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「逆説」に満ちた世界
を読んでない人はこちらへどうぞ。。。

http://blogs.yahoo.co.jp/sugittizakisugi/31594364.html






現代では人は昔に比べて、より多くのそれぞれの思想、個性というものが強くなってきているのでは?確かに最近は「殺人」に関するニュースを多く見るような気がする。だけれど、それが何故なのかは、あまり考えたことがなかった。そもそもニュースなんて聞くだけで受け流していたのかもしれない。


アフガニスタンで拉致、殺害された伊藤和也さんが殺された理由が私にはまったくわからない。ヘクマティアル派である加害者は、部外者が利敵行為を行うだけで人を殺すのか、実際にそんなことをしただけではペシャワール会は反発し、そして殺された彼の為にもという強い念もあって、よりヘクマティアル派に対して厄介な行動をするようになるのを促しているようなものだ。

しかし、自分のこの考えは、日本では普通の考えなのかも知れないがアフガンでは文中に書かれているのと同じように異なった「常識」なのかも知れない。自分はアフガニスタンに行ったことはないが、あちらでは暴力や政治が根本的な考え・力の象徴として主に使われているかも知れないということも考えられる。


伊藤さんの為に犯人を追跡した現地の農民達やペシャワール会の人々からすれば、拉致をした彼らは「悪」だが彼らからすれば逆に伊藤さん達が「悪」なのである。

正しいことか正しくないことか?それは個々の人々によって変わってくる。つまり、その考えや行動の皮肉な結果が増えつつある、それで「通り魔」などのニュースが良く耳や目に入ってくるようになったのではないか。


しかし、それだけで目に現れるような変化が起こるだろうか?自分の考えが正しいことを示す為、自分が自分であることを確かめる為に他の人々に手を出しているのかも知れない。そう考えると伊藤さんはヘクマティアル派の彼らからすれば格好の標的になったのだろう。


一体、この世界で正しい事とは何なのだろうか。自分にはわからなくなった。




はい、これsugiにゃんが世界史の時間の課題で書いた感想文ね♪
終わり方がいきなり完結に終わってるのは20分で書くのには時間という限界があったからですwwwwww

ネタがにゃい時は学校でやったものを載せるに限る!!!
まずはこれを読んでください。。。

「逆説」に満ちた世界


最近、理不尽と思われる殺人が目につく。東京・アキバ(秋葉原)での無差別殺人事件や大阪・ミナミ(浪速区)の個室ビデオ店での放火殺人事件。犯人の自暴自棄な気持ちのはけ口として命を奪われた方やその身内にとって、全く納得のいかない突然の死だったろう。この種の事件は「通り魔」などと呼ばれ、昔からあったはずなのだが、このところ目につくように感じられる。この種の殺人が増加したのだろうか、それとも我々の感受性が特に過敏になってきたのだろうか。



目を海外に転じよう。この夏、私が理不尽な死と思ったのは、福岡に拠点を置くペシャワール会に属し、アフガニスタンで農業指導にあたっていた伊藤和也さんのそれである。8月26日早朝、伊藤さんは武装された男たちに拉致され、翌日遺体が発見された。享年31歳、ご冥福を祈りたい。

ペシャワール会は中村哲医師を中心に1983年に結成されたNGOであり、パキスタン北西部やアフガニスタン東部などで医療活動を行ってきた。さらに内戦や旱魃によって疲幣したアフガン農民の惨状を目にし、灌漑施設の建設、農業技術の向上などの支援も始めた。伊藤さんは5年ほど前から農業支援要員として現地に派遣されていた。

ペシャワール会の活動はその徹底した現地主義によって知られている。日本人スタッフが現地に住みこみ、人々と直にせっしながら支援にあたっている。もちろん、現地主義といってもきれいごとだけではすまされるはずはない。

現地の役人、地元の有力者、技術を持つ現地スタッフ、そして農民たちとの間で、根気ある交渉・妥協・合意を、時には衝突を繰り返して活動を続けてきたことだろう。日本人スタッフも、言葉をはじめ、日本とは異なる習慣にとまどい、いらだちながらも、現地人との強い信頼関係を築いてきた。それだけ深く地元に根を張ったペシャワール会が襲われたという点が、大きな衝撃だったのである。

犯行グループは、タリバンに近いヘクマティアル派だという。彼らにとって、日本人の開発援助は、彼らが戦闘を続けるカルザイ政権に利するものであり、利敵行為と判断したようだ。アフガン人の為に払われた伊藤さんの努力は、アフガン人の手によって道半ばで挫折させられたのである。


しかし、ここであらためて確認しておかなければならない。一口にアフガン人といっても、個々人は様々な、時には相対立する利害を持っているという「常識」である。外来者が現地の為に尽くしたとはいっても、現地の人々には多様な価値判断があるのだ。

伊藤さんの拉致を知った地域の農民たち1000人以上が犯人を追跡したという。ペシャワール会が地元に支持されている確かな証拠である。それだけに、現地事情に疎い犯人達(地元住民ではない)が狼狽して伊藤さんを殺害した可能性もある。これは皮肉なことかもしれない。だが、おそらく世界は逆説に満ちている。

伊藤さんの告別式はご家族の住む静岡県掛川市で行われた。父正之さんは、「私たちも息子に育てられました」と語り、「和也は家族の誇りであり、胸を張って自慢できる息子であります」と挨拶されたという。地球社会を見据えながら、「逆説」に満ちた今日を生きる覚悟の言葉と受け取りたい。




「「信濃毎日新聞」」連載「月曜評論」より





・・・これを読んだ上でsugiにゃんが書いた感想をどうぞ↓

http://blogs.yahoo.co.jp/sugittizakisugi/31594565.html

さてはて、ふと思ったケド「存在する」ってどういう事なんだろうか・・・???


まぁ実際はそういう事考えるのなら、それ以前に認識論について考えようぜ?
って話なんだろうけどその辺はスルーしてつらつらと考えてみるよ・・・



「「存在する」」とはどういうことか?なんの考えも持たずにいくと「「生きている」」と同義か・・・
と思うかも知れないけれど生命を持っていない「物」だって存在している。

ならばどう説明すればいいのだろうか?
今自分の目の前にはパソコンがある。という事は自分で認識しているからわかる事。
そしてキーボードをたたいて文字を打ち込んでいる。

もしや人間が触る事の出来るものが存在するといえるのではないだろうか?
そして実際に目で見る事が出来るものも存在するといえそうだ・・・

ただ、キーボードをたたく「音」これはどうだろうか?
触角で感じられていないし、目で見ることも通常は出来ない。

でも、アニメーションは触ることは出来なくても視覚や聴覚で存在していると理解できる。

また目を閉じ、耳を閉じてもにおいでそこに食べ物がある事などが嗅覚から理解できる。。。


つまり五感のいずれかで感じる事の出来るもの=「「存在する」」ではないだろうか?


だが、有名な実験で「シュレディンガーの猫」というものがあるのは知っているだろうと思うが、箱の中を確認するまで猫が死んでいるか生きているかわからないというものである。


まぁ、これとはあまり関係ないけれど、仮にとある一人の人間が実験的に睡眠薬などで眠らせた猫を逃げ出す事が可能な箱の中にいれたとしよう。
そして、しばらくの間、違う場所に自分が移動し、そして戻ってくる。

すると、もしかすると箱の中に猫はいるかもしれないし、逃げ出していないかもしれない。
もし、箱の中にいたならば、存在している。

けれど、逃げ出して箱の中にいなかったとしたら・・・
その猫は箱の中に存在していないといえるだろう。

何がいいたいかというと猫、という存在がその時いたことは確定しているがそれが今存在するかどうかはわからないという事である。


そして、もし逃げ出したのであれば二度ととある実験者はその猫が本当にいたかどうか確認できないかもしれない。

当然箱の中の猫を五感で感じ取る事は出来ない。つまり存在していない。
しかし、箱に入れる前は存在している。

2つの結果は矛盾しているし、五感との関係にも何か違和感を覚える。


・・・あかん、頭こんがらがってきたwww
ちょい間を空けます・・・











けど、本当は元々箱の中に猫を入れていなかったかも知れない。
それを知っているのは実験をした一人の人間しかいないのだから。

つまり、その実験をした一人は猫が「「存在している」」と認識しているが、その他の人間は存在していたかどうかわからない。という事である。


これは幽霊を見た!と誰かが断言したとしても、その他多数の人間は実際に自分が見た訳でないので信じないのと一緒である。つまり、その実験者が存在を肯定しても他からは否定される、つまり存在していないのと同じであるに等しい。

では、その実験の参加者を2人にしたらどうだろうか?
すると2人の間では猫が存在していたのは確かだ。

それを世界中全ての人がやったら・・・?



「魔法先生ネギま!」という漫画を知ってるかにゃ?www
この漫画の中の話でね、魔法は世界には存在しないファンタジーだと思われてるけど、存在している。
けれど世間一般では存在していない事になっている。


これを魔法で「魔法ってあるかも・・・」程度の些細な認識を世界中の人間に思わせる事で魔法の存在を事実のものとした未来。



という実に興味深い内容の話がある。
存在しているのに、存在していないことになっている。

これは知っているものにとっては既知だが知らない人にとっては未知である。という例え存在していても知らなければ存在していないに等しいというのが簡単に理解できる面白い話だと思う。


けれど、魔法が「空想で存在していない」、と「現実で存在している。」はどちらも「「存在している」」といえるだろう。


結局のところ「「存在している」」とはなんなのだろうか・・・???


ありたいていに言うと「1人以上の人間がそれがあると認識していること。」といったところだろうか?


・・・もし一人の人間が存在していた事を知る者、つまり家族や友人など全ての関係者が消えてしまったらその人間は存在しないことになるのではないか???

そしてその「存在していない」人間が何かの存在を認めたら、それは存在していると言えるか?
それ以前に全ての人間はその人間の存在を知らない、存在していないと同じ。なのに事実その人間は存在している。と、いえそうだ、いや、言えるだろう。

しかし、なぜそう言えるかは自然とそう思ったからとしか言いようがない。。。


その事も考えると「「「ある人間がそれがあると認識できる可能性があるもの。」」」
・・・ますますあやふやである。。。

けれど自分にはそれ以上の結論を出すことができない




だからこれで終わりっ!!!





いやぁ、自分で書いてて訳わかんなかったお・・・
そもそも、存在論も認識論も確実にそうと言える定理がないわけだから、いち高校生がソレの結論を出せたらノーベル賞ものにゃんだろうけどねっwwwwwww

もしも明日世界が終わるとしたらどうしますか?

という質問を誰もが1度は話のネタとして話したことがあるんじゃにゃいでしょうか???

そして大抵その答えとしては

お金を使いきる。恋人と一緒に過ごす。犯罪に手を染める。おいしいもの食べたい。凄く・・・えっちです。

とかありがちが答えが返ってくるでしょう。

少し変わった人は普段の日常通り過ごせればそれでいい。なんて返答するでしょう。

ありがちな答えからすると個人の願望を叶える、といった目的を発言したものでつまり死ぬ前にしておきたいことをしよう!といった意見なのでしょう。

そして日常を望む人は普段の普通そのものが一番大切な事だと考えているのでしょう。
けれど、もし実際にそのようなことが起こったら世界的なパニックによって非日常の状態になり願いは叶わないでしょう。また、ありがちな答えとしても結局はパニックでまともな思考や行動などはとれず結局願いを叶えることはできないかもしれません。

つまり、もし願いを叶えたいと思うならばあらかじめ世界中の人が起こりうる可能性を想定していないといけない、という事です。
しかし、現実問題そんな事は不可能なわけで結局は実際にその状況になってみないとわからない。
という事です。

そういう意味でこの質問は人間の行動や考え、そして可能性がわかりやすく出る良い質問だと思います。


ちなみに自分が同じ質問をされたら、できるだけ世界中色々なところを見て回りたい。
と答えるだろうなぁ・・・

最後に自分が知らないことをその目でその足で実際に見て回りたい。といったところの願いなんですが。
なんでこんな風に自分が思うのかいまいち良くわからにゃいなぁ。。。


最後に1つみなさんに質問をば。

もしも明日世界が終わるとしたらどうしますか?

なんで世界の言語はバラバラなんだろうか・・・


よく聞くところによればそれは旧約聖書中の創世記の11章「バベルの塔」のようになるからだよ〜。
とか言われるけれども、ではバベルの塔の話内でなぜ神は人間の言語をバラバラにしたのだろうか?


物語中にはもともと言語は1つしかなく、人間は全地のおもてに散るのを免れようと考え、天まで届くバベルの塔を造ろうと考えた。
そして、それを知った神が、人間がそのように考えるのは言語が1つしか無いからだ!と思い人間の言葉をバラバラに話すようにした。そして人間は混乱し、世界各地へと人間は散っていった。

と要約すると書かれています。

これはある意味人間の言語が1つであった為調子にのっていた、とも取れます。
まぁ、元々レンガとアスファルトで建てていた。とも書いてあるので昔は文化や技術が発達していて調子にのっていた。というのも理由の1つなんでしょうがにゃ。


けれど、この部分からは人間は言語が統一されていた頃はみんな1つのことに協力しあって生きていた。
とも解釈できるのでは無いでしょうか?


今現在の世界の状況は人種差別やそれに伴う紛争なども起こっており、とても協力的とはいえません。
ならば、今一度言語を統一してみればいいのではないでしょうか?

今全国的に使われる機会の多い英語・中国語・ヘブライ語や自然言語であるフランス語などではなくまったく新しい言語を。。。
現にアプリオリ言語などある種のエスペラントは実際に開発されている訳だから新しい言語を造ることはそれほど難しいことでは無いはず。。。


もし、言語が統一化されれば、世界各地の人々がみな初対面でも意思疎通ができ、まず文化的に栄えるでしょう。更に今現在私達が外国人に道を尋ねられたときのことを考えて見ると、凄く困ってしまいますよね?そんなこともなくなりますし。そして、言語の違いを元にした差別も確実に減ります。


では問題点はあるのでしょうか?
・・・それは人によって様々な意見があるでしょう。

例えば自分の考える問題点としては元々存在する自然言語などはどうするのか?という事です。
当然昔からある言語に思い入れを持っている人もいるでしょうし、今自分達が使っている言語以外だけを使うようにする。なんてことはとても難しいです。

しかし、今それぞれの国で使われている公用語にプラスして新しい言語を加えたところで今現在日本人が英語に対して接しているそれと同じ状況になるので、とてもじゃないですが広まるとは思えません。



このようなことを考えると神とやらが言語をバラバラにしたのは先を見据えて実行した人間側からすれば狡猾な手段なのかなぁ・・・なんて思います。


・・・あれ?これよく考えたら言語がバラバラの理由とかもう関係ない話になってるwww

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