日和下駄に一命を預けて散歩日常

荷風散人に倣って今日ぶらりまた明日ぶらり

大和し美し

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二月堂修二会お水取り

三月二日午後七時、東大寺二月堂欄干上に点火された大松明が次々と姿を現わす。
 
二月堂下の善男善女は、火の玉となった松明を観て息をのみ、
 
燃上がる炎、飛び散る火の粉の美しさに、しばし我を忘れて歓声を上げる。
 
「お水取り」の名で親しめられている二月堂修二会の夜の法会の始まりです。
 
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久しぶりです、ブログを再開します。

新春に斑鳩三塔を巡る

           一月二日も朝早く京都のホテルを出発し近鉄で奈良へ。
         奈良駅前からバスに約一時間揺られてようやく法隆寺に到着。
 
                斑鳩の里に点在する三塔を巡って歩きます。
 
                        法隆寺の五重塔
 
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              日本最古の塔で高さ約32メートル。軒の出が深い。
              相輪は見事なもので、塔長の三分の一を占めています。
 
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        続に向かったのが法輪寺。聖徳太子の病気平癒を祈願して皇子山背大兄王が
        推古30年(622)に創建。唯一、三重塔は創建当時のまま残っていたが、
        昭和19年に落雷で消失。昭和50年に作家幸田文さんらの尽力で再建された。
 
        斑鳩の里の風景にしっくりとなじみ田園中に立つ法輪寺三重塔
 
       
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                 法輪寺三重塔に後からちょうどに陽が射しだす
      
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                              相輪
 
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      続いて向かったのが法起寺ですが、道すがらに山背大兄王の墓所と
      伝えられる小さな丘がありました。地元では岡の原と呼ばれています。
 
 
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         法起寺は聖徳太子が推古十四年(607)に創建したと云われています。
          度々の火災で寺は荒廃しましたが、塔高24メートルの三重塔だけは、
                 創建当時の姿を伝える貴重な遺構です。
 
                    法起寺 日本最古の三重塔 
 
      
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相輪
 
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               今回は早足で三塔巡りをしましたが、斑鳩の里には
                    我が国の古代の謎がいっぱいありました。
              
元日は朝に東大寺を散策してから、午後は大和西大寺駅で降りて、
西大寺、菅原神社、そして喜光寺と巡り歩きました。
 
喜光寺は養老5年(721)、行基菩薩が創建し古くは「菅原寺」と呼ばれていた。
天平20年(748)、聖武天皇が参拝された際、ご本尊より不思議な光明が放たれ、
それを喜ばれた天皇より「喜光寺」という寺号を賜った。
 
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南大門は平成22年(平城遷都1300年)に450年ぶりに復興
 
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南大門には彫刻家中村晋也氏が制作した仁王像が祀られている
 
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行基菩薩は東大寺造営に当たり、喜光寺の本堂を参考にしたという伝承から、
この寺は「試みの大仏殿」として知られています。
 
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今は、ご本尊は平安時代に造像された丈六の阿弥陀如来像。重要文化財です。
 
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               両脇侍は観音菩薩と勢至菩薩の坐像で南北朝時代のものです。
 
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行基菩薩は喜光寺を東大寺の大仏建立勧進の拠点として全国行脚。
民間伝道や社会福祉に傾注し民衆から「菩薩」と仰がれ、信仰を集め、
平成17年(745)に聖武天皇から我が国初の大僧正に任じられた。
そして平成21年(749)にここ喜光寺で入寂された。
 
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境内には会津八一の歌碑がある。
 
「ひとりきて かなしむてらの しろかべに 汽車のひびきの ゆきかえりつつ」
 
大正10年と11年の秋に喜光寺を訪れ、
 
寂れ朽ち果てしまっているのを詠んだ哀歌です。
 

東大寺の元日15景

2012年の年明け1月1日早朝、宿泊中の京都のホテルを出発し、
地下鉄線経由して近鉄京都線で近鉄奈良駅に到着したのが午前10時。
東大寺へ歩きますと空が広いのと鹿に出会い、奈良に来たのを実感します。
やがて南大門へ。参道沿いに屋台が出ていましたが、
正月三が日だけの特別出店だそうで、常駐でなくひと安心です。
 
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              南大門に揚がる扁額。「大華厳寺」は東大寺の異称。
 
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                                 仁王像
 
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           大仏殿と中門が鏡池によく映る。実物に負けない美しい姿。
 
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                           大仏殿
 
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                               八角灯籠
 
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                           大仏さま
 
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                             東塔跡地
 
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鐘楼
 
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                           二頭の鹿
 
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池に映る三月堂(法華堂)
 
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二月堂
 
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二月堂からの眺望
 
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二月堂を下り坂から振り反って観る
 
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戒壇院の背景に若草山
 
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冬の東大寺は空気が澄みきって、風景と生に出会いました。
 
 
 
 

橿原今井町

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近鉄八木西口駅を降りて直ぐに歴史と出逢う都市(まち)の案内板があり、

すこし歩いて飛鳥川に架かる紅い橋を渡ると今井町でした。

「町の成立は戦国の世、天文年間(1532〜1555)この地に一向宗本願寺の僧侶、

今井豊寿によって寺内町を建設されたことに発する。

一向宗の門徒が今井に御坊(称念寺)を開き、自衛力武力を養い、

濠をめぐらし、都市計画を実施した。永禄十一年(1568)織田信長が、

足利義昭を擁して上洛以来、本願寺も反信長を立て、寺を中心とした

城塞都市の形態を整え、抵抗したが、天正三年(1575)今井氏は、

明智光秀を通じて信長に降伏し、ことなきを得た。

かくして、大阪や堺などとも交流がさかんになり、

商業都市としての変貌をとげ、江戸時代には南大和最大の在郷町となって、

大いに栄えた。また、堺と並び自治的特権が認められ、惣年寄、町年寄を

おき町政にあたらせた。江戸時代初期の概略を考えると

東西600m、南北310m、周囲には環濠土居を築いた戸数1100軒、

人口約4000数百人を擁する財力豊な町であった。

町割りは西、南、東、北、新、今の六町に分かれ、九つの門から

木橋を通って濠を渡り、外部の道路と連絡している。

内部の道路で見通しのきくものはなく、ほとんどが一度屈折させてある。

これは、敵の侵入に備えて、その遠見、見通し、弓矢・鉄砲の射通しを

不可能にしたものであった。これらは当初、軍事目的のためにつくられたものであるが、

江戸時代中頃は富裕な商人の生命、財産等を外部から守るというものに変貌した。

現在も今井町の大半の民家が江戸時代以来の伝統様式を保っており、

今西家をはじめ、すぐれた民家が数多く立ち並び、今なお、町全体が戦国時代に

できた寺内町の歴史の重さをずっしりと感じさせている。」

以上、イラストマップの説明文から抜粋です。

ほんの一時間足らずの散策でしたが、

江戸の昔にタイムスリップした気持ちになりました。

再度、時間をかけて歩きたい都市(まち)であります。

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