successのブログ

しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける

報道されない本当の日本と日本人

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異国の地に生きたサムライ


アルジェリア人 「日本人は首に爆弾を巻き付けられても
”禅”のような静けさで威厳に満ち勇敢だった」

2013年01月28日  http://sekaiteki.net/archives/23315182.html


「勇敢で威厳持ち」邦人拘束時の様子を証言


アルジェリアで日本人10人が死亡した人質事件で、日本人と同じ場所に拘束されていたアルジェリア人の男性が拘束時の様子を証言した。証言したのは、事件があった施設で国営企業の技師として働いていたソフィアンさん。

ソフィアンさんが日本人を見たのは事件が発生した16日朝で、4、5人の日本人が他の外国人と共に居住区にある来客用の建物の前に連れてこられたという。うち1人はケガをして治療を受けていた。

ソフィアンさん「日本人は他の欧米人と一緒に集められていて、首や腹に爆発物を巻きつけられていた」「日本人たちは禅のような静かさでパニックに陥ることもなく、勇敢で威厳を持っていた」

また、ソフィアンさんは軍が人質を乗せたとみられる車列を空爆するのを目撃したと話した。
多数の犠牲者が出た軍事作戦についてアルジェリア・メデルチ外相は26日、今後、検証を行う考えを示している。


日テレ 動画あり
http://www.news24.jp/articles/2013/01/27/10222020.html
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1359271119/





イメージ 1
三浦襄



産経新聞「忘れ難き偉人伝」にバリ島の父と呼ばれた三浦襄(じょう)翁の記事が記載されていました。原文のままご引用します。

終戦後の昭和20年秋、インドネシアのバリ島で、一人の日本人の葬儀が行われた。「バパ・バリ」(バリ島の父)と呼ばれた三浦襄(じょう)。葬列には8人の領主や16人のヒンズー教僧正ら有力者の後に、住民が続き、1万人以上が死を悼んだ。

「『日本人は戦争に負けたら、腹を切るものだ。それが武士道。日本人はその覚悟で戦争に臨んでいる』と説いてきた。だが、だれも自決する者がいないではないか。これでは嘘つきだということになり、今後バリの人たちは日本人と日本を信用しなくなる。バリにいる日本人を代表して自決する」

この言葉を残し、9月7日、拳銃でこめかみを撃ち抜き、自決した。

明治21(1888)年、仙台市で牧師の次男として生まれた三浦は、キリスト教伝道と商いを兼ねた南洋商会に入会し、ジャワ島に渡航する。その後、商売優先の姿勢に疑問を感じ脱会。セレベス島のトラジャでコーヒー園を経営するが、世界不況のあおりを受け、倒産する。事業に向かないことを悟った三浦はバリに移住し、自転車店を始めた。暑くてもネクタイを締め、黙々と油にまみれて働く姿に住民たちが徐々に心を開き、「トコ・スペダ・トワン・ジャパング」(自転車屋の日本人のおじさん)と親しまれるようになった。

しかし、昭和16(1941)年の開戦で状況は一変。オランダ政府はインドネシアの日本人を検挙し、自転車店で働いていた2人も収容所に送られた。一時帰国していた三浦は難を逃れるが、17年1月25日、53歳の三浦に召集令状が届く。地元住民との架け橋になれる三浦の力が必要だった。

同年2月19日、陸軍第48師団とともにバリのサヌール海岸に上陸。三浦は領主を説得し、一人の犠牲者も出さずに、軍政となった。

バリを統制する民政部職員になることを要請されるが、行政の立場ではなく、民政部長官の顧問として、住民との間に立つことを望み、「バリ人を登用し自由な経済組織をつくること」や「人頭税の撤廃」などを提言。

そしてことあるごとに、「日本はインドネシアを独立させる」と話して回るようになった。

昭和17(1942)年、日本の軍政下となったインドネシア・バリ島。明日は戦地に赴くかもしれない日本軍兵士と住民の間には深い溝があり、不平不満が渦巻いていた。バリ島の父と呼ばれた三浦襄(じょう)(1888〜1945年)の自宅には住民からの相談の列が壁の外まで続く。内容は軍政の不満から夫婦げんかの原因までで、三浦は親身になって聞いた。

民政部顧問から嘱託となり、自由の身となった三浦は軍に食料を調達しながらも、住民の生活を守るため「バリ畜産会」を設立。月1万5千頭の牛豚を扱い、住民数百人が働く企業に成長する。植民地下で搾取されるだけだった住民は「日本人が指導すればわれわれもできる」と自信を持ち、三浦の存在感は高まる一方だった。さらに、余った牛骨を加工し、歯ブラシやボタンを作る「三浦商会」を立ち上げ、畑もない貧しい人々を雇い、生活を助けた。

戦局の悪化に伴い、バリでも郷土防衛義勇軍の募集が始まる。「われわれと一緒に戦い、連合国を破り、君たちの祖国を独立に導きたい。バリ島はバリ人の手によって守らねばならない」と呼びかけた。約1000人が応募し、昭和18年4月、選考された500人から成る義勇軍が結成された。この若者たちが日本敗戦後のインドネシア独立戦争の主力に成長、独立の礎を築くことになる。


体調を崩した三浦は周囲の勧めもあり、帰国を決意するが、「半年したら帰ってくる。バリ島で死にたい」と言い残し、後ろ髪を引かれる思いで船に乗り込んだ。体重が激減し、がんとみられている。

19年、日本軍はますます押し込まれ、もはや療養どころではない三浦は日記にこう書き残している。

「死線を越え、原住民との約束、帰島履行せねば日本人の信用にかかわる。戦局、非なりといえども死が行く手に待ち構えていても使命は果たさねばならぬ」

三浦帰島の知らせはたちまち島中に行き渡る。「バパ・バリ ダタン ラギ」(バリ島の父が再び戻った)。バリは歓呼の声に包まれた。

昭和20(1945)年7月17日、東京の最高戦争指導者会議で、インドネシア独立が決まった。バリ島に帰ってきた三浦襄(じょう)(1888〜1945年)は「建国同志会」に唯一の日本人として参加、事務総長に就任。各地の講演で三浦の唱える「インドネシア・ムルディカ(独立)」の声は日増しに大きくなっていく。

だが8月18日、突然の知らせを受ける。日本の敗戦。その言葉を聞いた三浦は「やはり、そうですか」と消えるようにつぶやき、体を小刻みに奮わせた。翌日には「バリの人たちに嘘を言った。腹を切らなければならない」と自決の意を伝えた。

三浦は病を押し、日本敗戦を謝罪して回る。最後の講演会は9月6日夕刻、デンパサールの映画館前広場。上下白の背広姿の男が姿を現すと「バパ・バリ(バリ島の父)」の声が上がり、静まりかえる。

「日本人は約束を果たすことができませんでした。しかし、私はこの国の独立を信じています。この国の進むべき道は、みなさんの祖国愛に燃える団結と前進あるのみです。私は全日本人にかわってこの地に骨を埋めて独立を見届けるつもりです」

デンパサールの墓の脇に碑文があり、バリ人宛ての遺書が残されている。


「吾々は今まで絶えず諸君に日本精神を、武士道を、或(ある)いは犠牲的精神を説き、君国の為(ため)には喜んで死ぬこと、インドネシア独立の基礎は諸君の犠牲の血であり肉であらねばならぬことを強調してきた。

更(さら)に日本人が断言せる事は、必ず断行すると言う事実を諸君の前に示すことは、この三年有半育成せられたる諸君の覚醒せる精神に、更に一段の向上進歩を遂げしむる最期の教訓であることを私は信じるものである。

今私は穢(けが)れてしまった肉体をかなぐり捨てて、清く正しい憐憫(れんびん)と感謝に満つる霊魂となりてバリ島に止まり吾が敬愛し親交せる一三〇万同胞の繁栄と幸福とを祈り念ぜんとするものである。諸君よさようなら。

皇紀二六〇五(西暦一九四五)年九月七日午前六時 バリ島一三〇万兄弟諸君  三浦 襄」

イメージ 2





三浦翁は、軍人ではなく、軍属でもありません。恩給も、遺族には支払われていません。

三浦翁は、いち日本人として、なんの栄誉も個人的利益も求めず、ただ祖国とインドネシアの友好のために、粉骨砕身し、最後は自らの言葉に生命をもって償なわれたのです、誇りある日本人として。
三浦翁の自決より約半世紀以上になる今日、バリ島は”神々の住む島””地上最後の楽園”等と賛辞を贈られていますが、「バリの歴史」現在の伝統文化の築き上げられてきた過程に、一人の日本人が、遠く離れたバリの地で小さな身体を大きく大きく広げて生きていたことを、私達は同じ日本人としてまた、人間として誇りに思い、三浦翁のみならず、先人の生き様を後生の日本人に語り継いでいくことこそ現世の我々の使命ではないでしょうか?。

拙記事をご覧の皆様が、インドネシアのバリ島、デンパサール市に行かれたなら、是非、三浦翁の墓地にお参りをして頂ければと思います。



転載元転載元: 美し国(うましくに)




先ほど、見かけた 『「外国人が日本に感謝の言葉を述べていくスレ」海外の反応』 。

ちょっと うれしくなっちゃったので、ご紹介していますね。^^





「外国人が日本に感謝の言葉を述べて
いくスレ」海外の反応

http://blog.livedoor.jp/drazuli/archives/6147564.html



日本に愛の言葉を囁いていくスレ。

■フランス

僕の幼少期の実に75%を占めてくれてありがとう。

任天堂(すべてのゲーム、ポケモンとかそういう日本人が作ったもの全部)、
ソニー、セガ、ドラゴンボールZに他にも沢山。

あとバイオハザードについてもお礼は言いたいな。


http://livedoor.blogimg.jp/drazuli/imgs/5/8/5864930f.jpg


■フランス

ソニーや漫画とかナルトをありがとな。


http://livedoor.blogimg.jp/drazuli/imgs/3/f/3fc174a7-s.jpg


■ポーランド

日本には俺の嫁と僕の自由時間を費やす色んな興味深い方法を与えてくれて
感謝する。
テレビゲームとかにも感謝するよ。
ちゅうう〜〜〜

■ポーランド

日本ありがとう。
子供の頃の僕にとってはポケモンはスターウォーズに匹敵するものだったよ
それとヘンタイやアニメ、漫画、あとゲームボーイカラーにも感謝。


■フランス

日本の変わったイマジネーションやファンタジーに感謝する。
だいすきだ。
そのまま変わった日本でありつづけてくれ!!


■日本

起きてこのスレ見て胸がぽかぽかした。
日本じゃ今は土曜日の朝6:07だよ。


■ポーランド

日本には私の旦那を感謝。
メルシーフランス。


アメリカ合衆国

あまりアニメは見ない方だけどメカアニメにはお礼を言いたい。
あと日本料理うめえ。



http://livedoor.blogimg.jp/drazuli/imgs/3/a/3a892261-s.jpg


■フィリピン

フィリピンは経済が滅茶苦茶なのに投資してくれてありがとう。
二次元の女の子を描いててくれてありがとう
安価で良質なバイクをありがとう
科学技術、電子分野でのイノベーションをありがとう

弱い者いじめをする中国に対抗する同盟国でいてくれてありがとう

この素晴らしい国に対してどれだけ僕が感謝しているかってことを文章で表現するなんて不可能に近い。
日本は真に素晴らしく慈悲に満ちた同盟国だ。



■オーストリア

日本はオーストリアのことを好きになってよ
俺達が一緒になれば世界を狙える。


■ウルグアイ

トクサツについて愛を囁いてる書き込みがまだないの?
日本にはゴジラ、スーパー戦隊、仮面ライダー、あとこんな感じの戦闘服を着て戦う感じのものに感謝する。


■オーストリア

日本のすべてに感謝したいと思う!
日本のおかげで10年前の僕の幼少期は完璧なものだったよ。
スレ主のフランス人が言ってるようにね。

今僕は大学で日本語を勉強しているんだけど日を重ねるたびに日本への興味と愛は増大する一方だ。

将来的には日本がもっと強力に、もっとより良く、もっと美しくなれるよう僕も何かしらお手伝いをすることが出来たらと思ってる。

オーストリアからでした
ありがとうございます!

※最後の「ありがとうございます!」は日本語でした。


■アメリカ合衆国

日本は最高の同盟国って以上の存在。
日本はアメリカの親友だから


■インドネシア

日本の固有の文化に感謝したい
日本以外じゃどこもタコとポルトの結びつけることなんてできなかったと思うよ。


■日本

フランスに神の祝福があらんことを。
俺達はフランス好きだよ。


■フィンランド

日本はアニメをありがとう!(:3:)


■チリ

日本の文化を見せてくれてありがとう。


■日本

常に時代の最先端を行く日本であることに感謝する。


■ニュージーランド

日本クンは私のこと好き?

http://livedoor.blogimg.jp/drazuli/imgs/8/a/8a4eebdc-s.jpg


■オーストラリア

日本のことが好きだってことに理由なんてないよ。
ただ単に好きなだけで。


■フランス

クロサワをありがとう。


http://livedoor.blogimg.jp/drazuli/imgs/6/0/6083f4a0-s.jpg


■アメリカ合衆国

中世のイカした歴史をありがとう日本。

http://livedoor.blogimg.jp/drazuli/imgs/c/8/c84cd348-s.jpg


詳細はこちらへ
http://blog.livedoor.jp/drazuli/archives/6147564.html







単純に、何かうれしいです。

success


はい。^^







今朝、ふと見つけた youtube画像。
何の気なしに見ていたのですが、タイトルどおり、なかなか 「よい話」 です。

よろしかったら、ぜひご覧ください。
少し癒される内容です。





1つだけ、お話をピックアップしてみると・・・



国際寮に住んでいた時の 昔話。

宗教の話をしてて
「日本にはどこにでも 神様がいるんだよ」
「八百万ていうのは “いっぱい” って意味」
「中には 貧乏の神 っていうのもいるんだー」
などと つたない英語で話した事がある。

相手は呆れたというか
信じられないみたいな感じになった。

何しろ あちらの神様(GOD) は まったき善なので、
悪や不幸といった類のものを司る神様というのが
イマイチ想像できなかったらしい。

そんで相手が 
「ここのトイレにも 神様がいるってのかいHAHAHA」
みたいなことをいったわけ。

当時使用していた御世辞にも
綺麗とはいえないトイレ。
紙は流せない (詰まる)し、余裕で汚物が留まる。

「トイレの神様は とても格の高い神様だ」
といったら、冗談だと思ったらしく爆笑。

「神様が集まって、それぞれを司る場所を決めた時、
みな汚いからと嫌がった」
でもトイレってなくてはならないものだよね?
なければ困るよね?
だから その神様は進んで
その役割を引き受けたんだよ」

「トイレを綺麗にする人は、
その神様がちゃんと見てて 運をさずけてくれるんだよ」
(元ネタ: 日本昔ばなし)

皆シーンとして、えらい感激された。
感心というか、思ってもみないことを言われた! と。

それからしばらくして、うちの寮のトイレは
今までと 比べ物にならないくらい綺麗になった
というオチW



宗教上のことで仲たがいしている国の人が、日本に来て仲良くなるって話は 
よくききます。

最後に 1つ。
こんな話もあるみたいです。


【イスラエル・パレスチナ】イスラエル、パレスチナ 女子高生が日本で交流 「敵同士なのに友達になれた」

2009年8月22日7時56分配信 産経新聞
http://www.logsoku.com/r/news5plus/1250902908/

「敵同士なのに友達になれた」−。長年の紛争で敵対関係にある中東のイスラエルとパレスチナ自治区。
双方の女子高校生たちが今月初め来日し、紛争地の人と人の心をつなごうというプロジェクトに参加、
新しい友を得て21日帰国した。
イスラエルとパレスチナの若者が12日間、日本でどのように双方の恐怖や不安、憎しみを克服したのか。

「絆(きずな)プロジェクト」(主催・特定非営利活動法人=NPO法人=ピース・フィールド・ジャパン、村橋靖之理事長)に参加したイスラエルとパレスチナ、日本の若者約20人は20日夜、東京都渋谷区の国立オリンピック記念青少年総合センターでのお別れ会で、泣きながら別れを惜しんだ。

「まさかこんなに心を許せる友ができるとは思わなかった」「帰国後も、メールで連絡を取り合いたい」…。
引率の教師は「小さな一歩でも、タネは確実にまかれた。大きく成長してほしい」と期待を込めた。

そんな彼女たちも、来日した今月9日から数日間は緊張と不安でいっぱいだった。
パレスチナの女子学生が、イスラエル兵に連行されて帰ってこない親戚(しんせき)の話を泣きながら語り、イスラエルの女生徒は近くにミサイルが着弾したときの恐怖を伝えた。
そしてキャンプ地の山梨県小菅村でスポーツや畑仕事、日本文化を一緒に体験するにつれ、互いの気持ちに変化が表れていった。

「敵対する相手も同じ恐怖を共有する人間であることに気づかされた」「何でも話し合うことが大切だ」

 日本の若者は「平和ボケ」などと揶揄(やゆ)される。だが、プロジェクトに参加した財団法人キープ協会の米国人国際交流員、ローラ・ヴィラヌエバさん(33)は「家族のように迎えてくれた小菅村の人たちと日本の自然、そして平和な日本の若者がいたから、彼女たちは心を開くことができた」と評価する。

「欧米にも同様のプログラムはあるが、日本という国は平和構築事業に良い結果をもたらす可能性がある」。
日本の新たな国際貢献のあり方として注目していいかもしれない。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090822-00000071-san-soci






ところで、最初の youtubeに対しての ユーザからのコメントをご紹介します。
これがまた、いいコメントばかり。

いくつかをピックアップしました。


■だよね。宗教って人を幸せにするためにあるんだよね。
宗教のために戦争とかしちゃいかんよね。
日本人だからかもしれないけど、日本の宗教観ってすきだわ。
神様は懐が広いから人に迷惑かけるようなことじゃなければたいて­いのことは許してくれるさ。


■キリスト教にしてもイスラム教にしても、他の宗教や神を「邪教」­「邪神」と一方的に排斥し攻撃するきらいがあるから好感が持てな­い。むしろ日本のように寛大に全ての神を受け入れるという考えが­世界中に広まったほうが、世界は住みやすくなると思う。


■日本は古来から多神教の神道ですから、違う仏教が来た時も
「偉い神様が増えた」みたいな感覚だったんでしょうね。
結局「神仏習合」で神社へ初詣、死ねばお寺へ、家には神棚と仏壇­みたいな。
ある意味で凄く寛容ですよね。


■「日本は信教に関してかなり寛容だと実感した」
みたいなことを、大昔モルモン教についてヘビィーなドキュメント­番組で聞かれた
ケント・デリカットが言ってたはず。
同様に「ユダヤもイスラムもロシア正教も、フェアな姿勢で大事な­話が出来る土地は日本だけ」
とかってペルシャ絨毯の小売りやってるイスラム教徒の人が言って­たよな。


■ユダヤ人とイスラエル人の話が好き。
神主さんの話もそうだけど、日本の神様は結構外国から借りてるか­ら、一神教の神様たちを包括できる懐の深さがあるんですよね。
日本は平和ボケしているって言われるけど、できるなら誰だって平­和にボケっとしていたんです。





かけがえのない 「世界の架け橋」 になれるのではないか。
この国だけがもつ ミッションがあるような気がします。

success



http://www.izm.gr.jp/izumoru/kamigami/img/kamigami_main.jpg







夫、中川昭一が
遺したもの 3  
中川郁子氏インタビュー            


http://24.media.tumblr.com/tumblr_l2i7bcjAXB1qanbl9o1_500.jpg
http://nandato.tumblr.com/post/603310344/yamo-checcolloyd-on


インタビュアー  西村幸祐氏

西村:中川先生との出会いについてお聞きしたいのですが。政治家の妻になるという意識はありましたか。

中川:19歳のときに友人の紹介で出会い、3年半お付き合いして結婚したのは23歳のときでした。出会ったときは選挙権もない歳だったので、政治家の妻になるという意識はありませんでした。ただ義父が農林大臣だったので、そこで初めて中川一郎という名前も知って、テレビで見てこういう人がお父さんなのかという、その程度の意識でした。

お付き合いしているうちに社会人になり、「政治家を継ぐことがあるのですか」と主人に聞くと、「親父も若いし、先のことは分からない。弟もいるし、叔父もいるし」と言われた記憶があります。

昭和57年の3月に突然、主人から食事をするからホテルに来ないかと誘われ、そこでいきなり
義父に紹介されました。義父に「結婚するのか」と聞かれ、いやまだそこまで、お互いプロポーズもしてもいないし、されてもいないので、と答えると、「そういうのは早いほうが良いね。今年大きな仕事をしようと思っているので大事なことは早くしたほうがいい」と言われました。

「それじゃあ」と言ってスケジュールを見て、
義父は「6月5日が空いている」と。もう電話を高輪プリンスに掛けてその場で結婚どころか、式場まで決まってしまったんです(笑)。義父が自民党の総裁選に出たのはその年の9月でした。

交際中、主人のことを友人は「昭ちゃんって、明治の男みたいね」と言っていました(笑)。彼はお世辞も下手だし、余計なことをあまり語ろうとしなかったんですね。

思い出すと、家族旅行など本当に数えるほどしか行けませんでした。家族4人で旅行したのは2回。ゴールデンウィークどこか行くの?という話題にはついていけないことが多かったんです。ああ、連休があるんだと、友達との会話で知らされる結婚生活でした。

西村:昨年8月30日の総選挙に落選してからお亡くなりになるまで、中川先生はどのように過ごされていましたか。

中川:失意の日々を過ごしていたのではないかと多くの方が仰いましたが、少なくとも家ではそんなことはなく、非常に前向きに次にもう1回選挙に出る意欲を話していました。そして、選挙までは一国民として日本のために仕事をしたいといつも言っていました。

それは何かというと、主人はずっと水資源の問題にも携わってきて、今、世界が水の危機を迎えるし、日本にも水の危機がくることを確信していました。

しかし、逆に今、GDPが中国に抜かれるであろう状況の中で、日本を救うのも、この水資源問題だし、水ビジネスを国家の基幹産業として考えていました。水資源や水質の研究機関を党派を超えて意識ある政治家の人たちが手を携えて作り、新しい国家目標の1つにできるのではないか。そんなことをよく言っていたんです。

日本の豊富な天然の水と技術力で、超純水が作れたり、食料品に含まれる水の価値が必ず日本のブランドの力になると信じていました。そして、水資源を利用するインフラ整備に本格的に取り組むことで新しい産業も生まれるはずだと常々私に語ってくれました。

また、政治家という立場を離れても、自分が何か民間で水資源に関わる仕事をさせて頂くことができるのではないかと、主人は庭に出るのがすごく好きだったので、庭でそういう話を私と交わしていました。
私も環境問題のNPOを2年前に立ち上げたので、主人が水問題に熱心なことから、私も主人を応援するし、一緒になにかやっていこうという話を亡くなる直前、3日前にもしていたんです。

プライベートでは、2人で旅行に行くことなど全くできなかったので、なくなった10日後には旅行へ行く計画も立てていました。

西村:政治家、中川昭一の奥様として、一番嬉しかった出来事は何だったのでしょうか。

中川:主人が政調会長になったときの最初の予算委員会の質問で、コンドラチェフの経済理論についての質問が良かったと主人に言うと、とても喜んでくれました。主人が亡くなった後で安倍総理にその話をしたら、議事録を読んで頂き、葬儀の弔辞を書いてくださいました。

それと去年の苦しい選挙戦のとき、北海道新聞主催の討論会があって、石川議員と共産党の候補の方と3人で話したんですが、その討論会で石川さんに対して、民主党候補だからと攻撃するわけでもなく、本当に大人の立場で同じ政治家としては、自分が先輩なんだからという形で、とても余裕のある話をしたことが私は嬉しかったんです。

帰宅した主人に哲学のある話だったから良かったと言うと、「そんなこと言っているのはおまえだけだ」と言われたことを思い出します。新聞を見るとそれが伝わってこないので残念でしたが、そのときは、自分なりに一生懸命主人に尽くしてきて本当に良かったと思いました。

西村:最後に奥様から読者の方に何かメッセージを。

中川:今の日本は大変なときを迎えていると思います。大変だけど、産みの苦しみのときではないでしょうか。
そんな話を先日、中山恭子さんがされていたのですが、本当にそんなときに北海道には福寿草という花があって、春が来たのだなと北国の人は思うんです。雪の下に芽を出して、小さくて可愛らしい花ですが、しっかりと健気に咲いている福寿草のことを思い出します。

冬の時代でも必ず芽を出すんです。そのように日本が再生、蘇ることを私は信じています。主人が命を
賭けて訴えていた「日本が危ない」というメッセージに、私なりに応えていけるのではないかと考えて
います。







中川昭一氏支援!世界賞賛の功績


http://www.tokachi.co.jp/election/20081006-01/01.jpg
http://unkar.org/r/mass/1235208539


http://www.nakagawa-shoichi.jp/mynews/image/b-P1010773.jpg
http://www.nakagawa-shoichi.jp/mynews/detail/20080501_299.html


http://hanausagi.iza.ne.jp/images/user/20100929/1089848.jpg
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/1819815




「花は、一生懸命咲くので好きだ」 
と言われていた。

中川昭一さんが言われたように、
日本に花を咲かせましょう。
一生懸命咲く花を。






転載元転載元: successのブログ


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