暇人の戯言<Ocurrencias de un ocioso>

徒然なるままに、日ぐらし硯に向かいて、よしなし事を、そこはかとなく書いております

太平山ハイク

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太平山ハイク

 連休恒例の家族登山をどこにするか、検討した。高尾山と筑波山が恒例のコースだが、今回は東武線沿線で探してみた。太平山ハイキングコースにヒットした。歩程94時間、標高341m、関東平野の切れ目に位置し眺望は抜群と書いてある。
 太平山(おおひらやま)は栃木県南部の栃木市にある小さな山だが、歴史のある山だ。同名の山が全国に80以上あるという。太平山は「太」と書くが、旧大平町は「大」と書く。これは旧大平村が合併発足した際に、画数が4である太の字を忌避したためと言われる。
 弁当とビールをリックに詰めて、娘とかみさんとノン太郎の一家1匹3人の家族登山に出発した。東武日光線新大平下駅を降りる。連休後半真只中というのに、あまり下車する客はいない。日立アプライアンスの広大な工場脇を線路沿いに北上する。
 日光線の踏切を越え、更にJR両毛線の踏切を渡ると客人神社に突き当たる。変わった名前の神社だ。後からやって来た神にその土地を奪われて、主客逆転してしまったのだろうか。ここが太平山登山口である。
 急な石段を登って行く。ノン太郎も元気に登る。途中の見晴台から太平山と晃石山を臨む。青葉に覆われ素晴らしい景色だ。ウグイスの鳴き声が聞こえる。車道を横切り、更に平坦な山道を登る。やがて茶屋が並ぶ謙信平展望台に到着した。
 上杉謙信が北条氏康と太平山の大中寺で和議を結んだ際に、ここから関東平野を見下ろし、あまりの広さに感嘆し、謙信平と名付けられた。その眺望は、「陸の松島」とも呼ばれる。
 そこに、山本有三が執筆した『路傍の石』の文学碑がある。「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、うまれてきたかいがないじゃないか」と刻まれていた。有三は呉服商の子として、ここ栃木市に生まれた。
 鳥居を潜り、石段を登ると太平山神社だ。天長4年(827)、慈覚大師により建立された名社。徳川3代将軍家光以降、将軍家の庇護を受けた。小さな祠の奥宮を経て、富士浅間神社に到着する。そこが標高341mの太平山山頂である。太平山城跡とのこと。巨木に覆われて、風景を見下ろすことはできない。
 急な坂を下りて行く。ノン太郎は大好きなバックに背負われ、満足気である。何度か登り客に聞きながら、無線中継所近くのぐみの木峠を左に折れて降りて行く。ここもかなりの急坂だ。足元を見つめながら慎重に下りる。関三刹の一つという曹洞宗の太平山大中寺に到着した。ここで昼食とする。
 先ずは持参したビールで乾杯。我が家のルールである。老木に覆われ、何となく湿っぽい感じもする。時間をかけてゆっくりと、かみさん手製の弁当を頂く。ノン太郎も喰わせろとやかましい。
 大中寺は天正19年(1591)、家康により曹洞宗の関八州僧録職に任命され、下総の総寧寺(千葉県市川市)、武蔵の龍穏寺(埼玉県越生町)と共に関三刹の一つとなった。大本山永平寺の貫主は、この三寺の住職経験者から選任されたという。
 大中寺には「根なし藤」「油坂」「枕返しの間」など、七不思議伝説がある。寺の建立の際に、禅師が地に刺した杖から藤が成長したという根なし藤の伝説は、上田秋声の『雨月物語』の「青頭巾」にも書かれている。藤の古木や井戸などが今も残る。
 それにしても驚くべき大伽藍だ。霊気が漂って来るようだった。長い参道を下り、再びブドウ畑やブルーベリー畑などのあるなだらかな山道を歩く。両毛線の踏切を渡り、東武日光線新大平下駅に戻った。日差しの強い駅前で、10数人のグループが時間待ちか、賑やかだった。ノン太郎も頑張って歩き終えた。
 翌日は様変わりした流山おおたかの森駅周辺を娘に紹介するため、新しく模様替えした「バーンアンドフォレスト148」へ行ってみた。結婚式があり、レストランは全席貸切。やむなく、おおたかの森SPのバル&レストラン「アゴーラ」に変更する。リーズナブルで感じのいい店だった。娘に奢られた。
 その翌日はノン太郎と江戸川を散歩し、我が家の前にある喫茶「木の実」に寄る。犬連れなのでガーデン席に座る。人気のプリンアラモードを注文するが、開店とともに売り切れとのこと。コーヒーフロートとサンドイッチで、軽い昼食を取る。ノン太郎も椅子に座り、会話に混ざる。蚊取り線香がたかれていた。引っ越した当座は客も少なく、潰れるんじゃないかと心配したが、今は待ち客がいるほどになった。これも30年の変わりようだ。夕方、「これからまた飲み会」と言って、娘が帰って行った。久々の長居だった。
 「令和」の御代が始まった。5月1日は戸籍上の結婚記念日、かみさんの誕生日でもある。「令」もかみさんの一字。何かいい時代が始まりそうだと、宝くじを買ってその幸運を待っているようだ。
 10連休の後半行事も無事終了した。

令和元年(2019)5月3日

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柳生の3県境

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柳生の3県境

 栃木、群馬、埼玉の3県が接する3県境が、東武日光線柳生駅から徒歩数分のところにある。通称「柳生の3県境」と呼んでいる。三つの都道府県が接するところは、全国に48か所ある。主に山頂や川の中だが、ここは標高15mの平地にある。因みに4県境はない。
 この3県境は渡良瀬遊水地の谷中湖の南西にあり、栃木県栃木市藤岡町、群馬県板倉町、埼玉県加須市がそれぞれ接している。以前は渡良瀬川の上にあったが、足尾から流れる鉱毒の溜池として遊水池が造られ、河川の付け替えで大正7年(1918)に陸地になった。
 柳生の3県境を見るべく、かみさんをお供に柳生駅に降りた。長閑な田園地帯である。降りる客も殆どいない。田植えも済み、早苗が風にそよぐ田圃道を歩く。やがて整備された遊歩道を行くと、間もなく3県境に到着する。ここだけは数組の観光者が屯していた。
 旧渡良瀬川と旧谷田川が交差する田んぼの真ん中に、3県境界点があった。水は淀み濁り、感動的とは言えない。客は皆、道の駅「きたかわべ」の方へ帰って行く。電車で来る客は、あまりいないようだ。道の駅に、「わが国解剖学の父・田口和美博士」の立派な胸像が立っていた。
 田口和美は天保10年(1839)、古河藩領の武州埼玉郡小野袋村藤畑(現北川辺町小野袋)に、医師田口順庵の長男として生まれた。吉村昭の小説『梅の刺青』に、美幾女の解剖を題材にした解剖執刀医田口和美を描いたくだりがある。「美幾女の腕には梅の折枝と愛しい人の名が彫られた短冊の刺青があった」と。
 道の駅から渡良瀬川と谷田川に囲まれた渡良瀬遊水地「谷中湖」が見える。その奥に筑波山。歪なハート型をした谷中湖は外周9.2km、面積450ha。幸運を運び、恋が叶うという「ハート型スポット」でもある。北海道から沖縄まで30ほどある。好天と恋に惹かれて足を延ばした。
 谷中湖の中央を走る西橋を渡る。魚を釣る人、カヌーを漕ぐ人、サイクリングする人、のんびりと散策する人、思い思いに大自然を満喫している。中の島を過ぎ、東橋を越え、延命院と雷電神社に寄る。延命院も雷電神社も谷中村廃村後はその姿を消しているが、墓標や半鐘、クヌギの巨木が往時を忍ばせる。
 雷電神社は、足尾銅山鉱毒事件に生命を賭けて戦った田中正造がこよなく愛し、村民と寝食を忘れて談じ、村民を慰め激励したところであった。谷中の地を措いて田中翁は語れない。
 谷中村は栃木県最南部に位置し、渡良瀬川、巴波川、思川に囲まれた洪水常襲地帯であったが、肥沃な土地でもあった。しかし、明治10年(1877)頃から渡良瀬川上流の足尾銅山より流出する鉱毒により、農作物や魚の被害は想像を絶するものとなった。栃木県出身の衆議院議員田中正造は被害状況を帝国議会で訴え、明治34年(1901)の天皇への直訴で、鉱毒事件は人々の関心を引くこととなる。
 「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」という田中正造翁の言葉をかみしめながら、子供広場へ向かう。子供たちが蝶々を追い回していた。蝶々もさるもの、なかなかつかまらない。そこで弁当を広げる。「おにぎりだけ」と言っていた割には、しっかりと用意されていた。空が広い。寝転んで白い雲を追っていた。
 「体験活動センターわたらせ」でガイドマップを頂き、北橋を渡り、再び中の島を経て西橋を渡り、ミクニ緑道から柳生駅へ戻った。この辺りは東に筑波山、北に赤城連峰が見渡せる茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県に跨る関東平野の穀倉地帯である。
 10連休の前半行事を無事終えた。

平成31年(2019)4月29日

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俳句ー84


菜花の後 三つ葉とたんぽぽ 競い合い

平成の 生まれは我が家 犬のみぞ

犬のそり 夕餉にのそり のそり喰う

蛙啼き 蝸牛角 振りにけり

休明け いざや令和の 初仕事

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庶民文化の息づく街「十条」

 東京都北区十条は銭湯や酒場、大衆演劇の芝居小屋があり、庶民文化の息づく街である。富士講など江戸以来の民間信仰も根付き、道端の地蔵尊には花も供えられている。
 十条の由来は武蔵風土記によると、豊島清元が熊野権現を勧請した際に、紀州の十条峠に因んでつけたという説がある。王子方面から岩淵を経て埼玉県へ抜ける岩槻街道沿いに集落が広がっていた。
 作家佐多稲子が夫と十条の借家に越してきたのは昭和3年。「十条駅に近い労働者の街で、水が美味しく秋には山茶花がいっぱいに咲いた」と、著書『私の東京地図』にある。
 ある日、王子署の特高刑事が家にやってきた。佐多は求められるまま、労働機関誌「無産者新聞」を渡してしまう。帰宅した夫に責められ、必死の思いでその新聞を取り返しに特高部に乗り込む。「うちに帰れない。夫に怒られた」「離婚かも」と押し問答の末、やっとの思いで取り返す。佐多は後悔と安堵で、ぶるぶる震えた。忘れ得ぬ記憶が詰まった十条暮らしを、後年この街がいとおしいと回想している。
 上野駅で降り、東京都美術館で二科展に寄る。花見は終わったというのに、上野は不思議なほど人が多い。JR京浜東北線で東十条駅を降りる。十条跨線橋を渡ると、黒松本舗「草月」前に大勢の行列。人気は、黒糖の香りが香ばしいどら焼き「黒松」だそうだ。開店からお客が並ぶというが、午後1時でも並んでいた。
 近くに「とげぬき地蔵分尊」がある。とげぬき地蔵と言えば、おばあちゃんの原宿「巣鴨商店街」であるが、その分尊だという。花が供えられ、地元の信仰の深さを感じる。更に進むと東十条商店街に突き当たる。その角に「身守地蔵尊」がある。
 戦争でこの一帯が焼野原になった後、平和を願い上野寛永寺から譲り受けたお地蔵さんとのこと。演歌歌手の名前入りの提灯が沢山並んでいた。そのはず、向いは「ミュージックショップ・ダン」である。都内では珍しい演歌歌手による歌とサイン会など、店頭キャンペーンが行われている。
 再び京浜東北の線路を越え、岩槻街道を南下すると十条富士塚がある。地元では、「おふじさん」として親しまれている。更に下ると、真言宗智山派・地福寺がある。将軍の日光社参には休憩所として利用され、寺領12石の御朱印寺でもある。「千年の松」と呼ばれる大きな松が、参道入り口に立っていた。
 その手前の演芸場通り商店街に入る。その名の通り、「篠原演芸場」がある。大衆演芸場が未だ人気があるのは、やはり土地柄であろう。ここのおにぎりが「篠原のおにぎり」として、全国の大衆演劇ファンに知られた名物だそうだ。中東系の顔が多い。近くにパレスチナ料理店があった。
 更に埼京線を越えると、十条銀座商店街である。「十条銀座」は、200軒以上の店が並ぶ東京三大銀座の一つと言われるそうだ。他の二つはどこだか分からない。とにかく物価が安い。コロッケ30円、やきとり50円、衣料品や紳士靴も信じられない値札がついている。
 「赤羽」は「乗り換えに便利な駅」としてのイメージが強かったが、久住昌之・谷口ジローの漫画『孤独のグルメ』や清野とおるの『東京都北区赤羽』が火つけ役となり、いまや街歩き番組の常連。「せんべろ」「朝酒」など、話題の街になった。それにともない「住みたい街」としての注目度も急上昇している。十条は、そんな赤羽の隣の街である。
 昭和3年創業の人気の大衆酒場「斎藤酒場」に立ち寄ってみたが、時間が早すぎて開店していなかった。庶民文化の息づく街「十条」も、住みたい街としての注目を集め始めているようだ。

平成31年(2019)4月19日

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俳句ー83


不動から 見下ろす先に 山桜

桜散り 見渡すかぎり 青葉かな

飛花落花 桃色吹雪 花まつり

蒲公英の ぼんぼり薄く 昼行燈 

涙雨 あがり継がれし 令和の御代

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