暇人の戯言<Ocurrencias de un ocioso>

徒然なるままに、日ぐらし硯に向かいて、よしなし事を、そこはかとなく書いております

王子の狐

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王子の狐

 落語で有名な「王子の狐」は、人を化かすはずの狐が人に化かされる顛末を描いている。初代三遊亭圓右が、上方噺の「高倉狐」を江戸ものに写したものだ。
 王子稲荷に参拝した帰り道、狐が美女に化けるのを見かけ、「化かされたふりをしてやれ」と、近くの料理屋・扇屋に上り込み、美女狐とどんちゃん騒ぎ。寝込んだ狐を残し「勘定は女が払う」と、さっさと帰ってしまう。悪さをした男は反省し、手土産にぼた餅を持参し謝りに行く。狐は「馬の糞かも」と、疑う落ちである。
 王子の狐を訪ねて、京浜東北線王子駅に降り立った。東京メトロ南北線も都電荒川線も通っている。王子と言えば徳川吉宗が開いた桜の名所・飛鳥山公園だが、今回は狐である。
 駅前に、「洋紙発祥の地」の碑が立っていた。明治6年に、渋沢栄一が「抄紙会社」を設立した王子製紙発祥の地でもある。北本通りを北へ、装束稲荷神社へ向かう。
 かつてこの辺りは一面の田畑で、そこに1本の榎が聳えていた。大晦日の晩に、関八州から集まった狐たちがこの木の下で装束を整え、王子稲荷神社へ参詣したという。「装束榎」と呼ばれるようになった榎は、昭和4年に道路拡張工事で切り倒され、装束稲荷神社が設けられた。
 「いざあけん ゑび屋扇屋 とざすとも 王子の狐 かぎをくはえて」という歌碑がある。これは江戸時代の狂歌師・大田南畝(蜀山人)の詠んだもので、「ゑび屋」「扇屋」とは、江戸時代にあった料理屋の名前。確かに右手の狐は鍵をくわえていた。 
 除夜の鐘とともに、紙の裃や狐面で装束を整え、提灯をかざし、新年を迎える「王子狐の行列」が平成5年に誕生した。歌川広重は「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」という浮世絵にし、正岡子規は「追々に 狐集まる 除夜の鐘」と句にした。
 狐になったつもりで装束稲荷を出発する。付き人は1人。北本通りを戻り、権現坂ガードをくぐって、森下通りを北に進むと王子稲荷神社がある。途中に明治20年創業という石鍋商店があった。昔ながらの素材と製法で作る久寿餅は絶品とのこと。
 王子稲荷神社は江戸時代から庶民に親しまれ、東国三十三ヶ国稲荷総社の格式を持つ。大晦日には、関八州の狐たちが装束榎の下で身なりを整え初詣をした。その狐火を見て、当地の農民は田畑の豊凶を占ったという。「狐の穴跡」が境内にある。落語「王子の狐」の舞台にもなった。「装束の 榎まで持つ 王子なり」(東鳥)という句も残る。
 北隣りが「名主の滝公園」だ。妙な名だが、江戸・嘉永年間に王子村の名主・畑野孫八が屋敷内に滝を開き、茶を栽培して避暑のため一般に開放したのが由来という。男滝、女滝、独鈷の滝、湧玉の滝の4滝がある。滝は地下水をポンプで汲み上げ、流れた水は大小の池に注がれている。
 紛らわしいが、王子神社もある。「王子」という地名ゆかりの神社だ。元亨2年(1322)、豊島郡を支配していた豊島氏が、紀州熊野三社権現から王子大神を勧請し、若一王子として祀った。これにより村名が岸村から王子村に改められた。「太田道灌雨宿りの椎」と呼ばれる神木があったが、戦災で焼失したという。
 王子神社の下を流れる川が、音無川だ。石神井川がここでは音無川と呼ばれるのは、紀州の地名に擬したとの説がある。木橋、東屋、行灯、水車などを配した純和風の「音無親水公園」として整備され、3連アーチの優雅な音無橋が架かっている。
 音無川沿いに落語「王子の狐」や南畝の歌に登場する扇屋がある。創業から370年、15代目という玉子焼きの老舗だ。王子はなかなか面白い街である。
 狐は稲荷神の神使であって稲荷神そのものではないが、一般には同一視されている。稲荷神社は全国に32000社あり、日本最大である。稲作文化と共に、鼠の天敵とされた狐が豊作と商売繁盛の神としてもてはやされたのだろう。
 狸はちょっと間抜けで愛嬌があるが、狐はずる賢くてどうも好きになれない。王子の狐はひょっとして狸で、人間が狐だったのかも知れない。

平成29年10月3日
須郷隆雄

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水彩画ー31

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柘榴と松ぼっくり

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書の神様が降りた

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書の神様が降りた

 ダウン症の書家として知られる金澤翔子(小蘭)の代表作60点以上を集めた個展が、上野の森美術館で開催された。全国の神社仏閣に奉納された作品も一堂に会し、過去最大規模の書展になった。
 母親の泰子さんとは学生時代に英語クラブで共に活動したという横浜在住の友人に誘われ、上野駅公園口で待ち合わす。友人の友達とも待ち合わせることになり、3人で美術館へ向かった。7年前の鎌倉・建長寺で開催された個展以来である。
 人で溢れ返るほどの大混雑。これほど混んだ上野の森美術館は初めてだ。人気のほどが知れる。翔子さんのサイン会も行われていた。
 今回の目玉の一つは、「書の神様が降りた」と評される「風神雷神」(京都・建仁寺蔵)だ。構図が俵屋宗達の国宝「風神雷神図」と同じである。普段、建仁寺に展示しいていると同様に、二つ並べて展示されていた。
 風神は風の神様を、雷神は雷の神様をイメージして書いたという。書く前は、一度も風神雷神図を見たことがないとのことなので、風神雷神が乗り移ったとしか言いようがない。見た後では、二度と同じものを書くことはできないという。
 もう一つの驚きは、「大哉心乎(おおいなるかなしんや)」だ。栄西禅師の言葉で、「天空の高さは極まりないが、心はその高さを超えることができる」との意味である。
 建仁寺に飾られている「大哉心乎」を見たある高僧が足を止め、実は「大哉心乎」の字には仏という字が隠れていて、本来は「大哉仏心乎」という。隠れている仏の字の空間を開けていると、びっくりされたそうだ。翔子さんには、普通の人が見えない仏の字がみえていたのだろうか。見えない仏に、手を合わす者もいた。
 さらに、NHK大河ドラマ「平清盛」の題字や、10歳で涙ながらに書き上げた涙の「般若心経」、全国巡礼で書き続けた「共に生きる」など、代表作からこの個展のために書き下ろした最新作まで、金澤翔子の全てを一挙公開していた。
 母・泰子さんは高齢出産だったため、翔子さんはダウン症と診断された。そのことを知った時、わが子と共に死のうと考えたという。夫にも先立たれながらも、育っていく子の姿に思いとどまった。師として5歳から書道を教え、271文字の般若心経を書き、現在の作風に至ったという。
 歌うことが大好きで、俳優の小池徹平の大ファン。好きな文字は「夢」だという。講演会や個展、席上揮毫には必ず同席し、母娘全国行脚の「祈りの旅」はこれからも続く。
 ダウン症は一般的な遺伝子疾患であり、新生児1000人当たり1人の割合と言われる。日本ではおよそ5万人、アメリカでは34万人いる。近年、中絶を選ぶ女性は90%を超える。
 母・金澤泰子が綴った娘の伝記『天子の正体』の中で、ダウン症の娘を生んだ母は「希望がないから育てられない」と、一時は絶望を味わった。しかし、23年の時を経て、娘の金澤翔子は書道家としての道を着実に歩んでいる。子育てに悩む親はもとより障害児を抱える親など、より多くの人々が夢や希望を見いだす一助になればと語る。
 作家三木卓が次のような言葉を寄せている。「荊棘(いばら)の冠に輝いている人、障害はハンディキャップか。世に、才能を秘めたまま生涯を終る社会人も少なくない。しかし障害はこの世の拘束を逃れる資格である。障害者の一人であるぼくは、そうも感じる。翔子さんには、障害者の条件を恵みにして生かす、強い開放感にあふれた才能がある」と。
 ダウン症の子を抱える知り合いがいるが、概して皆明るい。ダウン症を話題にすることはできないが、明るさの中に秘めた苦しみを思うと、ただ「がんばって!」と心の中で言うだけである。
 友人同窓の泰子さんと挨拶を交わし、神が宿ったような不思議な気持ちで、大盛況の上野の森美術館を後にした。

須郷隆雄
平成29年9月24日

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俳句ー37


歴史女子 笑う声あり 閻魔堂

無花果の 花は実の中 隠しおり

金木犀 匂いほのかに 芋名月

人の肉 喰ったか赤い 柘榴の実

無患子を 拾い集めて 子ら息災

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カナルファーム

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カナルファーム

 利根運河近くの流山市西深井に、「カナルファームido」が開店して半年になる。21代続く農家だ。畑、梅林、果樹のある広大な農園で、野菜やイチゴ、ブラックベリー、柿、栗などを栽培している。
 無農薬で栽培した野菜や果物、その果物で作ったジャム、手作りの焼き菓子などを販売しながら、農業体験や料理、ヨガなどの「やさいとくらしの学校」も開く。
 明治時代に、利根運河の設計・監督をしたオランダ人技師のローウェンホルスト・ムルデルが完成までの2年間寄宿したことから、「運河」を意味する「カナル」を農園の名称にした。利根運河を訪れた観光客や農業体験をした人が憩い、農産物等を買える場として、物置に使っていた井戸小屋を改装し、「ido」と名付けた。
 運営する矢口優子さんは6年前、3人目の子供の妊娠をきっかけに都内の会社を辞めて、家族で実家に戻った。生産から加工、販売まで手掛ける「6次産業」を目指し、暮らしと寄り添う農業に挑戦している。
 運河周辺には、いくつもの沼や小川が入り組んだ谷津と言われる低地や里山が広がり、コブハクチョウやタゲリ、オオタカなどが生息する貴重な自然の宝庫でもある。「新川耕地の自然の恵みを体験する」活動なども行われている。
 タゲリ観察会も催されているが、タゲリ(田鳧、田計里)は越冬のために飛来するチドリ科の冬鳥。河川や湿地、水田など見通しの良い開けた場所に生息し、警戒心が強いという。
 利根運河は、柏市、流山市、野田市を流れる利根川と江戸川を結ぶ全長8.5kmの運河で、水運の大動脈としてオランダ人技師ムルデルによって開削された日本初の西洋式運河である。明治21年に開削工事が始まり、工期2年を経て明治23年に通水した。地形を巧みに利用した緩やかな美しい曲線美を描いているのも特徴だが、クワやツルハシという原始的な手法で行われ、延べ220万人を要したという。
 最盛期には1日100艘を超す船が往来したというが、その後の鉄道やトラックなどの陸上輸送の発展と共に50年でその歴史を終えた。今は運河水辺公園として市民の憩いの場となり、「ムルデルの碑」が運河を見下ろしている。
 ムルデルが2年間寄宿した矢口家の離れは、取り壊され残ってはいないが、ベッドや家具、絨毯を入れ、料理人と人力車夫を雇い、初任給は475円だったという。当時の総理大臣・伊藤博文は800円、内務大臣板垣退助は500円、松山中学教員だった夏目漱石は80円、小学校教員は5円だった。それからすると、大臣クラスの高給だったことが分かる。今に換算すれば、月給1000万円相当だろう。
 6次産業という言葉の由来は、東大名誉教授今村奈良臣の提唱による。広島県世羅町は6次産業化が進んだ町として有名だが、黒字化までは平均4.1年かかるというデータもある。粘り強い取り組みが必要である。
 成功するには、いくつかの壁を乗り越えなければならない。流通業の機能とコストを低く見すぎる3次産業理解の壁、安全・規制という食品加工の壁、補助金思考の壁、理念先行の壁などがある。
 「加工・直売」を組み合わせたものが半分以上を占める。「加工・直売・レストラン」を組み合わせたものは10%未満という。6次産業化成功のカギは加工にありそうだ。
 ふるさと納税の返礼品が人気を呼んでいるが、流山には目ぼしいものがない。この度、「収穫体験チケット」が加わった。カナルファームで自然に触れながら旬の野菜を収穫する。更に美味しいジャムの作り方を学び、採れたて野菜のサラダやポタージュなどの料理を楽しむというものだ。
 農業の抱える課題は多い。高齢化の進展で農業の担い手は、この20年で100万人ほど減少した。耕作放棄地は富山県とほぼ同じ42万haに及ぶという。
 いくつもの壁を乗り越え、粘り強く取り組み、地域の活性化に役立って欲しいと期待している。
 
平成29年9月19日
須郷隆雄

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