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しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける

石 平 氏

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日中問題研究家の 石 平(せきへい)氏の著書 『「日中友好」は 日本を滅ぼす!−歴史が教える「脱・中国」の法則』 から、非常に印象的なプロローグをご紹介する。

指摘内容は極めて正しい論と感じる。
この著書が出版されたのは、5年前の 2005年7月。
今の日本を透かして見ている如くの 指摘であることに、驚きを隠せない。

よろしければ、下記 ぜひご一読ください。

追記 (ブログ主より) : 
最後にある『コメント欄』で、「秀逸 オノコロさん」と 「私success」 のコメント会話をご覧くだ
さい。こちらの記事を削除しようと思いましたが、考えれば「よい教材」なので、このまま残して
おきたいと思います。



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石 平氏



中国に近づくと 必ず
「国乱れる」日本史の法則

石 平(Seki Hei)  

「治」と「乱」 交差のサイクルの法則性

古代から続く世界史の流れのなかで多くの国々が経験してきたように、日本でも「治世」期と「乱世」期には、周期的な交差が見てとれる。たとえば、内乱の戦国時代が終わると安定した江戸時代が訪れ、黒船の来航によって「徳川三百年」の泰平が破られると、世は一気に「幕末維新」の動乱期に突入する、というぐあいである。

この「治」と「乱」交差のサイクルに、何らかの法則性は見いだせないのか? 歴史学者の興味をさそう難題ではあるが、こと日本史に限って「治」と「乱」の変遷を見わたしてみると、不思議な傾向が1つ浮かび上がってくる。

それは、日本の「治」と「乱」の交差には、中国大陸との関わり方が強く影響しているように見える、ということである。すなわち、日本が中国の政権に接近して深いつながりをもった時期、さらには中国大陸に進出した時期、日本国内はたいてい“動乱の時代”と化す。逆に、中国大陸から遠ざかって緊密な関係を持たない時期、あるいは中国政権との交渉を中断した時期には、日本は長期的な繁栄を享受してきた、という事実である。

時の権力との関係からいえば、日本史上、中国との濃密な関係を持ち、中国に深入りした政権は往々にして短命に終わっているのに対して、中国と一定の距離を保った政権は、逆に長持ちするという現象にもなる。

古代の 「治」と「乱」のサイクル

早くも古代から、この傾向は現れている。遣隋使・遣唐使の派遣が集中した飛鳥時代は、おそらく日本が有史以来、初めて中国との濃密な関係をもった時期であるが、日本は、蘇我入鹿暗殺に始まる「大化の改新」、「白村江の敗戦」が招いた国防上の危機、そして古代最大の内乱といわれる「壬申の乱」を連続して経験する“激動の時代”となった。

なかでも、朝鮮半島の白村江で中国の唐王朝と一戦交えたのは高名な天智天皇だが、彼の作った近江朝廷がわずか二代で亡んだことは特筆すべきであろう。

このような“激動の時代”を乗り越え、過渡期の奈良時代を経て、日本はついに長期の安定を保つ平安時代に入る。この時代、「平将門の乱」など局部的な地方反乱はあったものの、国全体をおおうような大乱はなく、三百年近くもの間、穏やかな“平安の歳月”が続いた。そして、文字通りこの「平安」時代は、日本が中国からもっとも遠ざかった時代だったのである。初期の百年間こそ、それまでの慣習に従って遣唐使派遣が断続的に続けられたが、ほんの数回程度に止まっている。894年に遣唐使が正式に廃止されると、以降二百年近くにわたって、日本は中国大陸とほとんど没交渉の状態に入る、まさに「唐土」から遠ざかって「平安」あり、というところである。

短期政権に終わった武士の 「乱」の期間

平安時代の長い「平安」は、やがて「保元・平治の乱」によって終止符が打たれる。内乱の平定に活躍した平清盛は、平安期を乗っ取る形で史上初の武家政権を作ったのである。清盛が、音戸の瀬戸や大輪田の泊(おおわだのとまり)などを修築して中国・南宋との日宋貿易を盛んにしたことは、歴史に残る業績だろう。この平家政権によって、遣唐使の廃止以来中断していた中国への通航ルートが再開され、中国と日本は再び近づいた。

そして、平家政権は、一代で滅びる短期政権となった。「唐土」との貿易など無縁の、東国の「田舎武士」たちが立ち上がると、清盛の作った「国際派」政権はたちまちにして崩壊したのである。

平家政権のあとを継いだ鎌倉政権は、中国大陸とは関係の薄い政権ということができるだろう。大陸との唯一の接点は、中国から鎌倉の地に禅宗を守り立てた程度。そして、平家と同じ武家政権でありながら、鎌倉幕府は百数十年の長期間、政権を維持することができた。
しかし、不運なことに、鎌倉幕府が自ら進んで大陸との交渉を求めないにもかかわらず、今度は向こうからやってきたのである。厳密にいえば「中国から」ではない。中国大陸を制圧したフビライによる元寇(げんこう)の襲来である。幸い、日本の武士階級は一丸となり、団結してこれを撃退したが、無理を押して戦争を遂行した結果として幕府体制の弱体化を招き、やがて鎌倉幕府の崩壊につながったことは、すでに定説であろう。言わば、京都よりも中国から遠い関東まで政府を持って行ったのに、結局、大陸の「祟り神」からは逃げられなかったのである。

鎌倉政権に代わった室町幕府は、日本史上で2番目の正式な武家政権であるが、最初の鎌倉幕府、3番目の江戸時代と比べると、その治世下の“平穏の時代”は最も短かった。足利尊氏が将軍職に就いて以降も約60年にわたって「南北朝の争乱」は続き、三代将軍義満の手でようやく南北朝合一が実現する。しかし、平和は長くは続かない。さらに60数年後の「応仁の乱」を発端に、大乱世の「戦国時代」へと突入するのである。考えてみるに、室町幕府の治世とは結局、史上最大の混乱期である「戦国時代」の準備期間に過ぎなかったのではないか。
この室町幕府体制を完成させった足利義満は、中国との間に勘合貿易(かんごうぼうえき)を確立したことで有名である。勘合貿易とは、中国の明王朝に貢物を差し出す「朝貢(ちょうこう)貿易」の形式をとっているから、そのため義満は進んで明王朝の冊封体制(さくほうたいせい)に入り、その臣下としての「日本国王」に成り下がった。いってみれば、金儲けのために武士の誇りも、日本の政治リーダーとしての主権意識も捨て去ったのである。モラルも気概もなく、中国相手の“金儲け”中心の室町幕府が長く続かなかったのも、当然のことであろうか。


「乱」の戦国時代以降の 織田・豊臣・徳川

その「戦国時代」の内乱に終止符を打ち、天下統一を成し遂げたのが織田・豊臣・徳川の3人の武将だが、その中で、中国との関係で大やけどを負ったのは豊臣秀吉である。一応の統一を果たした後、秀吉は中国大陸に攻め込んで明王朝を倒し、自らが寧波(にんぽー)に移り住んで「唐土」と日本の両方に号令するという、途方もない対外膨張計画を打ち出したのである。そして、配下の大名たちを総動員して朝鮮半島経由の軍事行動を実行する。日本の歴代統治者の中でも、本気で中国の全面征服を考えたのは、おそらく秀吉が初めてではないか。その結果は、周知のとおり大失敗である。


まさに、この敗退によって、豊臣政権は一気に衰退の道をたどる。朝鮮出兵に対し、配下の諸大名が賛成派、反対派に分かれたため政権内部の亀裂が生じ、豊臣家が蓄えてきた富もかなりの部分を使い果たした。秀吉の死をきっかけに天下の権柄は徳川家康に移り、もはや豊臣家の滅亡は時間の問題となる。結局、多くの戦乱を勝ち抜いて作り上げた政権を短期のものに終わらせたのは、秀吉自身の抱く大陸への野望だったわけである。

豊臣政権に代わって天下を取った徳川政権は、秀吉の失敗に懲りたからではないだろうが、「島原の乱」以降、一転して「鎖国政策」をとることになる。「鎖国」の内実に関しては歴史学上さまざまな論議もあるのだが、対中国関係に限っていえば、江戸幕府は中国と国交を結んだことは一度もなく、貿易関係も長崎の「唐人屋敷」のみという限定的なものであった。全体として江戸時代の日本は、中国大陸との関係が非常に希薄なのである。

「徳川三百年」といえば、まさしく“安定と平和”の名にふさわしい。そして、経済と文化ともに繁栄した時代でもあった。アジアで唯一の百万都市となった江戸の町の繁栄ぶりや、寺子屋の普及による識字率の驚異的な高さが、この時代を象徴している。

飛鳥時代から江戸時代に至るまでの、日本の「治」「乱」の変遷をこう見てみると、やはり、に日中関係の深さに関連するように思えてならないのである。天智天皇の近江朝廷、清盛の平家政権、秀吉の豊臣政権、中国と深く関係した政権はことごとく短期間で崩壊したのに対し、中国との没交渉か関係の薄い平安自ぢ亜、江戸時代において、日本史上もっとも平和な“繁栄の時代”を享受できらのはなぜだろうか。

近・現代史にみられる 「治」と「乱」の法則性

近・現代史においても、この不思議は関連性がはっきり見てとれる。たとえば昭和時代を概観してみると、昭和6年から20年までの14年間、日本は(中略)中国大陸に本格「進出」し、中国との全面戦争に突入する。有史以来、日本がこれほど中国大陸に深入りしたのはこの時期をおいてほかにはない。しかし、まさにこの14年間、日本はもっとも苦難に満ちた“激動の時代”を経験し、太平洋戦争の敗戦という外国軍の本土占領という、最悪の結末を迎えるのである。

昭和20年の終戦から47年の日中国交回復に至るまでの27年間、日本はふたたび大陸と隔離された関係にあった。そして、この期間、日本は驚異的な高度掲載成長を成し遂げ、戦後の繁栄と発展を築き上げる“黄金の時代”となった。

これはいったい、どういうことだろう。
単なる偶然か。いや、たびたび繰り返される「偶然」には何らかの法則性があると考えたほうが自然なのではないだろうか。

(中略)
中国出身でありながら日本で16年以上、勉強を続けてきた私にできる仕事が1つだけある。すなわち上述したような独自の視点で古代から現代に至る日中関係を洗い直し、日本史の中で「日中関係」の意味するところはなんだったのか、日本にとって中国とは何なのかという問題を掘り下げてみることである。現在、噴出している日中間におけるさまざまな問題に解決の道を見出し、将来にわたる日中関係のあるべき姿を提示するためには、この思考作業は無益なことではない、と私は思う。




石 平氏 (シー・ピン、せき・へい 1962年 - )  Wiki 

中華人民共和国生まれの漢族系中国人であり、現在中国系日本人(1世)の評論家。2007年末に日本に帰化。主に日中の政治・経済・外交問題について論じている。関東在住。
2002年初頭という早い段階で中華人民共和国国内に広がる反日感情をレポートした書物を出したことから論壇デビュー。以来、『正論』、『Voice』、『WiLL』などの保守論壇誌に論考を寄稿し、「独特の視点」から日中関係・中国問題などを論じてきている。日本首相の靖国神社参拝問題に対し、石は一貫して「靖国参拝」を政治問題化して日本に難儀をつける中華人民共和国政府の「横暴」な姿勢こそが日中関係の悪化を招いた原因だ」と主張、靖国神社を肯定する立場に立つ。

1983年頃  毛沢東暴政の再来を防ぐためと、中国民主化運動に情熱を傾け始める。
1984年7月 北京大学哲学部を卒業。
1988年4月 留学のために来日。日本語学校入学。
1989年   天安門事件。石平が祖国中華人民共和国に「精神的決別」を告げるきっかけとなる。





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