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こういう四角い物体を頭に載せる人物像というのも、何か建造物と人が合体しているようで、日本を含むユーラシア文化圏ではちょっとありえない造形だ。
右画像などは巨大な煙突が頭頂から突き出ているようで、インダストリアルな雰囲気すら漂う。この画像の上半分だけを見たら、下半分に人物像が続いているなんて想像出来そうにない。造形感覚としてあまりにも唐突な展開なのだ。また、形態の脈略無く両肩に花が咲いていたり、脇腹にドングリのような木の実がくっついているのも、“その1”のコアトリクエの造形感覚と共通している。
キャプションを見ると“チコメコアトル(トウモロコシの女神)像の水差し”とある。水瓶のような水(=生命力)を入れる容器(=子宮)が女神の属性となるのは私達ユーラシア文化圏と何ら変えわりないが、胴部両脇に縦長のスリットが空いており、これでは水が漏れてしまう。他の同じ形の器物を背にした神像ではここに板状の装飾的なものが貫通しており、しかも“儀式用の火鉢(香炉?)”と書かれていたりするので、女神の属性と器物の用途は必ずしも関係ないのかも知れない
豊穣の女神といえば通常私達のイメージでは腹が大きかったり、そうでなければ乳房や腰が大きかったりするものだが、このチコメコアトル像は一見すると男女の区別がつかない。小さく隆起した胸がかろうじて女性を思わせる程度だ。“その1”のコアトリクエのような“たらちね”状態のものや、先史時代の土偶には胸や腹や臀部が大きいものもあるとはいえ、メソアメリカではこうした小さな隆起の胸は古くからポピュラーな女性像表現のようだ。
とはいってもこの左画像は肩幅が広く胸板も厚く腰が小さいので、どうしても男性像に見えてしまう。それに引き換え右下画像のチコメコアトルは、四角い髪型がおかっぱに見えるし、目鼻立ちも小さく少女のようなので小さな胸も自然に思える。これはチコメチアトルに扮して儀礼に参加した少女達の姿なのかも知れない。
また、器物と人体の合体で土器といえば人物埴輪を思い出すが、埴輪の場合その造形の基礎である円筒形の器台のシンプルな造形から派生していて、これを人物像の足に見立てたり椅子や台としてその上に人物が乗った形で表現するなど、様式的統一感があるし、器物と人体の関係も自然なものになっている。
ところがこの左画像のチコメコアトルは、埴輪より写実的な人物表現とシンプルな器物がそのまま合体しているだけで、それ故のシュルレアリスティックな感覚が鮮烈だ。むしろ右下の抽象的な石像のチコメコアトルの方が顔の表現が埴輪とそっくりだったり、様式的統一感もあったりで親しみやすい。
実はこの左画像の像は下半身や頭頂の四角い部分の下辺などを見ると、右上画像のような過剰な装飾が欠けた状態なのがわかる。勿論、右上の像は左に比べると、目が平面的な処理だったりと、様式的に違うし後の器物の形も違うので、全く同じ装飾だったかどうかわからないが、図像学的にはかなり近いものだったのだろう。しかもこれなら胸から下は見えないわけで、身体が女に見えなかろうがそんなことは問題ないわけだ。
そう考えてみると、右上のようにフルセット完備でないところが左のチコメチアトル像が面白い理由なのかもしれない。欠損のない作品の図像を読み解く面白さとは別の、不自然で不完全故のイマジネーションの喚起力がある。手にトウモロコシを持っていれば、なるほど穀物の神だとわかるが、手に何かをつかんでいるようなのに何も持っていない方が、妙に惹き付けられることだってある。
そういう面白さというのは何も近代彫刻的な見方というだけでなく、人為的でない損壊に人智をこえたものの働きを感じる、私達の古い仏像などに対する畏敬の念に通じるものなのかも知れない。
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