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通俗的なドラマだと侮っていたら、その背後にラディカルなまでの宗教性を感じ、思わずたじろいでしまうことがごくたまにある。最近テレビで放映された『マレーナ』もその一つで、久々にやられてしまった。
私にとってはこの映画、公開された当時に少しは興味を持ちながらも、その典型的にノスタルジックな思春期もの然としたチラシを見て、結局食指が動かなかったものだ。
“マレーナ(マッダレーナ)”がマグダラのマリア由来の名前というところからして、これはもう確信犯なのだろう。コミカルでテンポのいいストーリー展開(それにしてもあの少年の両親のコテコテぶりは最高にいい)とは極端なコントラストをなす、リンチシーンの過激な“血と肉”の惨劇である。監督のエロ・グロ・ヴァイオレンス趣味の発露かと早合点してしまいそうなクライマックス。
主演女優のよほどの理解が無いと、こんなシーンは撮影出来ないはず。“やり過ぎでは…”と思う人も多かったのでは?
私は逆にそれまでの展開が、いったい何を言いたいのか掴みかねていただけに、むしろこの過激さには驚きと共に納得させられるものがあった。
“葡萄酒とパン”というオブラートに包まれながらも、キリスト教は“血と肉”の生贄を契機としている。通常、覆い隠している血と肉が露になる(人間の身体が破壊される)アナーキーな状態に、人は“聖なるもの”が立ちのぼるのを見る。斬首されたり、乳房を切られたり、拷問の末殉教して聖女となった例には事欠かない。
この映画は、キリストという父性不在の受難劇である。怒り、嘆き、不安、恐怖、欲望、失望、嫉妬……人々の情念を一身に引き受ける人身御供のヒロインは慈悲の聖母であり、また、とりすました美女から、血と肉と嘔吐物にまみれて獣のように叫び声をあげる醜悪な姿への変容は、美しいパールヴァティーからドゥルガー、血と生首に彩られたカーリー、そして不吉な老女姿のチャームンダーへという、ヒンドゥー教女神の変容(慈愛と祟り、生と死の二面性)を思わずにいられなかった。
かつてインドには、未亡人が、夫の亡きがらと共に荼毘に付されれば女神(サティー)として供養され、死を拒めば、不可触民扱いされる風習があったのは有名な話。
マレーナも、こうした“浄化”のプロセスを経ることによって、社会に受け入れられ(市場で施し=供養を受ける)、少年の心に“忘れられないひと”というアイコンとして像を結んだのかもしれない。
因に、前々回のマレーネ・デュマスの“マレーネ”も同じくマグダラの名に由来しているらしい。
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