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今回も、作品本来の視点とプロポーションがテーマ。むしろ、古典作品の経年変化によるイメージの変容に関心を持って作品制作をしている私としては、逆の立場なのだが、北方遊牧民(鮮卑族)の王朝(北魏)の美術にカノンなど無いかのような、第20窟の広く知られた画像イメージには疑問を感じる。
第20窟の大仏は、中国石窟(平凡社)や世界美術大全集東洋編(小学館)といった大型豪華本をはじめ、多くのメディアで顔のアップ画像を見ることができるので、良く知っていた。
ところが、いざ実物を拝顔してみると、随分イメージが違うことに驚く。
写真画像などで私達が見ることのできる第20窟大仏の顔のイメージは、大抵が“恰幅の良い中年”である。それに対して、上の画像のように実際に見ることのできるイメージは“溌剌とした青年”なのだ。
この違いは何処からくるのか?どうやらメディアを通して一般によく見るこの大仏の顔は、足場を組むかクレーンによって顔に接近し、標準レンズの付いた大型カメラで撮影したものらしい。
なるほど、一般人は使えない立派な機材で金と時間をかけたおかげで、細部まで克明に描写され、重量感もたっぷり。スケール感のある迫力の画像である。ところが、数メートルもある頭部に標準レンズで接近している為、画像が歪んでいる。つまり、下膨れの顔になっているのだ。
それで“恰幅の良い中年”なわけ。
他の石窟の大仏の、大味でどーでもいい顔ならまだしも、相手は雲岡第20窟である。いくら立派な機材を使ったからって、デフォルメしてしまうのは、ちと無神経すぎないか?
写実性と抽象性が絶妙にブレンドされ、明朗な親しみやすさと畏怖を感じさせる威厳を兼ね備えた顔貌。均整のとれた、千両役者のような面構え。顔というのは、わずかな違いでも印象が大きく変わるもの。ちょっとバランスを崩してしまうと、もう“お笑い”である。
例えば、「ミロのヴィーナス」の顔を明確な意図もなしに、誰がデフォルメして撮るだろう?……要するに、それに等しい行為だと思う。
第20窟も、前壁には開口部が設けられていたと考えられる。だから、創建当初、開口部越しに顔は見ることができた。つまり、顔に関しては右の画像みたいに、離れた距離から狭い視野という、望遠レンズで撮影するようなアングルで見ることを意図していたと考えられる。
他の前壁のある石窟から類推しても、右の画像くらいの斜からの視点でも窟外から拝むことができただろう。左の画像も顔面部だけならこの視点で拝観可能。右肩のラインが若干おかしいのは“その2”で触れたように、この角度では本来前壁に隠れて見ることができないはずの肩の上面が見えてしまっているため。
ところで、この大仏も、元々は極彩色が施されていただろうが、宇宙論的身体イメージという点ではむしろ現在の方が強くなっているかもしれない。
太陽光線の加減や入射角度によってその顔の表情を変える様は、まるで天体の様であるし、光背や頭光は火炎型で太陽を連想させる。また、砂岩の素地がむき出しなため、層状の縞模様が木星や土星を彷佛とさせる。
経年変化によるイメージの変容とその魅力というのも、やはり忘れてはならない要素ではある。
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