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仏教美術の身体表現というのは、様々な存在のあり方を提示しているような面白さがある。生命体に例えれば、大仏は、生存の手段として巨大化を選んだ恐竜のあり方を思わせるし、千仏は個体数を増やすことで生き残りをはかった昆虫といえそう。
そしてそれらは、巨大さと膨大さというスペクタクルによって、ハリウッドの大作映画のように見るものを圧倒する。
歴史上の実在の一個人であったはずの釈迦は、死後500年を経て偶像が造られ、やがてそのイメージは一人の人物像を離れ、超越的存在として複製、反復を繰り返して、多様なイメージのヴァリエーションを展開していく……。
初めての個展<http://sugaft.com/1995solo.html>で、シルクロードの千仏をモチーフに、シルクスクリーンでヴァリエーションを展開したのは、アンディー・ウォーホルの、スターや政治家など著名(=ポップ)な人物のイメージを複製し、大衆消費社会の欲望を映し出そうとした作品と、仏陀イメージを多量に流布させて世界宗教となった、大乗仏教の美術はとても似ていると感じたからだった。
ところで、ウォーホルの作品は、例えば同じマリリン・モンローのイメージを繰り返しキャンヴァスにプリントしたものでも、シルクスクリーンの刷りを意図的にラフにすることによって、部分的に“かすれ”、“ムラ”を生じさせ、一つとして同じイメージのものが無い。
これは本来版画のような複製芸術の、均質な作品を保証する“エディション”の発想とは対極であり、そういったウォーホルのキャンヴァス作品は、シルクスクリーン技法を使っているとはいえ、明らかに“プリント(版画)”ではなく “ペインティング(絵画)”である。
画一的で無個性な商品を量産する、マスプロダクト産業社会の反映とされるウォーホル作品の反復イメージは、実は個体差を持っているのだ。このことは、遺伝子を複製しながらも個体差を造り出す生命の在り方をも暗示しているとは言えないだろうか。
また、例えマスプロダクトによる量産品であっても、それぞれが様々な人の手に渡り使用されるという“経験”、つまり、風化、摩耗、破損によって個体差が生まれる(付喪神は、こうして使い込まれた器物に生命感=魂を感じ取る発想から生まれたのでは?)。かつて雲岡石窟群外壁を埋め尽くしていた無数の千仏もまた、上の画像のように千数百年の経験によって、個体差が露となった。
こうした点でも、ウォーホル作品と千仏はその“存在の美(リアリティー)”のなかで共通項を結ぶことになる。
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