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しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける

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ドナルド・キーン氏
日本考えない日なかった 



「日本考えない日なかった」 永住決めたドナルド・キーン氏、NYで講演

2011.6.14  産経  http://sankei.jp.msn.com/world/news/110614/amr11061410270004-n1.htm


 海外における日本文学研究の第一人者で、日本への永住を決めているドナルド・キーン米コロンビア大名誉教授(88)は13日、ニューヨークのジャパン・ソサエティーで講演し「(日本文学に接し始めた)18、19歳の時から、日本のことを考えない日は一日もなかった」と日本への愛着を語った。
 コロンビア大関係者によると、キーン氏は8月下旬に日本に移り住む予定。

 キーン氏は今年1月、日本で入院中に「どう余生を過ごそう」と熟考し、「愛する」日本の国籍を取得して日本に永住することを決意。東日本大震災後、日本が大変な苦難に直面している状況を目の当たりにし、今こそ「日本人とともにいることが重要だ」と、永住の決意をさらに強固にしたという。(共同)



http://sankei.jp.msn.com/images/news/110614/amr11061410270004-p1.jpg
http://sankei.jp.msn.com/world/photos/110614/amr11061410270004-p1.htm

13日、ニューヨークでの講演で、日本文学との出会いなどについて笑顔で話す
ドナルド・キーン氏(共同)





日本永住の決意強まる「必ず復興する」とドナルド・キーン氏



 海外における日本文学研究の第一人者であるドナルド・キーン米コロンビア大名誉教授(88)は2日までに、同大で共同通信のインタビューに応じ、東日本大震災と福島第1原発事故に見舞われた東北地方などは「必ず復興する。決して絶望してはいけない」と被災者らを励ました。
 また今年に入り、日本国籍を取得し、余生を日本で過ごす決意を固めていたが、震災後の日本が大変な苦難に直面している状況を目の当たりにし、今こそ「日本人と共にいることが重要だ」と判断。永住の決意がさらに強まったことを明らかにした。
 キーン氏は震災発生時、テレビに映し出された「真っ黒な大津波が全てを押し流していく」映像を見て「すごく恐ろしい気持ちになった」と回想。「日本人がこれから経験するであろう苦難を思った」と当時の心境を打ち明けた。(共同)


「私は日本という女性と結婚」 ドナルド・キーン氏、永住へ帰化手続き

2011.4.17  産経  http://sankei.jp.msn.com/life/news/110417/art11041711580005-n1.htm


 日本文学研究で知られる米コロンビア大名誉教授のドナルド・キーンさん(88)が日本に永住する意思を固め、日本に帰化する手続きを始めたことが15日分かった。関係者が明らかにした。関係者は「東日本大震災で大変心を痛め、被災者との連帯を示すために永住への思いが固くなったようだ」と話している。

 キーンさんは1922年、ニューヨーク生まれ。学生時代に「源氏物語」の英訳を読み、日本文化に興味を抱いた。日米開戦後は海軍情報士官として、玉砕した日本兵の遺書を翻訳したり捕虜を尋問。復員後、英ケンブリッジ大、米コロンビア大、京都大で日本文学を学んだ。「日本文学の歴史」「百代の過客」「明治天皇」などの著作で知られる。
 三島由紀夫とは京大留学中の54(昭和29)年に知り合って以来の友人で、三島作品の翻訳も行った。2008(平成20)年に文化勲章を受章した。

 松尾芭蕉の「おくのほそ道」をたどる旅をし、英訳も出版。東北大(仙台市)で半年間、講義したこともある。それだけに、被災地の状況を心配している。平泉の中尊寺は難を逃れたが、何度も訪れた松島や多賀城など芭蕉ゆかりの地は大きな打撃を受けた…。

 キーンさんはこれまで1年の半分ほどを東京都北区の自宅で過ごしてきたが、26日にコロンビア大で最終講義を迎えることもあり、日本に永住することを決めた。周囲に「日本が大好きだから」などと説明しているという。

■ 「危機だからこそ」

 法務省は15日、震災直後の3月12日から4月8日までの4週間に日本から出国した外国人は延べ53万1000人で、このうち発生後1週間では24万4000人だったと発表した。震災発生前の1週間は14万人だった。
 震災と福島第1原発事故を受けて、各国が一時的な出国検討を勧告したり、被災地からの帰国支援を実施したことが影響した。

 NHKのインタビューに応じたキーンさんは「日本は危ないからと、(外資系の)会社が日本にいる社員を呼び戻したり、野球の外国人選手が辞めたりしているが、そういうときに、私の日本に対する信念を見せるのは意味がある」と語った。
 「私は自分の感謝のしるしとして、日本の国籍をいただきたいと思う」とし、夏までに日本国籍を取得する考えだ。

 独身を通してきたキーンさんは「私は『日本』という女性と結婚した。日本人は大変優秀な国民だ。現在は一瞬打撃を受けたが、未来は以前よりも立派になると私は信じる」と、新たな祖国になる日本の復活を信じている。





日本を思う人がいる。  国と歩む民がいる。
それが、わが国 日本

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明治天皇(中)
ローマ賢帝との共通性




東大教授 山内昌之氏 
2011.3.31  産経  http://sankei.jp.msn.com/life/news/110331/art11033107230003-n1.htm



 明治天皇の御製(ぎょせい)は、どことなく古代ローマの哲人皇帝、マルクス・アウレリウスの『自省録』のエスプリと似たところがある。
 2人には、哲人あるいは詩人として、他の皇帝や王たちと違う共通の個性が感じられるのだ。その一つは、統治の哲学を短い文章で簡潔に表現する才能に秀でていた点である。実際に明治天皇が明治43(1910)年に詠んだ和歌は味わい深い。


 短くてことの心のとほりたる
 人のふみこそ読みよかりけれ


 2人には大きな相違もあった。マルクス・アウレリウスは8歳の時に失った父の「慎ましさと雄々しさ」を記憶しつつ成長したが、明治天皇は8歳の時から父の孝明天皇に歌を詠む喜びや作法を教わった。
 親子の縁が薄かったマルクス・アウレリウスと違い、明治天皇は16歳まで父帝の慈愛に育まれながら成長したのである。




西郷、山岡から吸収


 王政復古の大号令後の小御所会議で、酩酊(めいてい)した前土佐藩主、山内容堂(やまうちようどう)がうっかり形容した「幼冲(ようちゅう)(おさないこと)」という言葉は、父を失ったときのマルクス・アウレリウスにはあてはまっても、明治天皇にはそぐわない表現であった。実際に容堂は、帝は不世出の英主であられるぞと岩倉具視(ともみ)に切り返されたのも当然なのだ。

 マルクス・アウレリウスは、ストア主義者の師マクシムスから克己(こっき)の精神と確固たる目的をもつことを学んだと告白している。病気の場合でさえも、機嫌良くしていることも教えられた。優しいところと厳格なところがうまく混ざり合った性質や、目前の義務を苦にせず果たすこともマクシムスによる訓練の賜物(たまもの)であった。こうした特性は明治天皇にも共通しており、明治42年の御製には次のような作品がある。


 己が身は顧みずして人のため
 尽(つくす)ぞひとの務(つとめ)なりける



 まさに東日本大震災で復旧支援に携わる自衛隊員をはじめとした公務員や、原発作業員やボランティアの自己犠牲的な精神にそのまま当てはまる言葉であろう。被災地外の国民も、この献身的な人びとに感謝しなくてはならない。

 明治天皇のマクシムスは果たして誰だろうか。天皇は、多くの賢臣から薫陶を受けている。しかし、統治や統帥(とうすい)、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、西郷隆盛や、その推輓(すいばん)で侍従となった幕臣、山岡鉄舟の存在に負うところが多いのではないか。宮中を女官中心の内裏(だいり)の雰囲気から変え、西欧のように武芸から学問にまで通じる活動的な青年君主に育てた人物は、まずこの2人であろう。

 マクシムスがマルクス・アウレリウスに影響を与えたのは、明治天皇が西郷や山岡から吸収した知徳と同じだったことも興味深い。「驚かぬこと、臆さぬこと。決してあわてたり、しりごみしたり、とまどったり、落胆したり、作り笑いしたりせぬこと。また怒ったり、猜疑(さいぎ)の心をおこしたりせぬこと。慈善をなし、寛大であり、真実であること」(『自省録』神谷美恵子訳、岩波文庫)

 この2人の帝王には、労働を愛する心と根気強さ、公共のために忠言を呈する賢臣に耳を貸し、各人にあくまでも公平に接した点においても共通する要素が多い。何よりも食物や衣服など嗜好(しこう)にこだわらず、万事に欲望が少なく質素だった点は驚くほどだ。明治天皇は、どれほど和歌が好きでも、それで政務をなおざりにはしなかった。大臣や重臣が政務を奏上(そうじょう)するときに、詠歌を考えている様子は少しも見受けられなかったという。

 これはちょうど、今上天皇がどれほど御専門のハゼはじめ生物学の研究をお好きでも、大事な御公務が途中で入ると必ずおやめになられ、研究室の電気をすべて消してからお仕事に戻られる姿勢とも共通している。他方、明治天皇は余裕綽綽(しゃくしゃく)と即興で歌が浮かんだというから、歌人の才は天性のものなのだろう。

風雲の志士が御歌所長


 薩摩出身の侍従高崎正風(まさかぜ)は、御歌掛(おうたがかり)に挙げられたとき、詠歌を嗜好しすぎて大切な国政をなおざりにせぬよう求めた。職を受ける以上は「厳師」になるので「不敬不遜」にならないために、あらかじめ「勅許」を得たいと述べたらしい(大阪毎日新聞社編『明治天皇御百首』)。随分と思い切ったことを言うものだ。

 明治天皇は高崎の言い分すべてを受け入れた。莞爾(かんじ)として笑みを浮かべる天皇の顔が浮かびあがるようである。高崎の父五郎右衛門は島津斉彬(なりあきら)の継嗣問題をめぐる御家騒動、「高崎崩れ」の中心人物であり、正風も寺田屋事件や薩英戦争に深く関わり、戊辰戦争でも参謀として活躍した。革命やテロの風雲を乗り切った志士が天子の御歌所(おうたどころ)長になるのはまず奇観であり、世界史にもほとんど類を見ないことだ。

 天皇も人間である。やはり歌を詠み、好きな歴史書を読む楽しみは格別であった。その時間がないとさりげなく述懐する明治45年の御製に微(かす)かな“ぼやき”の念を感じるのは、私の感性の浅さであろうか。しかし、明治天皇の機知やユーモアの発露とも考えたいのは私だけでないかもしれない。


 繙(ひもと)かむ暇(いとま)なき日のおほきかな
 読むべき書(ふみ)はあまたあれども




http://muse.main.jp/arts/Augustus1.jpg
http://muse.main.jp/arts/00-198.html

古代ローマの中で、最高の繁栄をうたったのが 「5賢帝時代」。 18世紀の歴史家エドワード・ギボンは
「人類が最も幸福な時代」 であったと表現する。 マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、この5番目に
帝位についた人物で、彼が遺した 『自省録(じせいろく)』 により、その思慮の深さや、真摯な姿勢が、
時代を超えて、多くの人々に共感と親しみをもたれている。                           








ふりつもる  み雪に耐へて  色かへぬ
松ぞををしき  人もかくあれ


昭和天皇
終戦の翌年、「松上雪」 と題して詠まれた御歌。
戦時中の苦労が雪のように降り積もり、そして、敗戦の悲痛にも耐え、国土を復興させようと立ち向かう人々の姿を、緑豊かな力強くたくましい松にたとえて、国民を励まされようとされた御歌。今の私たちに対しても、厳しい時代にあっても心は決して枯れてはならないことを思い起こさせてくれる。



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