暇人の戯言<Ocurrencias de un ocioso>

徒然なるままに、日ぐらし硯に向かいて、よしなし事を、そこはかとなく書いております

訪問記

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全83ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

達磨さん

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3

イメージ 3

達磨さん

 10月5日は達磨大師の命日、禅宗の寺院では法要が営まれた。達磨さんと言えば雪だるまに始まって、達磨ストーブ、子供の頃の遊び「だるまさんが転んだ」、もちろん置物のだるまさんなど、多くの日本人になじみ深い。
 達磨大師は、中国禅宗の開祖とされるインドの仏教僧である。「ダルマ」とは、サンスクリット語で「法」を意味する。赤い衣をまとい、眼光鋭く、髭を生やし、耳輪を付けた姿で描かれているものが多い。
 歴史的には疑問の部分も多いが、南インドの国王の第3王子として生まれ、般若多羅の法を得て、仏教の第28祖菩提達磨になったとされる。お釈迦さまから数えて、28代目の仏教伝道者である。
 6世紀の初め60歳を過ぎて、南インドから中国に渡り、南朝の梁の武帝が治める建康(南京)に赴く。武帝が「自分は仏教のためにいろいろ尽したが、何か功徳があるか」と問うたところ、即座に「功徳なし」と答えたという。この問答は「達磨廓然の話」として有名だが、武帝はその意味を理解できなかった。
 達磨大師が中国へ行くまでは、多くの文献はあったが指導者がいなかった。「城はあったが、城主がいなかった」という状況だったという。
 その後洛陽郊外の少林寺で9年間座禅を続けた。面壁9年の座禅により手足が腐ってしまい、玩具としての達磨像が出来上がった。その後、臨済宗や曹洞宗に分かれ、鎌倉時代に栄西や道元によって日本に伝えられた。
 曹洞宗流山寺の住職から勧められ、「禅をきく会」に参加した。東急田園都市線駒沢大学駅を下車する。駒沢公園口から10分ほどで駒澤大学に到着した。駒沢公園に隣接する有数の高級住宅街である。
 駒澤大学は文禄元年(1592)、水道橋の袂にあった曹洞宗寺院「吉祥寺」の中に造られた学林を淵源とする。仏教の教えと禅の心を、現代教育に活かしていくことを建学の理念としている。
 駒沢大学記念講堂に入ると、正面にお釈迦さまと道元・瑩山禅師が鎮座し、音楽法要が始まっていた。第1部は「日本における達磨」と題し、仏教学部教授らが講演した。
 曹洞禅の「只管打坐」と臨済禅の「公案禅」の違い。只管打坐は非思量の座禅で、ひたすら座ること。公案禅は禅問答の禅で、白隠禅師が江戸時代にまとめたスタイル。面壁と背壁の違いもある。
 達磨図もいろいろある。「八方にらみの達磨」「半身達磨」「目黒達磨」などだ。日本で特に達磨図を描いた禅僧は、白隠である。「見性成仏」「直指人心」「どう見ても」「いつ見ても」と書かれ、達磨の宗旨を伝えている。その絵の中に、「心」という字が隠されている。
 達磨の人形が作られるようになったのは、江戸時代に入ってからと言われる。江戸時代における達磨のイメージを、「表具屋と達磨」、「食べ物と達磨」という視点からも話された。表具屋とは、巻物や掛け軸、屏風などの表装を施す職業。食べ物としては、「達磨糖」「達磨隠し」、9年面壁に因む「九年酒」などがあった。
 第2部はいす座禅の指導を受けた後、三重県曹洞宗青年会による和太鼓集団「鼓司」の太鼓演奏があった。僧侶の太鼓である。僧衣を纏い、お経を唱えながらの激しいばちさばきだ。荘厳な中に、躍動感のある音色に感動した。
 終了後、学内にある禅文化歴史博物館「耕雲館」に寄る。禅の発祥から日本への伝来、道元による日本曹洞禅の確立から瑩山による地方展開に至る教団形成の流れなどを辿っている。中央の須彌壇に一仏両祖が座す。禅宗寺院の楽器(鳴らし物)が置いてあり、時折「ジャン」とか「ドン」とか聞こえてくる。
 耕雲館は、禅語「耕雲種月」(雲を耕し、月に種をまくように、労苦をいとわず、着実に努力するさま)から命名されたという。
 達磨が武帝に「功徳なし」と言ったように、「座禅をして、何か得るものはあるか」と問われて、道元は「何にもない」と答えたという。
 白隠禅師の『座禅和讃』に、「衆生(しゅじょう)本来仏なり。水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生のほかに仏なし。衆生近きを知らずして、遠く求(もとむ)るはかなさよ。縦令(たとえ)ば水の中に居て、渇(かつ)を叫ぶが如くなり。長者の家の子となりて、貧里(ひんり)に迷ふに異ならず」と書いてある。
 流山寺の「座禅の会」で、時々この座禅和讃を唱えている。

平成30年10月8日

この記事に

開く コメント(0)

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3

イメージ 3

東京バルAjito(アジト)

 「パパの誕生日1か月以上過ぎちゃったけど、食事会やらなきゃね。どこにする」と、娘から電話があった。「どこでもいいよ。お任せだよ」と言うと、六本木の東京バルAjitoに決まった。イタリアンだという。
 Ajitoと書くので、アヒートと思ったら、アジトと読むらしい。味よし価格よしのお洒落な隠れ家バルのようだ。東京ミッドタウンのすぐそばにあるイタリアン・バルで、「牛ハラミステーキ」がお勧めとのこと。
 日比谷線六本木駅で、午後4時に待ち合わす。娘が改札口で待っていた。時間があるので、六本木ヒルズ脇の毛利庭園に寄ることにした。238mの高層オフィスビルは現代の城という威容を誇る。平成15年開業当時は話題を呼んだ。
 1階イベント広場では、何やら催しで大混雑だった。色々な屋台が出ていた。娘が突然、「昼に弁当を売りに来る店が出ている」と、店員に挨拶していた。毛利庭園は、ヒルズの真下にある小さな庭園である。
 江戸時代に長州藩支藩である長府毛利家の江戸藩邸が置かれた場所で、乃木希典はこの藩邸の侍屋敷で生まれた。吉良邸討ち入りの赤穂浪士岡嶋八十右衛門ら10人がお預かりとなり、切腹した場所でもある。今は出会いの場所なのだろうか、ハートマークの飾り付けがあった。
 六本木ヒルズから東京ミッドタウンに向かって、ブラリブラリと歩く。ペットショップが目に留まり、暫く犬と戯れる。地域性なのか、極小ペットばかりだ。ティーカッププードルも可愛い。20万円を超えるものばかりだった。
 東京ミッドタウンは防衛庁本庁檜町庁舎跡地を再開発し、平成19年に開業した大規模複合施設だ。檜町公園を合わせると、4haの緑地帯を有する。当地は、萩藩毛利家の屋敷として使用されていた。乃木坂には旧乃木邸がある。
 家庭用品や小物などのアンテナショップを散策し、5時半にミッドタウン前で息子と待ち合わす。何だか妙な格好で現れた。
 隠れ家と言われるとおり、表通りとは打って変わって閑静な場所にあった。若い女性が10人ほど、並んで待っていた。奥隅の予約席に案内される。飲み放題付コース料理とのことで、我が家の鍋将軍にお任せである。先ずはビールで乾杯。
 タコのマリネ、ローストビーフ、サラダ、海老アヒージョ、チョリソーと、次々に出てくる。手間はかからない。スパークリングワイン、カクテル、赤ワインと、だんだんピッチが上がっていく。他人の迷惑顧みず、会話も絶好調。サービスも良く、グラスの開く暇がない。若者に人気なのだろうか。特に女性客が多い。
 自家製パスタ、キノコのリゾット、そしてメインは牛ハラミステーキだ。程よい酔い心地、程よい腹心地、家族4人の程よい食事会となった。
 「東京バルAjito(アジト)」は、グローバルダイニング出身の若手4人によってオープンしたばかりの店である。代表は高瀬篤志(31歳)。その高瀬氏が、料理長の岩橋亮(32歳)、副料理長の大島健二(28歳)、フロアマネージャーの齋藤慎之助(27歳)を誘い、幼少期より抱いていた「経営者」という夢を実現すべく、六本木に第1号店を出店した。
 イタリアンをベースにしながらも、日本人に馴染みのある「居酒屋」の味を取り入れ、気軽に足を運びたくなる「東京バルスタイル」を目指したいと、店名にもそれを冠したという。昼は仕事で六本木を訪れるビジネスマンを対象とし、夜は比較的若い世代をメインに、食事やアルコールなどのメニューを組み立てている。
 アルコールは、ワインを主体にスパークリングもラインナップする。ワイン以外ではビールや焼酎などオーソドックスなものから、自家製のサングリアとリモンチェッロ、オリジナルカクテルなど。
 料理は、料理長の岩橋氏が中心となり開発に当たった。店内はデザイナーの若林数正氏が担当し、入口を挟んで左手エリアは一面ガラス張りの空中階、右手エリアはオープンエアでテラス気分が味わえる。一方中央にはキッチンを覗けるカウンター席を配置する。
 「エッジが立った個性的な店というよりは、どちらかというと普通の親しみを感じられる店にしたい」と高瀬代表は語る。エネルギッシュな若者4人による挑戦が始まったばかりだ。今後に期待したい。
 若者向きのバルだったが、家族4人水入らずの食事会をセットしてくれた娘の好意に感謝する。酒は強いと自負するかみさんも、昨年の轍を踏み、飲み過ぎないように自重して飲んでいた。
 我が家に帰ると、留守番のノン太郎が狂ったように吠えまくっていた。ノン太郎にとっては、つらい1日だったようだ。

平成30年9月29日

この記事に

開く コメント(0)

不思議な日本語

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3

イメージ 3

不思議な日本語

 流山市ゆうゆう大学合同公開講演会が、流山市文化会館で開催された。演題は「不思議な日本語」、講師は金田一秀穂先生である。
 気さくな普段着での登壇だった。演壇の前に立ち、日本語と国語はどう違うのか、アボガドなのかアボカドなのか、言葉は正しさよりも気持ち良さが大事と、話し始める。
 演壇の前に回って話しているが、演壇の後ろで話しても「演壇の前で」と言います、「不思議ですね」と言いながら、演壇の前と後に立って実演する。「前」には、「近く」という意味があるらしい。次第に、「日本語の不思議」に引き込まれていく。
 金田一秀穂は日本を代表する言語学者である。そのキャラクターからテレビ出演も多い。祖父は金田一京介、父は金田一春彦、兄の金田一真澄はロシア語学者、姉はゴルフライターの金田一美奈子、伯曽祖父は実業家の金田一勝定だ。華麗なる一族である。
 金田一とは変わった姓だ。金田(きんだ)はアイヌ語のキムタ(山の中の)に由来し、一は市の意味。金田一とは、「山の中の人の集まるところ」を意味するらしい。
 家系としての金田一は、南部支族四戸氏の分流に属し、天正19年(1591)の九戸政実の乱の後、武田彦三郎が金田一村に領地を賜って金田一を名乗ったことに由来する。金田一村は福岡町と合併し、岩手県二戸市となった。「座敷わらし」で知られる金田一温泉は有名だ。
 講演の途中は居眠りで、内容はすだれボケになった。目を覚ますと、「過去を前と言うのはなぜか」と言う声が聞こえてきた。過ぎ去った過去が前のはずはない。過ぎた日を2日前、3日前と言い、これから来る日を2日後、3日後と言う。確かに不思議だ。時間と物との違いによるものらしい。机に灰皿が乗っているとき、「灰皿の下に机がある」とも言わない。日本語は不思議だ。
 祖父の金田一京助は偉大だった。アイヌ語研究の創始者としても知られ、石川啄木の親友でもあった。明治15年盛岡の四ツ家町に生まれ、姉1人、弟6人、妹3人の11人兄弟だった。
 金田一家は、京助の曽祖父伊兵衛勝澄が米穀商として一代で財を成し、大飢饉の際に蔵を開いて町の人を飢えから救い、南部藩の士分に取り立てられた。父の久米之助は農家の出身だったが、読み書きそろばんのほか絵もうまく、才気煥発であったところを買われてヤスの婿養子になった。しかし商売下手で任された事業にことごとく失敗したが、金田一家の当主で伯父の勝定(ヤスの長兄)の援助で京助は生活苦を知らなかったという。
 京助は石川啄木を支援し、また、アイヌ語の研究に一生を捧げた。当時、アイヌ民族は和人よりも劣った民族であると教え込まれていたが、京助は「アイヌは偉大な民族だ」「あなた方の文化は、決して劣ったものなどではない」と真摯に接した。
 一方で次のようにも書いている。 「しかしまた、それはそれとして、同学の人たちがみんな、りっぱな西洋文学へ入っていったり、西洋の哲学とか、日本の哲学とか、そういう高い思想をたどって、自分自身をつくりあげているとき、自分一人、野蛮人のそんなものをやっていたら、みんなからとり残されてしまうのではないか。考えてみると、ずいぶんそれも寂しい気がしました」と、『金田一京助 私の歩いてきた道』に書いている。
 京助の名は、父が商用で京都に上京中に生まれたので、京助と名付けられた。石川啄木は盛岡中学時代の後輩で親友、京助自身も元々は歌人志望だった。金田一の名を広く知らしめたのが、『明解国語辞典』(三省堂書店)だ。我が家の書棚にも、埃を被って置いてある。横溝正史の推理小説に登場する「金田一耕助」の名は、金田一京助の名に由来する。
 秀穂の父金田一春彦は幼いころから、父の京助に漢文の素読や習字で国語を教えられていたが、それを嫌っており、自分の子供とは友達のように楽しむことを大切にしていた。息子の秀穂が「金田一」の名の重圧に悩み、大学卒業後も就職せずにいたときも何も言わなかったが、秀穂が留学を希望した時、日本語教師になることを勧めた。これが秀穂の現在の仕事につながっている。
 春彦は「言葉は時代とともに絶えず動いて変化する」が持論で、ら抜き言葉にも「ら抜き言葉はなくならないし、ら抜きに進んでいくのが自然な流れである」とコメントしている。この姿勢は秀穂も引き継いでいる。
 不思議な日本語、しかし楽しい講演だった。

平成30年9月18日

この記事に

開く コメント(0)

流鉄BEER電車

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3

イメージ 3

流鉄BEER電車

 ローカル線の駅で、ビールを片手にライブに酔う「流鉄BEER電車」が、流鉄流山線流山駅とその周辺の流山本町で開催された。平成27年に流鉄開業100周年を記念して開催されてから、4回目になる。
 町おこしの一環として開催されたものだ。ホームに停めた車両内で立ち飲みしたり、駅舎の周りで飲食したりできる。フレンチやイタリアン、和食、カレーなどの人気店がビールに合うメニューを販売する。
 ライブは車庫と倉庫の2か所のステージで行う。流山出身の世界的なバンジョー奏者の青木研、シンガーソングライターの加賀谷はつみ、柏市のご当地アイドル「コミック☆倶楽部」とプロデュースしたパッパラー河合らが出演した。
 「ビール電車」とは、電車に乗りながら美味しいビールが味わえる、非日常体験が魅力のイベントである。この催しはローカル線を中心に、全国60か所以上で行われている。中でも、ビールにおでんまで提供する豊鉄ビール電車「おでんしゃ」は、「走る屋台」として人気のようだ。
 客は結構出ていた。家族連れが多い。子供たちには「走る!流鉄ジオラマ」が人気だ。昭和レトロな街並みのジオラマを背景に、全長30mの線路を流鉄の大型模型が走る。テーブル席はほぼ満席。我が家の出ずっぱり犬「ノン太郎」を連れてでは、落ち着いて飲んでもいられない。
 流山電鉄は、大正5年(1916)に町民出資による町民鉄道として開業した。JR常磐線馬橋駅と流山駅を結ぶ6駅5.7kmのローカル線である。日本で最も短い路線の一つと言われる。
 開業当時の列車には燈火の設備がなく、夜は提灯を持って乗ったという話が残る。あまりの暗さに、蛍がただ乗りすることもあったという。芥川賞作家・李恢成の小説『哭』に流鉄が出て来る。夫人が流山1丁目の生まれなので、李恢成は何度も乗っていたことだろう。
 成田の芝山鉄道は2.2km、和歌山の紀州鉄道は2.7km、流鉄が5.7km、銚子電鉄は6.4km。これらが、短い鉄道のベスト4である。流鉄はつくばエクスプレスの開通により、経営不振に落ちいったと聞く。銚子電鉄は濡れ煎餅で経営を支えているというが、流鉄は賃貸不動産で凌いでいるようだ。
 近くの浅間神社では、「切り絵行灯と音楽の夕べ」を同時開催していた。地元住民や小中学生が手作りした行灯が並ぶ中、舞台では邦楽やジャズ、新撰組演武などが行われた。
 「町おこし」や「地域活性化」が、近年とみに盛んである。英語圏では、「vitalization」や「revitalization」と表現されている。花火大会や盆踊り、観光振興やB級グルメなど、色々なイベントが催される。若者の流出に歯止めをかけ、新住民を呼び込み、地域文化の担い手を確保することにある。
 JR九州の新幹線や豪華列車「ななつ星in九州」、しなの鉄道軽井沢駅等、多くの建築・車両プロダクトデザインを手がけている水戸岡鋭治氏は、地域創生・町おこしで成功したい人が、知っておくべき要素が2つあるという。
 その1つは変化を恐れず、変化を受け容れ、変化を創り出す姿勢だという。2つ目は自分を楽しませる、他人を楽しませることだと。確かにそうかもしれない。
 石破茂元地方創生大臣は、町おこしには3人の人間が必要だと言っていた。それは「若者」「バカ者」「よそ者」という3種類の人間だそうだ。「若い者は黙っておれ」「よそ者は黙っておれ」「バカなこと言うんじゃない」では、地方の創生はあり得ない。
 江戸川の水運で栄えた流山は鉄道の時代に乗り遅れ、100年近く「鳴かず飛ばず」の時代を過ごした。平成17年のつくばエクスプレスの開通に伴い、今や県下一の人口増加率を誇る。人口19万人に届こうとしている。
 しかし、これからが勝負だ。「変化を恐れず、変化を受け容れ、変化を創り出す」そして、「自分を楽しませ、他人を楽しませる」品格のある街にして欲しいと思う。

平成30年9月8日

この記事に

開く コメント(0)

スズメ(雀)

イメージ 1 イメージ 2 イメージ 3

イメージ 3

スズメ(雀)

 最も身近な野鳥と言えば、スズメではないだろうか。春から夏にかけては住宅地や市街地で良く見かけ、秋から冬は田んぼなど農村部に多く見られる。人の住んでいない山奥には殆どいない。カラスやハトもそうだが、人との関わりが深い鳥である。
 スズメの語源は、「スズ」は鳴き声を、「メ」はカモメやツバメのように群れを成すことに由来する。日本語では「雀」と書き、少ないことや小さいことを形容する。「雀の涙」である。中国語では「麻雀」と書き、小さい鳥の総称として用いる。日本では麻雀は「マージャン」のことだ。
 春に屋根瓦やといなどの住宅の隙間に巣作りをし、4〜6個の卵を産む。子育てをし、5月下旬から6月ごろに巣立つ。夏は穀物や草木の種子、昆虫などを食べて成長し、秋には大きな群れを作って街路樹やヨシ原をねぐらとする。田んぼで稲穂や落ち穂を食べるため、町から姿を消すこともある。冬にはまた町へ戻り、「ピッ、チュッ、チュイーン」と愛を語る。
 ここ20〜30年でスズメが半減したという。空き地や草むらが少なくなり、餌が減った。田んぼが減った。コメの収穫の効率化で、稲穂に接する期間が減った。村は過疎化で、人がいなくなった。屋根瓦や建物の隙間がなくなり、巣を作る場所が減った。スズメの世界も住宅難、食糧難ということのようだ。
 スズメの寿命は2〜3年と言われるが、カラスやイタチなどの天敵も多く、産卵直後の期待余命は半年以下との説もある。
 スズメは益鳥なのか、害鳥なのか、意見が分かれる。春先は苗の害虫を食べる益鳥として扱われ、秋には稲の籾米を食べる害鳥となる。スズメを追い払うため、「スズメ追い」「鳥追い」などの慣習が各地にあった。案山子もスズメ追いの道具として作られた。民謡や民話も多い。
 「舌切り雀」、「腰折れ雀」などの民話がある。落語には、「抜け雀」がある。童謡に「雀の学校」、「雀のお宿」、それに滝廉太郎作曲の「雀」などがある。
 小林一茶の「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」という代表句がある。尾崎紅葉の「子雀や 遠く遊ばぬ 庭の隅」というのもある。
 スズメと人との係りは深い。家紋にもなっているほどだ。勧修寺家の「雀紋」、その派生に上杉氏の「上杉笹」、その派生である伊達氏の「仙台笹」「宇和島笹」などだ。
 慣用句も多い。「雀百まで踊り忘れず」、「雀の千声 鶴の一声」、喜びのあまり小躍りする様を「欣喜雀躍」、筆跡の拙さを「雀の踊り足」という。将棋に「雀刺し」という戦法があるそうだ。飛び道具と言われる飛車・角行・香車を一筋に集中させ、一点突破を狙う作戦だ。
 伊東四朗や小松政夫の「電線音頭」というのもあった。「電線にスズメが三羽止まってた ヨイヨイヨイヨイ オットットット チュチュンガチュン」と、子供たちに一時期はやった。
 スズメの分布の範囲は、西はポルトガルから東は日本までのユーラシア大陸。北はあまり寒い地方にはおらず、せいぜい北緯60度まで。ボルネオ島、スマトラ島、ジャワ島などの熱帯・亜熱帯にも分布するが、インドには殆どいない。
 スズメは「チュンチュン」とよく囀るので、噂話を好む人をスズメに例えることがある。スズメが半減したと言われるが、その分、おしゃべり好きの老人が増えたということか。スズメと人の棲み分けが進んでいるようだ。

平成30年9月5日

この記事に

開く コメント(0)

全83ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.


みんなの更新記事