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蓮華手菩薩のある祠の、入口右脇すぐのところにあったのが、この初転法輪の仏坐像。蓮華手より彫刻的に優れているが、残念なことに仏坐像は首が完全にもげてしまっている。
そのせいか、仏坐像そのものよりも台座の群像に、より惹かれるものを感じた。それら人物や鹿は、素朴でありながら洗練され、味わい深いものがあるし、また、それだけではない引っかかりを感じる。
”初転法輪”は仏伝(仏陀の伝記)の中で、仏陀が悟りを開いた後、鹿野苑(今のサールナート)で初めて説法したというエピソードを図像化したもの。
このテーマは仏陀を人の姿として表すようになった紀元1世紀より前から図像化され、法輪(車輪)が、説法する仏陀の代わりに表された。
台座部分の彫刻はその時代の初転法輪図のなごりで、最も有名な初転法輪の仏坐像であるサールナート博物館の収蔵品の台座もやはり、車輪を中心に、合掌する群像表現になっている。それは群像と言っても、みな同じポーズで並んでいるだけなので、単調な装飾的表現に過ぎない。
ところがこのウダヤギリの台座は、普通いるはずの、合掌しながらお行儀よく並ぶ、坊主頭の5人の比丘が1人しかいない。両端に見える残りの2人はというと、長い髪を結い上げた、ちと怪し気なヒンドゥー教行者風で、合掌もせずに崩した姿勢で手を上方に掲げている(蓮華座に坐ってるので、梵天、帝釈天あたりの天部か?)。
お行儀いいどころか右下の写真なんかは、酔っ払いみたいだ。しかも皆が中央の法輪を無視し、台座上で説法印(左下写真)を結ぶ仏陀を見上げているのだ(法輪を囲む2頭の鹿の目も、上を向いている)。
こういった、台座からはみ出るような動きのあるポーズのユーモラスな逸脱、遊び感覚は、形式化の傾向が強い密教美術には珍しいので、見るものを惹き付けるのだろう。入口からの入射光もそれら群像を魅力的に演出していた。
こんな創意工夫を見ると、逸失してしまった仏座像の頭部も、普通の仏像とは違う、一風変わったものだったのではと、いらぬ想像をしてしまう。
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