暇人の戯言<Ocurrencias de un ocioso>

徒然なるままに、日ぐらし硯に向かいて、よしなし事を、そこはかとなく書いております

訪問記

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漱石が生まれ育った喜久井町

 早稲田の近くに「喜久井町」という町名がある。丁目の設定のない単独町名である。ここで夏目漱石は生まれ育った。当地は江戸時代から続いた町方名主・夏目家の家紋「井桁に菊」に因み、漱石の父夏目直克が命名した。
 漱石は随筆『硝子戸の中』で次のように述べている。
「今私の住んでゐる近所に喜久井町といふ町がある。これは私の生れた所だから、ほかの人よりもよく知つてゐる。(中略)この町は江戸と云つた昔には、多分存在してゐなかつたものらしい。江戸が東京に改まつた時か、それともずつと後になつてからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵えたものに相違ないのである。私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使つて、喜久井町としたといふ話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものから教はつたのか、何しろ今でもまだ私の耳に残つてゐる。父は名主がなくなつてから、一時区長といふ役を勤めてゐたので、あるいはそんな自由も利いたかも知れないが、それを誇にした彼の虚栄心を、今になつて考へて見ると、厭な心持は疾くに消え去つて、ただ微笑したくなるだけである」
 漱石が生まれ育った喜久井町を訪ねて、東京メトロ東西線早稲田駅を降りた。駅を出ると、夏目坂通りに面して「夏目漱石生誕の地」碑がある。土台の煉瓦は、漱石の家の蔵にあったもの。隣に『硝子戸の中』の一文と共に、句碑が新たに設置されていた。
「私の家は綺麗に取壊されて、其あとに新しい下宿屋が建てられつつあった。(中略)三本の松は、見る影もなく枝を刈りこまれて、ほとんど畸形児の様になってゐたが、何処か見覚えのあるやうな心持を私に起させた。
 昔し『影参差 松三本の 月夜かな』と詠ったのは、或いは此松の事ではなかったらうかと考えつつ、私はまた家に帰った」
 碑の隣に、延宝6年(1678)創業の小倉屋酒店がある。堀部安兵衛が高田馬場での決闘前に店で飲用した酒升の写真が飾られている。はす向かいにタバコショップミハルがある。漱石が育ったころは豆腐屋で、祖母は漱石の娘と同級生だったという。その時代から残る家は、この2軒だけらしい。
 夏目坂の下から順に番地が振られ、坂の上で折り返し、夏目家は1番で、はす向かいのタバコショップは66番である。夏目坂を登って行くと誓閑寺がある。裏は小高い山で、漱石が山門から覗いたであろう当時の雰囲気が感じられる。空襲にも耐え、守り残された天和2年(1682)鋳造の新宿区内最古の釣鐘があった。入口には、『硝子戸の中』にも登場する赤門の跡も残っていた。
 夏目坂通りを上り詰め左に折れると、昭和モダンを思わせる新宿区立早稲田小学校がある。そこを右折すると間もなく漱石公園だ。漱石が晩年暮していた住居跡に、開館したばかりの漱石山房記念館が建っていた。漱石山房と呼ばれた旧居の書斎や客間、ベランダ式回廊が再現され、書簡や直筆原稿などの資料が展示されている。名誉館長は作家・半藤一利の妻で、漱石の孫にあたる末利子さんである。
 漱石像に挨拶し、裏に回ると猫塚があった。名作『吾輩は猫である』の主役、猫が死んだのは明治41年9月13日。その様子が小品『猫の墓』にある。「妻は出入りの車夫を頼んで四角な墓標を買ってきて、裏に此の下に稲妻起る宵あらんと認めた…」
 漱石は翌日、弟子の鈴木三重吉に黒枠の死亡通知を出した。「昨夜裏の物置にて逝去致候。埋葬は蜜柑箱へ入れて庭先にて執行」と。猫に名前も付けず夫婦とも時には邪険に扱ってきたが、文豪への道を開いてくれた福猫に漱石なりの哀悼の思いはあったのだろう。それがこの猫塚である。
 漱石山房通りを抜け、早稲田通りに出る。早稲田駅前に明治10年創業の鰻・すず金がある。大隈重信ゆかりの老舗だ。その先に穴八幡宮がある。南側の山裾を切り開いていると、横穴が見つかり中から金銅の御神像が現れた。これはめでたいと、以来穴八幡宮と称するようになったという。
 その裏が戸山公園の箱根山だ。高さ44m、東京区部の最高峰である。元は尾張藩徳川家下屋敷の庭園だった。明治期には陸軍戸山学校が置かれ、不気味で秘密めいた山だったという。23区一の山に登ると、木々の間から西新宿のビル群が見える。漱石もこの山を眺めていたことだろう。
 漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱[くちすす]ぎ、流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変り者の例えである。「漱石」は正岡子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこの名を譲り受けている。
 漱石は慶応3年(1867)1月5日生まれ、生誕150周年に当たる。

平成29年12月30日

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刀剣乱舞

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刀剣乱舞

 「刀剣乱舞」は、DMMゲームズとニトロプラスが共同制作したPC版ブラウザゲームである。実在する名刀を擬人化した刀剣男子が登場する刀剣乱舞が人気を博している。
 その人気にあやかったわけではないだろうが、佐倉の「塚本美術館」で企画展「近ごろ話題の刀剣展」が催された。ゲーム人気に伴い来館者も急増中で、9割がゲームファンの「刀剣女子」だという。
 刀剣乱舞に登場する名刀や、近藤や土方などの新撰組隊士の愛刀を拝見すべく佐倉まで出かけた。凄い豪邸だ。その一角に刀剣類だけを展示する塚本美術館がある。佐倉出身の実業家、故塚本素山のコレクションをもとに設立された。平安末期から現代まで、評価額が億単位の逸品や人間国宝が手掛けた名品も保管されている。刀身400点、鞘250点の所蔵品の中から、3ヶ月ごとに約20点ずつを展示している。
 入館するには先ず、建物の外で靴を脱がなければならない。館内にごみが入り込むのを防ぐためだ。砂粒などの硬い粒子は、小さなものでも刀身を傷付けてしまうという。入館者名簿に記入して、そろりと2階の展示室へ向かった。
 ガラス越しの刀剣には、気を引き締めさせる迫力がある。切っ先から曲線を描く反り、焼き入れでできる刃文、折り返し鍛錬で生じる木目のような模様など、それぞれに独特の個性がある。「刀匠の祈りが宿っているようにも感じる」と、副館長で学芸員の三角正人氏はその魅力を話す。
 現代作家故酒井繁政刀匠の手による、玉鋼から完成品までの実物見本を使った日本刀の製作工程が、判りやすく展示されている。両刃のものもある。一般的には剣は両刃のものを指し、刀は片刃のものを指すらしい。
 燭台ごと相手を両断したという水戸徳川家に伝わる「燭台切光忠」と同じ刀工・長船光忠の刀。光忠の刀は織田信長が好んで収集したことでも知られる。「小烏丸」を模した固山宗孝の刀、不動明王が彫られた「不動行光」と同じ刀工・相州行光の短刀、「太鼓鐘定宗」と同じ刀工・相州定宗の刀、刀剣乱舞でも有名な「和泉守兼定」や「同田貫上野介正国」、「浦島虎鉄」と同じ刀工・長曽根虎鉄の脇差など、刀剣乱舞のファンなら小躍りしそうな刀剣が並んでいた。
 虎鉄と同様に近藤勇の愛刀「阿州吉川六郎祐芳」、会津和泉守兼定と共に土方歳三の愛刀「元興入道松軒」、沖田総司の愛刀「加州清光」の脇差など新撰組関連の刀剣のほかに、坂本龍馬を暗殺したという脇差「越後守包貞」もあった。龍馬暗殺には諸説あるが、京都見廻組・桂早之助が直接手を下したと言われ、その時使用した脇差である。いやはや、恐れ入谷の鬼子母神である。
 日本刀は日本固有の鍛冶製法で作られた刀剣の総称であるが、材料は砂鉄を「たたら吹き」という日本独特の製法で作った玉鋼である。寸法により刀(太刀・打刀)、脇差、短刀に分類されるが、刀は刃渡り概ね70cm、脇差は40cmだった。
 刀剣類は古墳時代以前から作られていたが、一般に日本刀と呼ばれるものは平安時代末期に出現し、それ以降主流になる反りがあり、片側に刃のある刀剣のことを日本刀と言う。著名な日本刀には、国宝「大包平」、妖刀「村正」、「雷切」、秀吉の愛刀「一期一振」、「天下五剣」と称される五つの名刀がある。
 岩手県一関市にある儛草(もぐさ)神社は古代に刀鍛冶の集団が住んでおり、ここで作られた刀が日本刀の源流ではないかと考えられている。儛草で作られた刀は蕨手刀(わらびてとう)といわれ、京の都の貴族たちも、俘囚の刀として珍重していた。日本刀の特徴である反りは、馬に乗って戦う蝦夷たちの戦法が、敵を振り払って切り伏せるために改良されたという説がある。大和朝廷側は直刀で、突きの戦法だったため蝦夷に苦戦した。奥州藤原氏が源頼朝に征服されて以降は、儛草の刀鍛冶は全国に散って、日本各地の刀鍛冶の元になったと言われる。
 塚本美術館の収蔵品は、総合武術の立見流免許皆伝でもあった塚本素山が終戦後、進駐軍による接収から日本刀を守ろうと集めたものだという。一人でも多くの人に日本刀の素晴らしさを知ってもらいたいと、入館料は無料、写真撮影も自由としている。
 若い女性を中心に、刀剣乱舞に端を発した刀剣ブームは、一過性ではなくまだまだ続いている。刀剣乱舞に出てくる「燭台切光忠」をはじめとする刀剣は、多くが現存するものである。

平成29年12月13日
須郷隆雄

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下総国11万石の城下町・佐倉

 佐倉に城下町が形成されたのは、徳川家康の命により慶長15年(1610)、老中・土井利勝が佐倉に配されてからのことである。以来、佐倉城は江戸防衛の東の要衝として、西国大名の江戸攻撃の際の将軍家退避処として、徳川譜代の有力大名が封ぜられた。老中職に就いた大名が最多だったことから、「老中の城」とも呼ばれた。
 258年間に及ぶ佐倉藩の歴史の中で141年間を堀田家が治め、その石高は11万石。千葉県最大の藩だった。幕末筆頭老中としてハリスと交渉した堀田正睦は、蘭方医・佐藤泰然を招き佐倉順天堂を創設するなど、洋学を積極的に取り入れた。
 廃藩置県以降は軍都として、城内に陸軍歩兵連隊が設置され、レイテ島玉砕などで悲劇的な最期を遂げた。
 佐倉藩11万石の城下町を訪ねて、京成佐倉駅に降り立った。観光協会で散策マップを頂き、真っ直ぐ南下すると市立美術館へ突き当たる。入口は、旧川崎銀行佐倉支店の建物を活かした重厚なものだった。佐倉ゆかりの浅井忠などの作品が収蔵されている。エントランスホールには喫茶店もあり、陽だまりの中で寛ぐ老人を何人か見かけた。
 隣に塚本家の豪邸が見える。刀剣類専門の塚本美術館だ。佐倉出身の実業家・塚本素山のコレクションが公開されている。
 西へ数歩歩くと佐倉の総鎮守・麻賀多神社がある。現在の本殿と拝殿は、天保14年(1843)堀田正睦により造営されたものだ。新年を迎えるためか、大きな茅の輪が飾られていた。子供が飛んだり跳ねたり、猫が来ては茅の輪で爪を研いだりしていた。
 南に下ると、武家屋敷通りに突き当たる。関東最大級の武家屋敷群である。現在は旧河原家、旧但馬家、旧武居家の3棟が公開されている。江戸時代の武家屋敷は、その大半を藩が所有し、藩士に貸し与えたものだった。この鏑木小路には上中級の武家屋敷が多く、頻繁に屋敷替えが行われていたという。
 佐倉の武家屋敷は道路に接する部分を正面とし、門を設け、土塁と生垣を築き、その奥に玄関や庭を設けた。屋敷の裏側に菜園なども設け、屋敷境には境界木が植えられ、背後の斜面は竹藪などになっている。
 佐倉に残されている武家屋敷では、最も古いと言われる旧河原家住宅は土間のある茅葺き屋根の造りだった。旧但馬家住宅も旧武居家住宅も、広さの違いはあるものの同様の造りだった。兜をかぶり戦国武将になったつもりで、記念に写真を一枚撮った。
 武家屋敷通りに隣接した江戸時代とほとんど変わらない竹林に囲まれた「ひよどり坂」を下り、佐倉城址公園へ向かった。水堀や土塁、天守台など、城の面影を残し、曲輪や出丸、角馬出の形状が良好に残ることから、千葉県で唯一の日本百名城に選定されている。しかし、天守閣があるわけではない。
 大手門跡の碑を過ぎると、やがて堀田正睦像とタウンゼント・ハリス像が門柱のように立っていた。日米修好通商条約締結150周年を記念して建立されたという。
 その奥に、正岡子規の詠んだ「常盤木や 冬されまさる 城の跡」の句碑ある。子規は明治27年(1894)、本所駅(現錦糸町駅)−佐倉駅間に開通した総武鉄道に初乗りして佐倉の地を訪れている。馬の背のような台地を見上げ、「霜枯の 佐倉見上ぐる 野道かな」とも詠んだ。
 天守台に登ってみた。西側南側は鹿島川と高崎川が流れ、北側は印旛沼の湿地が広がる。要塞堅固の地である。鹿島山の西端に築城されたことから、別名「鹿島城」ともいう。文化10年(1813)、盗人によって行灯が倒され焼失し、再建はされなかった。
 佐倉城址を下り、国立歴史民俗博物館(歴博)で暫し休息し、お堀を見ながら海隣寺坂を上ると古刹「千葉山海隣寺」に辿り着く。千葉城主・千葉常胤の建立というが、その重みは感じられない。しかし、第36代総理大臣・平沼騏一郎書による門札と千葉山の扁額が架かっていた。千葉氏累代の供養塔もある。日清戦争における清国人捕虜収容所にもなったとのこと。
 「なよ竹小路」の竹藪を抜けると、眼下に駅前付近の展望が開ける。江戸期から一気に現代へ戻ったような気がした。
 帰りは東葛3人会の仲間と京成船橋駅で下車し、いつもの「千べろ」の居酒屋・加賀屋で早々の忘年会となった。話の最後はいつものように、葬儀とお墓の話題で締めくくった。

平成29年12月13日
須郷隆雄

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子規が暮した根岸

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子規が暮した根岸

 俳人正岡子規が根岸の里で没したのは、明治35年(1902)9月19日だった。享年34歳。結核とカリエスに侵され、死の前年から直前までを綴った病床日記「仰臥漫録」が残っている。
 寝返りも打てず、仰向けのまま痛みに号泣しながら句を詠み、絵を描き続けた最後の日々を赤裸々に描いている。死を前に異常とも見える食欲、日々訪れる友人や弟子との交わりなど。苛立ちから母八重と妹律に激しく当たり、妹を冷淡で強情と罵る。眼前の小刀と千枚通しで自殺を考えるが、「苦しみが恐ろしい」と泣きじゃくる。日記が故の、誇張も虚飾もない子規の心境が感動を呼ぶ。
 子規が暮した根岸(東京都台東区)を訪ねて、山手線鶯谷駅を降りた。子規が最後の8年半を母妹と共に、病に臥しながら文学の近代化のために情報発信を続けた「子規庵」を先ず訪ねた。100坪ほどの古民家であった。元々は加賀藩前田家下屋敷の侍長屋で、2軒続きの1軒だったという。
 「小園の記」に、「我に二十坪の小園あり。園は家の南にありて上野の杉を垣の外に控へたり。場末の家まばらにたてられたれば青空は庭の外に拡がりて雲行き鳥翔る様もいとゆたかに眺めらる」と記している。
 俳人の高浜虚子や河東碧梧桐、寒川鼠骨、歌人の伊藤左千夫、長塚節、画家の浅井忠、中村不折ほか、松山時代の友人知人、大学予備門以来の友人夏目漱石や森鴎外も訪れ、句会や歌会、文学美術談義を行っていた。
 子規庵を詠んだ句が五つ掲げられていた。
「団栗の 音めずらしや 板庇」
「庵からは 杉の上野の 花曇」
「加賀様を 大家に持って 梅の花」
「山茶花に 新聞遅き 場末哉」
「八石ノ 拍子木鳴ルヤ 虫ノ聲」
 子規の句碑を訪ねて、次は豆富料理「笹乃雪」へ。子規や多くの文人が愛した江戸で初めて絹ごし豆腐を作った名店だ。大石内蔵助以下17人が預けられた細川邸に、当店の豆腐が届けられたという話もある。笹に覆われて、「水無月や 根岸涼しき 笹の雪」「蕣(あさがお)に 朝商ひす 笹の雪」の句碑があった。
 加賀藩前田家の寄付金によって設立された根岸小学校前に、「雀より 鶯多き 根岸哉」の碑。旧陸奥宗光邸の前を通る。都内で現存する住宅では、最も古い洋館の一つとのこと。私有地につき、立ち入りは不可だった。
 五差路の角にある「手児奈せんべい店」を左折する。「手児奈の真間」で知られる市川での創業に由来する。根岸小学校発祥の西蔵院を過ぎると、「御行の松不動尊」に突き当たる。江戸期から根岸の大松として親しまれ、「江戸名所図会」や広重の錦絵にも描かれた名松だ。現在の松は三代目。「薄緑 お行の松は  霞みけり」の句碑があった。
 雑司ケ谷鬼子母神、中山法華経寺鬼子母神と共に江戸三大鬼子母神の一つ、朝顔市でも知られる「入谷鬼子母神」へ。「入谷から 出る朝顔の 車哉」、「蕣(あさがお)や 君いかめしき 文學士」漱石来ると添え書きしてあった。大田南畝の「恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺・・・」という狂歌も有名だ。
 最後は、鶯谷駅北口近くのホテル街にひっそりと佇む「元三島神社」である。「木槿咲て 絵師の家問ふ 三嶋前」の句碑が立っていた。連れ込みホテルが建ち並ぶ通りで、「お兄さん寄ってかない」と声を掛けられた。胸の谷間に一瞬とまどうが、歳と世間体を考えて手を振った。まだ陽は高い。
 上野公園で、国立西洋美術館の「北斎とジャポニスム」と東京都美術館の「日本和紙絵画展」に寄り、帰宅の途に就いた。
 子規は結核を病み、喀血したことから、「鳴いて血を吐く」と言われるホトトギスに自分を重ね、漢字表記の「子規」を俳号にした。俳句雑誌「ホトトギス」を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、写生・写実による現実密着型の生活詠を開拓し、俳句の世界に大きく貢献した。江戸以前のものを俳諧、明治以降のものを俳句と呼んだ。
 「柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の名句は、漱石の「鐘つけば 銀杏ちるなり 建長寺」への返礼句である。柿は子規の大好物だった。ともに生誕150年を迎え、互いの才能を認めあった強い友情で結ばれていた。
 辞世の句は「糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな」「痰一斗 糸瓜の水も 間にあわず」「をとゝひの へちまの水も 取らざりき」だった。子規の忌日を「糸瓜忌」ともいう。

平成29年12月2日
須郷隆雄

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お茶の香りと男伊達

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お茶の香りと男伊達

 清水日本平パークウェイを登って行く。雨上りの富士山が、くっきりと姿を現した。日本平展望台には人の迷惑顧みず、大勢の外国人観光客が我が物顔に屯していた。
 日本平はその昔、日本武尊が東征の際に草薙の原で野火の難にあい、賊を平定した後、この山の頂上に登り四方を眺めたところから、この名で呼ばれるようになったという。標高307mの丘陵地だ。平地であったものが過去10万年の時を経て、300m隆起してこの姿になった。
 外国人観光客の喧騒を避けて登って行くと、何故か童謡「赤い靴」の母子像が立っていた。モデルになった女の子と母親はここ清水の生まれだと、ボランティアガイドが説明してくれた。麻布十番の「きみちゃん像」は見たことがあるが、日本各地にあるらしい。
 山頂に「山頂吟望台」と「東展望台」があり、富士山と清水港が見渡せ、遥か伊豆半島から御前崎まで一望できる。
 ロープウェイに乗り、国宝となった久能山東照宮へ。久能山の名は推古天皇の頃、久能忠仁が初めて山を開き久能寺としたことに由来する。晩年駿府城に隠居した家康は、元和2年(1616)4月17日75歳で薨去した。「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野国の日光山に小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守になろう」(『本光国師日記』)との遺命により、2代秀忠が創建した。
 獏の彫刻がある楼門を潜り、唐門を抜けると御社殿である。江戸幕府大工棟梁・中井大和守正清の代表的な遺構で、国宝に指定された。更に登ると神廟が西向きに立っている。駿府城、浜松城の守りなのか、豊臣の残党や島津藩への睨みなのだろうか。
 東照宮遺訓があった。
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し いそぐべからず
不自由を常とおもへば不足なし
こころに望おこらば困窮したる時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基 いかりは敵とおもえ
勝事ばけり知てまくる事をしらざれば害其身にいたる
おのれを責て人をせむるな
及ばざるは過ぎたるよりまされり
 久能街道から表参道の石段を登ると、社殿まで1159段ある。「イチイチゴクロウさん」と言うそうだ。
 清水港魚市場「河岸の市」へ向かう。大変な混みようだ。先ず「まぐろ館」で海鮮丼を食べ、次いで「いちば館」で干物などを買う。港を見ると、「はごろもフーズ」の倉庫が建っていた。羽衣の地名に因んでいる。ここが本拠地であることを初めて知った。
 清水港と言えば次郎長だろう。「清水港の名物は〜、お茶の香りと男伊達〜♪」である。港の近くに、次郎長生家や次郎長・お蝶・大政・小政の墓がある梅蔭禅寺、咸臨丸の乗組員が逆賊として駿河湾に放置されていた遺体を次郎長が埋葬し建立した壮士墓がある。
 清水次郎長は言うまでもなく、幕末から明治の侠客だ。大政・小政・森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいた。石松をだまし討ちにした都鳥吉兵衛、天竜川における甲斐の黒駒勝蔵との闘いなど、広沢虎造の浪曲や「街道一の大親分」として映画化され人気を博した。
 山岡鉄舟は咸臨丸事件における次郎長の義侠心に深く感じ入り、以後交際が続いた。博徒を辞めた次郎長は、清水港の発展のためにお茶の販路拡大に努めたり、静岡の刑務所にいた囚人を督励して富士開墾に携わったりしている。享年74歳、戒名は「碩量軒雄山義海居士」だった。
 次郎長に別れを告げ、東名清水ICから一路自宅へと車を進める。雲一つない真白き富士の嶺が見送ってくれた。渋滞もなく、3時間ほどで我が家に辿り着いた。ノン太郎は鳴き疲れたのか、声も嗄れ憔悴しきっていた。ペットホテルのお姉さんから、「よく鳴いてました」との報告があった。
 ノン太郎には大迷惑だったが、我が家恒例の家族旅行は無事終了した。

平成29年11月23日
須郷隆雄

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