|
書きあぐねていたのは、死にゆくボブ・ヒューソンを歌ったこの歌について考えるという行為が、あまりに痛みを伴うものだからだ。
ワタシは親しい人の死に直面するということにおいて、あまり経験値の高い方ではない。だから、これがいったいどんなできごとにまつわる記憶なのかわからないのだけれど、確かに、ボノが歌う場所にいたことがある。
誰かが死んだときだっただろうか。
何かをなくしたと思ったときだったろうか。
昨日までと同じ世界の営みが繰り返される日常のなかで、自分の心の痛みをどう処理すればいいのかわからないまま立ちすくむ。
寄る辺ない子どものような、誰かの庇護を求めるような孤独。ほんの一瞬後に何をすればいいのか―歩き出せばいいのか、振り返ればいいのか―すらわからない焦燥感。
せわしい足取りで行き交う人も、楽しそうに談笑する人も、触れそうなほどそばにいるのに、彼らとワタシの間にはひんやりとした透明な壁がある。
映像で言うなら、ワタシだけが静止していて、周りの風景が早送りになってるような。例えば渋谷駅のスクランブル交差点で。
(あ。PVであったな、それ。なんだっけ〜。
レストランだかパブだかでボノが歌ってて、向かいや隣に座る人がどんどん入れ替わるヤツ。思い出せない。)
世界と自分の進む速度が違う。それは自分が置き去りにされているということだ。痛みにとらわれて。
もちろんちゃんと生活に戻ることはできる。何も考えなくてもオートマチックに暮らしていける。
でも、ふとした拍子にまた引き戻されてしまうんだ。
何かを見たとき、何かを聞いたとき。痛みとは一見なんの関係もないようなことまでが、スイッチになりうる。
その繰り返しに慣れてしまえば再び日々を過ごせるようになる。
でも、もう、知っている。いつかまたその瞬間が訪れることを。フラッシュバックに不意に襲われ、寄る辺ない子どもに戻る自分を。
|
上記のPVですが、『POP』聴いて思い出した。"If God Will Send His Angels"だった。ボノも早送りなんだけど、歌だけが普通のテンポで歌われてる。
2005/3/29(火) 午後 10:33