暇人の戯言<Ocurrencias de un ocioso>

徒然なるままに、日ぐらし硯に向かいて、よしなし事を、そこはかとなく書いております

訪問記

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明治憲法草創の地

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明治憲法草創の地

 横浜市の南端、京急金沢八景駅からモノレールで野島公園駅に向かって500mほど進んだ洲崎町交差点に、「明治憲法草創記念碑」が建っている。この辺りに東屋という旅館があり、ここで明治憲法の骨格が練られた。
 この碑は、明治20年(1887)から伊藤博文が金子堅太郎・伊東巳代治・井上毅とともに草案を練った記念碑である。野島公園内の「旧伊藤博文金沢別邸」にあったものを昭和62年に移設した。
 横浜在住の友人から「花見を兼ねて、伊藤博文別邸を訪ねてみないか」と誘われ、京急金沢文庫駅に向かった。流山からは2時間ほどかかる。10時に待ち合わせ、散策コースの概略説明を受け、まず「称名寺市民の森」へ向かう。
 落ち着いた静かな住宅街を抜け、称名寺市民の森の金沢山に登る。視界が開け、八景島や野島が見渡せる。金沢北条一門、北条実時公御廟に拝謁し、小山を降りる。桜が見事に咲いていた。
 阿字ヶ池に架かる反橋と平橋を渡ると、金沢北条一門の菩提寺・称名寺だ。茅葺の釈迦堂の前に、「称名の晩鐘」として知られる鐘楼。阿字ヶ池の回りには、樹齢800年という銀杏の古木が取り巻いていた。スケッチを楽しむ人も多い。
 南辺を限る赤門に、「真言律宗別格本山」の扁額が架かる。称名寺は承安5年(1175)、空海の創建と言われる。近くに北条実時が作った金沢文庫がある。現存する日本最古の武家文庫だ。今はモダンな神奈川県立金沢文庫になっている。
 海に出た。柴漁港だ。「小柴のどんぶりや」で、550円の天丼を食べる。アナゴの天丼がお勧めのようだったが、節約する。「海の公園」の人工海浜は、砂浜が広がり気持ちがいい。浜風に吹かれながら、野島公園へ向かう。国道16号が通っている。不思議だ。柏から千葉方面のはずだが・・・。
 国道16号は、横浜を起点・終点とする331kmの関東環状道路だという。横浜―八王子間は生糸を横浜港に運ぶシルクロード、横浜―横須賀間は海軍施設へ繋ぐ軍事輸送ルートだった。横浜を起点に、八王子、大宮、柏、千葉、木更津、横須賀を経て横浜に至る半径30kmの環状道路だったのだ。知らなかった。
 漸く、野島公園にある「旧伊藤博文金沢別邸」に到着した。明治31年(1898)に建てられた茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築だ。松林の中、前は海、心が和む。客間「帰帆の間」で抹茶を頂く。伊藤の心境に、暫し想いを馳せた。
 伊藤は天保12年(1841)周防国(山口県)で、百姓の林十蔵・琴子の長男として生まれた。幼名は利助だった。12歳の時、父十蔵が萩藩の中間・伊藤直右衛門の養子となり、以降伊藤姓を名乗る。松下村塾に学び、初代内閣総理大臣に就任。初代韓国統監を経て、明治42年10月26日、中国黒龍江省ハルピン駅で安重根に射殺され、68歳の生涯を閉じた。
 客間に、「幕末の密留学・新しい日本の国づくりのために選ばれた五人の若者」という額が掛かっていた。「文久3年(1863)横浜港から5人の若者が英国へ向かった。井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、井上勝、伊藤博文である。井上馨が『ネイビー』と言うべきところを『ナビゲーション』と間違え、ケスウィック号の船長は航海術の研修と解釈し、ロンドンへ向かう。130日後、秋の気配が漂う倫敦に到着した」と、『日英交流四百年』の記述が記されていた。後に、この5人を「長州五傑」と呼ぶ。
 野島公園展望台に登る。小山だが海抜0mから登るので、結構きつい。有酸素運動には最適だ。今度は、海側から金沢八景の街並みを見下ろす。山並みも見える。正に「緑と海のまち」である。
 帰り道、「海抜と標高はどう違うんだ」と疑問を投げると、横浜の友人は早速スマホで、しかも音声で「海抜と標高の違い」と問い合わすと、音声で返ってくる。すごい時代になったものだ。意味するところは同じだが、一般的に海辺では海抜、山の方では標高と言うようだ。
 博文は、「余を以って秀吉を見れば、彼は畢竟、一個無学の好漢に過ぎない」と言ったという。暮らしぶりは無頓着だったが、無類の女好き、特に芸者好きだったようだ。幼名利助から俊輔へ、そして春輔、最終的に「春畝」と号した。
 海あり山あり史跡あり、そしてお喋りあり。春爛漫の横浜金沢区を満喫した。

平成29年4月7日
須郷隆雄

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奇想の誕生「雪村」

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奇想の誕生「雪村」

 戦国時代の奇想の画家「雪村展」が、東京芸大美術館で開催されている。首の骨が折れるくらいに仰ぎ見る顔から、斜め上に向かってピンと伸びる長いヒゲ。足元を見れば、ギョロッとした目つきの龍。「呂洞賓図(りょどうひんず)」に描かれる場面は、奇想の誕生を思わせる。
 伊藤若冲、會我蕭白、歌川国芳など「奇想の画家」が大ブームを巻き起こしている今こそ、元祖「奇想の画家」というべき雪村の破天荒で大胆、繊細な作品の数々が我々を魅了する。「ゆきむら」ではなく「せっそん」ですと、副題がついていた。
 水墨画にのめり込んでいる友人に誘われ、上野駅に降りた。上野公園は花見客で大変な人出だった。雪村の主要作品100点と関連作品30点ほどが展示されている。奇想天外な絵が並ぶ。
 雪村周継(せっそんしゅうけい)は戦国時代の画僧。常陸国佐竹氏一族の武将の長男として生まれながら、出家して画業に専心し、関東各地を放浪する。故郷である茨城や福島、神奈川など東国各地を活躍の場とし、その生涯は未だ謎に包まれている。革新的で、人間味あふれる温かな水墨画を描き続けた、ということだけは確かだ。雪村の作品は尾形光琳らを魅了し、狩野芳崖ら近代の画家たちへと受容された。
 雪村は雪舟に私淑し、今や「西の雪舟」、「東の雪村」と言われる。「電力王」松永安左ヱ門や「マネジメントの父」ピーター・ドラッカーも、雪村に魅せられたという。
 画僧として生きた常陸時代、独創的な表現を確立した小田原・鎌倉滞在、雪村芸術の絶頂期だった奥州滞在、晩年の三春時代と、時代を追って展示されている。正確な記録はないが、86歳まで絵筆を振っていたと言われる。
 奇想の画家「雪村」に別れを告げ、美術館前の岡倉天心に挨拶し、芸大を出た。まだ三分咲きだろうか、木ごとに咲き具合が異なる。春暖に誘われ、不忍池はボートで満杯。露店も所狭しと、商売を競っていた。どこもかしこも外国人が多い。
 少し足を延ばし、横山大観記念館へ寄る。「春を迎える」と題し、「春園の月」「霊峰飛鶴」「牡丹」などが展示されたほか、習作やスケッチが多かった。3か月ごとに展示替えが行われる。絵に詳しい気品のある老人客から、色々とご教示を頂いた。
 大観は晩年、第34回院展に「被褐懐玉」を出品している。被褐懐玉は、襤褸(ぼろ)を纏っていても懐には玉を抱いているという意味。老子の言葉だそうだ。寒山拾得図を踏まえた、水墨のみによる枯淡な作風の作品である。「ぼろは着てても、心は錦」ということか。
 京風数寄屋造りは心和む。箱庭もさることながら、囲炉裏がいい。玄関前の水瓶に赤めだかが泳いでいた。メダカは絶滅したかと思っていたが、元気だった。「水瓶や 藻草の中の 赤めだか」
 上野の山と不忍池の間、弁天堂近くに西条八十作詞「かなりや」の歌碑がある。足を止める人は少ない。東京には、意外に童謡の歌碑が多い。浅草寺境内には「鳩ぽっぽ」、渋谷の小田急線代々木八幡駅そばに「春の小川」の歌碑がある。「たきび」のモデルとなった垣根は、中野区上高田の民家に現存し、家主が自費で守り続けているという。
 花見気分の人込みをかき分け、「歌を忘れたカナリヤは うしろの山にすてましょか」と口ずさみながら、上野公園を後にした。
 それにしても、「せどのこやぶにうめましょか」とか、「柳のむちでぶちましょか」とか、けっこう残酷な歌詞である。

平成29年3月30日
須郷隆雄

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出雲風土記の道

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出雲風土記の道

 出雲と言えば、神々の国、出雲大社を思い出す。祭神・大国主命は、国譲り神話や縁結びの神として知られている。しかし、今回は『出雲国風土記』の話である。
 出雲という国名の由来は、雲が湧き上がる様子を表した語「稜威母(イズモ)」だという。出鉄(いづもの)から来たという説もある。出雲国風土記は和銅6年(713)、元明天皇の命により天平5年(733)に完成し、聖武天皇に奏上した。日本全国60数か国で作られた風土記の中で、完本として残るのは出雲国風土記のみだという。
 風土記の中に「古代の道」の記録がある。けもの道ではなく、インフラとしての道である。歴史学者と考古学者では、道に対する意見が分かれる。歴史学者は、倭・百済連合軍が唐・新羅に敗れた663年の「白村江の戦い」以降とする。国防の道が必要になったため。考古学者は、701年の大宝律令の制定による律令国家の成立によるものとする。人・モノ・情報が行き交う道と交通システムが必要になったためだ。
 大宝律令は藤原不比等らによって、大宝元年律6巻・令11巻に纏められ、翌年藤原京で施行された。文武天皇の時だった。聖徳太子による645年の大化改新に端を発し、天武天皇の勅命により681年に編纂が始まった。
 律令国家とは言うまでもなく、律令を統治の基本法典とした国家のことである。中国の隋・唐で確立し、周辺諸国に波及した。日本では大宝律令の成立を持って完成する。整然とした官制の下、班田収授によって人民に一定の耕地を給する代わりに、租・庸・調・雑徭などを課し、更に良・賤の身分の別を定めた。中央は太政官を頂点とし、地方は国・郡・郷の行政区分が置かれ、それを繋ぐ道路も整備された。律令国家は、荘園制が進展し、公地公民制が破綻する10世紀ごろまで続いた。
 島根大学による「『出雲国風土記』と古代の道」と題する「古代出雲文化フォーラム后廚、一ツ橋ホールで開催された。『出雲国風土記』に記された、人と人、地域と地域を結ぶ古代の道を切り口に、道路から歴史の関わりを検証した。
 律令国家の制定により、初めて「日本」という国号を持ち、天皇を君主とする国家が成立した。国・郡の行政区分に分け、官僚と文書による支配体制が出来、中央から派遣された国司が地方を統治した。調庸などの貢納物(モノ)と労働力(ヒト)を都(中央政府)に集める体制が作られた。国家と社会を成り立たせるため、ヒト・モノ・情報が行き交う道路網が整備された。
 畿内と地方を結ぶ道は、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の7道があった。官道には駅家、郡に伝馬が設置された。「日本全国の道は都に通ず」である。
 出雲国風土記に、山陰道を正西道、国府と郡家を繋ぐ道として枉北道と正南道が記されている。『但馬国正税帳』や『播磨国風土記』に、人物往来の様子の記録がある。北陸や隠岐に続く海の道、中国北東部の渤海使節の往来の道もあった。
 出雲国と都を結ぶ正西道(山陰道)には6駅が置かれ、馬や食事を提供し、宿泊施設としても機能した。古代の道は、幅が狭く曲がりくねっていたと思われがちだが、発掘調査によって幅は広く直線道だったことが分かった。幅は9〜12mと広く、国家の威信と大量の軍隊を迅速に移動させることにあったという。
 越中国司・大伴家持は、「春の日に 張れる柳を 取り持ちて 見れば都の 大路し思ほゆ」と詠み、平城京には柳が街路樹として植えられていたことが分かる。出雲国内の山陰道にも、柳や槐花が植えられていたであろうと言う。
 杉沢遺跡の発掘調査により、平成25年に道路遺構が新たに発見された。丘陵尾根上を平坦に造成し、両側溝を設け、9m幅1kmに及ぶ道路跡が確認された。道路中央には水はけを良くするための波板状凹凸面も確認されている。
 しかし、律令国家建設の下、長安に倣った権威と国防を兼ねた幅広く直線的な道路は、荘園制の進展とともに律令国家が衰退する平安時代には、道路幅は6m程度に狭くなった。
 島根県の最西端、津和野へ、山口からちょろっと入ったことはあるが、鳥取県と島根県は唯一訪れたことがない。鳥取砂丘と島根の神々を訪ねて、一度行ってみたいと思う。
 古墳や発掘など考古学には無縁だったが、道と歴史という視点から考えると、面白いテーマであった。島根県をちょいと身近に感じた。

平成29年3月19日
須郷隆雄

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東伊豆・岬めぐり

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東伊豆・岬めぐり

 昨年11月に予定していた家族旅行が、何年振りかの大雪で中止になり、どこへ行くか考えあぐんでいた。結局、雪の心配がない伊豆ということになった。娘の計らいで、東伊豆・北川温泉に決まった。
 洗車済み、ガソリン満タン、天気晴朗、ノン太郎をペットホテルに預け、家族4人、9時快調に出発する。首都高速から東名に入る。順調に進む。運転は娘だ。いつものように、海老名サービスエリアで休憩。買い物好きの女2人、食べもしないものを衝動買いし、コーヒーを持って帰ってきた。
 厚木小田原道路を予定通りに走る。右手に富士山が、くっきりと聳えていた。相模湾を左手に、国道135号をひたすら南下する。城ケ崎に立ち寄る。城ケ崎ピクニカルコースを歩く。
その昔、大室山の噴火で流れ出た溶岩が、これら無数の岬を作ったという。海の向こうに大島が見える。3kmほどのピクニカルコースを散策する。地上24.9mの門脇崎灯台が見えてくる。星野哲郎作詞の「雨の城ケ崎」の歌碑が立っていた。「元気出せよと抱きしめる あなたの向こうに大島が かすかに浮かぶ門脇岬」
 程なく岬第一の景勝地、門脇吊橋である。高さ23m、長さ48m、スリル満点だ。「キャーキャー」という悲鳴が聞こえる。確かに、下を見ると足がすくむ。袂にまた、星野哲郎の「城ケ崎ブルース」の歌碑があった。絶景である。しかし、ここには「半四郎落し」という悲しい物語が残っている。
 「むかし、この城ケ崎にほど近い富戸村に、半四郎とおよしというたいそう仲のいい夫婦がいた。ある日半四郎は、ひとり海へトジ刈りに出掛けた。籠に一杯のトジを背負い、岩場で休んでから家に帰ろうと、疲れた腰を伸ばした瞬間、背中のトジに引かれ、あっという間に海へ落ちてしまった。知らせを聞いたおよしはたいそう悲しみ、ここへきては立ち尽くし、涙を流す日が続いた。以来ここ城ケ崎一帯には秋になると、およしの涙にも似たイソギクの花が咲くようになった。いつの頃か村人たちは、ここを半四郎落しと呼ぶようになった」。トジとは、漆喰壁に使う海藻のこと。「トジ刈りや およしの涙 磯菊の花」
 半四郎とおよしに想いを馳せながら、今夜のお宿「望水」へ向った。車を預けると、「洗車しておきます」と言う。サービスが行き届いている。ロビーは何と、最上階の8階だった。下って1階は波打ち際である。崖の斜面に立ったホテルなのだろう。
 とりあえず風呂だ。噂の北川公営の波打ち際露天風呂「黒根岩風呂」へ。混浴だ。心躍らせ向かう。女性専用もあり、混浴には夫婦連れが2組入っていた。海と同じ目線の掛け流し。潮風を浴び、波しぶきを感じて、大島を目前にした海抜0mの解放感は、何とも言えない。「波の音 月影落し 黒根の湯」
 ホテルに戻ると、ところてんが用意されていた。まだ夕食までには時間がある。石造りの大風呂「石楠花の湯」へ。相模灘を独り占めである。「ナトリウム・カルシウム―塩化物温泉」とかで、毎分300リットルの湧水量を誇る84.3度の高温泉。無色透明で、わずかに塩気を感じる。
 夕食はやたらに品数が多く、記憶に残ったのは石焼「鮑蒸し焼」だった。鮑がのたうつ様は、ちと残酷すぎる。ビール1杯、芋焼酎1杯で出来上がり。娘たちはその後ラウンジでワインを飲んでいたが、1人オレンジジュースで酔いを醒ました。
 早朝、大島に昇る朝日をパチリ。「お父さんのいびきがうるさかった」という非難をよそに、檜造りの大風呂露天「椿の湯」へ。椿が真っ赤に咲いていた。続いて、ホテルが特別に用意してくれたプライベート露天「浮舟」は素晴らしい。誰にも邪魔されない個室風呂から、相模灘に昇る朝日を独り占めである。「朝露天 相模の海を 独り占め」
 東伊豆の漁師は子供の頃、「音に聞こえし神津島 三宅御蔵は八丈に近し」と数え歌のようにして、水平線に並ぶ伊豆七島の名前と並び順を覚えたという。「お」は大島、「と」は利島、「に」は新島、「し」は式根島、そして神津島だ。見えないがその先が三宅島、御蔵島、八丈島である。
 朝食を済ませ玄関に行くと、洗車された車が待っていた。今日も晴天、国道135号を北上する。相模灘に突き出た真鶴岬に寄る。マツやクスノキ、スダジイなどの巨木に覆われた「魚つき保安林」は、魚が寄り付く森として、地元の人は「お林」と呼んで大切にしている。
 「わが立てる 真鶴崎が 二つにす 相模の海と 伊豆の白浜」なる与謝野晶子の歌碑があった。真鶴町立遠藤貝類博物館の芝生に「チャコ」という三毛猫がいた。写真家・岩合光昭氏のモデルになった名物猫だ。暫しお相手をする。
 浜辺へ降りて行く途中に、「撮っていいのは写真だけ 残していいのは足跡だけ 良い思い出を」というマナーの触書があった。200m続く岩礁の先に「三ツ石」がある。どう見ても二ツ石としか思えない。
 真鶴魚市場「魚座」に寄るが、不漁で休み。食事も期待外れ。カレーかラーメンにしておけば良かったと、無念の気持ちで帰途に就く。ノン太郎が待ちくたびれて、声をからしていた。
 家に着くと、TBSテレビの「バナナせっかくグルメ」で、行ってきたばかりの露天風呂「黒根岩風呂」を放映していた。
 風呂三昧と東伊豆岬めぐりで、今年度の家族行事は全て無事終了した。

平成29年3月11日
須郷隆雄

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西郷はなぜ西南戦争に犬を連れて行ったのか

 「西郷の出陣の理由は、政府の『西郷暗殺計画』を政府に尋問することにあった。個人に関する尋問は私事。内戦を起こす気はなかった。政府や天皇に弓を引く戦争ではないとのメッセージを込めて、犬を連れて行った」と、作家の仁科邦男氏は語る。
 仁科氏は千葉県柏市在住の作家である。元毎日新聞記者で、「サンデー毎日」などで事件を追っていた異色の作家だ。現在、ヤマザキ学園大学で「動物とジャーナリズム」を教えている。雑誌「動物文学」に、「江戸時代に信州の犬が一匹でお伊勢参りをし、飼い主の元に戻った」という記事を見つけたのが、犬と歴史の関わりを調べるきっかけになったという。犬を通して歴史を語る。『犬のお伊勢参り』や『犬たちの明治維新』などの著書がある。
 仁科氏の講演会が、柏市立図書館の主催で開かれた。演題は、「西郷隆盛はなぜ犬を連れて西南戦争に出陣したのか〜愛犬家の謎〜」である。話は四方八方へ飛ぶが、田原坂など民謡・俗謡も交え、実に楽しく異色の講演会だった。
 西郷は坂本龍馬や大久保利通らと共に明治維新の中心的役割を果たし、明治政府では参議や陸軍大将を務めた。明治6年(1873)に政府内で起きた征韓論争の中で、特命大使として朝鮮に派遣されることになるが、岩倉具視らの反対を受け中止になった。
 西郷が郷里の鹿児島へ下野した4年後、新政府に不満を持つ士族が、西郷を担いで反乱を起こす。それが近代日本最大で最後の内戦、西南戦争だった。
 しかし、西郷は戦を桐野利秋(中村半次郎)らに任せ、暇さえあれば猟犬を連れて、兎狩りに出かけていた。官位剝奪を伝えに来た政府の使者も狩りに連れて行き、兎汁をご馳走したという。 
 その官位剥奪の伝令に来た上村直が、「今日の参上は、鹿児島県庁の使者として」と言うと、西郷は身を礼装に改め、東方に向かって拝礼し辞令書を受け取った。もちろん拝礼する相手はただ一人、明治天皇であった。
 西郷は明治10年2月17日に出陣し、3月20日田原坂陥落。4月22日人吉へ撤退。8月16日延岡で犬を放ち、軍服を焼く。9月24日城山で自刃、49歳8か月だった。
 愛犬家として知られた西郷は、13匹の犬を飼っていたと言われるが、西南戦争に何匹の犬を連れて行ったかは不明である。司馬遼太郎の『翔ぶが如く』では、「長井村(延岡市)の民家の庭で陸軍大将の軍服を燃やし、2頭の犬を放った」を引用している。
 海音寺潮五郎は『西郷隆盛』の中で、「賊徒西郷隆盛は六月三十日、人吉を出発し、米良に至る。かすりの着物に博多の帯、金づくりの刀を持ち、愛犬四匹を携え、駕籠に乗り、前後十人ばかりの護衛兵を付けたり」を引用している。3匹説もあり、謎に包まれている。
 明治天皇は西郷の死後、皇后や女官に西郷を偲ぶ歌を詠ませ、西郷と同じように猟犬を飼って狩りを始めた。皇后は、「薩摩潟 しつもし波の 浅からぬ はじめの違い 末のあわれさ」と詠んでいる。
 後に天皇の特旨で「賊徒」の汚名がすすがれ、上野公園に銅像が作られた。「天皇は、一度は西郷の朝鮮派遣を認めながら撤回し、結果的に西郷を死に至らしめたことを悔やんでいた」と、仁科氏は語る。
 西郷には写真がない。素顔を知る人は殆んどいない。西郷の顔は、想像で描かれている。西郷のいとこ大山巌陸軍大将が、「赤シャツ隊を率いて祖国統一のために戦った、イタリアの英雄ガリバルディの銅像のようなものを作ろう」と発案し、高村光雲が製作した。しかし陸軍大将の軍服姿にクレームが付き、筒袖、兵児帯、わらじ履き、犬連れの姿になった。西郷の愛犬「ツン」は、実物より大きく作られている。
 島津久光の怒りを買い、徳之島や沖永良部島へ流された西郷は、エルバ島やセント・ヘレナ島に流されたナポレオンが好きだった。境遇を重ね合わせたのだろう。南北戦争を戦ったリンカーンも好きだった。
 西郷どんは不滅である。ほうき星(蜂起星)となって世を照らしている。インドやロシア、中国で生きている。義経が蒙古に渡り、ジンギスカンになったと同様に、悲劇の英雄は死なせたくないものなのだ。
 「ふたつなき 道にこの身を 捨小船 波たたばとて 風吹かばとて」、西郷の辞世の句だ。来年は明治維新から150年。それに因んでか、NHK大河ドラマは「西郷どん」である。

平成29年3月4日 
須郷隆雄

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