おるたな美術館

旅先で出会った東洋美術、西洋美術

メキシコ編

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小さな土偶がたくさん並んだ一角は、キャプションによるとテオティワカン社会の中流を占める様々な職業の人々の像で、コスチュームに重点を置いて制作されているとある。

確かに人夫のような軽装や戦士らしき重装備、女性の日常的な姿や着飾った扮装など、当時の風俗を楽しむことが出来るが、中には一体どういう人物を表したのか皆目見当がつかないものもある。

上画像の比較的地味な扮装の女性らしき土偶の右側の人物は、頭の形からして変。メソアメリカの古代文明によくある頭骸変形の風習(この場合頭を平べったくしているのだろう)の中でもこのハート形はかなり異様だ。しかも服装が全身タイツのようで、臍のところで上下に分かれ、上腕部から肩にかけて意味不明のイボイボが……。

理解不能だと何でも安直にそう決めつけてしまうのも気が引けるが、どう見ても宇宙人である。それともシャーマンや道化師なのだろうか? いずれにしてもこんな格好で日常的にテオティワカンの都市を闊歩していたとしたらスゴい。

逆に下画像は、何の変哲もないニュートラルな人体。全く地域性や時代性を感じとる手がかりが無く、そこら辺の誰かがいたずらで作った粘土細工を紛れ込ませたようにすら見える(とは言っても的確で無駄が無く、とても上手い)。

しかもこのようにぽつんと1体だけ裸で膝を抱えて坐る佇まいは、民族や社会から切り離された自己存在を想起させ、まるで個人という近代的自我意識がこの都市文明では既に芽生えていたかのようだ。

本来はこれ一体の単独像ではなく、日常生活もしくは儀式かなにかの情景の一部として作られたものだろうし、博物館展示ならではの異化作用ではあるとしても、やはりこのようなポーズで佇む姿は人間としてより身近に思え、つい感情移入してしまいたくなるから不思議だ。

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両者共に実にユニークな蓋付の土器。右画像は同じ形式のメキシコ国立博物館のものが、農耕と水の神であるケツァルパパロトル(ケツァル蝶)の香炉ということになっており、この作品も確かにケツァル鳥の頭部と蝶々、水を象徴する円環が表されているので恐らくその類いなのだろうが、何せシティオ博物館のキャプションはかなり漠然として具体的な神やモチーフ名が出てこないので、はっきりしたことはわからない。

アステカの香炉と違い、この形式なら建造物とその中におわす神というシチュエーションはよくわかる。祝祭のための過剰なデコレーションをほどこされた神殿というわけだ。土産物屋の屋台とその主人という風に見えなくもない。

中央の顔はテオティワカンによくある蝶々型の鼻飾りを付けた埋葬用仮面と同じ物だ。このように鼻から下を覆い隠すのは、死者の魂が逃げ出さないようにするものらしい。


身体構造の整合性を無視した異種の合成という。メソアメリカ美術の得意技が冴え渡る左画像の作品は、キャプションでは「蛇や猫や猿といった二次的な神格の造形……」といった程度の説明しかない。

猛禽のくちばしから顔をのぞかせる表現は、有名なアステカの「鷲の戦士」の戦闘服と同じなのでさほど驚かないが、さらにその猿の口から「エイリアン」のような歯のついた顎が飛び出しているのにはぎょっとさせられる。

しかもよく見ればこの顎のようなもの、胴部に腕無しでいきなりくっついている4つの手(足)と全く同じで、そうするとこれは歯ではなくて指ということになり、猿の口から出ているのは実は手(足)なのかも知れないわけだ。

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メキシコ国立人類学博物館のテオティワカン室には、胴部に穿たれた四角い穴に小さな土偶を内蔵した不思議な像があるが、テオティワカン遺跡にある博物館のそれはもっと奇妙だった。

頭は後頭部が無く、お面のように目がくり抜かれ、手首、足首から先も元から無いようだ。あぐらではなく女座りで、おまけに内蔵土偶は四角い穴ではなく蓋というか扉側にある。

メキシコ国立人類学博物館の “土偶を内蔵した土偶” を、より一層複雑で深化させたアイデアによるこの小さな像には、引き込まれそうな魔力がある。

胴部がパックリ開いて中から何か飛び出すという、ロボット的シチュエーションでありながらそのように見えないのは、メカニカルな解体操作ではなく、人体を解体、加工する文化を持つが故のリアリティーがそこにあるからなのかもしれない。

だからこの像も、生贄で剥がされた生皮のイメージをそこに見てしまい、生理的なショックを受ける。外皮を残して人間の中身を空洞にし、外皮に包まれた自己意識を取り払うことによって立ち現れる、日常では意識しないもっと本質的な存在のイメージ(=内蔵土偶)を表現したのだろうか。

凄惨な儀式から立ちのぼる人間存在のリアリティーは、漫然と日常を過ごす現代の私達には計り知れない何かを訴えかけてくる。

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“その4”の右上画像のチコメコアトルと同じ、中央が少し括れた円筒形の香炉を背後に背負った形式の土器。

これらは両方とも雨と稲妻の神トラロックのようで、展示室のライティングによる顔や仮面の陰影が効果的だ。当初の彩色が無くなってしまった現状ならではの魅力だろう。トラロックの扮装をした神官が複雑で深い表情を称えている。

ところで両者が右手に持つ波状にうねった平べったい物質が蛇であろうことは推測がつくが、何でこんな風にデザイン化されたのか気になった。ただ単に蛇を形象化したにしては頭部が無く、しかも平べったくてナメクジかヒルのようだと思っていたら、どうやら儀式用に使った剣らしい。なるほど刃物なら平べったいのは納得がいく。

とはいうものの、実際には蛇をかたどったメソアメリカの石器製ナイフの中には頭部をちゃんと表現したものも多く、この返ってきそうにないブーメランのような抽象化した表現の説明としては不十分な気がする。

そこで、『マヤ・アステカ神話宗教事典』(東洋書林)を繙くと「雷が砂地に落ちると、蛇状にうねった硬いガラス質のものができることがあり……」とあって、どうやらトラロックの放つ稲妻と蛇の形状がむすびついたものらしい。はたしてその “ガラス質のもの” がこれらにどのくらい似ているのか、実際に見てみたいものである。

そうした情報がなければ稲妻とはイメージしにくいこの形象も、実はギリシャ神話のゼウスやインド神話のインドラといった各文明の主要神と同じ持物なのだとわかる。雨と稲妻は災害を起こす畏怖すべき対象であり、農作物の実りをもたらす文明の礎でもある。トラロックもアステカの部族神ウィツィロポチトリと共に、テノチティトランの大神殿に祀られる重要な神。その持物は、ライトニングボルトのギザギザの形象が、蛇のヌルヌルしたニュアンスにとって替わられたものだった。

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こういう四角い物体を頭に載せる人物像というのも、何か建造物と人が合体しているようで、日本を含むユーラシア文化圏ではちょっとありえない造形だ。

右画像などは巨大な煙突が頭頂から突き出ているようで、インダストリアルな雰囲気すら漂う。この画像の上半分だけを見たら、下半分に人物像が続いているなんて想像出来そうにない。造形感覚としてあまりにも唐突な展開なのだ。また、形態の脈略無く両肩に花が咲いていたり、脇腹にドングリのような木の実がくっついているのも、“その1”のコアトリクエの造形感覚と共通している。

キャプションを見ると“チコメコアトル(トウモロコシの女神)像の水差し”とある。水瓶のような水(=生命力)を入れる容器(=子宮)が女神の属性となるのは私達ユーラシア文化圏と何ら変えわりないが、胴部両脇に縦長のスリットが空いており、これでは水が漏れてしまう。他の同じ形の器物を背にした神像ではここに板状の装飾的なものが貫通しており、しかも“儀式用の火鉢(香炉?)”と書かれていたりするので、女神の属性と器物の用途は必ずしも関係ないのかも知れない

豊穣の女神といえば通常私達のイメージでは腹が大きかったり、そうでなければ乳房や腰が大きかったりするものだが、このチコメコアトル像は一見すると男女の区別がつかない。小さく隆起した胸がかろうじて女性を思わせる程度だ。“その1”のコアトリクエのような“たらちね”状態のものや、先史時代の土偶には胸や腹や臀部が大きいものもあるとはいえ、メソアメリカではこうした小さな隆起の胸は古くからポピュラーな女性像表現のようだ。

とはいってもこの左画像は肩幅が広く胸板も厚く腰が小さいので、どうしても男性像に見えてしまう。それに引き換え右下画像のチコメコアトルは、四角い髪型がおかっぱに見えるし、目鼻立ちも小さく少女のようなので小さな胸も自然に思える。これはチコメチアトルに扮して儀礼に参加した少女達の姿なのかも知れない。

また、器物と人体の合体で土器といえば人物埴輪を思い出すが、埴輪の場合その造形の基礎である円筒形の器台のシンプルな造形から派生していて、これを人物像の足に見立てたり椅子や台としてその上に人物が乗った形で表現するなど、様式的統一感があるし、器物と人体の関係も自然なものになっている。

ところがこの左画像のチコメコアトルは、埴輪より写実的な人物表現とシンプルな器物がそのまま合体しているだけで、それ故のシュルレアリスティックな感覚が鮮烈だ。むしろ右下の抽象的な石像のチコメコアトルの方が顔の表現が埴輪とそっくりだったり、様式的統一感もあったりで親しみやすい。

実はこの左画像の像は下半身や頭頂の四角い部分の下辺などを見ると、右上画像のような過剰な装飾が欠けた状態なのがわかる。勿論、右上の像は左に比べると、目が平面的な処理だったりと、様式的に違うし後の器物の形も違うので、全く同じ装飾だったかどうかわからないが、図像学的にはかなり近いものだったのだろう。しかもこれなら胸から下は見えないわけで、身体が女に見えなかろうがそんなことは問題ないわけだ。

そう考えてみると、右上のようにフルセット完備でないところが左のチコメチアトル像が面白い理由なのかもしれない。欠損のない作品の図像を読み解く面白さとは別の、不自然で不完全故のイマジネーションの喚起力がある。手にトウモロコシを持っていれば、なるほど穀物の神だとわかるが、手に何かをつかんでいるようなのに何も持っていない方が、妙に惹き付けられることだってある。

そういう面白さというのは何も近代彫刻的な見方というだけでなく、人為的でない損壊に人智をこえたものの働きを感じる、私達の古い仏像などに対する畏敬の念に通じるものなのかも知れない。

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