ここから本文です
Ran'sストレンジ・ブリュー
ロックン・ロールの源流とその他諸々。
ダウンタウンの年末の番組で浜田雅功がブラックフェイスを披露ことが論議を呼んでいる。黒塗り顔、縮れ毛、スタジアム・ジャンパーのいでたちで「ビバリーヒルズ・コップ」 のまねをしたのが黒人差別に当たると指摘を受けている。
アメリカ出身の黒人作家で日本在住13年のバイエ ・マクニールさんは浜ちゃんのブラックフェイスについてツイートした。
「ブラックフェイスで出演する日本の人へ。黒人であるというのは、オチや小道具じゃないんだよ。(略)でもお願いだから日本でブラックフェイスは止めて。カッコ悪いから」
一方でタレントのフィフィは「日焼けして黒人並みにするほど黒い肌に憧れている人もいるし、黒人ファッションも真似てる人もいる。意図によっては批判されるだろうけど、黒人に扮しただけで差別って?そう指摘する人達こそ、優劣を付けて人種を見てる気がする」と持論を展開。

イメージ 1

かつてシャネルズは黒塗りでパフォーマンスしていたがそれは、フラミンゴス、スタイリスティックス、テンプテーションズなどの黒人グループへのリスペクトの表れであり差別の意図はなかった。それでも一部では「黒人を道化にしている」との批判はあった。いづれにしろゆるやかな時代だから可能だったのであり現在では到底無理な話だ。

イメージ 2

もう1人思い出されるのはタレントの島崎俊郎だ。黒塗り、カツラ、腰ミノの扮装で「アダモステ」というキャラクターでテレビ番組に出ていた。これは南洋の黒人を笑い者にしたパフォーマンスであり、完全にアウト。今にして思えばよくあんなことやってたよなあ。

イメージ 3

この記事に

ウーマンパワー

イメージ 1

最近知ったのがこのデル・ウッド。すごいですこの人。一応カントリーに属するようですがそんなの超えた超絶ピアノです。それではデル・ウッドさんの演奏をお聞きください。


メイミー・スミス、マ・レイニー、ベッシー・スミス、それにメンフィス・ミニー、女性のパワーをあなどっちゃいけません。このクレオ・ブラウンさんもすごいですよ。



この記事に

リズムとは?

イメージ 1

我々が普通聞いているポップスにはリズムが存在する。広義のリズムは民謡やクラシックにも存在するが狭義のリズムとはドラムによるリズムパターンと言える。
その源流はマーチでありバロックやロマン派と異なり打楽器が鳴り続ける音楽だ。そのマーチを受け継いだ、つまり管楽器やドラムを受け継ぎ、ラグタイムやアフリカのリズム、その他諸々をミクスチャーしたのがジャズである。
軍楽隊では大太鼓、小太鼓が別々に演奏されていたが20世紀になると大太鼓、小太鼓、シンバルも加わりドラムセットが成立する。それをドラム担当が一人で演奏するスタイルができた。
リズムパターンには多くのアイデアが持ち込まれ、4ビート、8ビート、16ビート、その他多くのバリエーションに進化してきた。8ビートと言うと50年代発祥かな?というイメージもあるが、30年代にはすでにブギウギとリズムセクションの融合が試みられているから驚きだ。ピアノ単独ではないバンドスタイルのブギウギを聴いてみてほしい。

この記事に

パーチマン・ファーム

悪名高いパーチマン・ファームは俗称であり正式にはミシシッピ州立刑務所という。
ここに入れられると農作業を始め鉄道工事などにも駆り出され過酷な労働を強いられることになる。
実際ここに収監されたことのあるサン・ハウスやブッカ・ホワイトはそのつらさを歌にしている。
1937年服役中のブッカ・ホワイトはレスター・メルローズの手配によって「Shake 'Em On Down」を録音しヒットさせる。このためブッカは刑務所内ですっかり有名になり、ミシシッピ州知事の前で演奏したこともあった。

またパーチマンは一種奇妙な環境でもあった。
奴隷解放後、プランテーションの衰退とともにフィールド・ハラー(労働歌)も消え去っていたが集団労働のパーチマンではフィールド・ハラーが受け継がれていたのだ。
このことに気づいた研究家のアラン・ローマックスはパーチマンに出向き囚人の歌を採集し後世に残した。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4


この記事に

TOO YOUNG TO DIE 8

アルコールの問題は深刻になっていた。何度も酩酊して現れたため1942年、WSFA局を解雇された。そして大戦中は工員として生活せざるを得なかった。
1946年作曲家のフレッド・ローズの会社と契約し初のレコーディングに臨む。またWSFA局にも復帰し、ここからは躍進の時代となる。1947年にはヒット曲も出て翌年にはルイジアナのラジオ番組「ルイジアナ・ヘイライド」に出演し南部の人気者になっていく。1949年には「グランド・オール・オプリ」に進出しヒットも連発していく。
しかし健康の問題や若くしてスターになったことで周囲のやっかみもあり鎮痛剤や飲酒に頼ることが多く1952年には「グランド・オール・オプリ」を解雇になってしまう。この後はアルコール依存症が進みステージに遅れたりすっぽかしたりということが続いた。
1952年の大晦日、テネシー州から次のコンサート会場のあるウエストヴァージニアに向かったが悪天候で飛行機が飛ばず、チャールズ・カーという若者の運転で車移動となった。この時すでに睡眠薬と酒を摂取しており、ノックスビルで体調不良を訴えたので医師からビタミン注射を打たれる。そして移動を続けるがウエストヴァージニア州オークヒルの給油所に寄った時点で後部座席のハンクは呼吸をしていなかった。
元日夜の公演予定だったオハイオ州カントンの会場ではハンクの死が知らされ出演者と観客は「I Saw the Light」を歌い上げた。29歳の若さだった。
ハンクはカントリーチャートのトップ10に35曲を送り込み、内11曲は1位となっている。
彼はアップテンポの「ジャンバラヤ」というヒット曲もあるが実はしんみりとした曲が多い。

この記事に

[ すべて表示 ]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事