暇人の戯言<Ocurrencias de un ocioso>

徒然なるままに、日ぐらし硯に向かいて、よしなし事を、そこはかとなく書いております

訪問記

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小石川の家

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小石川の家

 小石川伝通院前の坂道を善光寺坂という。途中に樹齢400年という椋の木がある。幸田露伴が向島からこの坂道の家に越してきたのは、昭和の初めだった。露伴の孫で幸田文の娘、青木玉の著書『小石川の家』に、次のような記述がある。
 「家の向こうに大きな椋の木があって道いっぱい枝を広げていた。二階の祖父の書斎に座ればまるでこの枝の上に居るような感じで…。通る人は陽の強い午後、自転車から下りて休んでいく。夕立の時は坂の上からも下からも人は駆け寄って息を継ぎ又走る…」
 激動の昭和を生き、終焉を見届けて逝った文の棺はこの家から旅立った。「ああ母さんは風を起こし雨を呼び雲を捲いて空に昇っていった…」と。何とも凄い追悼記だ。
 樹高13m。昭和20年5月の空襲により上部は焼け落ちたが、それ以前は23mもあったという。
 満身創痍の老兵にも似た「善光寺坂のムクノキ」を拝見すべく、東京メトロ丸の内線後楽園駅を降りた。33度というくらくらする蒸し暑さの中、春日通りを上って行く。高低差を生かした三段構造の礫川公園前に、若々しい春日局像が立っていた。
 この辺りは、春日局が乳母として仕えた3代将軍家光より拝領した土地で、昔は春日殿町と呼んでいた。春日通りは川越街道を経て、ゆかりの喜多院に通じる。局像の隣に、「西に入る月を誘い法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」との辞世の歌碑がある。大奥の創設者でもあった。
 汗を拭き拭き水分を補給しながら、善光寺坂へ向かう。葵の御紋の伝通院に出る。家康の生母お大の方や千姫ら、徳川家ゆかりの女性の墓がある。門前に「不許葷酒入門内」との戒壇石があった。
 説明文には、「この石柱は伝通院の塔頭の一つで、伝通院前の福聚院北側にあった処静院の前に建っていたもの。処静院はその後廃寺となるが、文久3年(1863)幕末の治安維持のために組織された浪士隊の結成式がここで行われた。山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢250人。その後新選組となる近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊士として加わった。一行は文久3年2月8日、京都に発つ。明治と改まる5年前のことだった」と、書いてある。
 程なく「善光寺坂のムクノキ」の巨木が道を塞いでいた。400年の歴史を感じさせる存在感がある。文京区天然記念物第1号だ。地域猫だろうか、幸田家ゆかりの猫だろうか、主のような顔をして木の下で悠然と涼んでいた。
 この場所は江戸時代、伝通院の境内だった。その後伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷の御神木として現在に至っている。
 その澤蔵司稲荷と慈眼院が古木の中に並んで建ち、涼を提供していた。慈眼寺境内に、礫川や小石川の地名に因む芭蕉の句碑があった。「一しぐれ 礫や降りて 小石川」
 坂の途中に、坂名由来の善光寺がある。赤門が2門あり、どちらが表門か分からない。元々は伝通院の塔頭「縁受院」として創建されたが、明治になって信州の善光寺分院になった。
 この善光寺坂界隈には、幸田露伴のほか、徳田秋声、島木赤彦、古泉千樫ら文人や歌人が住んでいた。
 表通りの商店街に、眼病平癒の「こんにゃくえんま」として親しまれる源覚寺がある。閻魔さまが信心深い老婆に己の右眼を与え、老婆は感謝のしるしとしてこんにゃくを備え続けたという言い伝えがある。こんにゃくと閻魔、あまり関係なさそうだが、好物のこんにゃくを断ち、それを備え続けたことによるらしい。
 夏目漱石の「こころ」、樋口一葉の「にごりえ」にも、「こんにゃくえんま」が登場する。閻魔信仰は平安後期に始まり、鎌倉時代に盛んになったという。
 水墨画に入れ込んでいる友達に誘われ、こんにゃくえんまから一転、出光美術館へ向かう。長谷川等伯と雪舟「水墨の風」展である。
 水墨画は中国伝承の絵画表現だが、室町時代に中国・明で学んだ雪舟によって独自の表現美が生み出された。その後、日本人の感性にかなった表現にまで高めたのが、桃山時代の長谷川等伯だった。江戸時代に入ると狩野派や池大雅、浦上玉堂など、新しい表現が花開いていく。
 雪舟や等伯を中心に、中国絵画を交え、新風を興した作品など、43点が展示されていた。サービスの緑茶を飲みながら、アオコで淀んだ皇居のお濠を見下ろしていた。
 子供のころ、木にやぐらを組んで夏休みを過ごしたものだが、幸田家の2階は大きな椋の木のやぐらの上に居るような感じだったのだろう。

平成29年7月14日
須郷隆雄

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ディズニーシーの汽笛

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ディズニーシーの汽笛

 船舶の衝突を防ぐため、海には3種類の交通法規がある。代表的なものが、「海上衝突予防法」だ。汽笛信号は約5秒鳴らす長音、約1秒鳴らす短音があり、これを組み合わせて使用するという。ディズニーシーの蒸気船の係員による説明で、初めて知った。
 我が家恒例のディズニーランド訪問は1年毎に替わるが、今回はディズニーシーだった。京葉線舞浜駅はディズニー客でごった返していた。ここだけは毎日が非日常である。娘と待ち合わせ、ディズニーシーへ。孫との組み合わせは多いが、70歳になる夫婦と娘の組み合わせは珍しい。
 お酒なし、子供向けのランドに比べ、シーは飲酒ができる大人・カップル向けと言うことらしい。入口の噴水中央部に、直径8mの地球儀がある。アクアスフィアと呼ぶ。ディズニーシーのシンボルだ。
 ディズニー側は、シンボルを灯台にしようと考えていた。しかし、「日本人にとって灯台は哀愁漂う暗いイメージがある」と言うオリエンタルランド側の希望により、地球儀になった。
 「夢と魔法の世界」ディズニーランドのシンボルはシンデレラ城だが、「冒険と驚き」ディズニーシーのもう一つのシンボルはプロメテウス火山だ。シンデレラ城と同じ51mである。イタリア・ナポリのヴェスビウス火山をモデルにしている。「海」それは、イタリアの港町を再現した地中海の眺めだ。だが、海水ではなく真水を使用している。
 先ずはハンガーステージで、新規ミュージカル「アウト・オブ・シャドウランド」を25分間見る。内気でおとなしい少女が、自分の心の中にも勇気が宿っていることに気づき、その勇気と自らの想像力で不安や怖れを乗り越えることを学んでゆく物語だ。プロジェクションマッピングや、垂直ステージが見もの。
 シーの今回のテーマは「七夕」。ミッキーとミニーが彦星と織姫のコスチュームを纏い、船に乗って現れた。ガリオン船のレオナルド・ダ・ビンチの説明を聞き、ハンドルを3回まわし、指示に従い迷路のような要塞をゴールに向かって進む。船員証をゲットし、ホライズンベイ・レストランへ。
 食事にありつくまで、これがまた大行列だ。お兄ちゃんのビールの注ぎ方が下手。量がまちまちである。量の多いのを娘に渡すと、会計のおばさんが注ぎ足してきてくれた。ちょっと満足。食後、突然方向を変えたり、ぐるぐる回転したりするウォーターヴィーグルに乗ったため、吐きそうになった。
 シンドバッドと子トラのチャンドゥと共に、冒険の航海へ。「人生は冒険だ。地図はないけれど、宝物探そう。信じて、 コンパス・オブ・ユア・ハート」。ランドの「小さな世界」と共に、大好きなアトラクションだ。
 かみさんが絶対に乗りたくないという地底走行車に乗せ、プロメテウス火山から滑降する。真っ逆さまかと思うほどの急斜面だ。実は45度ぐらい。思わず足を踏ん張ってしまった。かみさんは意外と落ち着いた顔をしていた。放心状態だったのかもしれない。
 ロストリバー・クックハウスのチキンレッグを頬張りながら、蒸気船を待つ。45分待ちである。係員の心使いか、汽笛信号の話をしてくれた。
 出発は長音1回、面舵(右)は短音1回、取舵(左)は短音2回、後進は短音3回。右側から追い越すときは長音2回・短音1回、左側から追い越すときは長音2回・短音2回、追い越しに同意は長音・短音・長音・短音。警告信号は急速に5回以上鳴らすとのこと。霧中でも汽笛の音程によって、船の排水量が想像できるそうだ。これらは世界共通。退屈な時間を退屈せずに済んだ。一斉に拍手が沸き起こった。
 8時からの水上ショーは、システム故障で中止。8時半の花火は行われた。その間、係員がディズニーシーのシンボルのいわれを説明してくれた。シーの夜空を彩る花火を見ながら、「来年はお揃いのディズニースタイルで来るか」と冗談を言いつつ舞浜駅に向かう。10時から8時半までの長い1日だった。
 1日の行動時間は3時間と決めているが、かなり疲れた。「お父さん、大分年とったね」「老人の歩き方だよ」「気を付けないと老け込むよ」と、2人のきついお言葉。「そんなこと誰も言わないよ」と反論すると、「他人が言うわけないでしょ。家族だから言うんだよ」と娘。犬と散歩の1万歩は、あまり効果が出ていないようだ。
 待ち時間のちょっとした気遣い、蒸気船の汽笛の説明がやけに記憶に残った。

平成29年6月24日
須郷隆雄

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土佐から来たぜよ!

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土佐から来たぜよ!

 坂本竜馬没後150年を記念して、ソフトバンクと高知県立坂本竜馬記念館主催による「土佐から来たぜよ!坂本竜馬展」が、目黒雅叙園で催された。
 竜馬は天保6年(1836)に生まれ、28歳で土佐藩を脱藩。幕藩体制の終わりに、新しい国家づくりに奔走する。今から150年前の慶応3年(1967)に、京都・近江屋で凶刃に斃れた。疾風のごとく駆け抜けた僅か31年の生涯を、直筆の手紙や脇差(陸奥守吉行)、拳銃(S&Wアーミー33口径)など70点の資料と共に紹介していた。
 東京メトロ南北線目黒駅を下車する。かなり急な勾配の「行人坂」を下って行く。寛永年間、出羽(山形県)湯殿山の行人が大日如来堂(大円寺)を建て、以来多くの行人が住み着いたことから行人坂と言われるようになった。
 坂の途中に古刹「大円寺」がある。天和の大火で焼け出された八百屋お七が、避難先の寺で出会った吉三に恋い焦がれ、再び会いたい一心で放火し、鈴ヶ森で火あぶりの刑になった。吉三は後に西運上人となり、お七の菩提を弔い、行人坂を改修したり、目黒川に石橋の太鼓橋を架けたり、社会事業にも尽くした。吉三とお七の比翼墓がある。
 天和大火の90年後、大円寺本堂から出火し、江戸六百余町を焼き尽くし、多くの死者を出した。明和の大火である。その供養のため五百羅漢像が作られた。金箔を貼り付けた薬師如来像がある。体の良くないところに真言を唱えながら金箔を貼ると、ご利益があるという。ただし金箔は1枚500円。
 行人坂を降り切ったところが目黒雅叙園だ。入口に「お七の井戸」がある。お七の亡霊が出るのかと思いきや、吉三(西運)がお七の菩提を弔うため水垢離を取ったところだという。目黒不動と浅草観音往復10里を、念仏を唱えながら1万日行を成し遂げた。
 目黒雅叙園「百段階段」で竜馬展が行われている。妙な名であるが、昭和10年に建てられた雅叙園に現存する唯一の木造建築で、宴会が行われた7部屋を百段の階段が繋いでいる。昭和の竜宮城と言われ、7部屋には装飾を担当した画家の名前が付けられている。「十畝」「魚樵」「草丘」「静水」「星光」「清方」「頂上」の間、この部屋を見るだけでも価値がある。
 入口で、竜馬像が右手を差し伸べていた。軋む階段を上る。各部屋に「竜馬が来たぜよ」「脱藩!ニッポンを洗濯したい」「世界へ!揺れる想い」「妻、お龍」「ニッポンの夜明け」「サラバ龍馬」と、時代を追って展示してある。
 竜馬29歳の時の姉・乙女宛の書簡に、「日本をもう一度、洗濯しようということを神様にお願いしたい気持ちです」と書いている。詠草(和歌)に、「世の中の人は私のことを何とでも言うがいい。私のなすべきこと、私の進むべき道は、私自身が一番分かっている」とも記している。
 「二曳(にびき)」の海援隊旗がある。これは土佐藩の船印の「赤・白・赤」を引き継いだものだ。このデザインは後に、土佐商会主任として海援隊の会計を務めた岩崎弥太郎が築いた「日本郵船」のマークにも使われ、船の煙突に白地に2本の赤線が描かれている。
 龍馬は亀山社中時代、倒幕のため犬猿の仲だった薩摩・長州を取り持ち、「薩長同盟」を結ばせた。その2日後、京都伏見の寺田屋で長府藩士・三吉慎蔵と共に襲われる。その時、危険を感じ命を救ったのがお龍だった。この一件から、お龍を妻とし、薩摩へと旅行に出かけた。日本最初の新婚旅行である。
 龍馬はお龍のことを「おもしろい女」と姉・乙女に紹介し、お龍は龍馬のことを「妙な男」と言っていた。龍馬30歳の時、乙女へ次のように手紙を書いている。「二人連れで霧島山へ行く途中、日当山の温泉に泊まり、また塩浸という温泉にも行きました。ここで十日ほど泊まって遊び、谷川の流れで魚を釣り、ピストルで鳥を撃ったりして、大変面白く過ごしました」
 「船中八策」は熊本藩・横井小楠の「国是七条」の影響を強く受け、大政奉還、議会開設、憲法制定などを定めている。それに基づき、龍馬が暗殺の10日前に示した「新政府綱領八策」が残っている。慶応3年11月15日、近江屋で中岡慎太郎と話しているところを暗殺された。31歳の若さだった。
 百段階段最後の「頂上の間」には、竜馬をこよなく愛するソフトバンクの孫正義の「受け継がれる‘志’」のコーナーがあった。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んで人生観が変わったと言う孫は、自身が事業家を志したのも龍馬の影響が大きいとコメントしていた。ソフトバンクのロゴは海援隊の隊旗をモチーフに、赤をシルバーに変えたものである。
 龍馬の熱い想いを胸に、目黒雅叙園を後にした。太鼓橋から目黒川を渡り、再び新目黒橋を渡って権之助坂を登り、目黒駅に戻った。目黒エンペラーは、今もまだ健在だった。
 勝海舟は「土佐では、人物と言えば坂本龍馬と岩崎弥太郎の二人だった」と言い、西郷隆盛は「直柔(龍馬)は真に天下の英傑なり」と称した。
 
平成29年6月16日
須郷隆雄

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いずれが花か花菖蒲

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いずれが花か花菖蒲

 江戸時代、「堀切の花菖蒲」は、「向島の桜」「入谷の朝顔」と並ぶ花の名所だった。広重など有名絵師の錦絵や江戸名所絵図にも描かれた。当時の観光案内書「絵本江戸土産」に、「綾瀬川の東にあり、数万株の花菖蒲の眺望は比類なく、毎年四月下旬から五月には遠近問わず船やかごにて美女競って集まり、いずれが花かと…」と紹介している。
 名声は天下に広がり、庶民から文人墨客まで訪れ、江戸天保年間には尾張大納言徳川斉荘公が「日本一」と称賛したとの記録がある。しかし、数々あった菖蒲園は戦争で荒廃し、次々と消えていった。名称を惜しむ地元有志の訴えで、一部が都立公園として復活し、現在は葛飾区管理の史跡公園となっている。
 「堀切菖蒲まつり」のさなか、「東葛三人会」と名付けた近在の高校仲間と、京成線堀切菖蒲園で待ちあわす。ところが千代田線金町で乗り換えるはずが、何を勘違いしたか、町屋まで行ってしまった。戻って、京成金町線に乗り換える。「寅さん」の柴又を過ぎ、とぼとぼと堀切菖蒲園駅に辿り着いた。1時間遅れである。痺れを切らした仲間とは、菖蒲園で待ち合わせた。
 罪滅ぼしに、手作りパンで人気の堀口ベーカリーでカレーパンを3個買う。人気NO1はコロッケパンらしいが、カレーパンの方が好きだ。菖蒲園に向かう路地の右手に祖霊社がある。立派な菖蒲七福神と、その裏手に堀切十二支神も鎮座していた。みなユニークな顔立ちで、猪は孫悟空の「猪八戒」に似ている。近くに「魚道橋」や「毛無池橋」の石碑があり、かつては川が流れていたのだろう。
 住宅街を遊歩道にした「あじさい通り」を過ぎると、「堀切菖蒲園」に到着する。ここで漸く仲間と落ち合った。お詫びのカレーパンを食べながら、話が弾む。仲間は既に菖蒲を見学済みであり、1人でじっくり見て回る。
 200種6000株の花菖蒲が、1番田から15番田に咲き誇る。「五月晴」「堀切の夢」など、優雅な名がついている。3年ごとに株分けするようだ。大別すると、江戸系、伊勢系、肥後系、長井系がある。「いずれがアヤメかカキツバタ」というが、優劣付け難い、見分けが付け難いという意味に用いられる。
 堀切菖蒲園の起源に2説ある。室町時代、堀切村の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じ、陸奥国郡山の安積沼から花菖蒲を取り寄せ栽培を始めたという説。江戸時代、百姓の小高伊左衛門が趣味で各地から花菖蒲を集めて庭で栽培したのが始まりという説。鈴木晴信、歌川広重の浮世絵にも登場する。
 椅子で休んでいると、目の前に妙な木がある。「御柳(ぎょりゅう)」と書いてある。とても柳の木とは思えない代物だ。ピレネー山脈国境近くのタマリスク河畔で発見されたことから、別名「タマリスク」ともいう。楊貴妃がこの木を愛したことから、御柳の名で呼ばれるようになった。聖書の記録によると、世界最初に植樹された木とかで、神秘的な感じのする植物である。
 首都高速を潜り、綾瀬川を渡ると荒川河川敷に出る。堀切水辺公園だ。目の前に東京スカイツリーが聳えている。菖蒲田の菖蒲越しに撮るスカイツリーは、ここが一番という。河原にどっかりと腰を下ろし、ポイントを決める。
 河原から戻り、極楽寺に向かう。門前に、塩にまみれた「いぼ取り地蔵」がある。その塩で自分のいぼを擦ると、いぼが取れるという。巣鴨の「とげぬき地蔵」のようなものだろう。寺内に入ると、「首塚」がある。近くの池の底から白骨化した頭蓋骨と甲冑が出てきたことから、供養のために作ったものだという。500年ほど昔、里見氏と北条氏が国府台で戦った痕跡だろうか。
 ドクダミが生い茂り、蛇が出てきそうな極楽寺を出て、「郷倉」へ向かう。郷倉は御倉とも呼ばれ、年貢を一時的に収めておくために作られたが、天保大飢饉以降に非常用の食糧を保管するところとなった。藁葺で、創建当時の姿を残している。
 堀切天祖神社を巡り、駅に戻るとまだ2時である。「酒場放浪記」吉田類推薦の50年の歴史を持つ下町の居酒屋「きよし」はまだ開いてない。やむなくファミレスで、ビールとワインで延々3時間、くだを巻いていた。
 「美女が競って集まり、いずれが花かと」という「絵本江戸土産」の風情はなかった。

平成29年6月9日
須郷隆雄

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こんぶくろ池

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こんぶくろ池

 千葉県柏市北部の十余二、正連寺と呼ばれる地域に、「こんぶくろ池」という妙な名前の湧水池がある。
 つくばエクスプレス線柏の葉キャンパス駅を降り、柏の葉公園や東京大学柏の葉キャンパス、がんセンター東病院のほど近くにある「市民で育てる100年の森」として、市民のNPO活動によって守られている公園だ。
 東京ドーム4個分に相当する18.5haの森林に抱かれたこんぶくろ池は、手賀沼の源流でもあり、大堀川を経て手賀沼に注いでいる。
 江戸時代には、この一帯は小金牧と称し、馬の放牧地だった。明治になると牧の制度が廃止され、開拓地として多くの人々が入植した。その後、日本初のロケット戦闘機「秋水」が駐留していた柏飛行場となり、その跡地が開発され、この地域は一変した。
 太古の自然を残す「こんぶくろ池自然博物公園」へ入ると、その風景は周辺とは急変する。クヌギ、コナラ、ミズキなどの落葉樹の林が続く。落ち葉でスポンジのようになった道を進むと、ほどなく弁天池が見えてくる。小さな湧水池だ。浮島の中に小さな祠がある。湧水の流れに沿って歩き、木の橋を渡ると、木の間からこんぶくろ池が姿を現す。
 四季を通じ様々な表情を見せる雑木林には、オオタカ、タヌキ、野ウサギ、リスなどの動物たち、カブトムシやクワガタなどの昆虫たち、野桜、もみじ、クヌギなどの木々、寒欄、春欄などの草花が悠久の世界へ誘う。
 こんぶくろ池は浅く、沼のようでもある。木々が池に映えて、木漏れ日に輝く。幻想的な光景は、何か伝説がありそうな予感を抱かせる。こんぶくろ池には、昔から色々な言い伝えが残っているという。
 ずっとずっと昔の話になりますが、そのころ田や畑で仕事をしていたお百姓さんたちは、のどがかわくと、この池のきれいな清水を飲みにきていました。牧の馬たちも、木にさえずる小鳥たちも、野をかけまわる鹿や兎たちもこの池に集まって、それはそれは平和な風景を見せていました。
 あるとき、畑に出ていた若者がいつものように水を飲みにきました。池はまわりの木の影を落として、みどりいろに澄みきっていました。
 はじめ、手ですくって飲んでいた若者は、手をついて腹ばいになり、池に顔をつけてむちゅうでのみました。そのとき、池の水がにしきいろに輝いているのに気づきました。
 びっくりして顔をあげると、目の前に美しいこんぶくろ(巾着)が浮かんでいました。
 若者は思わず手をのばしましたが、波にゆらゆら揺れているこんぶくろは、なかなかとれません。木の枝につかまって足をのばしたり、いろいろやっているうちに、こんぶくろは見えなくなってしまいました。若者は、村に帰ってその話をしました。
 村の人たちは、
「それはきっと米を生むふくろだんべ・・・」
「いや、それは子を生むふくろだんべ・・・」
 と、つぎからつぎへと伝わってうわさ話に花が咲きました。それからは誰言うとなく、こんぶくろ池と呼ぶようになったということです。
(「柏のむかしばなし」抜粋)
 NPOのおじさんが、挽いた竹を何本も腕に抱えて持ってきた。子供たちに水鉄砲を作ってやると言う。自然観察などの活動もしているようだ。公園管理棟の前では、作業を終えたボランティアの人たちが弁当を広げ、お茶を飲み、寛ぎの一時を過ごしていた。
 池にまつわる数々の民話が伝わっている。木の枝に架かっていたこぶくろを持っていこうとしたら、「オイテケー」の声がしたという「オイテケ伝説」、池が巨人の足跡だという「だいだらぼっち足跡伝説」、「大蛇の逢引き」「大蛇のお産」「大蛇の化身」など。こんぶくろ池の主・ウナギが「守り神」という逸話もある。今でも、ここ正連寺の人たちは祖先の決めたことを守って、ウナギを食べないという。まるで『遠野物語』のような話である。
 こんぶくろ池の隣には、がんセンターや東大柏キャンパスがある。科学の粋を集めた空間に、異次元の空間が残されていることに興味を覚える。これが健全なバランス感覚ということだろう。NPO「こんぶくろ池自然の森」の活動に期待する。

平成29年5月27日
須郷隆雄

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