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◇闘病家族に笑顔を 滞在施設、奇跡の実現
医療水準の高さで全国的に知られる県立こども医療センター(横浜市南区)から、急な坂を下って西に5分も歩くと、たくさんの花と樹木に囲まれた建物が見えてくる。小児患者とその家族が滞在する「リラのいえ」だ。 5年前、多くの人の寄付により建設されたこの施設は、NPO法人「スマイルオブキッズ」理事長の田川尚登(ひさと)さん(55)=川崎市幸区=が娘の“宿題”に出した答えでもある。 □ 酸素マスクが外されると、心電図のモニターの波は徐々に小さくなっていった。1998年2月15日午前10時、田川さんの次女はるかちゃんは家族に見守られ、医療センターの病棟で、わずか6年の生涯を終えた。 「余命は半年」。97年9月、川崎市の病院で、医師から思いもよらない宣告を受け、頭が真っ白になった。脳幹に見つかった腫瘍は、放射線で一時的に取り除いても再び大きくなり、回復の見込みはないというのだ。 医療センターを紹介され、はるかちゃんは入院した。面会時間が終わりそうになると、「帰らないで」と必死に引き留めた。さみしがって泣く娘を残して去るのはつらかった。 「パパ、お泊まりしたい」。はるかちゃんの提案で98年1月、妻、長女と4人で千葉県に1泊2日の旅行に出かけた。はるかちゃんは宿をはしゃいで歩き回り、花畑で花を摘み、ずっとニコニコしていた。容体が急変したのは、楽しい旅から帰った翌日だった。 息を引き取る1週間ほど前、田川さんは人工呼吸器を外す決心をした。はるかちゃんは呼吸が一時止まり、脳死状態となっていた。「親のエゴでは一日でも長く生きていてほしい。でも体につながれたチューブに血が混じっているのを見て、つらいんだなと思った」 医師は丁寧に説明してくれ、自分を納得させる用意はできていたはずだった。でも、涙は止まらなかった。 □ はるかちゃんを失ってしばらくの間、田川さんは喪失感にさいなまれた。その中で次第に、最後まで娘と真剣に向き合ってくれた小児科医たちのひたむきさに感謝の思いが強まった。娘と同じ境遇にある子どものため何かできないだろうか。2003年、スマイルオブキッズを設立した。 県立こども医療センターは、治療の難しい病気を持つ子が全国から集まる。はるかちゃんの付き添いに通っていた際、親たちが窮屈な車の中で寝泊まりする姿を目にしていた。周囲に宿泊施設はなく、若い親たちに経済的な余裕はない。 |
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