おるたな美術館

旅先で出会った東洋美術、西洋美術

ラウンジ(雑記)

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狩野永徳展の鑑賞法

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金曜は大雨だったので、今日なら狩野永徳展も空いているだろうと雨上がりの夕方に京博へ…。

ド派手なPRのわりには、10年前の「桃山 絵画賛歌」展のような、安土・桃山時代のとんでもないエネルギーを感じさせるには程遠い内容。新発見、初公開作が数点あるとはいえ、それは研究者が見てなんぼのものであって、一般の人が観て楽しむには、主要な現存作が少な過ぎるのは仕方の無い事かもしれない。

「桃山 絵画賛歌」では「唐獅子図」に拮抗するような他の絵師の作品がいくつもあったように思う。ところが今回は「唐獅子図」だけが異様に大きく、他がしょぼく見えてしまった。

中核となる「洛中洛外図」は修復の際のクレンジングのし過ぎか、それとも細部を見せる為、照明が強すぎるせいか、明らかに色調のバランスが崩れ、画中の邸宅の壁や敷地内の庭の白色が白飛びしていたり、通常なら気にならないような金雲の些細なムラが目立ちすぎたりと、見ていて不快だった。しかも黒山の人だかりで画面全体は見渡せないし、これでは “巧みに計算された色の配置” などといわれても、わかろうはずも無い。

だいたい展覧会の中核となる展示会場中央の部屋に「洛中洛外図」では荷が重過ぎる(美術的価値だけでは国宝に値しない作品だし…)。できれば聚光院方丈の間の襖絵をここで一堂に並べてほしかった。「洛中…」は弟1室でいいでしょ。


というわけで、会期の後半、益々混雑が予想されるから、特に専門的な関心がなければ、聚光院襖絵のある第1室を観たら、地味な新発見作、初公開作、たいしたことない花鳥画、人物画の前は素通りで人混みをかき分け、「唐獅子図」と「檜図」のある最後の部屋に直行、これら2室で “スゴいなー!デカイなー!” と感動して、さっさと会場を後にし、残りの時間は空いていて内容の充実した常設展示を観た方がいい。

その日の常設展示では(28日までの展示が多い)、絵巻と中国絵画の展示室が特に楽しめた。絵巻では「福富草紙」がいい。生き生きとした人物描写とは、永徳「洛中…」の画中人物ではなくこういうのをいうのだろう。最近大人気の真珠庵「百鬼夜行絵巻」もあった。これなんかもっと宣伝してもいいんじゃないか?

狩野派とは対極の技法 “たらし込み” のお手本、俵屋宗達の「牛図」も…。

中国絵画では石濤、八大山人(スペースの関係か、“博物館だより” には彼らの作品名が掲載されていない)ら明清の画家の個性的な作品群が楽しめる。八大山人の鹿の絵などには大笑い出来る。こうした隠逸の画家達の作品群は、過労死してしまったといわれる御用絵師永徳にはない自由奔放さがある。

曼珠沙華?地獄花?

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ヒガンバナは、普段はその存在すら気付かないのに、お彼岸の時期にだけ突然花を咲かせて自己主張したかと思うと、彼岸の終わりと共に消え失せてしまう不思議な花だ。

実際は、春夏と地中に潜ったままで、開花する前に急に地面から茎だけを伸ばして花をつけ,花が枯れた秋冬には葉だけが生えるらしい。葉だけだと単なる雑草と区別がつかないので、私達は花が咲いているときにしかヒガンバナを認識していないということのようだ。

お彼岸はあの世とこの世が交錯する期間でもあるし、また、こうした実体感の薄い生態から曼珠沙華(天上に咲く花)、地獄花などという、まるで異界の存在のような異名があるのだろう。


ところで近年、路肩の排水溝の開口部から、いろんな植物がにょっきり葉や花びらを出している光景をよく見かける。排水溝に土砂や有機物が溜まり、そこに種子が落ちて芽が出るわけだが、通常、種子を付けないはずのヒガンバナが、排水溝から顔をのぞかせているのには驚いた。

ヒガンバナは球根によって増えるので、日本で見られる種は殆ど自生でなく人為的に移植されたものらしい。ということは、誰かが排水溝の蓋を開け、底にヒガンバナの球根を植え付けてから、またそのコンクリートの蓋でふさいだということになる。……って、いったい何の目的で…?

ごくまれに種子を付けるとはいえ、それが排水溝に落ちる可能性はかなり低いだろうし…。

いずれにせよ、今年の9月は残暑とすら呼べないような異常高温の為か、お彼岸を過ぎてから花が咲いたので最早この花は“彼岸花”ではない。かといって、このように地中から顔をのぞかせているわけだから“曼珠沙華”というのもふさわしくない。

というわけで、この花は“地獄花”と呼ぶのが妥当だろう。もし、これが株を増やして来年も花を付けるようなら、“ド根性……”の称号を与えてもいいかも。

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歴史的な文化財や、かしこまった博物館の展示品を観ていると、誰しもそこに落書きなどをしてみたらさぞ気持ちいいだろう…、などという妄想に駆られたことがあるはず。グレイソン・ペリーの作品には、そんな快感がある。

会場は、オーソドックスな美術館の平面・立体作品の展示方法をふまえており、また、技法も陶芸、銅版、鋳鉄、ブロンズ、刺繍やキルトなど古くからあるもので、このことから、彼の表現は、既製の美術工芸作品を現代の素材やコンテクストに置き換えるというより、古今東西(ユーラシアだけでなく古代のアフリカやアメリカも含めて)の様々な美術工芸品をベースに、アーティストの表現を加味するという、いわば”文化財の落書き”的手法なのだ。見方を変えれば、“グラフィティアートやってんですけど、支持体まで自分で作ってしまいました。” みたいな(支持体の方が時間も手間もかかってるけど)…。

これって、現代美術より古美術に興味のある人の方が、作品に読み込まれた情報を多く読み取ることが出来るのかもしれない。つまり、この展覧会を見る前に、予習として大英博物館を一通り見学しておいた方が、より理解度が深まるみたいな…。彼の作品には、それほど膨大な人類の文化情報が詰まっている。

では、なぜ落書きをするのか? 勿論権威を茶化す快感や批評性というのも大きいが、それだけではない。博物館の展示品というのが、従来の機能や価値を剥奪され、生身の人間との関わりを絶った不完全な存在になっているからだ。

20世紀に於いては美術館や博物館に展示する事は“聖別”であり、展示品は“完全なもの”だったはずが、21世紀には、それは“不完全なもの”になってしまった。

過去と現在、永遠と刹那、聖と俗、正統と異端、公と個人、エスタブリッシュメントとパンク。それぞれの前者に後者を補完するのが彼の表現。相反する物を複合して全体性を回復するという欲求が強い。まさに密教的。女装癖も、男性としてのジェンダーとアニマの統合と考えれば必然。歓喜仏状態である。自身に正直なだけともいえるが…。

複合というのは、ソフィスティケイトされないまま提示されるとグロテスクなもの。彼の彫刻作品を見ていると“ルーブルその5”<http://blogs.yahoo.co.jp/sugafuto/23766775.html>で紹介したベス神は、ルーブルの古代エジプト展示室より、この会場にふさわしい気がして来た。

ところで、自分もドレス風のオブジェを作ったりするので<http://sugaft.com/2002sen.html>、ファッションデザイン関係の展覧会も機会があれば観に行くのだが、モデルが着用していないドレスというのは小さくて貧相な印象を受ける。美術館の空間には向かないのだ。その点グレイソン・ペリーのドレスは実に見映えがいい。女性服もアングロ男子サイズにすれば美術館の展示に耐えられるってことか。

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通俗的なドラマだと侮っていたら、その背後にラディカルなまでの宗教性を感じ、思わずたじろいでしまうことがごくたまにある。最近テレビで放映された『マレーナ』もその一つで、久々にやられてしまった。

私にとってはこの映画、公開された当時に少しは興味を持ちながらも、その典型的にノスタルジックな思春期もの然としたチラシを見て、結局食指が動かなかったものだ。

“マレーナ(マッダレーナ)”がマグダラのマリア由来の名前というところからして、これはもう確信犯なのだろう。コミカルでテンポのいいストーリー展開(それにしてもあの少年の両親のコテコテぶりは最高にいい)とは極端なコントラストをなす、リンチシーンの過激な“血と肉”の惨劇である。監督のエロ・グロ・ヴァイオレンス趣味の発露かと早合点してしまいそうなクライマックス。

主演女優のよほどの理解が無いと、こんなシーンは撮影出来ないはず。“やり過ぎでは…”と思う人も多かったのでは?

私は逆にそれまでの展開が、いったい何を言いたいのか掴みかねていただけに、むしろこの過激さには驚きと共に納得させられるものがあった。


“葡萄酒とパン”というオブラートに包まれながらも、キリスト教は“血と肉”の生贄を契機としている。通常、覆い隠している血と肉が露になる(人間の身体が破壊される)アナーキーな状態に、人は“聖なるもの”が立ちのぼるのを見る。斬首されたり、乳房を切られたり、拷問の末殉教して聖女となった例には事欠かない。

この映画は、キリストという父性不在の受難劇である。怒り、嘆き、不安、恐怖、欲望、失望、嫉妬……人々の情念を一身に引き受ける人身御供のヒロインは慈悲の聖母であり、また、とりすました美女から、血と肉と嘔吐物にまみれて獣のように叫び声をあげる醜悪な姿への変容は、美しいパールヴァティーからドゥルガー、血と生首に彩られたカーリー、そして不吉な老女姿のチャームンダーへという、ヒンドゥー教女神の変容(慈愛と祟り、生と死の二面性)を思わずにいられなかった。

かつてインドには、未亡人が、夫の亡きがらと共に荼毘に付されれば女神(サティー)として供養され、死を拒めば、不可触民扱いされる風習があったのは有名な話。

マレーナも、こうした“浄化”のプロセスを経ることによって、社会に受け入れられ(市場で施し=供養を受ける)、少年の心に“忘れられないひと”というアイコンとして像を結んだのかもしれない。


因に、前々回のマレーネ・デュマスの“マレーネ”も同じくマグダラの名に由来しているらしい。

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メタリックカラーというのは、ナチュラルカラーなどとの対概念として、人工的、無機的な色というイメージが強いが、昆虫,鳥類,爬虫類、魚類など、メタリックな色をした生き物は意外と多い。

人工的に加工した鉱物を身に纏う人類の、金属色は人工(art)であるという考えは、生物の世界では通用しないようだ。


仕事先の道端で、青緑に光るきれいな“コメツキムシ”を見つけたので、昆虫好きの娘が喜ぶと思い、気軽な気持ちで新幹線に乗せて連れ帰った。

と、これが無知な人間に捕まった、この虫の悲劇の始まりだった。

家に帰ると、娘はこの謎の虫がタマムシだと同定。タマムシといえば、ヤマトタマムシとウバタマムシしか見たことがない私は、それより二まわりくらい小さいので、勝手にコメツキムシの仲間と判断していたのだ。

娘の昆虫図鑑を繙くとアオマダラタマムシという種とわかる。それで、じゃあコガネムシとかと変わらんだろうと安易に決め込み、綿に砂糖水をしみ込ませて、飼育ケースに放り込んでおいた。

ところが、いつまでたっても餌にありつこうとしないので、図鑑をよく読むと桜の葉などを食べるとのこと。成虫がアオムシよろしく葉っぱを食べるのには、いまさらながら驚いた。

そこで早速近所の公園から4、5枚葉の付いた桜の梢を失敬して、水の入ったジャムの空き瓶にさし、飼育ケースに入れた。

これで安心とばかり、まる2日放ったらかし。3日目にタマムシが葉を食べてないことにようやく気付き、しょうがないなとインターネットで飼育法を検索。

調べてみると、アオマダラタマムシはいくつかの県でレッドデータブックに載っていることがわかる。また、タマムシは餌付けが難しいらしく、3日以上餌を食べないと死ぬとか。しかも、桜の葉は食べないという書き込みまで……。

ちょっとあせった。ここで死なれては寝覚めが悪いし、娘にも示しが付かない。すぐに近くの神社の森にでも放そうかとも思ったが、生育環境が合うとは限らないし、その日はあいにく1日中大雨。

結局、虫は3日間飲まず食わずのままで、不安な一夜が明けた。4日目の朝、恐る恐る飼育ケースを覗き込むと、あまりのひもじさに耐えかねてか、やっとのこと桜の葉にかじりついてくれていた。

こっちは罪の意識から解放されて一安心、これで飼育もできそうだが、希少種とあっては、野外で子孫繁栄に尽力してもらわねばなるまい。そんなわけで、また現地に赴く機会に連れ帰ることに……。


その後、現地で子づくりに励んでいるかどうかわからないが、いずれにしても死線を彷徨う過酷な経験をしたことは確かだろう。

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