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しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける

正しい日本の歴史

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いつも不思議に思うのは、
自分の国で、自分の使う教科書を
自由に選べないこと・・・


   
東京都大田区が育鵬社の歴史、公民
教科書を採択
 
2011.8.5  産経  http://sankei.jp.msn.com/life/news/110805/edc11080502070000-n1.htm


 東京都大田区教育員会は4日、平成24年度から中学校の歴史と公民で使用する教科書として、教科書改善の会(屋山太郎代表世話人)のメンバーが執筆した育鵬社の教科書を採択した。
 東京23区では現在、杉並区が扶桑社の教科書を使用しているが、育鵬社になってからの採択は初めて。来年度は28校で約1万人が学ぶ。



教科書戦争に勝ったのは
大田区だけではない



「勇気を持って答えを出した」 育鵬社
教科書採択で横浜市教委委員長

2011.8.4  産経  http://sankei.jp.msn.com/life/news/110804/trd11080423500034-n1.htm



 歴史と公民のいずれも育鵬社に決まった4日の横浜市教育委員会の教科書採択は、歴史観をめぐり育鵬社や自由社教科書の不採択を求める運動が過熱する中で行われた。「勇気を持って答えを出した」。今田忠彦委員長は採択終了後の会見で、こう総括した。

 同市内では両社の教科書について「戦争を美化する」「憲法を軽視している」などと批判し、不採択を訴える集会や記者会見が繰り返し行われた。市教委には、これまで市民団体や在日本大韓民国民団(民団)横浜支部などから両社の不採択を求める多数の請願が提出された。韓国や香港のメディアも取材に訪れるなど、採択結果に注目が集まった。
 傍聴定員20人に約650人もの希望者が詰めかけ、抽選に漏れたとみられる男性が審議中の会議室の外で騒ぎ続け、警察官が駆けつけるトラブルも起きた。
 平成21年の前回採択で自由社の歴史教科書を選んだ際の無記名投票が「“開かれた採択”に逆行する」との批判を受けたため、委員会は今回の採択を記名投票とした。終了後には、直ちに各委員の投票態度を公表した。
 今田委員長は最後に、「多くの辞任要求を出され、誹謗(ひぼう)中傷を受けた。子供のためという美名のもとのイデオロギー闘争だ」と吐露した。



教科書改善の会(きょうかしょかいぜんのかい)

「新しい歴史教科書をつくる会」(1997年結成)の内部分裂により脱退したメンバーが、引き続き中学校歴史・公民教科書の発行を行うために2007年に組織された団体である。代表は屋山太郎。

教科書出版社として扶桑社が設立した「育鵬社」から教科書を継続発行することが決定している。正式には「改正教育基本法に基づく教科書改善を進める有識者の会」という。

同会の性格について『扶桑社の教科書事業が独立して設立されたフジサンケイグループの教科書会社「育鵬社」による中学校歴史・公民教科書の発行を側面支援する有識者グループ』と[1]している。本部所在地は東京都台東区上野。

2007年に当時の安倍内閣が成立させた、「公共の精神の尊重」と「我が国と郷土を愛する態度を養う」などを謳う「改正教育基本法」(平成18年法律第120号)に基づいた歴史教科書及び公民教科書を出版することを目的として同会が設立された。また「つくる会」の扶桑社版の版権も継承していると見られている。

しかし実際には従来から、ほぼ同様な運動をしていた「つくる会」が、教科書編纂をめぐる版元(扶桑社)との対立から関係解消が通告され、つくる会から分裂したメンバーが結成した団体であるともいえる。一方の「つくる会」は自由社と提携することを決定した。

八木秀次日本教育再生機構理事長(元つくる会会長)も参加している。また賛同者にはクライン孝子や小林正、種子島経、中村粲といった従来「つくる会」に参加していた者や、花岡信昭や花田紀凱といった保守論客などが名を連らねている。

■2011年3月検定合格版
いずれも育鵬社より出版。2011年5月10日には市販本も出版された。

採択状況
2011年8月4日、神奈川県横浜市が育鵬社版の歴史・公民教科書を採択した。歴史、公民合わせて年間5万人以上がこの教科書で学ぶ。また、神奈川県藤沢市、大阪府東大阪市などでも育鵬社版の教科書が採択されており、採択数を伸ばしている。



育鵬社 「新しい日本の歴史」 「新しいみんなの公民」


育鵬社HPより

こんな教科書で学びたい
新しい日本の歴史


【本の内容】
困難を乗り越え、「命のバトン」をつなげよう!

歴史の流れが一目でわかるイラスト版「歴史絵巻」など様々な特色満載!
執筆者のメッセージなど特別編集した市販用付録12ページ付。
平成24年度使用開始教科書の市販本。

太古から未来へと引き継がれていく歴史。それは、過去・現在・未来を生きる人々による「いのちのバトンリレー」です。先人たちはさまざまな困難に出あいながら、豊かな文化を築き、「いのちのバトン」をつないできました。こうして引き継がれてきた歴史は、“文化と経験の宝庫”です。私たちは、今の日本をつくってくれた先人たちに感謝しながら、生きる知恵を歴史に学び、共に生きる社会をよりよいものにして、明るい未来を次の世代につなぐ役割をになっています。
『新しい日本の歴史』は、こうした考え方のもと、約60年ぶりに改正された教育基本法が掲げる教育の目標を実現するためにつくられた、歴史の豊かさと楽しさを学ぶ教科書です。



こんな教科書で学びたい
新しいみんなの公民


【本の内容】
確かめ合う家族・地域・国民の絆、世界とのつながり!

日本の領土・領域を明記。「日本の伝統文化一覧」など様々な特色満載!
執筆者のメッセージなど特別編集した市販用付録12ページ付。
平成24年度使用開始教科書の市販本。

現代に生きる私たちは、歴史的分野で学習した過去から現在、そして未来へと続く「タテ軸」と、家族、 地域、国家、国際社会と広がる「ヨコ軸」の交点にいます。私たちは長い歴史をもつ日本の継承者として、次の世代に受け渡す伝承者として伝統と文化を尊重 し、公共の精神を培い、社会的課題に対して多面的・多角的に考察し、公民的資質の基礎を養うことが求められます。
『新しいみんなの公民』は、こうした考え方のもと、約60年ぶりに改正された教育基本法が掲げる目標を実現するためにつくられました。地域社会を支え、日本と国際社会に貢献できる未来の主人公を育成するための教科書です。





なぜに、日本の教科書採択時になると
韓国や香港から メディアがくるんだね・・・

摩訶不思議なことが
日本で起こっている


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日本は ほんとうに
悪い国なのか?
 
 
 
「日本が大変なときに、ありがとう」
ハイチPKO “派遣延長を”
7月31日 4時4分 NHKニュース
 
 
去年、大地震に見舞われたカリブ海の島国ハイチで、平和維持活動に当たる国連PKO部隊の司令官
が、現地での日本の自衛隊の活動に深く感謝するとともに、日本政府に対し、来年1月末で期限となる
派遣期間の延長を要請したい考えを示しました。
 
去年の大地震で20万人以上が犠牲となったハイチでは、18か国が参加する
国連のPKO部隊が治安の維持や復興支援に当たっていて、このうち自衛隊
の330人からなる部隊は大型機械などを使い、地震で崩壊した建物の瓦礫
の撤去のほか医療施設や孤児院の建設などの作業を続けています。
 
ハイチのPKO部隊の制服組トップ、ラモス司令官は、このほどニューヨークの国連本部でNHKのインタ
ビューに応じ、自衛隊の派遣開始から1年半にわたる活動について、「日本みずからが
震災が起きて困難に直面しているときに自衛隊は
ハイチの人々を支援し続けてくれている。日本の国民
に本当にありがとうと言いたい」と深い感謝の意を示し
ました。
 
さらにラモス司令官は、ハイチの復興にはまだ何年もの時間がかかるとしたうえで、「統率のとれた
日本の部隊はどの国と比べても卓越した活動をしている。引き続きハイチにとどまってもらうことが重要
だ」と述べて、日本政府に対して来年1月末で期限となる自衛隊の派遣期間の延長を要請したい考え
を示しました。
 
 
 
「ハイチのマザー・テレサ」 日本人女性を支援
自衛隊、ハイチに結核療養所を建設
 
 
去年の大地震で20万人以上が犠牲になったカリブ海のハイチで、「ハイチのマザー・テレサ」と呼ば
れる日本人女性が活動拠点としている結核療養所の施設の一部が、復興を支援する日本の自衛隊
によって建設され、このほど引渡し式が行われました。

ハイチの西部レオガンにあるこの結核療養所は、去年1月の大地震で、4棟の病棟すべてが全半壊
し、およそ60人いる入院患者が、猛暑の中、テントで治療を受けているうえ、シーツなども屋外で手洗
いするしかない、劣悪な環境に置かれています。
 
こうした衛生状態を改善しようと、復興支援のため派遣されている、兵庫県伊丹市が本拠地の陸上
自衛隊第3師団を中心とした部隊が、国連のプロジェクトの一環で、洗濯場として使える建物を建設し
ました。この療養所は、現地の住民の医療支援に長く携わり、「ハイチのマザー・テレサ」と呼ばれる、
医師で修道女の須藤昭子さん(84)が活動拠点としていて、15日に行われた建物の引き渡し式では、
須藤さんのほか、国連や自衛隊関係者がテープカットをして完成を祝いました。
 
屋内の洗濯場には、井戸からくみ上げた水がパイプで送られ、地元の子どもたちが、蛇口から流れ
出る水に手を差し伸べて歓声を上げていました。須藤さんは、「今回の自衛隊の支援は本当にありが
たい。テントで寝ている患者さんのために、一刻も早く病棟を建ててあげたい」と話しています。
 
 
 
 
ハイチ地震から1年 復興支援続ける
自衛隊
2011年1月6日 日テレ24  http://www.news24.jp/articles/2011/01/06/10173621.html
 

 ハイチの大地震から来週で1年になる。ハイチで国連の平和維持活動に参加している自衛隊は、孤児のための宿泊施設を造るなど、復興支援を続けている。

 

 ハイチで年越しをした自衛隊。大みそかには、日本から持ち込んだ臼で餅つきをした。現在は、青森などから派遣された第3次隊330人が支援活動を続けている。当初はがれきの除去が主な仕事だったが、最近では、新しく学校を造るための土地の造成などを行っている。

 ドミニカ共和国の国境に近い児童擁護施設では、地震の後、急増した孤児に対応するため、国連の要請で女子専用の宿泊施設を造ることになり、自衛隊は地震に強い日本式の基礎工事を施した。現在は屋根を造っており、今月中の完成を目指している。

 一方、自衛隊の活動にとって新たな不安要素となっているのがコレラの流行。外出から帰るたびに車両の消毒を行い、衛生管理に気をつけている。自衛隊のハイチでの任務はあと1年となっている。
 
 
 
 
自衛隊もまた
国の鑑
 
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聯合艦隊解散之辞 に学ぶ

東郷平八郎元帥
 
 
 
秋山真之 参謀
 
 
明治三十八年 (1905年)、日露戦争終結後の連合艦隊解散式において東郷平八郎連合艦隊司令長官が読み上げた訓示。
秋山真之参謀の起草と言われています。
 
聯合艦隊解散之辞

二十閲月ノ征戰已ニ往事ト過ギ、我ガ聯合艦隊ハ今ヤ其ノ隊務ヲ結了シテ茲ニ解散スル事トナレリ。
然レドモ我等海軍々人ノ責務ハ決シテ之ガ爲ニ輕減セルモノニアラズ。
此ノ戰役ノ收果ヲ永遠ニ全ウシ、尚益々國運ノ隆昌ヲ扶持センニハ、時ノ平戰ヲ問ハズ、先ヅ外衞ニ立ツベキ海軍ガ常ニ其ノ武力ヲ海洋ニ保全シ、一朝緩急応ズルノ覺悟アルヲ要ス。
而シテ武力ナル物ハ艦船兵器等ノミニアラズシテ、之ヲ活用スル無形ノ實力ニアリ、百發百中ノ一砲能ク百發一中ノ敵砲百門ニ對抗シ得ルヲ覺ラバ、我等軍人ハ主トシテ武力ヲ形而上ニ求メザルベカラズ。
近ク我ガ海軍ノ勝利ヲ得タル所以モ、至尊ノ靈徳ニ頼ル所多シト雖モ、抑亦平素ノ錬磨其ノ因ヲ成シ、果ヲ戰役ニ結ビタルモノニシテ、若シ既往ヲ以ツテ將來ヲ推ストキハ、征戰息ムト雖モ安ンジテ休憩ス可カラザルモノアルヲ覺ユ。
惟フニ武人ノ一生ハ連綿不斷ノ戰爭ニシテ、時ノ平戰ニ由リ其ノ責務ニ輕重アルノ理ナシ。
事有レバ武力ヲ發揮シ、事無ケレバ之ヲ修養シ、終始一貫其ノ本分ヲ盡サンノミ。
過去ノ一年有半彼ノ風濤ト戰ヒ、寒暑ニ抗シ、屡々頑敵ト對シテ生死ノ間ニ出入セシコト固ヨリ容易ノ業ナラザリシモ、觀ズレバ是レ亦長期ノ一大演習ニシテ之ニ參加シ幾多啓發スルヲ得タル武人ノ幸福比スルニ物無シ。
豈之ヲ征戰ノ勞苦トスルニ足ランヤ。
苟モ武人ニシテ治平ニ偸安センカ、兵備ノ外觀毅然タルモ宛モ沙上ノ樓閣ノ如ク、暴風一過忽チ崩倒スルニ至ラン。
洵ニ戒ムベキナリ。
昔者、神功皇后三韓ヲ征服シ給ヒシ以來、韓國ハ四百餘年間、我ガ統理ノ下ニアリシモ、一タビ海軍ノ廢頻スルヤ忽チ之ヲ失ヒ、叉近世ニ入リ、徳川幕府治平ニ狃レテ、兵備ヲ懈レバ、舉國米艦數隻ノ應對ニ苦シミ、露艦亦千島樺太ヲ覬覦スルモ、之ト抗爭スルコト能ハザルニ至レリ。
飜ツテ之ヲ西史ニ見ルニ、十九世紀ノ初メニ當リ、ナイル及ビトラファルガー等ニ勝チタル英國海軍ハ、祖國ヲ泰山ノ安キニ置キタルノミナラズ爾來後進相襲ツテ能ク其ノ武力ヲ保有シ世運ノ進歩ニ後レザリシカハ、今ニ至ル迄永ク其ノ國利ヲ擁護シ國權ヲ伸張スルヲ得タリ。
蓋シ此ノ如キ古今東西ノ殷鑑ハ爲政ノ然シカラシムルモノアリト雖モ主トシテ武人ガ治ニ居テ亂ヲ忘レザルト否イナトニ基ケル自然ノ結果タラザルハ無シ。
我等戰後ノ軍人ハ、深ク此等ノ實例ニ鑑ミ、既有ノ錬磨ニ加フルニ戰役ノ實驗ヲ以ツテ、更ニ將來ノ進歩ヲ圖リテ時勢ノ發展ニ後レザルヲ期セザル可カラズ。
若シ夫レ常ニ、聖諭ヲ奉體シテ、孜々奮勵シ實力ノ滿ヲ持シテ放ツベキ時節ヲ待タバ、庶幾バ以テ永遠ニ護國ノ大任ヲ全ウスル事ヲ得ン。
神明ハ唯平素ノ鍛錬ニ力メ戰ハヅシテ既ニ勝テル者ニ勝利ノ榮冠ヲ授クルト同時ニ、一勝ニ滿足シ治平ニ安ンズル者ヨリ直ニ之ヲ褫フ。
古人曰ク勝ツテ兜ノ緒ヲ締メヨト。

明治三十八年十二月二十一日
聯合艦隊司令長官 東郷平八郎


<現代語訳>
連合艦隊解散の訓示

二十ヶ月にわたった戦いも、すでに過去のこととなり、我が連合艦隊は今その任務を果たしてここに解散することになった。しかし艦隊は解散しても、そのために我が海軍軍人の務めや責任が軽減するということは決してない。
この戦争で収めた成果を永遠に生かし、さらに一層国運をさかんにするには平時戦時の別なく、まずもって、外の守りに対し重要な役目を持つ海軍が、常に万全の海上戦力を保持し、ひとたび事あるときは、ただちに、その危急に対応できる構えが必要である。
ところで、戦力というものは、ただ艦船兵器等有形のものや数だけで定まるものではなく、これを活用する能力すなわち無形の実力にも左右される。百発百中の砲一門は百発一中、いうなれば百発打っても一発しか当たらないような砲の百門と対抗することができるのであって、この理に気づくなら、われわれ軍人は無形の実力の充実すなわち訓練に主点を置かなければならない。
この度、我が海軍が勝利を得たのは、もちろん天皇陛下の霊徳によるとはいえ、一面また将兵の平素の練磨によるものであって、それがあのような戦果をもたら したのである。もし過去の事例をもって、将来を推測するならば、たとえ戦いは終わったとはいえ、安閑としてはおれないような気がする。
考えるに、武人の一生は戦いの連続であって、その責任は平時であれ戦時であれ、その時々によって軽くなったり、重くなったりするものではない。ことが起これば戦力を発揮するし、事がないときは戦力の涵養につとめ、ひたすらにその本分を尽くすことにある。過去一年半、あの風波と戦い、寒暑に耐え、たびたび強 敵と相対して生死の間をさまよったことなどは、容易な業ではなかったけれども、考えてみると、これもまた長期の一大演習であって、これに参加し多くの知識 を啓発することができたのは、武人としてこの上もない幸せであったというべきであり、どうして戦争で苦労したなどといえようか。
もし武人が太平に安心して目の前の安楽を追うならば、兵備の外見がいかにりっぱであっても、それはあたかも砂上の楼閣のようなものでしかなく、ひとたび暴風にあえばたちまち崩壊してしまうであろう。まことに心すべきである。
むかし神功皇后が三韓を征服されて後、韓国は四百余年間我が国の支配下にあったけれども、ひとたび海軍が衰えるとたちまちこれを失い、また近世に至っては、徳川幕府が太平になり、兵備をおこたると、数隻の米艦の扱いにも国中が苦しみ、またロシアの軍艦が千島樺太をねらってもこれに立ち向かうことができなかった。目を転じて西洋史をみると、十九世紀の初期、ナイル及びトラファルガー等に勝った英国海軍は、祖国をゆるぎない安泰なものとしたばかりでなく、それ以降、後進が相次いでよくその武力を維持し世運の進歩におくれなかったから、今日に至るまで永く国益を守り、国威を伸張することができたのである。
考えるに、このような古今東西のいましめは、政治のあり方にもよるけれども、そもそもは武人が平和なときにあっても、戦いを忘れないで備えを固くしているかどうかにかかり、それが自然にこのような結果を生んだのである。
われ等戦後の軍人は深くこれらの実例を省察し、これまでの練磨のうえに戦時の体験を加え、さらに将来の進歩を図って時勢の発展におくれないように努めなければならない。そして常に聖論を奉体して、ひたすら奮励し、万全の実力を充実して、時節の到来を待つならば、おそらく永遠に護国の大任を全うすることができるであろう。神は平素ひたすら鍛練に努め、戦う前に既に戦勝を約束された者に勝利の栄冠を授けると同時に、一勝に満足し太平に安閑としている者からは、ただちにその栄冠を取り上げてしまうであろう。
昔のことわざにも教えている「勝って、兜の緒を締めよ」と。

明治三十八年十二月二十一日
連合艦隊司令長官 東郷平八郎

 
 

東郷司令長官のこの訓示は、たちまち各国語に翻訳され、世界中に紹介された。
なかでもアメリカ合衆国のルーズベルト大統領は一読、大いに感動し、直ちに筆を執って陸海軍長官に書簡をしたため、これを隷下の陸海軍人に教示するよう促しました。
現代日本に学ぶべきことは多いはず。
 
 
 日本國は日本人が護るべき・・・だと
 
 
 
 

転載元転載元: 美しい国

反日だけではない韓国。
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  金 完燮氏(キム・ワンソプ)著の「親日派のための弁明2」には日本時代の朝鮮を狂おしいほどに懐かしむ人が多い、と書いてあります。日本時代は法がなくても生きられる社会だったと金氏の親戚が述べていたといいます。金氏は両親からも次のように聞いています。

「あの時代を狂おしいほどに懐かしむ人も多い。だから集まるたびに演歌をむせび泣くように歌う」

  さらに1930年生まれの先輩からこう聞いています。

「『今よりあのころの方がよかったと思わないか?生きる楽しみもあって』というと、同窓の99%は同意する」

  先生からは次のように言われたといいます。

「北海道に徴用に行った朝鮮人の賃金は、当時の日本人ホワイトカラーの月給の三倍から五倍で、勤務時間も徹底して遵守され、朝鮮人は幸せだったように思える」

  金氏は「反日洗脳教育」を受けて成長した韓国の戦後世代にとっては、天地がひっくりかえるほど衝撃的な証言である、と述べています。日本人も強制連行というウソや従軍慰安婦というウソ、とにかく戦前真っ暗、日本悪玉論を学校教育やマスコミに刷り込まれて信じてしまってきた人にとっては信じがたい話でしょう。

  満州の北朝鮮国境付近には満州族や朝鮮族の自治区がいくつか存在しています。吉林省の東部に行くと延辺朝鮮族自治州という区域があり、80万人近くの朝鮮族が居住しているといいます。満州時代からの朝鮮族や北朝鮮の飢餓難民が多く住み着いたようです。曙機関(時事問題、国際問題を漫画で描く製作集団)のレポートによるとこの自治州では日本語教育が盛んであるといいます。高等教育を受けたくらいの朝鮮族なら日常会話の日本語ができるので、日本人にとって極めて旅行しやすい地域なのだそうです。
  さらに驚いたことにこの地域では野外に出かけることを「サンポ」といい食べ物持参だとそれを「ベントウ」といい、日本の言葉が残っているといいます。8月15日は敬老の日で、人民公園を訪ねると気の良い朝鮮族の老人たちが日本人を見つけると「日本の歌を歌ってくれ」と所望してくるといいます。曙機関の人が日本の歌を所望されたとき、流行りの歌などしらなかったので、「勝ってくるぞと勇ましくー」と軍歌を歌ったところ、老人たちの目に衝撃が走り、

「ちかーってくにを出たからわー」

と一緒になって唱和し始めたのです。そしてやんややんやの喝采で、「もう一曲」とリクエストされたといいますから、びっくりするお話です。日本時代を懐かしんだのです。若者も韓国企業が当地に進出してくるとその工場に働きにいきますが同じ民族なのに差別され、韓国へ出稼ぎにでると同じく差別されるので、日本への郷愁を深めているといいます。

「韓国の奴らめ!口を開けば『俺たちは経済力がある、経済力がある』って自慢するが、日本ほど経済力がある訳でもないじゃないか。それをなんだって偉そうに!!」

  前出の金 完燮氏は幼いころ「トラ!トラ!トラ!」という映画(アメリカ製作)を見、卑劣で悪どく描かれた日本を見て続編を楽しみにしていた、と述べています。時は流れて「パール・ハーバー」という映画(アメリカ製作)を見たとき「私は日本軍を応援している自分を発見した」「地球の反対側まで出征して、アメリカの太平洋艦隊を叩き潰した日本という国の偉大さに、私は感動し、驚きを覚えた」と書いています。反日教育の洗脳が解けていったのでしょう。
  金氏によると韓国では歴史の「真実」に気付いた世代が増えているといいます。おそらくネットの発達によるものでしょう。また知識人の中にも勇気ある発言をする人が増えてきているそうです。世代を超えて日本への郷愁・・・とまではいかないでしょうが、少しずつあるべき姿に変わってきているのかもしれません。



参考文献
  「親日派のための弁明」金 完燮(著)/荒木 和博 (翻訳), 荒木 信子 (翻訳)
  「親日派のための弁明2」金 完燮(著)/星野知美 (翻訳)
  オークラ出版「世界に愛された日本」『中朝国境・朝鮮族の地を歩く』曙機関
添付画像
  新義州府の税関通り(PD)

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津軽海峡冬景色 - 北朝鮮版 Japanese Enka Song North Korean Version
http://www.youtube.com/watch?v=PQKKiY46lK8

 北朝鮮で演歌はポピュラーというが日本語の歌詞でも歌われているところが興味深い。年配の人や満州の人が「狂おしいほど懐かしむ」からか???youtubeにはいくつか北朝鮮で歌われている日本の演歌がアップされています。何か粋さを感じます。ちなみに著作権料は支払われていない模様。


転載元転載元: かつて日本は美しかった


【偉人物語】

吉田松陰 
貫いた「共に学び共に育つ」

2011.5.21  産経  http://sankei.jp.msn.com/life/news/110521/art11052107540003-n1.htm





 吉田松陰(1830〜59年)の名を不滅としたものの一つは、松下村塾での教育であった。松陰が関わった僅か3年足らずの小さな私塾から、幕末維新の変革を担う人材がまさに綺羅星(きらぼし)のごとく輩出したことは「奇跡」という他はない。

 「わずかに十八でふ(畳)の古い家の塾であつた。しかし、このせまい塾に

集まつた青少年の中から、久坂玄瑞(くさか・げんずい)、高杉晋作を始めと

して、明治維新のをり、身を以(もっ)て国事につくした大人物がたくさん出た。

(中略)松陰の塾を松下村塾と呼んだ。ここでは、武士の子も、農家の子も、

へだてはなかつた。また松陰は、決して先生だといふ高慢(こうまん)な態度

をとらなかつた。先生と塾生の膝(ひざ)と膝とが、くつついてゐる。礼儀は正しいが、へだてはなかつた」。修身教科書は、松下村塾の教育の特徴を的確に描写している。



松下村塾。 行ってみるとわかるが、本当に狭い。 ここで数十人が並んで学んだという。


久坂玄瑞                                  高杉晋作     



 教育者としての使命感に溢(あふ)れ、日夜、塾生の教導に尽力した−というのは、松陰の心情からすれば誤りである。孟子の「人の患(うれい)は、好んで人の師になるに在り」を評して、「学を為すの要は己が為にするにあり」「己が為にするの学は、人の師となるを好むに非ずして自(おのず)から人の師となるべし」と松陰はいう。「共に学び共に育つ」者として絶えず努力を続けていく。その生き方が松陰を教育者とした。



http://sankei.jp.msn.com/images/news/110521/art11052107540003-p1.jpg
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110521/art11052107540003-n2.htm


 徹底した平等主義と一人一人を生かす教育−。松下村塾の教育には、すべての人間の本性が善であると信じて疑わず、どのような人間にも可能性があることを信じ続ける松陰の生き様が貫かれていた。
 1858(安政5)年6月の日米修好通商条約を機に松陰の言動は過激さを増していく。自重を促す
久坂、高杉に松陰は「僕は忠義をする積もり、諸友は功業をなす積もり」といって取り合わず、翌年、
江戸伝馬町の獄舎で露と消えた。

 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置まし大和魂」

の辞世で書き出された遺書「留魂録(りゅうこんろく)」に接した塾生たちは、師の遺志を継いで敢然と

動き出す。志ある者として、自己の可能性を信じ求めるという松陰が身を以て示した教えを塾生たちは忠実に受け止めたのである。そんな彼らの強い絆と結束は、しばしば「松下村塾党」と称された。


 なお、修身教科書は、松陰の父母の人となりについても伝えている。この親にしてこの子あり。偉人の陰には、優れた父母の教えがあったのである。(武蔵野大学教授 貝塚茂樹)





以下、吉田松陰のお母上のお話を、「すかたんの法話−親鸞聖人のお話ー」さんから 転載させて
いただきます。

http://ameblo.jp/wasedaman125/entry-10301183832.html#main


親の大恩 吉田松陰の母(一)

「親思う心にまさる親心・・・」。
   松陰は処刑される一週間前にこの歌を詠み、
   母は、松陰の死刑の時刻に、息子の夢を見た。


   親思う 心にまさる親心
今日のおとずれ何ときくらん     (吉田松陰)



  幕末の思想家、吉田松陰が、二十九歳で処刑される一週間前に詠んだ歌である。


信念を貫いた本人に、悔いはないかもしれない。

しかし、

息子の死を聞いたら、親は、どう思うだろうか。

子供は親のことを忘れて突っ走るが、親は、常に子供を案じてくださっている。

松陰の胸にも、込み上げてくるものがあったのだろう。


松陰は、長州藩士の貧しい家に生まれた(現在の山口県)。   ※吉田松陰(1830−1859)

二十二歳の時、十年間諸国遊歴の許しを受けて旅に出る。

著名な人物を訪ね、勉学に励むためである。

この時、母は息子に多額の旅費を渡した。

驚いたのは松陰である。

そんな余裕がわが家にあるはずがない。

息子の万一の時の備えにと、貧乏の中から両親が、少しずつ節約してためていたものであった。

松陰は、感極まって泣かずにおれなかった。

この親心で実現した遊学が、松陰の人生と日本の歴史に重大な影響を与えるのである。


松陰が江戸に滞在中、ペリーがアメリカの軍艦を率いて浦賀に入り、開国を迫った。

黒船来航である。

「今や、世界情勢を学ぶことが急務」と考えた松陰は、大胆にも  小舟で軍艦へ近づき、アメリカへ密航を頼んだ。

しかし、交渉は失敗。幕府に捕らえられ、長州へ送られた。

長い牢獄生活が始まるのである。


両親は、牢獄へ、温かい着物や食べ物を差し入れ続けた。

退屈しないようにと、書物や筆、紙に至るまで届けるという大変な心遣いであった。

また牢獄は湿気が多く不衛生なので、衣類は、すぐシラミがわく。

母はよく洗濯に訪れ、わびしい生活を慰め、息子の健康に気を配ったという。

松陰は、牢獄に入っている人たちを次々と感化したと伝えられているが、その陰には、両親の涙ぐましい支えがあったのである。

やがて牢から出され、謹慎を命じられた。

ここで、内々に塾を開き、青少年の教育に当たるようになった。

有名な「松下村塾」である。

※松下村塾(しょうかそんじゅく)・・・松陰が主催した私塾。高杉晋作、伊藤博文らを輩出した。


塾に寝泊りして苦学している者もいる。

松陰の母は、食べ物を差し入れるだけでなく、洗濯や掃除、風呂の準備まで、細々と門下生の世話を焼いた。

時勢を論じれば議論百出し、会合が冬でも深夜に及ぶことがたびたびあった。

そんな時でも、常に母は、終わるまで隣室に控え、火鉢で焼いた かきもちや熱い番茶を配り、皆の疲れをいたわっていたという。

松陰の門下生の心をつかみ、幕末に活躍する人材を育てた背景には、優しい母が、門下生の母となって愛情を注いでいたことも見逃せない。


徳川幕府は、松陰と松下村塾に不穏な動きがあると見た。

松陰は、再び捕らえられ、江戸へ送られてしまう。

母は、松陰が江戸へたつ前の晩に、風呂で背中を流してやった。


「きっと無事で帰ってこられるでしょうね」

心配する母に松陰は、

「大丈夫、帰ってきますから」 と にこやかに答えるのであった。


松陰が江戸へ向かってから五ヶ月後のこと、母は、疲れてうたた寝をしていた。

すると松陰が、

「お母さん。ただいま帰ってまいりました」  と元気な笑顔で言った。

それは、近年にない明るい姿であった。母は、非常に喜んで、

「まあ、珍しい」と声をかけようとすると、夢が覚めたという。


それから、二十日余りして、松陰が刑場の露と消えた知らせが届いた。


母が夢を見たのは、ちょうど息子の死刑の時刻であった。 





私は山口県出身でして、私の両親は 松下村塾のある萩市に生まれ、育ちました。

これらの文章が、とても その 「萩の地」 の雰囲気をよく現しています。

萩には萩城があり、城下は今でも、素朴ながら ひきしまった雰囲気に

満ちています。


国に何事か起これば、その身を捨てて馳せ参じる。

今では古臭い言い回しですが、この地には、未だ そのような気流に

満ちています。


維新はここからはじまった。

なんとなく、うなずける感じがしております。


success


http://dreams.world.coocan.jp/photo/znif/honshu/hagi/t_a_shoin_03.jpg
http://www.ne.jp/asahi/yume/dreams/main/Photo_honshu_hagi_shoin.htm
松下村塾
わずか50㎡。 この場所から、多くの志士が生まれ、旅立っていきました。





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