暇人の戯言<Ocurrencias de un ocioso>

徒然なるままに、日ぐらし硯に向かいて、よしなし事を、そこはかとなく書いております

訪問記

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Bar「El Cruce」

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Bar「El Cruce」

 「今年は誕生会をどこでやろうかね」と、娘から電話があった。先日、お台場のスペイン・フェア「Felia de Abril」で貰ったパンフレットを思い出し、「スペイン料理はどうかな」と返事した。
 店は本郷三丁目にあるスペイン・バル「エル クルセ(El Cruce)」だ。名前の通り、本郷三丁目の交差点にある。本場スペインを彷彿とさせるお洒落な店内で、本場のスペイン料理をリーズナブルな値段で楽しめると書いてある。カウンター席とテーブル席が36席のこじんまりした店のようだ。
 段取りは全て娘が行った。丸の内線本郷三丁目駅で待ち合わす。息子はもじゃもじゃ頭に紫のパンツでやってきた。本郷通りは、溢れんばかりの人通りである。いったい何事かと良く見ると、東大「五月祭」だった。
 店に入ると、一番奥の予約席に案内された。5時開店というのに、あっという間に満席だ。スペイン人の店ではなさそう。可愛い女の子が忙しく応対していた。先ずは生ビールで乾杯。
 娘が「ママの誕生日と母の日を兼ねて」と、音頭を取る。我が家の鍋将軍である。確かにリーズナブルである。ほとんどの小皿料理が500円だ。小海老のリゾット、鮮魚のカルパッチョ、セビーチェ、アヒージョと片っ端から注文する。
 食べるのも早いが、飲むのも早い。エストレージャ・ガルシア、マオウ・ネグラというスペイン地ビールも注文する。日本のビールほどキレは良くないが、フルーティーで飲みやすい。普段はあまり飲まない息子が結構飲んでいる。タバコまで吸っている。「何だお前」と言うと、「いやいやこういう時だけ」と、無理やり否定していた。
 スペイン料理はイベリア半島の山の幸と地中海の海の幸を生かしたスペイン固有の料理で、2010年に地中海の調理としてユネスコの無形文化遺産に登録された。
 ローマ帝国時代に、オリーブオイルの製法とニンニク、小麦、豚がイベリア半島にもたらされ、スペイン料理の基盤が形成された。4世紀のゲルマン民族の大移動によって、ビールの原料となるホップが持ち込まれる。8世紀にはイスラム教徒によって米がもたらされた。また大航海時代には、新大陸からトマトやトウガラシが持ち込まれ食生活に影響を与えた。
 15〜17世紀のスペイン黄金期には、ハム、ソーセージ、バカラオ(鱈の塩漬け干物)、チーズなどの保存食が発展を遂げる。18世紀にかけては、カトリック化のため豚肉を推奨し、イスラム教やユダヤ教を追放した。18世紀のブルボン王朝成立後、フランスやイタリアの影響を強く受け、フォークの使用が一般化する。
 アルゼンチンワイン・マルベックを追加し、生ハムとチョリソー、チーズの盛り合わせを注文する。お喋りに勢いが付いたせいか、これもまたあっという間に平らげてしまう。続けて更に、スペインワイン1本と魚介のパエリアだ。
 いつもよりはワインが1本多い。大分アルコールが回ってきたところで、誕生日のローソクとカード付きのパステルにエラードが出てきた。娘の計らいである。かみさん感激。
 「五月祭のため混雑して申し訳ありませんでした。またお出でください」との爽やかな見送りを受け、店を出た。本郷通りはまだ混雑していた。東大五月祭は、大正12年5月5日に行われた第1回大園遊会が起源だという。目標を失った学生が罹るのが「五月病」だが、最近あまり聞かなくなった。
 スペイン人は朝食(Desayuno)、午前の間食(Merienda medía Mañana)、昼食(Almuerzo)、午後の間食(Merienda)、夕食(Cena)と、1日に5食採ると言われる。夕食時はもちろんだが昼食時にもワインを飲み、その後は昼寝(Siesta)である。食事と会話を楽しんでいる。
 酒には強いと自負するかみさんが、いつになく酔っていた。足取りがおぼつかない。娘の気配りに酔ったのか、歳のせいなのか。家に帰るなり、そのまま寝込んでしまった。
 翌朝、「呑みすぎたかな。気をつけなくっちゃ」と、反省の弁。最早68歳である。

平成30年5月19日

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神社と鉄道の街・大宮

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神社と鉄道の街・大宮

 さいたま市大宮は、古代には武蔵国の一宮である氷川神社の鳥居前町として、また江戸時代以降は中山道の宿場町として発達した。明治以降は街道の役割を終え、大宮宿は243戸まで落ち込む。衰退を阻止するため駅の誘致を進め、以後「鉄道の街」として発展してきた。
 昭和15年に、県内5番目の市制を施行し大宮市となる。東京近郊都市として人口40万都市に成長するが、平成13年に浦和市・与野市と合併し、さいたま市誕生とともに大宮市は消滅した。大宮の地名は「大きなお宮」である氷川神社に由来する。
 流山生涯学習・ゆうゆう大学OB会行事として、「鉄道博物館と氷川神社を訪ねて」が催された。参加者30人ほど。旗を先頭に武蔵野線経由で大宮へ向かった。
 かつて上野から青森に向かう東北線を建設する際に、高崎・前橋へ向かう路線をどこから分岐するか問題になった。最終的に、「日本の鉄道の父」と言われる井上勝の決断により大宮になった。鉄道の街・大宮駅の誕生である。
 埼玉新都市交通「ニューシャトル」に乗り換え、鉄道博物館へ。JR東日本創立20周年記念事業プロジェクトとして、平成18年10月14日の鉄道の日に開館した。愛称は「鉄博」だ。
 D51前で記念撮影をし、案内に従い鉄道ジオラマへ。幼稚園児に交じって説明を聞く。日本の鉄道は、新幹線に代表される「高速輸送」と、首都圏に代表される「高密度正確輸送」が特徴とのこと。観客は、高齢を代表する老人と少子を代表する園児たちのみ。園児たちとハイタッチしながらジオラマを出る。
 ボランティアガイドに案内され、館内を回る。150形蒸気機関車は明治5年にイギリスから輸入され、「1号機関車」と呼ばれる。島原鉄道社長・植木元太郎自筆の「惜別感無量」のプレートが装着されていた。
 7100形蒸気機関車は、明治13年に北海道鉄道開業に当たりアメリカから輸入され、「弁慶号」と呼ばれた。西部劇から抜け出たようなスタイルだ。目玉は、昭和12年から22年まで製造されたC57形式蒸気機関車「貴婦人」である。CやDは動輪の数を表し、因みにCは3、Dは4個の動輪だ。1号から12号までの御料車も豪華だった。やがて電化、そして新幹線へと続く。
 東海道新幹線のプレートには、「この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された」、東京−新大阪間515km、起工1959年4月20日、営業開始1964年10月1日と記されている。東京オリンピック開会10日前のことだった。
 日本からヨーロッパへの道「欧亜連絡ルート」という説明版がある。明治39年に幹線鉄道は国有化され、明治45年新橋−下関間を25時間、関釜航路で釜山へ、南満州鉄道、シベリア鉄道、ポーランド・ドイツ・フランス鉄道を経てパリまでの15日間を1枚の切符で行くことができた。
 新幹線ラウンジで弁当を食べる。この年齢のせいなのか、男女ともにコンビニ弁当が多い。東北新幹線を同じ目線で見られる絶好のロケーションだった。再びニューシャトルに乗り、次の目的地・氷川神社へ向かう。何人かは脱落し、大宮から帰宅した。
 氷川神社は、2400年以上の歴史を持つ日本屈指の古社である。武蔵一宮の格式を持ち、平安時代前期に朝廷がまとめた「延喜式」に大社と記された式内社だ。鎌倉時代以降は源頼朝や徳川家康という武士に、明治以降は皇室の尊崇が篤く、為政者から厚く遇されたという。
 関東一円の信仰を集め、280数社の末社を持つ官幣大社だった。大宮地名ゆかりの神社でもあり、「お氷川さま」として親しまれている。その参道の長さに驚く。中山道から南北に何と2劼眤海、「並木18丁鉾杉つづき」と歌われた。
 明治天皇の勅書や行幸絵巻が参道に掲げられている。「戦艦武蔵」の碑もあった。昭和17年8月5日に広島県呉で行われた竣工式には、氷川神社より6名の神職が出向き式を執り行い、艦内に氷川神社から分祀した「武蔵神社」が祀られた。
 「鉄道博物館と氷川神社を訪ねて」を無事に終え、大宮の歴史を垣間見ることができた。
 暑さのせいもあってか、けっこう疲れた。皆の顔つきも、少しずつ老けこんできているような気もする。次回はどうなっているか、老化のバロメーターにもなりそうだ。
 万歩計を見ると、16,000歩だった。

平成30年5月18日

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漁師町浦安

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漁師町浦安

 浦安はかつて旧江戸川の流れ込む境川に沿って、東京湾まで2000艘ものべか舟が行き交う猟師町だった。山本周五郎の『青べか物語』でも、昭和初期の「猟師町浦安」の様子を窺い知ることができる。
 千葉県北西部の葛南地域に位置する浦安は今や、東京ディズニーランドがあることで知られ、財政力指数では常に上位に位置し、きわめて豊かな市としても有名になった。ディズニーランド城下町と言っても過言ではない。
 現在の浦安市域は昭和中期まで、現在市川市の一部となっている旧南行徳町、旧行徳町と一体的に「行徳」と呼ばれる地域だった。初代浦安村長の新井甚佐衛門が、「浦(海)安かれ」との願いを込めて「浦安」が生まれた。
 『日本書紀』第3巻「神武記」の一節に、「昔、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)この国を名づけて曰く、日本は浦安の国」と記されており、浦安は日本(大和)の古称・美称でもあったという。
 浦安在住の友人に誘われ、猟師町浦安の足跡を訪ねて、東京メトロ東西線浦安駅で待ち合わす。駅から5分ほどのところに境川が流れている。説明版に「江戸川の支流で、浦安の中央を東西に流れ東京湾に注ぐ」と記されている。
 かつては1.7kmだったが、昭和40年の海面埋め立てにより3倍の4.8kmになった。江戸時代は境川の両岸に民家が密集して建ち、北側は猫実村、南側は堀江村として発展した。昭和20年代は川底が透けて見えるほど美しく、飲み水など生活用水として利用された。漁業を生業とした漁民にとって、境川は「海への玄関口」として重要な役割を果たした。しかし昭和46年漁業権を放棄し、猟師町の面影を失った。
 境川の袂に、浦安町役場の碑が立っていた。明治28年から昭和49年まで町役場があったところだ。そのそばに、猟師町を守り続けた「清瀧神社」がある。祭神は大綿積神、海路安全・漁業繁栄の海の神である。
 清瀧神社の真向いの路地が「フラワー通り」。現在は侘しい商店街だが、かつては「一番通り」といい、文字通り浦安で一番賑やかな繁華街だった。
 通りを入ってすぐに、旧宇田川家住宅がある。江戸中期に名主の家から分家した商家で、米・油・雑貨・呉服を商う。屋号を「藤村屋」と言い、幕末から明治に至る町屋の様式を残す市内最古の建物。
 旧宇田川家の少し先の境川沿いに、江戸末期築と言われる茅葺きの旧大塚家住宅が建つ。屋号は「兵左衛門」だが、「ショウゼムドン」と呼ばれた半農半漁の家だった。境川の氾濫に対応した貴重な造りである。
 このほか、フラワー通りには昭和4年に建てられた浦安初の洋風建築である旧濱野医院もある。それにしてもフラワー通りとは、無粋な名前だ。
 境川沿いの遊歩道にコースを変え、郷土博物館を目指す。昔の境川は漁船で埋め尽くされていたが、漁業権を放棄したのを機に猟師町の時代は終わった。しかし今も、浦安は釣りファンの間で人気がある。
 郷土博物館では猟師町の雰囲気が再現され、「べか舟」や「打瀬船」が浮かぶ。べか舟は海苔採取用の小型船で、板が薄くベコベコするのでこの名が付いたと言われる。その先には、船宿、漁師の家、海苔製造所、豆腐屋、魚屋、三軒長屋、天ぷら屋、風呂屋などが並ぶ。一番通りの名店だった「天鉄」も残されている。
 境川水門を過ぎ、浦安市役所を過ぎ、京葉線を超えるとやがて東京湾に出る。何が釣れるのか、釣り糸を垂らす太公望を数人見かけた。友人は暇な時、沖を通る貨物船を数えていると言う。
 浦安市の7割以上は埋立地で、日本のLAとも言われる近代的な住宅地に生まれ変わったが、かつては名所江戸百景「堀江ねこざね」に、境川を挟んで猫実村と堀江村が描かれている風光明媚な猟師町だった。

平成30年5月9日

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ノン太郎の高尾登山

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ノン太郎の高尾登山

 「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」山口素堂の句だが、ゴールデンウィークの真只中「こどもの日」に、目に青葉の高尾山へノン太郎を連れて、家族登山に出掛けた。
 手軽なハイキングには高尾山が人気だが、最近は外国人観光客も増えているそうだ。何しろ外国人旅行者向けガイド本「ミシュラン・ボワイヤジェ・プラチック・ジャポン」で、三ツ星の評価を得ている。
 高尾山は「わざわざ旅行する価値がある」東京名所として、外国人旅行者に人気とのこと。1日3万人が訪れるというが、最近は7万人を超える日もあるそうだ。
 かみさんが腕を振るった弁当とビール、飲み物をリックに詰め、ノン太郎を背負って、山ガール、山オヤジ、山の神が揃って、いざ出発である。
 京王線高尾山口駅は人でごった返していた。旗を持ったツアー客もいる。ケーブルカー乗り場は大行列。高尾山薬王院の石碑を左手に見ながら、最もポピュラーな1号路を登る。既に降りてくる登山客もいた。青葉の山道をゆっくりと登る。家族連れが多いが、確かに外国人客も多い。アジア系が増えているようだ。
 汗が背中を流れ始める頃、奉納杉壱万本の碑の隣に「六根清浄」石車がある。石車を回しながら手を合わせる老婦人がいた。六根とは、眼・耳・鼻・舌・身の五感と心を合わせた六感のことを言う。「六根清浄お山は晴天」、疲れてくるとこの六根清浄が、「どっこいしょ」に変わるそうだ。
 山道の両側に三六童子が立つ。童子たちは不動明王の従者であり、童子一人一人が1千万人の従者を率いているという。三六童子の名を唱えれば悪霊は退散し、崇拝するものを守護し、長寿をもたらすと言われている。しかし、その童子の名が分からない。
 突然、下からサイレンを鳴らしながら、2台のバイクが登ってきた。何事かと見ると、東京消防庁クイック・アタッカーと書いてある。赤色なので消防車なのだろうか。バイクの消防車は始めてだ。何か緊急事態が起きたのかもしれない。
 さる園の近くにタコ杉がある。タコの吸盤のような根が張り出しているのでその名が付いた。そのタコ杉の脇に「ひっぱりだこ」という愛らしいタコ像がある。名前に笑ってしまうが、高尾山人気のパワースポットだそうだ。
 浄心門を潜り、男坂を登って行くと、高尾山薬王院有喜寺だ。約1,300年前、聖武天皇の勅命で行基が開山した真言宗智山派の本山である。本堂前には天狗や烏天狗が立っている。
 行基が高尾山を開山してから600年後、荒廃した高尾山を修復し、現在のような寺院に改修したのが京都山城国醍醐山の俊源大徳だ。高尾山琵琶滝で修業した際に飯綱権現の霊感を得たことが、高尾山の飯綱権現信仰の始まり。高尾山と言えば天狗だが、天狗は飯綱権現の随身であり、高尾山の天狗信仰の起源になった。
 今回は浄心門を潜らず、右手に折れて4号路を進む。吊り橋「みやま橋」を渡る。新緑の中の吊り橋は気持ちがいいが、結構揺れる。細く急な山道を、娘やかみさんの批判を受けながら、息を切らして登って行く。ノン太郎も、足場の悪いところは抱っこである。高尾山も結構こたえる山になってきた。
 山頂は溢れんばかりの人、昼食の場所取りが困難なほどだった。弁当を広げ、冷え冷えの缶ビールをクーラーボックスから取り出す。「プシュッ」という心地よい音と共に乾杯。これが目的だ。山登りはあくまでも手段。呑み助家族によって作られた我が家の習慣である。
 熱いほどの好天だが、霞んで富士山は全く見えない。しかし高尾山に上ると、富士山に登ったと同じご利益があると言われる。昔、江戸城を造る際、風水により江戸湾から水の力、富士山から火の力を取り込む「龍脈」が、富士山から高尾山に繋がっていたという。
 帰りは渓流沿いの6号路を下る。葉陰に映る日光が、ダイヤモンドの輝きのようだった。俊源が修業した琵琶滝を通り、ケーブルカー清滝駅へ下りて行く。下山を終えた登山客たちが、緑陰で休息していた。
 ノン太郎もさすがに疲れたのだろう。籠の中で暴れることもなく、静かに眠っていた。疲れたのはノン太郎だけではない。我々も夕食は自宅近くのジョリーパスタに寄り、チーズフォンジューとピザ、そしてワインで、「ノン太郎の高尾登山」を締めくくった。

平成30年5月5日

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モボ・モガが見たトーキョー

 「モボ・モガ」とは、モダンボーイ・モダンガールのこと。大正から昭和にかけて、西洋文化の影響を受け、流行の最先端を取り入れた若者を指す言葉である。「モボ・モガが見たトーキョー〜モノでたどる日本の生活・文化」が、東京墨田区「たばこと塩の博物館」で開催されている。
 本展は「モボ・モガの時代」「昭和モダンの終焉と戦争の時代」「終戦、そして焼け跡からの復興」という流れで構成され、世界的な金融恐慌(昭和恐慌)、満州事変、そして太平洋戦争開戦へと進む激動の時代の変遷を、「時代を映すモノ」とともにたどる。
 当時の日本は産業化が進み、西洋的な生活スタイルが急速に一般化していった。その結果、大衆消費社会を迎え、多くの企業が「モダン」にこだわった商品デザインや広告を打ち出すようになり、東京がモダン都市として発展していくなかで、「モボ・モガ」が登場し注目された。
 そんなモボ・モガが見たトーキョーはどんなだったのか見たくなり、東京スカイツリーを真上に眺めながら「たばこと塩の博物館」へ向かった。
 正面入口に立つ煙草をくわえたシンボルモニュメントに挨拶し、入館する。この博物館は名前の通り、日本専売公社(現日本たばこ産業)が設立した。たばこは16世紀に伝来し、江戸時代を通して庶民文化に溶け込み、独自のたばこ文化が生まれた。塩は岩塩に恵まれなかった日本では、縄文時代以来海水を煮詰めるという独自の製塩技術が発展した。塩とたばこの歴史と文化を辿る常設展示室がある。
 モボ・モガ会場では花王の石鹸やシャンプーなどの生活用品から、「モボ・モガ」たちのファッションアイテムであったセイコーの腕時計、「みのり」や「響」などのたばこ、森永ミルクキャラメルやチョコレートまで、多彩な資料200点ほどが展示されていた。当時使用されていた商品から、その時代の空気感が伝わってくる。
 戦争の時代に入ると、慰問用に販売された「錦」、「よくあたる弾丸切手」のポスターなど。そして戦後の配給時代の花王石鹸、闇売り禁止のポスター、「金鵄」と「ゴ―ルデンバット」やレイモンド・ロ―ウェイがデザインした「ピース」が展示されていた。
 大正年間は、日本が連合国の一国として第1次世界大戦に参戦し、戦勝国と中立国両方の利益を得て好景気に沸いた。産業の発展が女性の社会進出を促し、「職業婦人」が加速度的に増加していった。
 上流階級の正装として高価で限定された従来の洋装が、購買力をもった職業婦人とともに若い男女に広がり、欧米先進国の流行や風俗を取り入れるようになる。
 この時期、大正デモクラシーの時流に乗って、男性に限られてはいるが普通選挙が実施され、大正自由教育運動により教育が徐々に一般庶民へ拡大し、伝統的な枠組にとらわれないモダニズムの感覚を持った青年男女らの新風俗が脚光を浴びるようになった。モボ・モガの誕生である。
 ボードビリアンの二村定一や喜劇俳優の榎本健一の歌「洒落男」にも、「俺は村中で一番モボといわれた男/そもそもその時のスタイル/青シャツに真赤なネクタイ/山高シャッポにロイド眼鏡/ダブダブなセーラーのズボン」とある。
 モガの服装は、ひざ下スカート丈のアッパッパ。クロッシュ(釣鐘型の帽子)にショートカット(ボブカット)、引眉、ルージュ、頬紅が特徴だった。フランソワ・コティの香水も好んで使っていた。
 しかし昭和10年代に入ると、世界恐慌の影響と満州事変から太平洋戦争へと進む中で、こうした華美な風俗は抑制されて姿を消していく。
 帰りに、第35回上野の森美術館大賞展入賞者展を覗く。知人の孫・柿沼宏樹氏の「Garden #5」が展示されていた。日動画廊には「Garden #6」があったが、Gardenはシリーズとして今後も取り組んでいくとのことだった。
 モボ・モガに象徴される大正ロマンは、一般大衆と女性の地位向上に目が向けられ、西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流行した。思想的にも自由と開放・躍動の気分が横溢し、都市を中心とする大衆文化が花開いた時代と言える。

平成30年5月3日

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