憎む心
キリスト教信仰の本質を異教徒の私にはわからない。
旧約聖書にある罰する神の恐さ
(私にはこの種の信仰はないので神に罰せられる怖さは持ち合わせてはいない ただ地獄には落ちたくないので生活は律してはいるものの 目に見えぬ神よりは 嫌な奴からでもそんな人からでも嫌われたくないわけで 神は日常では人を上回ることはない)
生きている間 いたるところの行いまでも白黒つけ 人に干渉する神から 「罪を許し救いをさしのべる神」という新約の世界へ方向をかえたのがイエスであったのだろうが 旧約の世界観を100%拭いきれず イエスが変えようとしたものを弟子が誤解した そんな部分が新約から感じ取り 良いように解釈している。
「ひたすら念仏せよ」という簡単なことさえひとは多くの誤解を取り入れてしまうもの 原罪を負わされて 聖書の抽象的言葉に忠実であろうとすると 純粋だけにこの強迫観念恐るべし。
キリスト教徒の愛は 模範的には神が愛してくれるように他人を愛することで 求めるものには与える、あなたの 右の頬を打つ者には、左の頬をも向けなさい というように究極には 神がなされることのようにふるまうことなのだろう しかしながら人は人であり 人間関係に求められる倫理規範の根底を 模範的に実行にうつすとなると 極めて闘争的で許容範囲は狭い。
浄土真宗をはじめ浄土教は 仏のようなふるまいを目指すこと自体放棄し 原罪を負うというよりも業というものはぬぐいがたき人間の本性として付き合うという違いになり。当然「軽蔑すべき対象」に対する態度もおのずと緩やかになる。
「地獄は一定すみかぞかし」(『歎異抄』
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(新約聖書 「マタイによる福音書 9章13節」
ともに本質的には同じようなことを言っていても ユダは永遠の裏切りの象徴であり この大きな強烈な印象が 2000年色あせない物語。ここが親鸞であれば 裏切りという「あやまち」でなくユダは誰でもおかす「間違い」となるだろう。しかしながら 仏心も見つけがたいものであるが キリスト教の「狭き門」は 文化的要素より 人種的体力の違いでないだろうかと考えてしまうほど 日本人にはこの狭き門を分け入る体力、信仰を保つ体力はない、人種的体力さもまた文化的違いを生む要素ではないだろうか
2004年頃「憎む心」と題して書いた文章に多少手をいれた。
英国でEU離脱の投票前 移民に寛容な議員が殺され 日本でも 何がヘイトスピーチなんだといった極少数派の言論封殺の為のヘイトスピーチ禁止法がろくな議論もされず成立しそうである。
旧約の世界から新約の世界になろうが教条主義 カトリックからプロテスタントになろうが 教条主義が新たに衣替えしただけだ 共産主義が社会主義 社会民主主義 左翼思想 サヨクと名と体をかえても同じ 無神論者もただの教条主義者。
「移民に寛容」「差別に反対」と簡単に共感したところで 火に油を注ぐだけ。
自分の家の前に住みついたホームレスを 全て負担して家に住まわせる寛容な気持ちを人は持つべきだとは1gも思わないし
殺人から売春までいつまでたっても統計上異常な高さで悪行を重ねる 特定な集団を排除することを差別とは考えない。このような考えを偏狭な憎む心と非難されようが 無責任な寛容より公平な正義ある憎む心がある社会の実現のほうがまともじゃないか。
人は親は選べないし 生まれる場所も選べない 性別も体も選べない そこにある理不尽さは そもそも解決すべきことではなく 受け入れる責任を負う それに人が手を貸す社会福祉のあるべき姿は 限られてくるもので限界をまず知るべきだ。
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