暇人の戯言<Ocurrencias de un ocioso>

徒然なるままに、日ぐらし硯に向かいて、よしなし事を、そこはかとなく書いております

俳句ー59


兄の盆 鉦と読経と 蝉しぐれ

腰いたや これも供養の ひとつかも

盆の寺 親戚の顔 散見す

塔婆立て 新盆の寺 香の舞う

ベランダに 水打ちしてや 水タオル

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麻原彰晃の祟りか

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麻原彰晃の祟りか

 熊本からの帰りに、今から30年ほど前、家族揃って3年半生活した福岡を訪ねた。しかし、西日本を襲った数十年ぶりという豪雨に見舞われ、里帰りは叶わなかった。
 やむなく、福岡空港へ向かう。チェックインまで、2時間も前に到着した。待合室でコーヒーを飲みながら、文庫本を読んでいた。豪雨が気になる。山陽新幹線は全線運休と報じていた。活発な梅雨前線の影響による豪雨で、土砂災害への警戒を呼び掛けていた。
 電光掲示板に、成田空港行き欠航の知らせが報じられた。カウンターで聞くと、機材の調達が付かず欠航とのこと。明朝の予約を入れて、インホメーションセンターでホテルの紹介を受ける。この非常事態である。どのホテルも「満室です」との返事。まるで、断るのを楽しんでいるかのようにも聞こえた。
 「金曜日ですし、この天候ですからね」と、どうにもならない。8時を回っていた。別のインフォメーションを訪ねる。今度は日航ホテルや全日空ホテルなど、高級そうなホテルを紹介してくれた。「高いんじゃないの」と言うと、「そうですね、2〜3万ですね」と。しかし、これらも満室だった。
 暫し待合室で対策を練る。知人がいないわけではないが、迷惑もかけられない。野宿を覚悟で、博多駅に戻る。かつての勤務地だ。地理感はある。先ず駅前のホテルに直接交渉する。若い女性で、マニュアル通りの返事しか返ってこなかった。
 2軒目を当たる。中年の男性と若手の男性がカウンターの中にいた。中年男性に事情を話すと、「満室です」と言いながらも、若手と目配せし、「今空きが出ました」と交渉成立。チェックインしながら、こちらから礼を言った。
 野宿せずに済んだ。こういう事態は海外ではよくあるが、トラブルを楽しんでいる自分を思い出していた。トラブルは旅にスパイスを与え、思い出を作る。
 夜の博多を歩いてみた。飲み屋は賑やかだが、食事処は意外に早く閉まっていた。結局ホテル内のスペイン・バルのカウンターで、ボーイとお喋りしながら遅い夕食を取った。
 翌朝は早めに福岡空港へ向かい、チェックインを済ませた。雨は上がり、定刻に福岡を発ち、成田へと向かった。成田で飛び乗った電車がスカイライナーだった。空港アクセス線に乗り、東松戸で武蔵野線に乗り換えるはずだった。全席指定、日暮里までノンストップである。日本人は殆どいない。
 車掌がやってきた。「電車を間違えました」と料金を払おうとすると、「どちらまで」と聞くので、「空港アクセス線で武蔵野線に乗り換えて南流山まで」と言うと、「日暮里で戻るしかありませんね、お気を付けて」と言って、行ってしまった。
 スカイライナーのただ乗りだ。何だか得をした気にもなった。トラブル続きである。3日ぶり、3時過ぎに無事我が家へ辿り着いた。
 「西日本豪雨死者50人、不明50人救出続く」と、新聞一面に報じられていた。気象庁は、「典型的な梅雨末期の豪雨」としたが、「これだけ広範囲での記録的大雨は非常に珍しい」と説明していた。
 結局、広島・岡山・愛媛を中心に死者は225人、4500人に達する避難生活者を出す大惨事になった。気象庁は「平成30年7月豪雨」と命名した。豪雨災害では、昨年の「平成29年九州北部豪雨」以来となる。気象庁が命名した最初の気象現象は、昭和29年9月の台風15号の「洞爺丸台風」だ。
 「数十年に一度の豪雨」というが、毎年のように起きている。気候変動による高温化の影響だろうか。「異常」「記録的」が普通になりつつある。「天災は忘れた頃にやってくる」というが、忘れる前にやってくる。「備え怠るなかれ」である。
 同様に、「麻原死刑囚の刑執行」が一面に報じられていた。6日午前、オーム真理教の麻原彰晃ら7人の死刑囚が死刑執行された。テロ国家を目指した王と大臣たちの処刑である。
 サリン製造に深く関与した中川智正死刑囚は、「三途ふと 何級河川か 春一番」「春一番吹かず 十七年目の忌」という句を残していた。消えてなくなりたい気持ちを詠んだのだろう。
 なぜ若者たちはオームに走ったのか。しかも一流大学を出た理系エリートたちが。動機はなんだったのか、本当に「日本支配」だったのだろうか。執行前夜、赤坂自民亭で安倍首相・上川法相らが祝杯を挙げた。「おめでとう」と言うべきなのか。解明されない点は多い。
 西日本を襲った集中豪雨による未曽有の大災害と個人的トラブル、何だか麻原彰晃ら7人の祟りのようにも思えた。
 20日後の26日に、13人の死刑囚のうち残り6人の死刑が執行された。

平成30年7月6日

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九州の空気は「うまかばい」

 台風7号の通過後、西日本を中心に、活発な梅雨前線による豪雨が予測される中、羽田空港から熊本空港へ飛び立った。九州在住の学生時代の仲間が、10年ぶりに企画した同期会に参加するためだ。
 熊本空港で出迎えを受け、東京他各地から集まった12名は、熊本県下益城郡美里町在住のK介君宅を訪ねた。定年後、村興しのためと言いながら、自然栽培の協同農園を営んでいる。「ここは限界集落たい。農業をやるもんはおらんなったい。もう体が続かんようになった」と言いながら、農園を案内してくれた。奥さんも「道楽もいい加減にして欲しかとです」と言いながらも、仲のいいご夫婦である。本人は文学博士、奥さんは小学教師という変わり種。勇気と真心を込めて、村興しと農業の大切さを熱く語った。
 美里町は熊本県中央部に位置し、人口1万人の過疎の町だ。古代には緑川沿いに集落があり農耕が営まれ、中世には阿蘇氏領や甲佐大明神の社領となる。その後近世に入り、加藤氏領を経て細川氏領となった。平成の大合併で、「いつまでも美しいふる里でありますように」との願いを込めて、「美里町」と命名した。
 「美人の湯」と呼ばれるアルカリ性単純温泉「佐俣の湯」に宿をとる。雨がポツリポツリと降り始めた。ぬるぬるとしたかけ流しのお湯で、お肌はしっとり滑らかに。津留川のせせらぎと川面を渡る風、豊かな緑に癒される。
 いよいよ宴会だ。九州仲間が選りすぐって集めた食材で、バーベキューである。思い思いに近況を語り、宴は絶好調。途中で潰れる者、延々と議論する者、古希を迎えた老人とは思えない。後は、大いびきの大合唱である。皆、いい齢を重ねている。12人中4人が博士だったのに驚いた。
 翌朝は、雨脚が大分強くなっていた。美里町は「石橋の町」とも言われる。津留川沿いの「大窪橋」を訪ねた。嘉永2年(1849)、惣庄屋・篠原善兵衛によって架けられた単一アーチ型橋。橋の袂の石柱に、「車通遍から須(くるまとおるべからず)」という文字が残る。車より、人の暮らしを大事にして来たのだろう。
 更に上流に、緑川本流に架かる「霊台橋」がある。江戸時代の石造単一アーチ橋としては、日本一を誇る。架橋後170年が経過した今日でも、その威容は健在である。
 山都町に入ると、石造の通水橋としては日本一の「通潤橋」に出会う。霊台橋とともに、国の重要文化財に指定された。加藤清正以来の肥後石工集団の技術の高さを示す。熊本地震(2016年)で亀裂が入り、通水は停止している。
 そばに「平行三棟づくり民家」がある。茅葺き屋根が平行に三棟続いている。宝暦年間の建築で、築後200年以上経過している。強い谷風を避けるための工夫であり、この地方独特のものだという。
 通潤橋から6kmほど上流に、通潤橋へ分水している「円形分水」がある。笹原川を流れる水を、野尻・小笹地区と通潤地区とに公平に分配するために造られた。これには感動した。農民の知恵であろう。
 雨は更に激しくなってきた。熊本駅方面へ引き返す。釈迦院川と津留川の合流点に架かる「二俣橋」に寄る。川の合流点に直角に交わる兄弟橋で、文政12年(1829)に惣庄屋・小山善十郎により架橋された。
 この二俣橋は「ハートができる石橋」として、「恋人の聖地」に選定された。日光が石橋のアーチ部分と川面を照らす陽光で、ハート形に見えるのが特徴。ただし、10〜2月の5か月間の11時半から正午までの30分間だけという。
 美里町には、1200年の歴史を秘める釈迦院がある。その石段は3333段あるという。山形県羽黒山の2446段を抜いて、名実ともに日本一である。完成は昭和63年。登るのに1時間掛かるとのことで、豪雨の中危険でもあり、今回は中止した。
 熊本駅で別れを告げ、博多駅に向かう。雨は一段と激しさを増してきた。博多駅からの山陽新幹線は全線運休で、駅構内は人でごった返していた。地下鉄に乗り換え、室見へ向かう。3年半住んだ室見団地に行くためだ。しかし豪雨のため、室見川は氾濫寸前で、とても歩ける状態ではない。高層住宅が霞んで見えた。
 福岡は今から30年ほど前に、家族4人で住んだ街である。子供たちはまだ小学生だった。転勤する時は、だれも行くとは言わなかった。しかし東京に戻る時は、だれもが帰りたくないと言った。子供たちは今でも博多訛りが出る。思い出の地、第二の故郷でもある。懐かしさがこみ上げてきた。
 九州の空気は「うまかばい」。

平成30年7月5日

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水彩画ー40

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パンと牛乳

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板碑から探る中世の白井

 白井市は千葉県の北西部、印旛地域の最西部に位置し、北側に手賀沼、南側に印旛沼を有する平坦な北総台地にある。明治以降は梨の栽培が普及し、全国有数の梨の産地として知られている。 都心から約30劼竜離にあり、日本一高い料金と悪評の北総鉄道の各駅を核とする千葉ニュータウンを中心に、人口増加の著しい地域でもある。
 中世は手賀水海、印波浦と呼ばれ、香取の海と呼ばれた内海の一部だった。鎌倉時代には、宝治合戦で上総千葉氏が滅亡し、北条実時の支配下に。鎌倉幕府滅亡後は、千葉氏や高城氏の狭間として、その勢力の影響を強く受けた。
 江戸時代は旗本領となり、軍用馬を育成する小金牧の一角を成す。また、鮮魚を江戸に供給するために、銚子から利根川を舟で遡上する鮮魚街道、木下から荷揚げして行徳へ抜ける木下街道が整備され、その宿場町として栄えた。
 白井市根の七次(ななつぎ)地区で、まとまって出土した板碑136基の大半が、昨年市に寄贈された。これだけ多量に見つかることは、県内でもまれだという。最古のものは鎌倉時代末期の1328年、最新は室町時代中期の1468年。いずれも埼玉県秩父地方産出の「緑泥片岩」を加工したもの。七次は中世以来の古村であるという。
 この寄贈を受け、市教育委員会が文化財講演会「板碑から探る中世の白井」を企画した。板碑とは、板石で造った卒塔婆のこと。中世には墓石はなく、故人の菩提を弔う追善供養、ないしは生前に自分の死後の供養を済ませる逆襲供養のために造られた。
 市郷土資料館運営協議会の倉田恵津子会長が、「考古学から探る七次の板碑」と題して講演した。板碑は北海道から九州まで日本各地で造られ、それぞれの地域で入手できる石材を使用した。日本最古の板碑は、埼玉県熊谷市の嘉禄3年(1227)のもだという。
 関東の板碑には、武蔵型板碑と下総型板碑がある。武蔵型板碑は主に秩父地域で産出した緑泥片岩を用い、板状に加工し、頂部を山形に整え、山形の下に二条の切込みがある。碑面は主尊を刻む梵字、天蓋や蓮座、紀年銘などが刻まれ、関東一円に50,000基ほど分布する。
 下総型板碑は主に筑波山麓で産出された黒雲母片岩を用い、二条線のないものが多い。香取地方を中心に分布している。白井の板碑も武蔵型で、造立期間は乾元2年(1303)から永正9年(1512)で、1460年から90年が最盛期だった。
 七次出土の板碑の特徴は、一か所から大量に出土したことである。阿弥陀一尊種子(しゅじ)板碑が大半で、注目すべきは「伊字三点」が刻まれた板碑や十三仏板碑である。
 種子とは、仏教の諸尊を梵字一字で表したもの。梵字とは、古代インドの文字が仏教の経典とともに中国に伝わり、それが密教を学んだ最澄や空海によって日本に伝えられた。
 伊字三点は、悉曇(しったん)の伊字の形が三点から成り立っているので、こう呼ぶ。大乗の涅槃経では、法身・般若・解脱の三徳が一体不離であると教えている。
 十三仏は、初七日から三十三回忌までの忌日に配当した仏号で、室町時代からの俗説ともいう。初七日は不動明王、二七日は釈迦如来、三七日は文殊菩薩、四七日は普賢菩薩、五七日は地蔵菩薩、六七日は弥勒菩薩、七七日は薬師如来、百か日は観世音菩薩、一周忌は勢至菩薩、三回忌は阿弥陀如来、七回忌は阿閦如来、十三回忌は大日如来、三十三回忌は虚空蔵菩薩の十三仏だ。
 武蔵型板碑の生産工程は、先ず石材の採掘・外形成形工程後、梵字・蓮座等を彫る細工工程を行う別の地に送られ、完成品が設置場所に運ばれた。
 秩父山麓で産出される緑泥片岩を各地に広めた水運や河川の姿を、松戸市立博物館の柴田徹研究員が、「関東地方における中世の河川流路と石材流通について」と題して解説した。中世では、利根川や荒川、入間川は全て江戸湾に注いでいた。利根川が銚子に流れを変えるのは、江戸期に入ってからである。
 浄土宗の高層・徳本上人が文化13年(1816)に、市川から白井を経て銚子に向かったという七次近くの徳本供養塔と上人塚を回り、北総線白井駅へ戻った。同行頂いた鎌ヶ谷の友人と梅雨明けの暑気払いを終え、梨と板碑の白井を後にした。
 七次で出土した板碑の現物も鑑賞できた。流山には、鎌倉時代末期の正和4年(1315)建立の高さ124僉県指定有形文化財の安蒜家板碑がある。平均50僂箸里海箸覆里如⊆啓,糧槌蠅肋粒ではある。それにしても、板碑オタクが多いのに驚いた。

平成30年6月30日

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