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八、九年前、日本で大規模なクメール美術展が催され、それを見てハマった私は、三度カンボジアに足を運んだ。前世紀の話だ(おおげさな)。そのクメール美術のコレクションで有名なのが、プノンペン国立博物館とこのギメ国立東洋美術館で、前述のクメール美術展も、主に両美術館の収蔵品により構成されていた。
今年の春、パリに行った目的の一つがこの美術館を訪ねることだった。館内は空いていて、数人の学生が床に腰を下ろし、展示品をスケッチする姿がみられるのみ。ルーヴルの18〜9世紀彫刻の展示室も似たような光景だったが、それはまた、4年前に訪問したコルカタのインド博物館を彷佛とさせもした。
以外とこじんまりした美術館で、著名なわりには旅行ガイドブックにはあまり載っていない。考えてみれば、東洋人がパリに来て東洋美術を、というのも物好きな話で、アジア系の入館者を見かけないのはむしろ当然か。
写真上は“東洋のモナリザ”で有名なバンテアイ・スレイ寺院の破風彫刻。寺院の宝石箱のような華麗さは、この建造物の一部からでも想像がつくというもの。
しかし…、フランスに持って来んなよ!…という気もするが。
右下は、日本で見たクメール美術展に出品されてなかったので、初めて見た。そのせいか、小さいながらも特に今回印象深かった。バンテアイ・スレイに続くクレアン様式の時代(10世紀末〜11世紀初頭)は文化的に過渡期といわれるが、なかなかどうしてこの彫刻、顔の滋味深く自然な表現がすばらしい。4臂なのでヒンドゥー神に見えるけど、頭頂の化仏(阿弥陀仏)からローケーシュヴァラ(観音)とわかる。
左下は、その写実的で個性的な顔貌表現から、クメール文明最後の光彩を放ったバイヨン期(12世紀末〜13世紀初頭)の王妃の肖像といわれる。図像的には、やはり化仏を頂いているので、観音の女性形、ターラー菩薩(般若波羅蜜多菩薩の説も)。プノンペンにある同じ像よりこっちの方が良い出来。
私がクメール美術に惹かれるのは、石という素材に対するカンボジア人の独特の感性だ。素材を屈服させ、それが石ではなく、何か別の存在に変容させる古代ギリシャやルネサンス以降の西洋彫刻のような力技からすると、クメールのそれはずいぶんゆるい技法に思える。
大体、クメール彫刻をみると、切り出した原石の形や大きさが想像できるくらい、最小限の彫刻作業しか行っていない。細部も平板な線刻が多いし…。
それでは、作品に生気を感じさせないのかというと、そうではない。むしろ原石を加工しすぎない控えめな彫刻は、石そのものの生命感を引き出すのに成功している。
石が無機的な素材ではなく、そこに既に生命が宿っているかのように、その石肌からは温もりや呼吸を感じるのだ。
また、岩盤から切り出した石という断片的で不安定な状態から、石が本来持っていた秩序(生命)を回復させる行為が、クメールの彫刻であるかのようにも思える。
そしてそれは、かつてのフランス映画に私が感じた、フィルム、光、被写体という素材に対するフランス人独自の感性のように、特定の民族が持つ特別な才能なのかもしれない。
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