが繰り返しテレビで放映された。実は今、こうした映像を見て気分が悪くなり、医療機関を訪れる人が増えている。
厳密にはPTSDではないものの、テレビを見ることで不安な気持ちになり、それが心身の健康に影響を与えて、頭痛や腹痛、吐き気、不眠といった様々な症状を引き起こす。子供の場合は、いつも以上に親に甘えたり、突然反抗的になったりする症状も表れるという。
重村氏は「こうした人にも、腹式呼吸や日ごろの趣味や娯楽を取り戻すなどのセルフケアが有効だ。テレビの視聴時間を最小限にとどめるのも重要だろう」と話す。症状が深刻な場合は、医療機関への受診を検討するといい。
■参考記事 日経メディカル緊急特集●東日本大震災 Vol.7 震災に伴うPTSDにどう対処するか? 防衛医大精神科学講座講師 重村 淳氏 4月4日 http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/report/t133/201104/519193.html ■参考記事 “震災PTSD”から救う、心のケア5つのポイント (1/2) ZAKZAK 2011年03月24日 http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1103/24/news007.html ■参考記事 震災後の子どものPTSD(再掲) 奥山真紀子(埼玉県立小児医療センター付属大宮小児保健センター保健指導部医長) 3月22日
http://www.blog.crn.or.jp/lab/06/03.html■参考記事 報道映像がトラウマ テレビ局スタッフもPTSDに 2011.3.28 産経 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110328/dst11032821070065-n1.htm 私も小さな子どものころ、家で小さな火事が出たとき
しばらく 「赤いもの」 を見ると、火がついたように泣いていたそうです ショックはしばらく続くかもしれませんが 必ずよくなります やさしく接しながら、こうしたケアを
しばらくの間 してあげるといいのかもしれません http://img01.kitaguni.tv/usr/ch12046/%E3%81%8C%E3%82%93%E3%81%B0%E3%82%8C-1.jpg
http://ch12046.kitaguni.tv/e1784278.html |
全1ページ
[1]



