snoozer 2月号(#059)
U2 かつての少年が姿を変えた、小さき本物の男 4p(記事見開き)
その他、U2への言及箇所 p.2(EDITOR'S NOTE)、p.105,116,118(THE YEAR IN MUSIC)
編集長にしてライターの田中宗一郎さんの記事。これこそ駄々っ子発言が続出しているのだけれども、非常に自覚的でもある。前記事のコメント欄で話題になった「U2ファンはCrash聴かないのか馬鹿」発言もその一環で、読んだワタシは拗ねぎみに「ごめんね」と言いたくなってしまうのだ。
なぜならワタシは「聴くのが正解」だと思っているから。だってボノたんが大好きなバンドのひとつだもん。U2を生んだバンドのひとつだもん。ただしそれは音楽を必要としている人、あるいは体系的に音楽を聴く人の話であって(必要なのはU2だけという今のワタシはそのいずれにもあたらない)、それもまた世代や出自によって何を聴くのかが違うのは明白なことだ。
田中さんはもちろんそのことを分かっていて、でも駄々をこねずにはいられない。本人が本記事中で書いているとおり「ガキ」なんだろう。ほんとはオトナだし、編集長だから、批判されるのは当たり前のことなんだけどね。
ワタシはこの人のU2観、ボノ観に割と近いのだと思う。
このブログでは2004年12月号(#048)のsnoozerに何度も触れているけれど、そこに掲載されたインタビュー記事にさんざん泣かされるという出会い方だったから、余計にそう思う。
で、今回もやっぱりそう思う。
「(ステージ・デザインについて)『とにかくデカい、とにかく近い』というシンプルなアイデアが、ある意味、今のU2を象徴してる気がした」(p.2 "EDITOR'S NOTE")
「今のU2」というのはつまり、アリーナをオールスタンディングにしたこと、そしてそれを最も安価なチケット・カテゴリとしたことだったり、あるいは入り待ちをするファンとの交流だったりする。
U2は言うまでもなくメガバンドなのに、そう望めば誰もが手に届く場所まで来てくれる。ライブのさなかステージを降りてオーディエンスに触れさえもする。
それを指して田中さんは「いろんな意味で触発された」と書く。
「9.11以降、どうにもならない無力感に苛まれた者」(p.12右段 本記事)
そのひとりであり、無力感をなんとか払拭するために(あるいは忘れるために)U2を聴き続けているワタシにとって、このくだりに言及していることは非常に強く共感できることだ。
ボノが公演各地の国旗、つまりは日の丸を掲げたことについて、ワタシは敬意と愛情の意味以外を考えなかった。田中さんは「誇りと責任」という言い方をしている。確かにその通りかもしれない。ボノがアイルランドの国旗に抱く、あるいはアメリカ国旗を掲げる際の、相反するふたつの気持ちについて考えれば。
「日の丸」を巡る言質は圧倒的に過去に関するものが多い。そしてワタシもまた、日の丸について現在に至っていないし、過去を飛ばして現在だけを見ることもできないのだけれど、ボノが見ているのは「現在の日の丸」に違いないのだ。
COEXIST(p.13左段 本記事)
SBS、BULLETの解釈が、実は少し違うのだ。
「COEXIST」と書かれた鉢巻き改め目隠しが田中さんが言うように「宗教的無知」を意味しているのだとしたら、ボノはなぜ「O」を赤く塗ったのか?
ボノが目隠しをするのは実はこれが初めてではない。昔々の記事のうえ出所不明で恐縮だけれども、ボノはかつて IRISH(アイルランド人)、VOTER(有権者)、CONSUMER(消費者)、CATHOLIC(カソリック教徒)、PROTESTANT(プロテスタント教徒)というキーワードの目隠しを剥ぎ取るパフォーマンスをしている。
宗教に限らず、自らの属性のみで物事を捉えることの弊害、視野の狭さを告発しているのだと思う。
Vertigo Tourでは、宗教者たちに目隠しを剥がしてほしいと(それは剥がせられるものなのだと)訴えるとともに、ワタシたちにも傍観者の目隠しを剥がしてほしいと訴えているのだと、ワタシは思う。
「無知」ではない。知っているはずだという告発だ。
また、BULLETにsnippetとして挿入されている"The Hands That Built America"について、田中さんは「悪いのは国家であり、人々はその責任を課題に負わされている」という意味だと受け取っているが、ここでもやはり(田中さん自身が言及している)9.11の責任性を歌っているのではないかと思う。つまり、「アメリカを作る手が、アメリカを窮地に立たせている」と言ったような。
同じくsnippetのJohnnyも、あの曲自体に「帰ってくるジョニー、帰ってこないジョニー」というふたつの解釈があることが重要なのだと、ワタシは思っている。
Vertigo Tourにおける目隠しパフォーマンスは、剥ぎ取らずに終わってしまう。もちろんボノは目隠しを外すけれども、それはもはやパフォーマンスではない。そこが前出の目隠しとの最も大きな違いであり、自らの求めがいかに困難なものかをボノは自覚している、ということだと思う。
「Pride〜Streets〜Oneという珠玉の流れは、曲本来の力を100%発揮しているとは言いがたかった」(p.13中段 本記事)
そうなんだ。ボノのMCで寸断されているアフリカ・ユニットの3曲、曲だけでつないだらもっともっと盛り上がるだろうと、ワタシも感じていた。想像するだけでゾクゾクする。前曲にあたるSarajevoとの間が世界人権宣言で断ち切られているからなおさらそう思うのだろう。
Vertigo Tourの初期には、アクトン・トリロジーを本編の最後に、アフリカ・ユニットを1stアンコールに配置した日もあるくらいだから、実際かなり扱いに苦慮したのではないかと思う。
それでもこのMCがTourの要であるには違いない。曲の持つ力を犠牲にしてまでも伝えたいことなのだ。
田中さんの言うように「過剰な夢は見ない、しっかりと現実を見つめ、やるべきことをやる、そして、自分以外の誰かの目をしっかりと見つめ、その手をしっかりと握り、伝えるべきことを伝える――それこそが、現在のU2のリアリティなのだろう」(p.13右段 本記事)と、ワタシも思う。
加えるに、アフリカ・ユニットの自制があるからこそ、反動として、続くふたつのアンコールが爆発的な力を持つのではないかとも。
と書いていくうちに、田中さんが「やっぱり〈エレヴェイション・ツアー〉が観たかったなー」(p.2 "EDITOR'S NOTE")という気持ちも分かってしまう。
アフリカ・ユニットのMCよりも、"Out Of Control"の500パウンドMCを聴きたかったというのが本音だ。ワタシはVertigoシカゴの何倍、何十倍とエレヴェ・スレインのDVDを観たし、その比重はこれから先も変わらないと思うのだ。
田中さんがU2を、ボノをどう解釈しているかということが最も明白に語られているのは、実はツアーに関する本記事ではない。
「50 BEST ALBUMS OF 2006」というお決まりの特集に付随した特別対談のうちふたつの中でU2に言及しているのだが、最も長い発言(p.105 右段)に現在の彼のU2観がはっきりと語られている。
その中で彼は先の米大統領選の際にB.スプリングスティーンやPearl Jamがおこなった「VOTE FOR CHANGE」と、それに加わらなかったU2について話している。それはそのまま、NEWS23においてボノが語った「バリケードの内と外」の話に通じる。
偶然にも最近になって、ワタシがボノと並んでもうひとり尊敬する人間が同じ方法論(そればかりではないけれど)を取っていて、やはりボノと同じ批判をうけているので、余計に深く共感する点でもある。
(田中さんはこの後、アジアン・カンフー・ジェネレイション(表記違ってたらごめんなさい)について話す中で、NEWS23におけるボノの発言を引用している。p.118 左段)
で、この共感が、たった見開き2ページ(+α)しかない文章を紹介するために、ワタシがこの長い記事を書く理由なんだと思う。
つくづく好みの問題なんだよな。
ロキノン先に読んで、答え出しといてよかったな。
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