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8月以来延々と藤沢周平を読んでいる。以前読んだものも含め、家中の藤沢作品をかき集めて山積みし、端から読み散らかしている。
もう残り少なくなってきたので、この上はブックオフに買い出しに行くかと思っているのだけれど、執着の理由はたぶん65%にあるんだろう。
今読んでいるのは明治期の歌人・長塚節(ながつかたかし)について書かれた『白き瓶 小説 長塚節』。
長塚節は正岡子規の正当後継者といわれる歌人で小説家だけれども、名前を知っているだけで短歌小説問わず今までその作品に触れたことはたぶん一度もないし、『白き瓶』にでてくる歌以外は今後読むこともないんじゃなかろうか。
要するに藤沢作品だからという理由だけで読んでいるわけで、ここでも別に長塚節の紹介などする気はさらさらない。
まくらまくら。
いやまあ、枕と言うほど無関係なわけでもない。
昨夜だか今朝だか読んでいた部分にちょっと心惹かれて、というのもそれから連想するのが(例の如く)ボノだったりしたものだから、ちょっと落ち着いて考えてみようと言うしだい。
ここのところU2ニュースを追うのもなおざりだけれど、相変わらず思考の中心にはボノがいることに変わりなく(だからビルマなわけだし)、あまりにも思考でのみぼんやりと関わっていることに危惧を感じたりもしている。
そんな危惧は今更なんだけどね。そもそも公正な、客観的な視点でもってボノを見ようとは望みも試みもしない立場であるからにして。
正岡子規は(ってそこまで戻るか)弟子である長塚節に対して「見ているものを読め、想像はいけない」てなことを言ったらしい。それは節にとって戒めであるとともに「写生歌」という道を照らす明かりでもあったようだ。
友人の伊藤左千夫(『野菊の墓』)に「写生なんてのは美術の世界の話で言葉を用いてできることじゃない。君のやっているのは写実だ」とか何とか言われつつも子規の言葉を頼りに道を拓いていく。
んで、その端緒に辿り着くのが30才くらいらしいんだけど、そのことについて書かれた文章にボノを思い出したわけだ。
一部抜粋。
(前略)物そのものだけをうたったわけではなかった。それらの自然を媒体にして、そこに見え隠れする初秋をうたったのである。その方法で、この一連の作品を得たとき、節はそれとは意識せずに、あるいは空想と思い誤ったままに、現象から一歩踏み込んだ場所にある世界を象徴的に表現することに成功したのであった。いわば物を直視して背後にある物まで詠んでしまったのである。
(『白き瓶』p.127)
このあたりの文章と、ここで取りあげられている歌から受ける「感じ」から、ボノのことを連想したのだ。
わかりにくいけど、わかりやすい例では"Beautiful Day"。
この歌でワタシが最も好きな以下の部分(といつものなんちゃって訳)。
See the world in green and blue
ご覧、緑と青のこの世界
See China right in front of you
目の前には今まさに中国が広がり、
See the canyons broken by a cloud
峡谷は雲に分かたれている
See the tuna fleets clearing the sea out
ご覧、海原を走り抜けるマグロの群を
See the bedouin fires at night
砂漠の夜、ベドウィンたちのたき火を
See the oil fields at first light
曙光に輝く油田の広がりを
And, see the bird with a leaf in her mouth
そうして、ご覧、小鳥が飛んでいく
口元に希望を携えて
After the flood all the colours came out
地を洗い流した洪水が退けば、
すべての色が鮮やかによみがえるよ
ボノは「ご覧」と呼びかけているわけで、そこはまったく長塚節の歌とはありようが違うんだが、「目に見える物、現象」をただ羅列しながら、伝わるのはその情景に託されたもっと別のものであるという点が、すごく似ていると思ったのだ。
この場合、枝をくわえた小鳥や洪水といったキリスト教的モチーフはもちろん象徴性を表す装置として機能しているけれど、その部分だけではなくてむしろマグロだとか油田だとか、単語としてはまったく詩的でない言葉こそが詩に力を与えているように思う。
この詩を書いているボノの目の前にマグロやベドウィンがいるわけじゃないし、洪水が起こっているわけじゃない。「ごらん」と言われてもボノが隣にいるわけじゃない。
「ワタシたちは一緒にこの世界に広がる光景を見ているんだ」という詩だと、ワタシは思う。
「the world in green and blue」、つまりはこの青い惑星の上に生き、ボノの声が届く場所にいるからにはTVやインターネットで世界の状況を知ることもできるだろう人々に向かって歌いかけているんだと。
事実、上げられた光景のうちワタシが実際に見たことがあるのは枝をくわえた小鳥ぐらいなものだろうけれど、峡谷に横たわる雲も、青い海を埋めるほどのマグロも、星空の下のベドウィンたちも想像することはできる。
まるでボノと並んで空を滑るように飛びながら、ボノの囁きに導かれて地上を俯瞰しているようだ。
だからこそボノは「ぼくに触れてくれ」と続け、「どこか別の場所に連れ去ってくれ」と懇願する。すぐ側にいて、同じイマジネイションを共有することのできる相手に。
実際、別の場所に連れていってくれるのはボノのほうだけど。
昨年ワタシたちに与えられたもうひとつの歌詞もまた、その意味において何ら違いはない。
See the world in red and white
See Sigh-tama in front of you tonight
See the shrines and the temples of Kyoto
From Nagasaki to Sapporo
See Japan in its Christmas hour
See us waiting for the Sakura to flower
See the bird with the leaf in her mouth
After the flood all the colours came out
さいたまで時を分かち合いながら、
ボノが行きたいところへなら何処へでも
日本中、北から南まで旅をする。
ご覧、このクリスマスに彩られた国を。
ぼくらは桜が花咲くのを待っていたのにね。
それでも小鳥は希望を運んでくれて、
涙に洗い流された世界は鮮やかな色を取り戻した。
なんだかまとまりのない稿だけれど、そんなところ。
あともうひとつ。
これがワタシが悩みを遠くに押しやった要因かもしれないと思ったのだった。
悩みの中味は「ワタシは英語圏の人間でもキリスト教者でもないのだからボノの言葉を理解でき得ないのではないか」というものだ。
HTDAABが出た頃にその悩みは払拭されたのだけれど、それは「ボノは英語圏の人間にだけ、またはキリスト教者だけに対して歌っているのではない」ということをはっきりと感じたからだった。
その時はなぜそんな「感じ」を抱いたのか理由は曖昧だったのだけれど、要するにこういうことだったのかもしれないと思い当たった。
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