酔月亭

ブログを引っ越しました! 今後ともよろしくお願いします。

U2とアフリカ

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2008年5月、ボノが日本へやってきました。
TICAD(アフリカ開発会議)に出席するために。
なぜボノがアフリカのために?
わかっているようでわかっていないような認識を改めるため、
ちょっくらお勉強しています。
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Vertigo Tour 1st legも終盤に近づいた5月中旬、「2度目のライブエイド」開催の情報が世界中を駆け巡りました。最初の正式発表では5カ所の会場とのアナウンスでしたが、その後会場、参加アーティストともに増え続け、6月中旬には東京でもコンサートが行われると発表されました。
ボノの言葉を借りるなら、前回のライブ・エイドがチャリティのためのものだったのに対し、2度目はジャスティスのためのイベントでした。
2005年7月に英国グレンイーグルスで開催されるG8首脳会議に向けてアフリカ支援(債務の帳消し、支援金額の倍増、貿易の公正化)を訴えるのがその目的で、当時の読売新聞のインタビューでは「政治家はロックスターがただ叫んでも、びくともしない。でも、彼らが気にする有権者や企業などがおれたちの存在を認め始めると、結構相手にするものなんだ。ライブ8はその大きなきっかけ。日本でもそれを狙っている」と語っています。
2005年07月02日、U2はメイン会場であるロンドン・ハイドパークのオープナーを、ポール・マッカートニーとともに務めました。マッカートニーと共演の"Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band"のあと、U2のみで"Beautiful Day"、"Vertigo"、"One"を演奏。全体的にVertigo Tourのいかにも楽しんでいる感じに比べ、真摯な印象を与えるパフォーマンスでした。
1985年のライブエイド同様、LIVE 8にも批判的な意見がありましたが、ボノはバックステージでのインタビューで「(批判どおり)ロックンロールにはそんな力はなくも、オーディエンスには力があるんだ」と答えています。
ちなみにこの時のボノはしょっちゅう見かけていたおそらく普段着のジーンズのジャケットを着ていましたが、『U2 by U2』のなかで衣装に用意していたジャケットがマッカートニーとかぶったせいだと明かしています。

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世界同時コンサートから数日遅れて、エディンバラで行われたコンサートに、ボノは世界中から寄せられた署名を手に登場しました。
この写真ではバッグ一つにメディアがおさめられていますが、ステージにはスタッフの手によって数えきれないほどの箱がうずたかく積まれました。

さて、Live 8は望んでいた成果を上げられたのでしょうか?
U2をはじめとした参加ミュージシャンのファンたち、特定のミュージシャンのファンではなくてもLive 8関連の報道をみたもっとたくさんの人々が、これまでにない注視でグレン・イーグルスでのサミットを見守りました。そしてサミットでは、数々のアフリカ支援の具体的な目標について同意が得られました。
その中には2010年までにアフリカにアンチHIV薬を行き渡らせること、という項目もあります。
それらの目標が達成されなければ成果を上げたことにはならないのかもしれませんが、少なくともサミットの力点のかなりの部分がアフリカ問題におかれたということだけでも、LIVE 8の意義は大きかったのだと思います。


Vertigo Tourの3rd leg終盤の12月10日、U2のメンバーのボノ、エッジ、ラリー・マレン・ジュニア、アダム・クレイトン、およびマネージャーのポール・マクギネスに対し、アムネスティ・インターナショナルは最高の人権賞である「良心の大使」賞を贈りました。
その受賞理由は、次のように語られました。
「U2は今日、そしてこれまでも常に、単なる音楽以上の貢献をしてきました。バンドのメンバーは自らの音楽と名声を、数え切れないほどの人権の課題を達成するために用いています。DATAやワン・キャンペーンへの最近の関わりを通じて、特にアフリカに関係する債務、援助、貿易の問題に世界の注目を集めています。政治家や「伝統的な」世界の指導者たちが世界を変えてくれるのをただ待っているのでは足りないということをU2は示しました。U2は、その音楽、生き方、行動によって、何百万もの人びとを力づけ、奮い立たせてきたのです」
長かったU2の2005年を締めくくるのにふさわしい賛辞でした。
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2004年、DATAをはじめとする11団体によるONEキャンペーンが始まります。日本でもホワイト・バンド・プロジェクトが展開しましたが、メインとなる対象は、その活動拠点のアメリカでした。
ONEは米国の国家予算の1%で、以下のことが可能になると主張しています。
1.世界の空腹で苦しむ人々が半減する。
2.初等教育を7700万に無料で提供できる。
3.安全な上水を4億5000万人の人、基本的な衛生設備を7億人に提供できる。
4.貧困を原因とした540万人の幼い子供の病死を防止できる。
5.HIV/エイズや結核、マラリアと戦うことによって、1日あたり1万6000人救うことができる。
ONEキャンペーンは2007年、DATAに統合され、現在も続いています.

2004年9月、シングル"Vertigo"の発売に続き、11月にはファン待望のアルバム、『How To Dismantle An Atomic Bomb』が発表されました。
AppleのCMとタイアップした影響もあって、TVやラジオでの露出度は高く、"Vertigo"は主要FM局のチャートで1位を獲得、その年のグラミー賞も受賞します。
アルバムプロモ・ツアーの一環で開かれたブルックリン・ブリッジでの無料ライブも、皆さんの記憶に新しいことでしょう。

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そんな中、11月29日に、バンド・エイド20の"Do They Know it's Christmas"がリリースされました。
ボノは20年前に歌ったのと同じ一節、「Well tonight thank God it's them instead of you」を再び歌います。「それが君ではなく彼らに起こっているということを、神に感謝せよ」。
1984年の最初のリリース時、ボノはこの一節だけは歌いたくないと主張したそうです。仕掛人であり曲の作者でもあるボブ・ゲルドフに半ば無理矢理説得されて歌ったこの詩を、今回のボノは全く違ったアプローチで歌いました。
2004年版の"Do They Know it's Christmas"は、世界中の人々に向かってアフリカへの支援を訴える曲であるとともに、この20年間の進捗状況に対する静かな憤りのようなものも含まれている、ワタシにはそう聴こえました。

2005年が開け、Vertigo Tourの日程が発表された頃、ファッション・ブランド、EDUNが発表されます。
ここでのメインはボノというよりはアリ・ヒューソンと、デザイナーのローガン・グレゴリーですが、もちろんボノはアイコンとして数々の記者発表に参加します。
EDUNはアフリカと欧米諸国の産業とのフェアトレードのモデルになるべきコンセプトを持っています。アフリカと南米諸国のコットンを原材料に、労働者に正当な報酬を支払って作られるアイテムは、決して安いものではありませんが、そのことが「安い衣料」がどのようにして市場に出回るかという仕組みを示唆してくれます。
EDUNは作り手、作られた場所、素材、消費者という4つの存在をリスペクトして作られています。
とくにアフリカの工場で働く女性たちの姿が、なんとも生き生きとしていて美しい。
必要とされているのはチャリティではなくてジャスティス、施しではなくて正当な関係性なのだと繰り返すボノの言葉が体現されています。

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そして3月末、Vertigo Tourがアメリカ・サンディエゴの公演を皮切りにスタートします。
ステージ上から、ボノはアフリカのことを叫び、語ります。Pride、Where The Streets Have No Name、Oneの三曲は、全132公演を通して、この曲順でアフリカに捧げられました。

これまでにU2は様々な社会問題をテーマにした曲を発表してきましたし、特にボノとエッジが直接問題に関わる活動をしてきたのは周知の事実です。
U2としてチャリティ・イベントのステージに立ったことも、一度や二度ではありません。
しかし、こうしてU2のコンサートで、しかも長いツアー全体を通して、一つの問題について訴え続けるということは、これまでにはなかったことです。
これはボノの決意の強さの表れであり、また他のメンバー全員が、ボノをサポートしているということでもあったと思います。
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1997年、ヨーロッパにおける第三世界諸国の債務を削減しようとする運動、Jubilee 2000からボノに参加要請がありました。
ヨーロッパではかなりの広がりを見せていたJubilee 2000はアメリカではまださほど浸透していませんでしたが、ボノは当時の大統領であったビル・クリントンをはじめとして、有力な議員たちに直接会い、運動への理解と協力を求めました。
この活動を通じて、ケネディ大統領の姉でありスペシャル・オリンピックの創始者であるユーニス・シュライバーや、彼女の息子で後にDATAでのパートナーとなるボビー・シュライバーと出会います。
また、ハーヴァード大学で経済学者のジェフリー・サックス教授に師事し、アフリカにおける経済的な問題を根底からとらえ直すための勉強をしました。
10年前の経験が、関わるとなったら解決までとことん闘うという決心をさせたのでしょう。

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1999年9月23日、ボノはバチカンで時の法王ヨハネ・パウロ二世に面会します。
いまだエイズ問題に本格的に取り組もうとしない教会へ働きかけるためでした。
この時にボノは法王からミケランジェロがデザインしたと言うロザリオをプレゼントされ、ボノからはサングラスを贈りました。
ヨハネ・パウロ二世はボノの意見を支持し、直ちにバチカンによるエイズへの取り組みが始まりました。
2005年4月に逝去した法王の死を、ボノはVertigo Tourのステージ上から悼みました。

Jubilee 2000は一定の成果を上げ、2001年に解散しましたが、その後もアフリカ諸国の債務削減を求める動きは活発に続きました。

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ボノはボビー・シュライバーらと2002年にDATAを共同設立します。
DATAのDは債務を意味するdebt、AはAIDS、Tは貿易を意味するtrade、最後のAはafricaの頭文字ですが、、同時にDemocracy、Accountability、Transparency for Africa、つまりアフリカにおける民主主義、説明責任、透明性をも表しています。
表面に現れている3つの大きな問題と、それを解決するために欠かせない三つの要素が、二重の意味で込められた名前です。
この後、DATAの代表であるボノが国際会議の場に公式な参加者として姿を現す機会が激増します。

2002年5月、ボノはその年の初めに世界経済フォーラムの年次総会であるダボス会議で同席した当時の米国財務長官、ポール・オニールと共に、ガーナ、南アフリカ、ウガンダ、エチオピアの現状視察の為に歴訪しました。
同年12月、アフリカにおけるエイズ問題啓蒙のための「Heart Of America tour」を開催します。
アフリカ問題を解決に導くためにはアメリカの国家的協力が欠かせないということを、ボノは痛感していました。

一方ファンサイドでも、ボノの活動を支持・支援する動きが具体的な形をとりました。
2003年から現在まで続く、African Well Fundです。
Bonoへの誕生日プレゼントとしてアフリカに井戸を掘るための基金ですが、昨年までの5ヵ年で実に11万ドルの募金が集まりました。

2003/11/23、ネルソン・マンデラがホストを務め、南アフリカ・ケープタウンで行われた46664コンサートにエッジと参加します。
46664とはマンデラの囚人番号であり、1964年収監の466号という意味です。
南アフリカの指導者であるマンデラは実に27年間もの間、政治犯として牢獄にとらわれていました。
折しも今年はマンデラが90歳を迎え、日本でも「マンデラの名もなき看守」という映画を公開中ですので、ぜひご覧いただきたいと思います。
このコンサートでは"One"を含む4曲に参加しました。
ボノとデイブ・スチュワート共作の"American Prayer"、
ボノとデイブ・スチュワート、ジョー・ストラマー共作の"46664 Long Walk To Freedom"、
デイブ・スチュワートらが共作した"Amandla"です。
この日のライブは3枚のアルバムとDVDとして、翌年リリースされました。
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1985年7月13日、ロンドン、ウェンブリー・スタジアムのステージの上に、U2の姿がありました。
一年間におよぶUnforgettable Fireツアーの最後に、ライブエイドに出演したのです。
先立つこと8ヶ月、1984年12月3日にリリースされた、バンド・エイドの"Do They Know it's Christmas"。イギリスを中心に、多くの有名ミュージシャンが集ったエチオピアの飢餓のためのチャリティ・シングルに、ボノとアダムが参加しました。
当初は予定がなかったライブイベントが、大西洋を股にかけてロンドンとフィラデルフィアで開催されたのです。

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全世界でテレビ放映されたライブ・エイドで、ボノはステージから観客席へ降り、オーディエンスの女性とダンスをするという大胆なパフォーマンスをしました。
これをきっかけにU2の人気は急上昇し、誰もがボノの存在を知ることになりました。

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1985年9月、ワールド・ビジョンというキリスト教系団体の誘いで、ボノとアリは北エチオピアを訪れ、食料補給施設内の児童養護施設で教育プログラムのボランティアをしました。

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お芝居や歌を使って、健康や衛生など、生活に関する知識を子どもたちに与えるという仕事です。子どもたちは覚えた歌をあちこちで歌い、それによって大人たちにも知識は浸透していきました。
ボノとアリが帰ったあともプログラムは継続されたそうです。
これをきっかけにボノはエチオピアの貧困が内戦や旱魃によるものだけではなく、社会の構造的な問題、とりわけ政治汚職に大きな関係があること、アフリカ各国の政府だけでなく、援助する国の側にも原因があることを学びます。
この時の経験が、ボノのアフリカに対する姿勢を決定づけることになりました。

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1986年には、主に南アフリカ共和国でとられていた人種差別政策・アパルトヘイトに反対するシングル"Sun City"に参加。
同年6月にはアムネスティ・インターナショナルの反アパルトヘイト運動の一環である「Conspiracy of Hope tour」で、スティングやルー・リードらとともに全米6カ所を回りました。
このツアーは豪華な顔ぶれとカリスマ的プロモーターであるビル・グラハムの働きによって大きな影響力を持ち、メディアによるアフリカ諸国へのプレッシャーが高まったことで、政治的理由で拘束されていた、ミュージシャンたちが釈放されるなどの成果が上がりました。
数年後、南アフリカのアパルトヘイトは撤廃され、初の黒人大統領としてネルソン・マンデラが選出されるという歴史的な変化へ結びついていくのです。

一方でU2はアルバム『ジョシュア・トゥリー』をリリースし、世界中のチャートで1位を記録します。アメリカの雑誌「TIME」の表紙を飾り、グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞するなど、もはやその力は誰もが認めるところとなりました。

1988年、ボノはエチオピア滞在中の写真を「A String Of Pearls」という写真集にまとめ、発表しました。同時期にダブリンで写真展も開催しています。
しかし、写真集の出版はわずか2500部、写真展が行われたのもごく普通のギャラリーで、『ジョシュア・トゥリー』で世界的な成功を収めたバンドの、カリスマ的ボーカルの活動としては考えられないくらい密やかなものでした。

1990年、エイズ救済のためのコンピレーション・アルバム「Red Hot and Blue」に参加。
コール・ポーターの名曲"Night and Day"のU2によるカヴァーが収録されています。

この後数年間、ボノとアフリカの関係が表に現れることはほとんどありませんでした。

U2とアフリカ終了報告

昨日、無事にイベント「U2とアフリカ アフリカに注がれるボノのまなざし」を開催しました。
あいにくの雨の中ご来場いただいた皆さん、ありがとうございました。
あちらこちらからエールを送ってくださった皆さん、ありがとうございました。
実際にイベントをやって、終わったからこそわかった価値もありました。
ワタシにとってかけがえのない、大切な体験をさせてもらえました。
何より、傍で支えてくれた友人たちに、最大の感謝を送りたいです。
(壇上からの謝辞は禁止されてたので、改めて)

それから、もちろんボノ。
あなたがワタシに与えてくれたものの大きさを、ワタシはまだまだわかっていませんでした。
今でも、完全には理解していないんだと思います。
生まれてくれて、生きてくれて、ワタシの前に現れてくれてありがとう。
あなたはワタシに、命を惜しみなく与え続けてくれています。
あなたが与えてくれた命を、少しでもよい形で活かしたい。
もう一度胸に刻み直して、あなたを追いかけます。


イベントのちゃんとした報告は日を改めます。
当日の発表原稿は、長過ぎて削る前の「完全版」を上げる予定です。
形としては当日版の方がいいのかもしれないけど。
まずは御礼まで。

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