暇人の戯言<Ocurrencias de un ocioso>

徒然なるままに、日ぐらし硯に向かいて、よしなし事を、そこはかとなく書いております

俳句ー67


烏瓜 真赤に熟れて 烏待つ

晩秋の 雲下を飛ぶや ぷろぺら機

酒の量 少し増したる 秋の宵

三ツ堀の 香取神社や 小六月

行商の 九人を悼む 小春かな

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祇園精舎の鐘の声

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祇園精舎の鐘の声

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」。冒頭の名文で始まる平家の栄華と没落を描いた『平家物語』である。今年は平清盛生誕900年に当たる。
 平家物語は、鎌倉時代中期に成立したと思われる。保元平治の乱で源氏に勝利した平家の栄華と没落、源平の戦いから平安貴族に変わる武士団の台頭を描く。誇張や創作を織り交ぜた分かりやすい展開が、無常観を際立たせている。
 全12巻と灌頂巻から成り、巻12で壇ノ浦後の処刑や義経の都落ちを、灌頂巻は建礼門院(清盛の娘、安徳天皇の母)の往生を語る。前半の主役は清盛、中盤の主役は木曽義仲、後半の主役は義経である。
 作者には諸説あるが、資料的な裏付けはない。鎌倉末期の吉田兼好の『徒然草』では信濃前司行長とし、生仏という盲目の僧・琵琶法師に教えて語り手にしたとしている。
 平家は栄華を極め、安徳天皇が3歳で即位。清盛は天皇の祖父として権勢をふるう。一方、福原遷都、奈良炎上、後白河法皇幽閉など、悪行の数々を行う。時忠(清盛の義弟)をして、「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」、いわゆる「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめた。
 源頼朝が挙兵。「富士川の戦い」で、維盛(清盛の孫)率いる平家は水鳥の羽音に驚き、戦わずして敗走。頼朝は関東で力を蓄える。
 東大寺や興福寺を焼き尽くすなど、仏罰による熱病に苦しむ清盛は、「今生の望一事ものこる処なし。ただし思ひおく事としては頼朝が首を見ざりつるこそやすからぬ」と言い残し死去する。
 「倶利伽羅峠の戦い」で、維盛は再び木曽義仲(頼朝のいとこ)に敗れ、義仲の都入り前に、平家は安徳天皇を擁し三種の神器を持って都落ち。しかし義仲は後白河法皇に疎まれ、「宇治川の戦い」で義経に敗れ、平家追討の主役は義経に移る。
 「鵯越の坂落とし」による義経の奇襲で名高い「一の谷の戦い」で、源平の趨勢が決まる。熊谷直実が敦盛(清盛の弟・経盛の子)を討つ場面は、涙を誘う。直実は武家の無情を悟り、後に出家して高野山に登る。
 「一の谷の軍(いくさ)破れ 討たれし平家の公達(きんだち)あわれ 暁寒き須磨(すま)の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛 」、平家の滅亡を悲しく歌っている。
 「人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻の如くなり。一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか」、信長が好んだ幸若舞「敦盛」の一節である。「桶狭間の戦い」の前に、この「敦盛」を舞って出陣した。
 平家は暫く船で流浪していた。休戦状態になった夕刻に、小舟に乗った美女が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発する。那須与一「扇の的」で有名な「屋島の戦い」である。屋島陥落により四国の拠点を失った平家は、最後の決戦の場である「壇ノ浦の戦い」に臨む。
 敗北を悟った平家一門は、次々と海に身を投じる。8歳の安徳天皇も時子(清盛の妻)に抱かれ、「浪の下にも都のさぶらふぞ」と言って入水する。水面には平家の赤旗や赤印が散り、名高い竜田川の紅葉のようだったという。嫡流である六代(清盛のひ孫)が処刑され、平家は滅んだ。
 嫡男・重盛の死により平家の総帥となった宗盛は、壇ノ浦で一門の人々が次々と海に消えてゆく中、茫然と船端に立ち尽くす。見かねた味方の武士に海へ突き落されるが、海上を泳ぎ回ってしまい、結局、生け捕られる。
 平家物語は勇者だけの物語ではなく、弱者たちの物語でもある。超人的な勇者だけでなく、等身大の弱い人間も慈しみをもって語られているところに、平家物語の大きな魅力がある。
 「九郎判官」は義経の別称。平家との戦いで活躍しながら、兄頼朝に疎まれ自害に追い込まれる。「判官びいき」は、ここから生まれた。
 源平合戦では平家が「赤」、源氏が「白」の旗を用いた。対抗戦を紅白戦と言うように、運動会ではおなじみだ。赤組になると、何だか負けるような気がして、白組を希望した記憶がある。
 「諸行無常の響きあり 盛者必衰の理をあらわす」、この言葉が、何となく理解できる年齢になってきたようだ。

平成30年11月12日

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水彩画ー43

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見沼田圃

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見沼田圃

 見沼とは、かつての武蔵国、今の埼玉県さいたま市、川口市にあった巨大な沼である。現在も広い水田があり、「見沼田圃」と呼ばれている。「埼玉の原風景」でもある。
 面積は1300ha、南北に細長く外周は44劼發△襦M擇彼方まで田畑や森が広がっている。斜面林や屋敷林などの樹林、200種もの鳥類が生息する見沼代用水や調整池の水辺など、都会のオアシスでもある。
 かみさんの弁当とかみさんを相棒に、見沼田圃へ出かけた。晩秋の晴天とは言え、1人で行くのはちと寂しい。相棒は健脚である。何かの時に役に立つ。武蔵野線東浦和駅を降りた。地図を片手に見沼通船掘公園を目指す。歩いても、歩いても到着しない。工事の人に尋ねると、見沼水路を反対側に歩いていたようだ。よくある失敗だが、いやになるまったく。
 見沼通水掘は江戸中期に築造された閘門式運河である。幕府の命により、見沼の新田開発を行った勘定方・井沢弥惣兵衛によって、享保16年(1731)に開かれた。見沼代用水路と芝川の間の3mの水位差を調整するため、東西2か所に閘門が設けられた。この通船掘の開通により、江戸と見沼の村々との舟運が発展した。
 見沼干拓事業に携わった文化文政年間築という鈴木家住宅前を通り、芝川に出る。この辺りが、関東郡代の伊奈半十郎忠治が築いた八丁堤だ。長さが八町(約870m)あったことから名付けられた。通船掘開通の翌年に水難防止のために建立された芝川袂にある水神社を参拝し、見沼代用水東縁をひたすら歩く。
 長閑な田園風景が広がる。多くの屋敷には蜜柑と柿が植えられ、手が届くほどだ。川口自然公園そばに東沼神社があった。元々は木花咲耶姫を奉斉した浅間神社だったとのことで、「見沼の東に富士山あり」と言われた富士塚がある。しかし禁止また禁止の文字がやたらに多く、違和感を覚えた。
 江戸末期の農家がある見沼自然の家は休憩所になっているが、客は誰もいない。畑を手入れするおじさんが1人だけいた。見沼用水路に沿って再び歩く。殆ど人には会わない。鳥にも会わない。
 村の要として開山された幕府ゆかりの古刹・無量寺がある。元和元年(1615)、大阪夏の陣で敗れた武士の一党がこの地に入植し、先住者と村興しをする中、源慶によって開山されたという。
 子供たちで賑やかな、広大な芝生広場が広がる大崎公園に到着した。ここで弁当を広げる。この辺りには食事をするところは一切ない。弁当持参は大正解だった。迷いに迷って浦和くらしの博物館民家園に到着する。
 江戸後期に建てられた長屋門や市内最古の旧蓮見家など、茅葺きの古民家7棟が建ち並ぶ。子供たちの遠足なのか、ボランティアガイドの説明を真顔で聞いていた。時間を忘れる長閑な空間だが、足は棒のようだ。距離にしておよそ7kmだったが、道も大分間違えたので10劼亙發い燭世蹐Α
 30分ほど待って、浦和駅東口行のバスに乗った。到着するまで爆睡状態だった。いつものことながら、かみさんとの体力差を思い知らされた。
 古代、海面は現在よりも高く、見沼田圃のある地域は東京湾とつながる入江であり、旧浦和市域の3分の2が海底だった。その後、約6000年前を境に海が後退し、入り江が東京湾と分離して、無数の沼や湿地が生まれた。見沼の誕生である。
 江戸初期、 家康の命により、江戸湾に流れ込んでいた利根川を銚子へ通す利根川東遷と荒川の流れを統合する荒川西遷が始まった。この大土木工事は代官頭伊奈忠次を始めとする伊奈一族により行われた。
寛永6年(1623)、貯水量を確保するために、周囲40数km、面積1200haに及ぶ平均水深1mの見沼溜井が伊奈忠治により完成する。見沼への流入水を堰き止めるために造られたのが八丁堤だった。
 干拓による見沼田圃が開かれたのは江戸中期、吉宗の時代だった。農業用水の確保のため、利根川から約60kmに渡って用水が引かれ、 見沼田圃の西縁と東縁の台地にそって水路が掘削され、農業用水が供給された。これが見沼代用水だ。
 見沼田圃が開かれてから今日まで稲作が行われており、特に戦後は食糧増産を支える貴重な農業生産の場となった。しかし今や見沼田圃は、かつての面影はない。人と自然の共生、都市と自然の共存という新たな段階の時代を迎えている。

平成30年11月1日

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俳句ー66


秋の風 芒の原を 白くなで

白い雲 白虎白秋 白い風

雨あがり 門扉でお喋り 雀二羽

筆柿の 向うに白月 薄藍の空

ハロウィン コスプレかぼちゃ 大暴れ

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