おるたな美術館

旅先で出会った東洋美術、西洋美術

メキシコ編

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植物文様が礼拝堂(“その1、その2”)に比べボリュームが無くお行儀良く枠内に収まっているにせよ、サンタ・マリア教会ではこのように身廊部の天井装飾も抜かり無く空間を埋めている。マスカロン(人頭装飾)はルネサンス以来の建築装飾の常套モチーフ。それは所々にアクセントとして使われるのみなので、画像下のように数珠つなぎになっているのはメキシコならではなのかも知れない。

マニエリスム以降のスペイン絵画では智天使の頭が無数に連なって描かれたりするのをよく見かけるから、本来キリスト教とは無関係のマスカロンと智天使の絵画表現が結びついて、この過剰な生首の連続文様ができたのかも。はたまたアステカ文明の遺跡にあるドクロが無数に並べられた浮彫りとも共通するものがあるとするのは穿ち過ぎか。

上の画像は入口付近の天井。翼はなくとも天使なのだろう。全裸で幼児姿の天使はギリシャ・ローマ神話のキューピッドのイメージを借用したものとしてルネサンス以降おなじみだが、ここではどう見てもメタボ中年体型だ。天衣のような物で股間を隠しているのが何とも情けないというか憎めないというか…。宴会で野球券に熱を上げ、ネクタイ一本になったサラリーマン集団が聖母子の廻りで楽器を演奏し、踊っているような……。

彩色がきれいなところを見ると定期的に塗り直してるんだろうなあ。真面目に丁寧に彩色されているのがエラい。ちょっと気になるのが中央の聖母子を取り囲む星の数。ふつう12なのに13という不吉な数なのはどうして?

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人体と植物の区別がつきにくい抽象的形象で、かつ有機的な形態が何やら不気味にうごめいているように見える堂内の装飾も、近づいてみると天使やマスカロン,聖人たちがお茶目でかわいい。それにしてもこの堂内を覆い尽くす装飾の状態が良いのには驚かされる。地元の人びとの心のよりどころとして補修や清掃などメンテナンスがいきとどいているのだろう。

メキシコの聖母像は17世紀スペイン絵画で盛んに描かれたテーマ「無原罪の御宿り」がベースになっているようだ。これは、マリアもまた母アンナが無原罪で(男とエッチしないで神によって)受胎し産んだ娘であるとして,マリアをイエスと同様に神聖化するもので、母としてでなく若い娘として描かれる。

その図像は『ヨハネの黙示録』第12章第1節の「ひとりの女が身に太陽を身にまとい、月を足の下にし、頭には星の冠を冠っていた」という表記を典拠とし、そこに描写されている女の姿をしたマリアを智天使(頭と翼だけのやつね)達のいる雲の上に乗せて表したものだ。

右画像でも足下には三日月と共に智天使のいる雲があるし、星の瞬く冠をしている。太陽を身にまとうという表記は陽光の光背と解釈され、この画像のアングルでは確認出来ないが “その1” を拡大すれば見ることが出来る。

リアルフィギュアなスペイン・バロック彫刻はメキシコではマネキンのようになる。罰当たりな話だが、こうした着せ替えのマリア像は服を脱がせたらどうなっているのだろうと気になってしまう。日本だと鎌倉時代の着物と肉身部が別材の仏像(例えば弁財天とか)の裸形が美術本で紹介されていたりするんだが……。

白いドレスのマリアの円錐形のフォルムと堂内の増殖感覚は、自分の作品 “Eva” <http://sugaft.com/2002sen.html>と通底するものがある。タイトルは原罪を購うマリアではなく原罪をつくったエヴァの方なので別に意識したわけではないけど、やはりその背後にある地母神信仰を扱ったつもりなので、このトナンツィントラのサンタ・マリア教会へのオマージュということにしよう。

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写真集『ウルトラバロック』(小野一郎)を見て以来、トナンツィントラという村の名前は私にとって特別なものになっていた。それは字面としてよりも響きとしてといった方がいいのかも知れない。サンタ・マリア教会堂の写真とともに、その音の響きが何かとても魅惑的なイメージとして像を結び、ずっと心に残っていた。


村というのでどんな辺境の地かと思ったら、案外簡単に行けたので拍子抜けした。現地では礼拝に訪れる現地の人びとが引きも切らず、生きた祈りの場はくつろいだ感じで厳粛なものではないにせよ、あまり写真をパチパチ撮りまくるのは気が退けた(という割にはたくさん撮ったな)。

『ウルトラバロック』ではマリア像を取り囲むように照らす青いネオン管と、その両脇に供えられた日本の葬式でおなじみの白い大輪の菊が衝撃的なのだが、今回訪問した時はネオン管は取り外され献花も白百合と取り混ぜられたもので、おだやかでネチュラルな印象だった(これはあくまで日本人の主観)。

デジカメは細部まで克明に描写してしまうので(勿論それが目的で使ったわけだが)画像を見るとかなりぎょっとさせられるかもしれない。でも、実際の現場はとても落ち着いた癒しの空間だ。過剰に見える装飾もけっしてうるさくなくて静謐で繊細なイメージが強い。男性的ダイナミズムではなく、むしろ女性的な造形感覚。

隙間の無い飽和状態で、これ以上増殖すれば崩落してしまいそうに見えるのも画像から受ける印象にすぎず、実際は重量感が希薄で浮遊するような上昇感があり、そんな不安は感じさせない。また、正統なバロックではもっと写実的な植物文様が、ここでは白い雲かホイップクリームのように見え、食文化豊かなプエブラ近郊だけあって、何だか美味しそうでお菓子の家に巨大なデコレーションケーキが鎮座しているようにも見えた。


こういう究極の増殖感覚は、スペインから移植された教会建築様式に地元の民族色が接ぎ木されたからとするのは表面的過ぎるだろう。むしろ建築装飾として規定の様式を保っていたものが、メキシコの地に移植されることによって本来の表現衝動が自己増殖するかのように暴走したんじゃないか。

いいかえれば、もともとスペインバロックという西洋とイスラムのハイブリッド様式の中に潜在しながらも抑制されていた成長因子の働きが、メキシコの地で限定解除となったように思える。

やはりウルトラバロック教会として有名な、プエブラのロサリオ礼拝堂が光溢れる天界イメージであるのに対し、こちらは天上界を表しているにもかかわらず、どうしても洞窟(地母神の子宮)イメージと2重映しに見えてしまう。地母神の属性(生殖=原罪)から切り離された聖処女であるはずのマリアがまるで地下洞窟の主のように見えるパラドクスは、キリスト教正統のマリア信仰の背後に隠された民間信仰の発露といえそうだ。

そして、そのことがカオスとコスモスがせめぎあうようなこのサンタ・マリア教会堂を “特別なもの” にしているのだろう。因に “トナンツィン” はスペイン征服以前のメキシコの女神で “われらの母” という意味なんだそうな。

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