酔月亭

ブログを引っ越しました! 今後ともよろしくお願いします。

around myself

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たまにはU2と関連のない/薄いことも書くらしい。
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出会う

  「世界につながったインターネットを使って、若者たちが手をつなぎ、ゆがんでしまった
   これまでの常識を変え、新しい世界を作ろう。テロが生まれてこないよう富の配分なども行い、
   世界を大きく進化させよう」

なんか、誰かの言葉と似ていますが、その誰かではありません。
ビキニ環礁の水爆実験で被曝した第五福竜丸の船員だった、大石又七さんの言葉です。
大石さんはこの後、M.L.Kingの言葉を引用しています。

  「本当の悲劇は、独裁者の暴虐ではなく、善良な人々の沈黙だ」


先日、お寺の住職を務めている方と電話で話す機会がありました。
チベット関連でお名前と行動が広く報道された方なので、ご存知の方もいるかもしれません。
ワタシが尊敬しているある人(誰かさんじゃないです)の知人でもあり、その縁が繋がってお話しをしました。
話は当然「ある人」のことに及んだのですが、まったく立場の違う高僧がその人について語るのを聞いて、ゆるめのパッキンが案の定弛んでしまいました。
ワタシが感じていることを、その僧も感じ、大切な出会いだとおっしゃったからです。
「その人」は、自分が望むことを成し遂げるためには、右だの左だのこだわっててはだめだと言います。それまで信頼していたはずの人々が助けにならないこともあるし、全く接点のなかった/対立していると思っていた人が力を貸してくれることもある。
すべてにおいて共通することはできないし、その必要もない。ただ一緒に事にあたることができる、それが重要なんだと。
これも誰かの言葉に似ています。さすがにその人は「悪魔とランチ」ができる立場にはいませんが。

どちらも大きな勇気をいただいた出会いでした。
ま、問題は勇気づけられたワタシがどう生きていくかということなんですけどね。
勉強しなければならないことが山積です。
今日はG8メディアネットワーク主催の市民記者講座、その後のミーティングに参加。
先週からわかってはいたのだけれど、講座の講師は父の友人だった。ワタシの仕事に関係してお会いしたこともある。お釈迦様の手のひらの上って、ほんとに広い。
まあ、だからちょっと気楽ではあった。講座の前後に少し仕事関係の話もできた。もともとそちらへの応用も考えていたのだけど、一足飛びにかなう感じ。

いろいろ迷う部分もあるんだけど、基本的には何でもありと言われているので、あまり自分でかせを作らずやるつもり。
何しろ今回のボランティアは、ワタシにとって一石三鳥、いや四鳥くらい獲れちゃうかもしれないというくらいの絶好の機会だからね。

一つはもちろん、サミットに主体性を持って対することができる。
二、情報記事を書くという面でのスキルアップ。
三、オルタナティブ・メディアと関わることで仕事関係へのフィードバック。
四、ボノの気配を強く感じることができるかもしれない。

正直言って四つ目は、ほんとにそんなくらいのことだと思う。
チャンスはうかがうけれども(そのための体勢はとれそうだけれども)何しろボノが代表しているのはNGOの中でも非常に大きな団体だし、そのうえボノだから、記者会見はマスメディア対象の場で行われるだろう。
その場にワタシがいることは不可能。市民メディアの、市民記者だからね。
それでもどこかで会えないとは限らないので、アンテナは張っておく。
一番いいのは、ボノが北海道大学で講義してくれることだな。

今日の講座とミーティングには、名古屋からの参加者がありました。
ボランティアはまだまだ募集中だそうなので、興味のある方は問い合わせてみてください。
  G8メディアネットワーク(東京)
  G8市民メディアセンター(札幌)



それはさておき、ぐるぐるさん(左上の黒猫さん)がけがをしている……。
傷はないのに、右前足をびっこひいてる……。
手首が腫れてるの。
昨夜は何ともなかった。さっきまで寝てるとこしか見てないから気づかなかった。
いつもぎゃあぎゃあとうるさいのに、めちゃくちゃ静かだ。
うああ……。

歌う人々

昨日はお友達、というか普段飲み屋でお世話になっている人のライブでした。
1978年にデビューして、今年はちょうど20周年なんだって。途中、長いブランクがあったそうですが、昨年から歌手活動を再開していて、昨日は2度目のライブ。ワタシは初めて見に行ってきました。

友人関係が無かったら絶対行かないジャンルのライブだったんだけど、ちゃんと楽しかった。
そんで改めて、ワタシは歌う人を見るのがすごく好きなんだなと思いました。
この場合の「歌う人」というのは、プロ・アマ問わずにして、歌う事に大きな価値を見出している人というような意味。
歌が自己表現の方法であり、重要な伝達手段であるひと。
歌を言葉として使う事が出来る人。
そういう人が歌いながら感情をあらわにしていくのはすごくセクシー。聴き手に自分を委ねるみたいで。
もちろんそういう歌い方をしない人もいっぱいいるけど、ワタシが好きなのはそういう自分を丸投げしちゃうような感じの歌い手なんだなと気づいたりして。
ボノを好きな理由だね。

あと、やっぱりワタシはU2みたいな歌が好きだ。
昨日聴いたのはほとんどが恋愛歌だったので、日本語で意味が分かるからむしろ余計に世界を共有できなかった。
だから歌詞の意味を無視して聴いて、ひたすらその人を見つめてたよ。難しい。

あー、U2をU2として歌っているのを聴きたいと思った。
U2の曲をコミュニケイション・ツールにして歌っているのを。
3月16日のアイリッシュ・ミュージックフェスティバルでダブリンから来たU2トリバンを見る予定だけど、どんなバンドなのかな。
どんなバンドであっても楽しいには決まってるけど、ちょっと切なくなる感じがあったら最高。

しょっくの波状攻撃

最近読書熱が戻りつつあって、寝る前に本を開くことも多い。昨夜は50ページほど残っていた本を最後まで読み切った。
ジョナサン・キャロルの『天使の牙から』。
久しぶりに読むキャロル、久しぶりに読む浅羽莢子訳に夢中になって、自分の書架にあるキャロル×浅羽の一番初めの本から読み直そうと思った。

巻末の解説を読み、何気なく訳者紹介を読み、混乱した。
「2006年歿」って書いてある。そんなわけない
混乱して、見返しの著者紹介を見ると、こちらには生年しか書かれていない。ってことはあれか、ほんとに浅羽さんが死んじゃったってことか。

2006年9月18日、乳ガンの転移で逝去。もう1年半も前の話。
ワタシはほとんど本を読まない時期が続いていたから、新聞の訃報欄を見逃せば知るはずもない。
このころは何をしていたんだっけと、自分のブログを見たら、10月に「阿部謹也氏が一ヶ月くらい前に亡くなった」って書いてある。
2006年9月、ワタシは大好きな「作家」をふたりも失っていたんだってさ。

落ち込んで今日を迎えたら、昼前に一本の電話。
癌と闘っていた知人の逝去の報せと、ワタシといくつも年が違わない別の知人が癌で手術するという報せ。

別に自分の周囲が特別だとは思っていない。
毎日たくさんの人が癌になったり癌で死んだりしているんだから、誰しも身辺に縁があるはず。
ここ数年にまとめてそういうことがあるのも、ワタシ自身の年齢のせいなんだろう。
でも、そう思うことが何がしかの慰めになるわけでもない。



浅羽さんの逝去を知る直前に読んでいた『天使の牙から』は半分が「自分が癌(血液の癌=白血病)で死ぬことを知っている男」の物語だ。
ワタシが読んだのは昨年出た文庫版だけれど、単行本として出版されたのは1995年だから、もちろん浅羽さんは(近いうちに)自分が死ぬなんて思っていなかった。
読んだ直後に逝去を知って、寝付くまでの間に、物語の様々な場面が蘇ってきた。それから結末が。
強大な絶望を前にして、はかなく、単純で、でも絶対的な希望を提示する結末が。
浅羽さんは自分が訳した希望のことを思い出しただろうか。
少なくともその希望が真実であることを知る瞬間はたくさんあったんじゃないかと、ブログを読んで思った。

浅羽さんは2006年1月から8月の頭までブログを書いていた。
乳がんの手術をしたあとで、おそらく転移のこともわかっていたと思われる。
亡くなる約3ヶ月前の記事で、ご自分のお仕事について書かれている。
それは最期を目の前にした人の言葉のようにも読めるけれど、今現在自分がどのような立場で仕事をしているかについて述べているようでもある。
実際、浅羽さんは翻訳や改訂の仕事を続けられていて、2006年8月5日、最後の記事も仕事(を続けていること)に関することだ。

もう一人、自分が癌で死ぬことを知りながらブログを書いている人を知っている。
ほぼ毎日その人のブログを読んでいる。ほぼ毎日更新されるので。
1年か数年かわからないけれど、自分に残された時間が限られたものであると常に意識しながら、自分がやるべきことはまだたくさんあるのにやりきる時間はおそらくないと思いながら、その人は立ち止まることなく日々を生きている。

そうやって生きられることの理由は強さであり、優しさであるのだと思う。
強くないし優しくないと言われるかもしれないが、それが強さで優しさなんだと思う。ワタシが欲しいもの、筆頭の二つだ。


浅羽さんは木村拓哉さんのファンだったんだって。全国のコンサートを追っかけてたんだって。
対象は意外だけど、追っかけという点には納得できる。
思えばワタシのミーハーな耽美好みを満たしてくれたのが浅羽訳作品との出会いだったから。

そういえば、浅羽訳作品と出会ったのって、アイルやU2と同時期だ。

ああ、もう、とりとめもなくなるので終わりにする。
   全写真はスライドショー 2月20日

もう一カ所、寄ってみたい集落があった。龍郷町秋名という、奄美随一の水田を要する集落である。
奄美の主要農産物はサトウキビ、果実類で、稲作を行っている農家は非常に少ない。江戸中期から幕末期にかけての薩摩藩政で、すべての田をサトウキビに換作させられたためである。
『村 奄美・ネリヤカナヤの人々』という写真集(リンク先ページの中程)で、秋名は今も稲作を行い、また稲作にまつわる祭りが残っている集落として紹介されていた。
いくら亜熱帯の島とはいえ2月ではまだ田植えも遠いだろうが、祭りにゆかりのある場所を見られるかもしれない。
(振り返りながら書いてみて思うのだが、あの時になぜ秋名へ行きたいと強く思ったのか、理由が今ひとつ定かではない。ただ広々とした水田地帯を見たかっただけなのだろうか。)

名瀬の町から峠を二つ三つ越え、時々海を見晴らしながら約30分ほどで秋名につく。父のいつもの方策で公民館を探しながらうろつくと、「ショチョガマ祭場地」という看板に出会った。

 旧暦八月最初の丙の日アラセツ行事を行う。
 この日の早朝、潮が満ち始める頃「ショチョガマ」祭りを行い、
 夕方の潮が満ち始める頃海岸の平瀬で「マンカイ」祭りを行う。
 この二つの祭りを合わせて「平瀬マンカイ」と呼んでいる。
 内容は、稲の豊作を願い、また豊作に対する感謝の念をこめた祭りである。
 起源は琉球王支配下にあった時、ノロを中心に始められたものとされている。

畑の間の細い急坂を上がると、秋名の集落が眼下に見渡せた。
例えば武蔵野のように、田んぼの中にぽつんぽつんと家が建っているのではなく、家は集落の中にあり、田んぼは田んぼで集落の外縁にあるという感じだ。
思っていたほどに広い水田地帯ではなかったし荒れた田んぼも多かった。
公民館は見つからなかったが、カーナビが小学校を表示したので目指す。海沿いに走って、老人施設を回り込んだところに、なかなか大きな小学校があった。
昨今の時勢からして中に入るのはためらわれたが、校門は閉じられていない。車を止め、遠慮がちに中に入ってみる。
片隅に畑があった。ほんの2週間ほど前に自動が芋を植えたのだという。ここでいう芋はやっぱりサツマイモなんだろうかと考えていると、先を歩いていた父が校舎から出てきた男性と話を始めた。ワタシと母も近づいて、挨拶する。教頭先生だった。
公民館と黍搾りの工場を教えてもらって、学校を後にする。

田んぼの真ん中を走っていると、農作業をしている男性がいた。聞けば、苗作りの準備を始めたところだという。関東に比べると2ヶ月くらい早いだろうか。
そのまままっすぐ、田んぼが途切れたところに黍搾り場「さたやどり」があった。人気はなかったので、勝手に見学させてもらう。
高倉と納屋が並んでいて、納屋の中には若い馬が一頭。奄美博物館でみた史料に寄れば、馬は黍搾りの動力である。裏には搾り機があって、どうやらそこに馬を繋いで黍を搾るらしい。もちろん大半はエンジン動力の搾り機を使っているようだったが。

  イメージ 1
  「さたやどり」の入り口。この日はしまっていたが。

  イメージ 2
  高倉と踊りながら近づいてくる父。

ひとしきり見てから付近をぶらぶらしていると(ヘゴを見つけて喜んだり、スモモを見つけて喜んだり)となりの畑で作業をしていた男性が上がってきた。さたやどりと黍畑は友人の持ち物だから、黍を切ってやろうという。ありがたくいただく。
固い皮を歯で剥き取り、芯の部分にかぶりつくと、思ったよりも甘くさっぱりとした糖液が口の中に広がった。うまい。歯の部分をもらって食べている馬を眺めながら、あごが疲れるまで黍をかじった。

  イメージ 3
  馬は甘いものが好き。

  イメージ 4
  ガジガジ。

馬小屋に堆肥を取りにきたもう一人の男性も交えながら、この辺りのことをいろいろと伺う。さたやどりのオーナーの本職は大島紬の図案職人で、週末だけここを開けて黍を搾っているのだという。
黍を切ってくれたおじさんは一度は大阪に出て、また戻ってパパイヤやパッションフルーツを作っているのだそうだ。先日もさいたまから移住してきた家族がいるから、あんたたちもここに移って暮らせばいい、なんてリアルな冗談を言う。
帰り際にタンカンと緑のパパイヤをいただいた。

国道に戻るべくうろついていると、スモモ畑があった。満開とはいかないものの昨日見た畑よりもずっと花が咲いている。その向こうのタンカン畑で作業をしているおばさんに声をかけ、写真を撮らせていただく。
再び車に乗り込んでその場を離れようとすると、おばさんが近づいてきて、タンカンを一抱えくれた。まったく会話もないままいきなりだったので、面食らってしまう。慌ててお礼を言うと、にっこりうなずいただけでまた畑に戻っていく。
自己紹介のつもりか、父が背後から「埼玉から来ました!」と声をかけると、おばさんはあらーと言ってもう一抱えタンカンをくれた。娘さんが白岡に住んでいるそうだ。ちょうど実家に戻っていて、これから畑を手伝いにくるという。奇遇と厚遇に驚きながらも重ねて礼を言い、写真を一枚撮らせてもらう。
直後にすれ違った車に乗っていたのが、多分娘さんだったのだろう。まだ小さいお子さんも一緒だった。

午後は余裕のある日程のはずだったのに、思いがけない出会いで急ぎ足になってしまう。昨夜話に聞いたキャンプ場と安木屋場の集落を通り、ソテツの群生地を見つけ(一山全部ソテツ)、龍郷湾に入る。

  イメージ 5
  ソテツに覆われた斜面。

初日に通った道を懐かしく辿って、物産センターでお土産を買い、スーパーで夕食を仕入れ、空港へ。
自動チェックイン機で席がバラバラになってしまったが、いざ搭乗してみるとまとまった空席があったので、勝手に席を移って夕食。ワタシと母は昨夜の残りの焼酎を空ける。
食べ物の匂いを漂わせてかなり迷惑な家族だが、乗務員のお姉さんが持ってきてくれたお手拭きタオルがお墨付き。
雲の彼方の残照を見ながら、最後の島食を楽しんだ。


長い旅の記録にお付き合いいただきありがとうございました。
ちゃんとBack in the habitするよ。

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