拓郎話

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明けております

ゴールデンウィークと盆もクリスマスも正月休みもない生活を40年近くしていると、あまり素直に「新年明けまして」などと言うご挨拶が言えない体質になってしまう。
木枯し紋次郎ではないが「明日は今日の続き」としか思わない、なんていつもこの時期には思ってしまう。あー、寒いね。

去年も知った顔、馴染みの方々が大勢違う世界に旅立たれてしまった。追悼記事は書かないと決めている俺ではあるけど(例外もあるが)、去年はやっている間もなく、次々と言う感じだった。
年末に入って、岡本おさみの訃報。ウチのブログのアクセス数が増えたのはその関連かな、とも思いつつ、逝くには若いなあと思いながらも、俺の関知しないところでの活躍をしていたことを知り、何かホッとした。当たり前だけど、俺が知っているのは岡本おさみの人生の一瞬だけ。それからの人生や生活の方がはるかに長いんだから、そこで充実した活動をされていてんだなあ、と、なんか嬉しかった。

などと追悼記事めいたことは終わり。

とにかく、皆好きにやっていけばイイんだ。人に迷惑さえかけなければね。

12月の雨の日 その2

「雨がしとしと日曜日」
って、また雨かよ、休みの日に!
俺は微笑まないよ、洗濯物乾かねえ〜しよ。

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何かさ、こういう日もあったんだよね、と言う思い出話になっちゃうよな、晴れの日の事って。

一昨日はこうだしなあ。

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12月
猫を膝に乗せつつ暖をとる
俺。

俺にとって音楽が一番面白かった時代、いや、その後でも今でも音楽は一番面白いんだけど、どんどん新しい(初めて聞く)音楽が面白くて、色々な方向へすっ飛んでいった時代、それがちょうどこの1974年くらいだったかもしれない。
とは言っても、今にして思えば俺は「王道」の人なので、妙なマニアックな方向へは行ってなかったような気がするのだがどうだろう。

そんな時代に発売された「スーパー・ジェネレーション」は、大好きであったはっぴいえんどからの流れで注目していた「キャラメル・ママ」の全面参加アルバムであったこともあるが、当時世界的流行であった(と、俺は記憶している)「ノスタルジック・ブーム」の中、日本でも昭和20年代から30年代の歌謡曲や和製ポップスが見直されていた中に登場したアルバム、ってことで期待して入手したはずだ。

この辺の事は色々書きたい事もあるが、一応このアルバムだけにしぼって話すと、このアルバムこそが70年代の「荒井由実」の音楽性を形作った貴重な存在ではないかと俺は思ってる。
もちろん、このアルバムには荒井由実の参加はないが、全面参加をしているキャラメル・ママは当時荒井由実のバックバンド、と言うよりは、新人シンガーソングライター荒井由実を全面バックアップし、ともに影響を与え合っていた存在であった。その彼らがこの雪村いづみ(服部良一/服部克久)との仕事を通じて得た音楽性/手法を、荒井由実との共闘に持ち帰ったのではないかと思うのである。

この「スーパー・ジェネレーション」の前年、1973年に荒井由実はファーストアルバム「ひこうき雲」でデビュー。このアルバムは、アメリカンロックの権化のキャラメル・ママとブリティッシュロック指向の荒井由実の音楽的ぶつかり合いで起きた化学変化によって「新しい日本のポップス」が生まれた瞬間、てな評論家的な言い回しをするけど、まあ、当時の俺は「変わった音楽」が登場したなあと感じていた事は事実だ。

そして、この「ひこうき雲」とセカンドアルバム「ミスリム」の間に、「スーパー・ジェネレーション」は存在している。「スーパー」の発売は「1974年7月25日」、「ミスリム」は「1974年10月5日」、共にレコーディングの日にちは分からないが、同時進行であったにしても、キャラメル・ママの面々が、「ミスリム」の作成に「スーパー」での体験を導入しているのは間違いがないだろう。それは「スーパー」を聞いていると、その「音」がまるで荒井由実の「曲」を聞いているような錯覚に陥ってしまう瞬間があることでよく分かる。

懐かしくて、そして新しい……そんな音楽があの時代にフィットしていたのかもしれない。そして、そのキャラメル・ママが持ち帰った「音楽性」は1975年発表の三枚目「COBALT HOUR」でも活かされ、あの荒井由実の初期代表曲の一つ「ルージュの伝言」(1975年2月20日)を生み出しているのだとも、今にして思えば、断言出来る。

この「ルージュの伝言」のwikiの中に面白い一節があった。

「このシングルの発売に先立ち、東芝EMIによりラジオを主体に、楽曲の一部とともに「都会派」の音楽とのコピー(宣伝)が、繰り返し流された。また、これを聞いた吉田拓郎は、『オールナイト・ニッポン』で、「この音楽はウーム」(恐らく驚いたの意味であろう)との発言をした。」

何とも何を言いたいのかよく分からない記述であるけど、当時の拓郎のこの放送はおそらく俺は聞いていたと思うのだが、当然覚えていない(笑) が、拓郎が言いたかった事は何となく理解出来る。つまりは、(東芝の出したキャッチフレーズ)「都会派」ってのが、拓郎にとっては全く「新しい音楽」の意味にはならなかったのではないか。「ルージュの伝言」を最初に聞いた時に当時高校生であった俺が感じたのは「ノスタルジックな歌謡曲」って印象だった。バックの演奏、バックコーラスの付け方(山下達郎!)、そして歌詞、ユーミンの歌唱……全てが俺にとっての「昔の歌謡曲調」だったのだ。そしてそれが新しかった。
おそらく拓郎も(その辺の歌謡曲で育った世代でもあるので)それを痛切に感じて、これが現代(1975年当時)の「都会派」と呼ばれるのか、と思ったのではないだろうか。
拓郎は、意外とこういう流れに敏感な人間である。その彼が「そうか!」と思って同年9月25日に出したシングル盤が「となりの町のお嬢さん」だったのだ。拓郎ファンの俺ですら、当時「え?!」と思わせられた信じられないような「昔の歌謡曲」調の逸品である。

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が、今にして思えば、拓郎としては当然の流れだったろうし、楽曲制作のスタッフを見れば、「ルージュの伝言」からの流れに「となりの町のお嬢さん」があることは明白なのだ。
「となりの町のお嬢さん」のアレンジャーは「松任谷正隆」なのである。

と言って、松任谷正隆が拓郎にとって珍しい人選なのかと言うわけではない。逆に松任谷正隆とは「人間なんて」の頃からの付き合いであり、その後も長く拓郎のアルバムやライブ活動に参加してきたスタッフの一人でもあるのだ。
だからこそ、「ルージュの伝言」を聞いた時の「そうか!」の先に松任谷正隆の名前が出てくるのは当然の事だし、拓郎にしても自然な流れだったんだろうなあと思うわけである。

などと、訳の分かったような事を書いてしまった。でもね、「スーパー・ジェネレーション」を聞いていると、やっぱ初期荒井由実を感じてしまうし、それは俺が一番好きだった「日本の音楽」が充満していた時代の音でもあるんだよなあ。

ううむ、それでも40年前か。困ったもんだ。


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