|
一角獣のタピスリーで有名な国立中世美術館。洗練されたタピスリーもすばらしいが、私がえらく気に入ってしまったのが、この洗練とは程遠い、いかにも民間信仰的なマリア像。
右手に幼子イエスを抱え、ザクロを左手に持ち、玉座に座るマリアという、中世美術によくある彫刻の胴体部分を観音開きに開けると、中央にイエスとその十字架をささえる父なる神、両翼は巨大なマリアのマントにかくまわれる人々が現れる仕掛け(仏教美術の白檀で彫られた仏龕に構造がよく似ている)。
胴体を開けるとイエスを膝に乗せて座っていたマリアが一瞬にして立ち上がり、他を包み込むほど巨大化するという仕掛けは、いかにも玩具的でありながらも、ちょっとしたスペクタクルだろう。手に取って遊んでみたい気分にさせられる。
ここにはキリスト教美術でもおなじみの「聖母子座像」、「聖三位一体」、「マントの聖母」の三つの主題が統合されているようだ。
元々神格化された女性キャラの存在しなかったはずのキリスト教は、民間レベルに於いて地母神信仰と結びつき、早くからマリア信仰を産み、13世紀にいたっては、父と子と聖霊のそれぞれの特性,力、智慧,慈悲を一体にしたものがマリアで、キリスト教の根本教義の三位一体のシンボルこそマリアとされる信仰まであったらしい。
ようするに、民間信仰ではマリアが一番えらくなって、父なる神をも凌駕してしまったわけだ。確かに、跪く人々と共に、父と子さえもマリアが包み込んでしまう15世紀のこの作品にも、そうしたマリア信仰の高揚を見ることが出来る。
上智の座(キリストの玉座)であったマリアが、聖三位一体と信者を包み込むグレートマザーに変身!? ということはキリスト教に於いても、インドのような密教的“大女神”が出現したことになる?
この作品、彫刻でもあり、三連祭壇画(トリプティク)でもある。また「聖母子像」という彫刻(立体)でありながら、「マントの聖母」の跪く人々は描かれた絵画(平面)であり、「聖三位一体」の“父”は浮彫(半立体)で、さらにその全体は祭壇という宗教儀礼の道具そのものでもある。
こうした主題やメディアのミクスチュアは、見るものにある種快感を与えるが、ルネサンス以降は、透視図法(線遠近法)と合理主義によって分化され、20世紀に総合的キュビスムやダダ、シュルレアリスムで復活するまで、封印されてしまう。
透視図法では、違う時空間の出来事(主題)や次元の違うメディア(立体=三次元と平面=二次元等)は同居することが出来ず、別々に表される。それが合理的思考というわけだ。
この作品の楽しさは、厳格な父性宗教と合理的時空間を飛び越えるという、二重の掟破りの痛快さにあるといえるかも。
それにしても気になるのは、聖三位の父と子と聖霊の内、鳩として表されるはずの聖霊が見当たらないこと。
カタログではイエスの像は18世紀につくり直されたもの(確かにプロポーションが正確でルネサンス以降の写実的表現)で、鳩の方は逸失してしまったとあるが、どうも“父”の白いひげあたりが怪しい。十字架の上端で胴体は隠れているものの、ひげのあたりに鳩の両翼と頭部らしきものが見えないだろうか?
もしこれが鳩の浮彫だとすると、十字架も新しいもので、元々はT字型の十字架の上に飛んでいたのが、意図的に新しい十字架で隠されてしまったと考えられるのでは?
となると根本教義に重大な改変が加えられたことになるけど、これは穿った見方なのか?
|