暇人の戯言<Ocurrencias de un ocioso>

徒然なるままに、日ぐらし硯に向かいて、よしなし事を、そこはかとなく書いております

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魔性の女「カルメン」

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魔性の女「カルメン」

 誰もが知っている小説「カルメン」、誰もが聞いた歌劇「カルメン」、誰もが魅せられた魔性の女「カルメン」。ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場(MET)で上演された世界最高峰のオペラ「カルメン」が、MOVIX柏の葉で上映された。
 映画といえばシニア料金で1100円だか、このカルメンは3600円だった。いつもより高い。しかし、上映時間は3時間30分だ。ちょっと躊躇したが、行くことにした。かみさんは既に、渋谷Bunkamuraオーチャードホールで熊川哲也のカルメンを見ている。4倍の値段だ。亭主が4分の1で躊躇する理由はない。いつの間に主客逆転してしまったのか。「元気なうちに楽しまなくちゃ」と、後先考えない能天気である。
 進化を続けるつくばエクスプレス線柏の葉キャンパス駅を降りる。高層マンションが回りを覆っていた。MOVIX柏の葉は、ららぽーと柏の葉4階にある。初めてだが、なかなか良くできている。高齢者が大半だったが、概ね満席だった。
 「ジャンジャカジャカジャカ ジャンジャカジャカジャカ」と、カルメン序曲と共に第1幕が始まる。ルイ・ラングレ指揮、リチャード・エア演出だ。
 セルビアの煙草工場でジプシーの女工カルメン(クレモンティーヌ・マルゲーヌ)は喧嘩騒ぎを起こし、牢に送られることになった。しかし、護送を命じられた伍長ドン・ホセ(ロベルト・アラーニャ)は、カルメンに誘惑されて彼女を逃がす。パスティアの酒場で落ち合おうと言い残して、カルメンは去っていく。
 「ハバネラ(恋は野の鳥)」を、「恋は野の鳥 あなたが私を好きじゃないなら、私が好きになる。私があなたを好きになったら、せいぜい用心することね」とカルメンが歌い、誘惑する。
 第2幕。カルメンの色香に迷ったドン・ホセは、許嫁ミカエラ(アレクサンドラ・クルジャック)を振り切ってカルメンと会うが、上司との諍いのため密輸をするジプシーの群れに身を投じる。しかし、そのとき既にカルメンの心は闘牛士エスカミーリョ(アレクサンダー・ヴィノグラドフ)に移っていた。
 「花の歌」を、「おまえが投げたこの花を おお俺のカルメン!俺はおまえのものだったんだ!カルメンおまえを愛している」とドン・ホセが歌い上げる。エスカミーリョは「闘牛士の歌」を、「恋!恋!恋! 闘牛士、恋がおまえを待っている」と熱唱する。
 ここで休憩に入る。映画館での休憩はあまり記憶にない。その間、カルメン役のマルゲーヌ、MET児童合唱団、MET製作統括 のJ・セラーズ、闘牛士エスカミーリョ役のヴィノグラドフ、許嫁ミカエラ役のクルジャック とドン・ホセ役のアラーニャ夫妻のインタビューがあった。
 続いて第3幕が始まる。ジプシーの女たちがカードで占いをしている。カルメンのカードは不吉を暗示する。闘牛士エスカミーリョもやってきて、カルメンをめぐり、ドン・ホセと決闘になる。しかしカルメンの心は、既にドン・ホセから完全に離れていた。カルメンの心を繋ぎとめようとするドン・ホセだが、許嫁ミカエラから母の危篤を聞き、カルメンに心を残しつつも盗賊団を去る。
 そして第4幕。闘牛場の前に、エスカミーリョとカルメンが現れる。エスカミーリョが闘牛場に入った後、1人でいるカルメンの前にドン・ホセが現れ、復縁を迫る。復縁しなければ殺すと脅すドン・ホセに、カルメンは殺すなら殺すがいいと言い放つ。逆上したドン・ホセがカルメンを刺し殺し、幕となる。充実の3時間半だった。
 『カルメン』は、フランスの作家プロスペル・メリメが1845年に発表した、全4章からなる中編小説である。メリメはスペイン旅行の際に、「カルメン」の題材を思いついたという。それを基に、フランス語によるオペラとしてジョルジュ・ビゼーが作曲した。
 日本でも浅草オペラの演目として上演されていたが、戦後は藤原歌劇団によって数多く上演され、今日なお日本国内で最もポピュラーなオペラとして親しまれている。世界的にも1、2を争う人気のオペラであり、特に親しみやすいメロディの豊富なことが特徴である。
 世界三大歌劇場の一つ、メトロポリタン歌劇場の臨場感は味わえなかったものの、世界最高峰のオペラを究極の「特等席」で鑑賞することができた。
 カルメン役のマルゲーヌの豊満な胸元と、「私があなたを好きになったら、せいぜい用心することね」とのセリフが、脳裏から離れなかった。

平成31年3月13日

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筑波梅林

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筑波梅林

 筑波山の標高200mから270mの南斜面に、つくば市営の「筑波梅林」がある。白梅・紅梅など30種、約1,000本(白梅800本・紅梅200本)が、4.5haの園内に植えられている。早咲きのものは1月下旬から見頃になり、最盛期には筑波山の巨岩と満開の梅とが独特の景観を醸し出す。
 筑波山は、頂上付近が7,500万年前の斑れい岩、中腹付近は6,000万年前の花崗岩からなる。特に梅林内には、土石流で堆積した斑れい岩が数多く見られる。この斑れい岩の岩塊と関東ローム層の土壌からなる土砂の山麓斜面に、戦後、人々の手によって梅が植樹され、梅林が形成された。
 46回目となる「筑波山梅まつり」が筑波梅林で、2月16日から3月21日まで開催されている。土浦在住の友人から誘いがあり、早速出かけて行った。
 TX線つくば駅で出迎えを受け、梅林へ向かう。ぐずついた天気の合間を縫っての快晴である。梅の香りに誘われてか、大変な混みようであった。
 つくば観光大使の着物姿の美人さんが迎えてくれた。おもてなし館で梅茶を頂く。梅味の美味しいお茶だった。岩塊の斜面を登って行く。まだ5分咲きとのこと。開運招福の「福来(ふくら)梅」の前に出る。絵馬がいくつか吊るされていた。
 茅葺き東屋の展望台へ向かう。東屋までは木道が整備され、車椅子でも梅林を眺めることができる。富士山や東京スカイツリーも望めるというが、春霞が掛かり無理だった。
 梅林の手ごろな展望台のベンチで一休み。友人が、おもむろに弁当を取り出す。赤飯である。沖縄茶までポットに入れて用意している。手作りの沢庵、愛媛から送られた特上の蜜柑と、その準備の良さに恐縮した。いつもながらの心配りである。
 梅を見ると、母親を思い出す。母と梅は相性が良さそうだ。梅は咲き始めが良く、桜は散り際がいい。「花は桜木、人は武士」と言うが、古代は梅だった。桜は美しさと潔さがあるが、梅には控えめと耐え忍ぶ力を感じる。やはり梅は母のイメージだ。
 梅園を下って行くと、広場で「ガマの油売り」の口上をやっていた。皆ボランティアである。「サァサァお立ち会い、ご用とお急ぎでないかたはゆっくりとお聞きなさい。鐘一つ売れぬ日もなし都かな、遠出山越し笠の内、物の文色と道理がわからぬ。山寺の鐘がゴーンと鳴るといえども、童子一人来て鐘に撞木を当てざれば、鐘が鳴るやら撞木が鳴るやら、とんとその音色がわからぬ道理。サァお立合い」と始まる。
 女性の口上もあり、皆上手だ。血を流す場面もあったが、本当かどうか。しかし実にリアルである。幕間に、綾小路公麿が現れ、観客を楽しませる。見ている観客も楽しいが、演じている本人はもっと楽しそうだった。
 ガマの油売りの口上は、浅草観音境内奥山で居合抜きの辻売り芸で知られた長井兵助の口上を、同じく同所で独楽廻しの曲芸をやっていた松井源水が受け継いだとされる。
 創業390余年という日本旅館「筑波山江戸屋」へ向かう。ここから湧き出る温泉は、筑波山の両峰「男体山」「女体山」にちなんで「双神の湯」と呼ばれている。Ph10.18のアルカリ性単純温泉で、「美人の湯」としても有名だ。
 筑波六井のひとつ「杉の井」が、敷地内から湧き出している。樹齢400年という大欅、与謝野晶子の「筑波嶺の 筑波の町の あかつきを うながして鳴る おん太鼓かな」の歌碑もあった。
 早速、美人の湯に入る。沢のせせらぎを愉しみながら、露天風呂で手足を伸ばす。アメリカ・シアトルに住むという日本青年に会った。1時間ほどお喋りをし、茹でガエル状態で上がる。
 ラウンジで、「杉の水」で淹れたコーヒーを味わう。ここからが大変だ。話好きの友人の、速射砲のようなお喋りで一気に疲れてしまった。小まめな料理作り、データに基づいた健康管理など、参考になる点も多々あった。
 つくば駅まで送られる。筑波の梅と温泉を満喫したいい1日だった。
Muchas garacias a mi amigo!

平成31年3月2日

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画狂人・北斎

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画狂人・北斎

 葛飾北斎は、江戸時代後期の浮世絵師である。改号すること30回、転居すること93回。90歳で臨終を迎えた時、「天我をして後10年、いや5年の命を保たしめば、真正の画工となり得べし」と言い残し死んだという。北斎は自身を「画狂人」と称したが、絵狂いの生涯だった。
 「冨嶽三十六景」シリーズや、19世紀のヨーロッパにおけるジャポニスムの契機となった「北斎漫画」など、約480点という膨大な作品を展示した展覧会「新・北斎展」が、東京・六本木ヒルズ52階の森アーツセンターギャラリーで開催された。
 日比谷線六本木駅を降りると、そのまま六本木ヒルズに直結している。52階まで昇っても、入場まで20分待ち。大変な人気のようだ。会場は二重三重の混雑ぶりだ。
 新・北斎展は、2000点を超える北斎と北斎派のコレクションを所有していた島根県津和野出身の北斎研究の大家・永田生慈が、10年以上温めてきたものを中心に、70年に及ぶ北斎の画業を、落款ごとに6章に分けて紹介している。
 北斎は、その生涯において30回もの改号を行っているが、本展では第1章の「春朗(しゅんろう)」(20〜35歳)から始まり、「宗理(そうり)」(36〜46歳)「葛飾北斎」(46〜50歳)「戴斗(たいと)」(51〜60歳)「為一(いいつ)」(61〜74歳)、そして「画狂老人卍(まんじ)」(75〜90歳)の6つの名前における作品を紹介する。
 本展の特徴は本邦初公開の作品が数々あることだ。その作品の全容は、いまだ完全には解明されていない。
 アメリカ・シンシナチ美術館所蔵の肉筆画「向日葵図」は、北斎が88歳の時に描いたもので、ヒマワリを題材にしたものは少なく、珍しい作品と言われる。同じく「かな手本忠臣蔵」は、北斎の手がけた忠臣蔵作品のうち7種類目のものだ。
 永田コレクションからも日本初公開の作品がある。例えば、春朗期に描かれた全長9メートルもある「鎌倉勝景図巻」だ。杉田(横浜市磯子区)を出発し、鎌倉から江ノ島に至るまでの30図が収められていて、各図には俳句が1句ずつ添えられている。俳諧世界との繋がりを窺わせる。
 永田コレクションは永田の遺志により、本展出品後は島根県立美術館のみでの公開となるため、東京で見る最後の機会となる。
 「津和野藩伝来摺物」は、旧津和野藩主・亀井家の秘蔵作品。118点に及ぶ作品の中には、春朗期の大小暦や宗理に改号してから初めての仕事と考えられる作品、寛政期の狂歌、俳諧摺物が含まれていて、その色彩の鮮やかさとともに貴重な作品群となっている。この全点が公開されるのも、今回が初めてである。
 画狂老人卍期の最後に展示されている、永田が昭和58年に発見した西新井大師總持寺所蔵の「弘法大師修法図」は、北斎の晩年における最大級の肉筆画である。弘法大師が法力によって鬼(病魔)の退散を祈る場面が描かれており、黒一色の背景が鬼の存在感を際立たせる。
 また、死の3ヶ月ほど前に描いた絶筆「富士越龍図」は、幾何学的山容を見せる白い霊峰富士の麓を巡り、黒雲とともに昇天する龍に自らをなぞり、北斎は逝ったと言われる。印象的な絵でもあった。
 本展は「冨嶽三十六景」や「北斎漫画」だけでなく、新たな北斎の側面に出会うことができる。故に「新・北斎展」なのだろう。
 六本木ヒルズ52階からの様変わりした都心のビル群を一望し、都営大江戸線から浅草線に乗り換え、本所吾妻橋駅で降りる。「たばこと塩の博物館」に寄る。
 浮世絵の企画展「江戸の園芸熱」が開催されている。花に囲まれた美人画や、菊や梅、朝顔を楽しむ浮世絵が展示され、江戸っ子の草花や園芸への愛情を感じさせる。
 江戸時代、隅田川の墨堤や亀戸の梅屋敷などは、花の名所として賑わった。江戸中期になると植木鉢が普及し始め、草花や園芸はより身近なものとなった。園芸を趣味とする歌舞伎役者も現れ、浮世絵の格好の題材にもなった。歌川国貞や歌川国房などの作品が並ぶ。前後期合わせ、200点ほどが紹介されている。
 疲れた。展覧会のはしごは、最早無理がある。この歳になると、活動3時間が丁度よい。休憩所で暫く居眠りをしていた。
 北斎の辞世の句は、「人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原」。「人魂になって、夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようか」というものだ。人間50年の江戸後期に、90歳の長寿を全うし、なお100歳まで生きたいという画狂人・北斎の生命力に圧倒された。

平成31年2月24日

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すっきりさっぱりサウナ風呂

 サウナ風呂は単にサウナとも言うが、フィンランド式の蒸し風呂のこと。蒸し風呂の文化は古来、日本を含む世界各地にあった。古代ローマ帝国のテピダリウム(微湿浴室)とラコニクム(発汗室)、オスマン帝国などイスラム圏のハンマーム、ロシアのバーニア、メキシコのテメスカル、朝鮮半島の汗蒸などである。
 サウナの発祥はフィンランドとされる。1000年以上の歴史があり、フィンランドの多くの家庭にサウナがある。総数は、約550万人の人口に対して約300万という推計もある。
 日本では、昭和39年の東京オリンピック以降に普及した。ホテルや旅館の共同浴場、健康ランドやスーパー銭湯、スポーツクラブなどに多く設置されている。また、単独でサウナと称する施設もあり、クリーンセンターに併設する公営のものもある。北欧と違い、男女混浴ではない。
 流山にも、クリーンセンターに併設した浴場とサウナ「ほっとプラザ」がある。老人が大半だが、結構賑っている。かつては月1のペースで通ったが、一度貧血を起こし倒れ、顔面お岩さんのようになってから、サウナを遠ざけていた。久々に、ほっとプラザへ出向いた。
 先ずは体重測定。体内年齢47歳、標準体重より5團ーバー、肥満度8%、まずまずである。しかし、血圧は145だった。昼時だったせいもあり、ゆったりとサウナを満喫できた。
 日本最初のサウナ施設は、東京・銀座6丁目にあった東京温泉である。昭和26年から平成5年まで運営されていた。
 トルコ風呂は、性的サービスを目的とした特殊浴場を指す隠語として使われるが、トルコ風呂の名称は東京温泉が始まりである。当初は、ハンマームのような垢すりやマッサージを提供する場として始めたものであったが、性的サービスの「元祖」とされている。
 同じく東京温泉は、JR東京駅八重洲口地下にもあった。男性専用で早朝6時から営業していて、寝台列車等で東京駅に到着したビジネスマンや旅行者などに重宝された。平成19年に、東京駅再開発工事のため閉店となった。
 今回は、スチームサウナを10分ずつ3回挑戦した。貧血を起こさないように、慎重に立ちあがる。お岩さんはこりごりだ。
 トルコ風呂とは、字義通りにはトルコ風の浴場という意味である。一般的には、中東でみられる伝統的な公衆浴場であるハンマームを指す。しかし日本では、個室付特殊浴場の名称としてトルコ風呂が使われていた。昭和59年に、トルコ人留学生の抗議運動がきっかけで「ソープランド」と改称された。それ以降、トルコ風呂は性風俗用語として用いられることは無くなった。
 トルコ風呂の名で伝えられたハンマームは、歴史的に男性社会から隔離され、顔を覆い自由に外出することを制限されてきた女性たちが、素顔を晒して集うことのできる場所だった。女性の社交場として活用された。オスマン帝国時代にトルコを訪れた西欧の旅行者たちは、女性がベールで顔を隠して浴場に赴く様を奇異と驚きの目で外国に伝えた。
 こうしたイメージが、ハンマーム本来の社交的な機能とは裏腹に、東洋の神秘的でセクシャルなハーレムに対する幻想と相まって、西欧社会にある種の誤解をもたらすこととなった。
 トルコにとっては迷惑な話である。ここはほっとプラザ、公営浴場である。マッサージをする女性はもちろんいない。マシーンマッサージを15分、うとうとと夢見心地になったところではい終了。
 日本に初めて紹介されたトルコ風呂も、こうしたオリエンタリズム的なイメージをもった西欧人のトルコ風呂である。中東では男性客には男性の垢すり師がつくのが原則であるが、日本を含む外国に紹介されたトルコ風呂では、しばしば女性の垢すり師がつくものと考えられていた。
 お隣の韓国では、日本のトルコ風呂に感銘を受け、自国でも同じようにこの種の性風俗店を誕生させ、「トッキータン(トルコ風呂)」と名づけて広まっていったという。人間の性的欲望は留まるところを知らない。
 再度、血圧を測る。120まで下がっていた。サウナ効果は抜群である。気を良くし、売店のおばちゃんからルピナスを1鉢買う。南米パタゴニアのルピナスの群生を思い出しながら、すっきりさっぱりいい気分で帰った。

平成31年2月22日

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 黒澤明監督映画「乱」の上映会と流山市在住の隆大介のミニトークが、流山市文化会館ホールで開催された。
 「乱」は、昭和40年に公開された日仏合作映画。監督は黒澤明、主演は仲代達矢。黒澤監督最後の時代劇であり、ライフワークと位置づけ、「人類への遺言」とした。架空の戦国武将・一文字秀虎を主人公にその晩年と、3人の息子との確執、兄弟同士の擾乱を描く。物語の骨格はシェークスピアの悲劇『リア王』であり、毛利元就の「三本の矢」の逸話も取り入れている。
 通常、「乱」とは武力を伴う内乱のことを言う。また、突発的な社会的事件は一般的に「変」と言うそうだ。しかし、「本能寺の変」や「加藤の乱」のような例外もある。
 それはさておき、流山市在住の隆大介は仲代達矢主宰の「無名塾」第1期生を経て、黒沢映画「影武者」の織田信長役、この「乱」の一文字三郎直虎役、他にNHK大河ドラマ「峠の群像」「飛ぶが如く」「平清盛」「軍師官兵衛」などに出演している。
 友人に誘われ、流山文化会館へ向かう。年配者を中心に、結構盛会であった。流山在住の隆大介の応援も兼ねてであろう。「乱」はかつて見たことがあるが、記憶はまだらである。
 「ドドドーン」という腹に響く太鼓の音と巻狩りで始まった。時は戦国時代、齢70歳の武将・一文字秀虎は、隣国の領主2人を招いた巻狩りの場で見たうたた寝の悪夢から、突然隠居することを言いだす。
 秀虎は「1本の矢はすぐ折れるが、3本の矢は折れぬ」と、3人の息子たちの団結の必要を説く。しかし、三男の三郎直虎は3本の矢を力ずくでへし折り、父親の弱気と兄弟衝突の懸念を責める。秀虎は激怒し、三郎とそれを庇う重臣の平山丹後(油井昌由樹)をその場で追放する。しかし、隣国の領主・藤巻(植木等)は三郎を気に入り、婿に迎え入れる。
 家督を継いだ太郎孝虎(寺尾聰)だが、正室の楓の方(原田美恵子)に「馬印が無いのでは、形ばかりの家督譲渡に過ぎぬ」と言われ、馬印を父から取り戻そうとする。そこで家来同士の小競り合いが起こり、秀虎は太郎の家来の1人を弓矢で射殺す。太郎は父を呼び出し、今後一切のことは領主である自分に従うようにと迫る。
 立腹した秀虎は家来を連れて、次郎正虎(根津甚八)の城に赴くが、太郎から事の次第を知らされていた次郎もまた、「家来抜きであれば、父上を迎え入れる」と秀虎を袖にする。秀虎は失意とともに、主を失って無人となった三郎の城に入るしかなかった。
 そこに太郎と次郎の大軍勢が来襲する。城は燃え、秀虎の家来や女たちは皆殺しにされる。どさくさに紛れ、太郎は次郎の家臣に射殺される。秀虎はひとり発狂した姿で、次郎の前をいずことも知れず立ち去る。
 夫を失った楓の方は次郎を篭絡し、次郎の正室である末の方(宮崎美子)を殺して自分を正室にと迫る。そんな時、父秀虎を引き取らんと、三郎率いる軍勢が国境の川を越えて現れる。続いて藤巻の軍勢も出現したため、次郎も出陣する。さらに三郎と次郎の両軍がにらみ合う場を見下ろすように、もうひとつの隣国綾部(田崎潤)の軍勢も現れる。
 三郎は秀虎を引き取るのに、夜を待とうとするが、秀虎の従者・狂阿弥(ピーター)から秀虎を見失ったと聞き、止む無く即座に動き出す。次郎はそれを追って、三郎を討ち取れと鉄砲隊に命じる。次郎の側近・鉄修理(井川比佐志)たちはまだ機は熟していないと諌めるものの、楓の方に焚きつけられた次郎は耳を貸さず、三郎軍に向って突撃命令を下す。
 その時、綾部の大軍が一文字領に侵入したとの報が入る。目の前の綾部軍がおとりであったことに気づく次郎。一方、三郎は正気を取り戻した秀虎と和解するが、次郎の手下に射殺される。それを見た秀虎は生きるすべを失い、絶望のうちに命絶える。燃え落ちんとする城に戻った次郎に、楓の方は自分の一族を滅ぼした一文字家が滅ぶのを、この目で見たかったのだと言う。炎の中で、一文字家は滅亡する。
 ピーターの狂阿弥役は理解に苦しんだが、楓の方役の原田美恵子と鉄修理役の井川比佐志の好演が光った。合戦シーンは大分九重の飯田高原で撮影されたというが、2日間のロケで1000人のエキストラと200頭の馬は圧巻だった。
 音楽担当の武満徹と黒澤は、制作に当たり激しく対立した。ダビング作業中に黒澤が武満の意向を確認せずに、低音を強調する指示を出したため、「黒澤さんの好きなように音楽を切り貼りしてもらって結構ですが、僕の名前はクレジットからはずしてください」と激昂し、事実上の降板を宣言してダビングルームを飛び出した。降板こそしなかったものの、「これ以後あなたの作品に関わるつもりはない」と言い、武満が関わった最後の黒澤映画となった。
 脚本家・橋本忍によると、脚本執筆の際に黒澤と共同脚本家の小国英雄は人物設定に関して激しく対立、大喧嘩の末、小国が執筆途中で降板したという。いずれも、激しい個性のぶつかり合いのもとに完成した「乱」であった。
 一文字秀虎の旗印は、太陽と月であったが、これは黒澤明の「明」を図案化したものである。黒澤は「秀虎は私だ」とも語っており、秀虎が黒澤本人を強く反映した登場人物であることを示す証拠のひとつでもある。

平成31年2月16日

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