暇人の戯言<Ocurrencias de un ocioso>

徒然なるままに、日ぐらし硯に向かいて、よしなし事を、そこはかとなく書いております

俳句ー75


福は内 柊鰯 鬼は外

ほろ酔いて 肝臓洗う 蜆汁

朝一番 起きて起きてと 山の神

春立ちて 吹きそで吹かぬ 春一番

豚カツの キャベツの千切り 先に食べ

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人生こつこつゆっくり

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人生こつこつゆっくり

 高齢の建築家とその妻のニュータウンでの老後生活を追ったドキュメンタリー映画「人生フルーツ」が話題を呼んでいる。東海テレビが、愛知県春日井市の高蔵寺ニュータウンの一隅を舞台に1年半かけて制作した。
 話題の映画を見るべく、再び柏のキネマ旬報シアターへ向かった。時代遅れの映画館である。お客もそれほど多くはないが、名画を上映している。
 主人公の津端修一さんは、旧日本住宅公団の建築家として、阿佐ヶ谷住宅や多摩平団地などの都市計画に携わった。高蔵寺ニュータウンのマスタープランも手掛け、風の通り道となる雑木林を残し、自然と共生する街を構想した。しかし時代は高度成長期、経済優先の時代はそれを許さず、完成したのは無機質な大規模団地だった。
 それまでの仕事から距離を置き、自ら手がけた高蔵寺ニュータウンの一隅に土地を買い、雑木林に囲まれた30畳1間の平屋を建てた。修一さんの師であるアントニン・レーモンドの自邸に倣って建てた家だった。「家は、暮らしの宝石箱でなくてはいけない」とは、モダニズムの巨匠ル・コルビュジエの言葉だ。
 自然との共生という夢を実現させるため、庭の畑で野菜を育て、木々を植えて果実を収穫する自給自足の半農的生活だった。妻・英子さんは刺繍や編み物から織物まで、何でもこなす。
 長年連れ添ってきた夫婦の暮らしには、細やかな気遣いと工夫が満ちている。あれから50年、2人はこつこつそしてゆっくりと時をためていく。「風が吹けば枯れ葉が落ちる。枯れ葉が落ちれば土が肥える。土が肥えれば果実が実る。こつこつ、ゆっくり。人生、フルーツ」、ナレーションは亡くなった樹木希林が務めた。
 修一さんは平成27年6月、畑仕事を終え昼寝をしたまま静かに息を引き取った。享年90歳。3つ年下の英子さんはそれを静かに、何のうろたえもなく看取る。2人の来し方と暮らしから、夫婦のありようを教えられる。またこの国が、ある時代に諦めてしまった本当の豊かさとは何かを教えてくれた。夫婦のモットーは、「年を重ねるごとに美しくなる人生」だという。
 戦時中海軍士官として厚木飛行場に赴任した時、台湾青年手製の印鑑を頂いた。90歳に近づいたある日、使い古した印鑑を持参し台湾へ赴く。当時の青年はすでに墓の下。印鑑を返し墓に埋め、丁重に弔う姿に涙があふれた。
 津端修一さんは大正14年(1925)1月3日、愛知県岡崎市で生まれた。東京大学第1工学部建築学科を卒業後、建築設計事務所を経て日本住宅公団へ。数々の都市計画を手掛ける。広島大学教授などを歴任し、自由時間評論家として活動。自給自足の半農生活の傍ら、フリー評論家としても活動した。
 津端英子さんは昭和3年1月18日生まれ。愛知県半田市の200年を超える造り酒屋の長女として育つ。27歳で結婚し2女を儲ける。東大ヨット部合宿の寄宿先だったことが縁となった。『あしたも、こはるびより』『ひでこさんのたからもの』『キッチンガーデンのある暮らし』など著作多数。
 修一さんは、ドイツで長年の歴史を持って定着していたクラインガルテンの考え方を、日本に導入しようと努力された。クラインガルテンとは直訳すると「小さな庭」だが、「市民農園」とも言われている。
ドイツでは、貸し農園の設置を国で制度化したクラインガルテン法が大正8年(1919)に制定され、貸し農園を「クラインガルテン協会」が管理し、希望者は区画を借りられる。
 利用者数は50万人を超え、利用者1人当たり平均面積は100坪ほどで、野菜や果樹、草花が育てられ、ラウベと呼ばれる小屋が併設されている。都市周辺のクラインガルテンはまとまって緑地帯を形成し、都市部での緑地保全や子どもたちへの自然教育の場としても、大きな役割を果たしている。
 「地上のすべては庭からはじまった。人々はそれを『天国』と呼んだ。私たちは身をどこに落ち着けようと、庭をつくるべきかも知れない。なぜなら、どんな小さな庭でも、瞳のように『すべて』を反映するものであるから」と、ジャン・ギトン著『庭を愛する人へ』に書かれている。
 老後をどう生きるか。21世紀の日本人が初めて経験する新しいテーマであろう。衣食住を基本に、お金に換え難い足元を大事にする暮らし。人生は長く生きるほど、より美しくなる。
 「風が吹いて、枯葉が落ちて、いい土になって、果実が実る」、「人生はこつこつゆっくり、フルーツの実る如く」、人生は一度きり。
 爽やかな気分で映画館を出た。

平成31年2月4日

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エコール・ド・パリ

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エコール・ド・パリ

 「フジタとイタクラ エコール・ド・パリの画家、藤田嗣治と板倉鼎・須美子」展が、松戸市の聖徳大学・川並弘昭記念図書館で開かれている。パリに集まった美術家「エコール・ド・パリ(パリ派)」の寵児・藤田と、パリで創作に打ち込んだ松戸ゆかりの画家・板倉夫妻の作品が松戸で初めて出会った。
 聖徳大と松戸市、同教育委員会の共同企画で開催された。藤田嗣治(1886〜1968年)は、東京美術学校を卒業後、大正2年に渡仏し、パリで活動する。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」と呼ばれる裸婦像などで絶賛された。
 藤田の15年後輩に当たる板倉鼎(1901〜29年)は松戸で育ち、妻の須美子(1908〜34年)と共に、大正15年から昭和4年までパリに留学した。ともに20代で世を去ったが、藤田を中心にパリの日本人画家を結集した「仏蘭西日本美術家協会」の第1回展に板倉夫妻も参加した。鼎が松戸の家族に宛てた書簡には、「例の今度の日本人の展覧会で、須美子が大変な評判で、藤田さんなども人を前に連れてってはほめていたそうです」と、藤田が須美子を絶賛したことを記している。
 昭和8年に川並香順・孝子夫妻により、東京大田区に聖徳家政学院として設立され、その後松戸市に開設した聖徳大学を訪ねた。女子学生の大学らしく、こじんまりとした綺麗な大学だった。
 8階の聖徳博物館には、同大が所蔵する藤田の油彩画7点、市教育委員会などが所蔵する板倉夫妻の油彩画10点が出展されていた。藤田の「庭園の子ども達」など、女性や子供をモチーフにした作品、鼎の代表作「休む赤衣の女」、須美子が立ち寄ったハワイの印象を描いた「午後 ベル・ホノルル12」などシリーズ作が並ぶ。当時の展覧会のカタログや写真集、板倉夫妻の身分証明書、藤田嗣治画集なども展示されていた。
 藤田は明治19年東京・牛込で、4人兄弟の末っ子として生まれた。父親は森鴎外後任の陸軍軍医総監で、兄弟縁戚関係など華麗な一族だったようだ。フランス帰化後は、レオナルド・フジタと名乗り81歳の生涯を終えた。
 「嗣治」は、元々次男だったことから「つぐじ」と呼んでいた。我々の記憶もそうだ。しかし父から「画家として名を成したら『つぐはる』と読め」と言われ、パリで名声を博してからは「つぐはる」と名乗るようになったという。
 板倉鼎は明治34年、埼玉県松伏町に生まれ、幼児期に松戸へ転居した。大正14年に須美子と結婚、須美子は17歳だった。媒酌人は与謝野鉄幹・晶子夫妻。鼎はパリで28歳の時客死、同年に生まれたばかりの次女が死去。続けて長女も死去。須美子も25歳の若さで逝去した。
 20代で夭逝した板倉夫妻の画業はごく短いものだったが、藤田と共に最も輝きに満ちた時代をパリで過ごし、それぞれに優れた芸術を築き上げた。
 エコール・ド・パリの美術家たちには、イタリアのモディリアーニ、リトアニアのスーティン、ブルガリアのパスキン、ポーランドのキスリング、ロシアのシャガール、そして「エコール・ド・パリの寵児」と呼ばれた藤田嗣治がいた。
 1867年(慶応3年)のパリ万博への日本の参加を機に、パリを中心にヨーロッパ全土に於いて、日本趣味であるジャポニズムが大きな潮流になった。そのジャポニズムをきっかけに、黒田清輝や佐伯祐三がパリに滞在し洋画を学ぶ一方、日本の浮世絵がパリの美術界に大きな影響を与えた。クロード・モネに代表される時代の最先端の文化・芸術とも言える印象派にも影響を与えた。
 日仏友好160周年を記念し、パリを中心に「ジャポニズム2018:響き合う魂」が開催されている。合わせて日本では、「没後50年 藤田嗣治展」が開催されている。
 聖徳大学構内に、「相模台戦跡碑」と「経世塚」なるものが立っていた。小田原の北条氏綱と小弓公方足利義明・里見氏の両軍が戦った「国府台の戦い」の戦死者を供養した塚とのこと。戦死者は千余人との記録もある。相模台の地名は、当地に居住した北条相模守高時の「相模守」に由来する。ここにはかつて相模台城があり、その跡地に陸軍工兵学校が置かれた。今は相模台公園となっている。
 藤田は、「私はフランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。私は世界に、日本人として生きたいと願う。それはまた、世界人として日本に生きることにもなるだろうと思う」と、言い残している。

平成31年1月31日

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俳句ー74


免疫力 そう言う妻は カップ麺

恵方巻き 大量廃棄 阿呆巻き

寝返れば 犬おどろきて 妻の部屋

チョビ髭と 坊ちゃん刈りの 嗣治展

なおみちゃん いつの間にやら 世界一

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乙女の聖地

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乙女の聖地

 「乙女系」と呼ばれる女性向けアニメやゲーム関連の店が集まる池袋は、若い女性から、男の秋葉原に対して「乙女の聖地」と呼ばれている。新宿や渋谷と並ぶ副都心でありながら出遅れた池袋に、アニメやマンガなどのサブカルチャーを核とした新スポットが続々と誕生している。
 乙女系とは、若い男女の恋物語を扱ったアニメやマンガ、ゲームを好む若い女性のサブカルチャー。「ベルサイユのばら」などに起源を発し、美少女やイケメン男子が登場する作品が多い。「テニスの王女様」や歴史上の名刀を擬人化した「刀剣乱舞」などが有名だが、男同士の恋愛をテーマにした「ボーイズラブ(BL)」といったジャンルもあるそうだ。
 JR池袋駅東口から5分ほどのサンシャイン前には、アニメ関連の店が集まる「乙女ロード」と呼ばれる場所がある。33階建ての大型複合ビル「ハレザ池袋」やシネコンなどの「キュープラザ池袋」の建設、「芸術文化劇場」の乙女系文化の原点と言える宝塚歌劇の定期公演化。サンシャインシティプリンスホテルにサブカルチャー専用フロアの開設など、サブカルスポットが続々と誕生する。日本創生会議から、「消滅可能性都市」と指摘された豊島区の挑戦が始まった。
 そんな池袋駅を何年かぶりに下車した。東口から乙女ロードへ向かう。うらぶれたイメージが漂う池袋だったが、凄い人ごみだ。サンシャイン前交差点から春日通りの東池袋三丁目交差点までの200mほどの道路の片側に、アニメグッズや同人誌などを扱う店舗が密集している。「腐女子の聖地」とも言うらしい。「腐男子」の登場で、男女間のボーダレス化に伴い、男性客も多くみられる。
 サンシャインシティホテル前のスターバックス前に、それらしいグループが屯していた。スペイン広場のような階段にも大勢。その下の公園広場には、アニメ男女が溢れていた。専門のカメラマンがシャッターを切る。アニメの品評会である。まるで異次元の世界に、おじさんはたまらず逃げ出した。
 西口に回ってみた。池袋西口公園からコンサートホールや演劇・舞踏用シアターを併設する東京芸術劇場を回り、立教大学へ行ってみた。シンボルのモリス館を潜り、「鈴懸の径」を歩く。立教のキャンパスの一角に鈴懸の木3種の苗木が植えられたのは、大正13年(1924)だという。その鈴懸が立派な並木になったころ、1曲の歌が生まれた。立教OBで昭和の大歌手、灰田勝彦が歌った名曲「鈴懸の径」である。
 曲が誕生したのは昭和17年。多くの若者が次々に戦場へ送られた時代だ。「友と語らん 鈴懸の径」「夢はかえるよ 鈴懸の径」、平和を願う悲痛な思いが込められている。その鈴懸の径に、戦争を知らない若者たちが和やかに語り合う姿があった。
 立教大学はチャニング・ウィリアムズ主教が、明治7年に設立した私塾「立教学校」に始まる。東京・築地の外国人居留地に設立したが、関東大震災により池袋に移った。「St.Paul's University」の応援歌「St.Paul's will shine tonight」を口ずさみながら、校門を出た。
 立教通りを挟んで立教高校脇の路地を入ると、「江戸川乱歩邸」がある。大衆文化研究センターになっている。門が閉ざされていた。何やら「怪人二十面相」が潜んでいる気配がする。
 「不死身の怪人、世紀の怪盗、変装の大名人、風のごとく現れ、風のごとく消えさる怪人二十面相と、名探偵明智小五郎の、しのぎを削る大知能戦」に、心ときめかせた時もあった。「明智君、難しい謎だ。しかし謎というものは、必ず解ける時が来る。ハッハッハッ」と、怪人二十面相は去って行く。
 可愛いフクロウの案内板に、「うつし(現)世はゆめ よるの夢こそまこと 乱歩」と書かれていた。池袋と「ふくろう」は縁があるらしい。「いけふくろう」と言って、至る所にふくろうの像がある。
 解けない謎はない。しかし、乙女の聖地と怪人二十面相のギャップは解けそうにない。

平成31年1月19日

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