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年表作成から始まったボノのアフリカへのまなざしを追う試みは、5月31日のスライド・トークで一応の区切りを見ました。正確に言うと、5月29日夜、すべての原稿が出来上がったところでワタシの作業は終わっていたのですが。 TICADに関してはほぼ後追いになりました。 外務省の本会議も、OurPlanetTVの市民社会セッションも中継は見られず、29日の山下公園も、31日のMTVも、あとでニュースを読んだり動画を見たり。 ボノが日本にいるというのにネットで追っかけかよと、少し面白かった。 でも、事が終わってから検索をかけたおかげで、ボノの行動・発言とともに周囲の反応を見ることもできたのは、もしかしたらよかったのかもしれません。 31日の原稿を作る際に、『ボノ・インタビューズ』と『U2 BY U2』を駆け足で読み直しました。ということはまあ、2冊の本を読めば少なくとも2005年までのボノのことは誰でも終えるということなんですが、それはさておき。 気になった記述(発言)が『ボノ・インタビューズ』の中にありました。 や、気になってたことの裏付けか。見逃してた、気に留めてなかっただけで、ずっとそこにあったんだし。 第15章(p375)の冒頭、インタビューに入る前のミーシュカの記述から、それは始まっています。 何かというとアフリカに関する「ボノの不在」について。 アフリカに注がれるボノのまなざし #1の最後に書いたように、ボノとアフリカの間には数年間の空白があります。 訪問としてなら1985年から1998年(Popmart Tourのヨハネスブルク公演)、実に13年間ですが、関わりとしても1988年の『A String Of Pearls』(エチオピアの写真)出版・展覧会、またはエイズ救済のチャリティアルバム『Red Hot and Blue』へのU2としての参加("Night And Day"カバー)を最後に、再びアフリカに関わるのに1997年のJubilee 2000からのオファーを待たなければなりませんでした。 年譜を辿りはじめてすぐ、この空白に当たりました。 『Red Hot and Blue』リリースから数えても、7年間。その間、ボノとアフリカの関係はどうなっていたんだろう。 その答えが、『ボノ・インタビューズ』の第15章にあったというわけです。 ミーシュカはボノに問います。アムネスティやグリーンピースと仕事はしていたけれど、アフリカは君の議題ではなかった。実際は心のどこかにあったのか。 「悲しいことに答えはノーだよ。少しなら考えたけど、たっぷりじゃない」(p393)。 それはなぜなのか。 その数ページ前、ミーシュカの章を始める文の中に、ボノの答えがありました。 「ああした問題の幾つかを解決する名案や革新的なアイディアが見いだせなかった」。 ボノのいう「ああした問題」は、援助する側される側双方の政府の腐敗、今でも苦手な分野だという紛争(それも現在とは比べ物にならないほど多くの)、つまり、どれだけ援助の手を差し伸べても必要な場所には届かないし、どれだけお金を集めても借金の利子さえ返せずに終わってしまう、あまつさえ借金は増え続けるという、当時のアフリカの現状でしょう。 ボノはボランティア団体に招かれてエチオピアに行き、その活動に身を投じたわけですが、同時にそれが焼け石に水を振りかけるようなもので、アフリカを救うことには繋がらないということを思い知るわけです。 「戦略もなしに、大げさに同情をひけらかすだけで延々とやりたくはなかった」から、アフリカ問題を身辺から遠ざけたのでしょう。ある種の絶望を、ボノは感じたのだと思います。 時をへて、Jubilee 2000がボノの前に現れ、変化の兆しが現れつつあることを告げたとき、ボノがまずやったことは、アフリカと経済の勉強でした。
あの時には全く見当たらなかった「戦略」が、ジェフリー・サックス教授を初めとする教師の手によって、ボノの前に提示されます。さらにアフリカのために身を粉にして立ち働く無名の人々を見たとき、ボノの絶望は追いやられ、再びアフリカに向き合うことができたのでしょう。 つまりボノの中ではもはや、「アフリカに対して力を注ぐことは無駄」との言質は乗り越えられているのです。 |
U2とアフリカ
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