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面白き こともなき世を 面白く
住みなすものは 心なりけり
病床にあった晋作は「面白きことも なき世を面白く」まで自筆で書いたが
力尽きて、後は望東尼が「住みなすものは 心なりけり」と詠ってみせたのです。
幕末の長州藩に生まれた高杉晋作は
吉田松陰の松下村塾で学び、アヘン戦争後の上海に密航します。
そこで、西欧の列強に支配される清国の実情を知り危機感を抱くのです。
日本はぺリー来航から安政の大獄を経て過激な尊王攘夷運動が巻き起こり、
激動の時代を迎えていたのです。
今こそ立ち上がるべきだと決意した晋作は
武士だけでなく有志の庶民も入隊できる奇兵隊をつくったのです。
その資金は、廻船業を営んでいた豪商の白石正一郎が全て支援しました。
さらに
西郷隆盛や大久保利通など尊王攘夷運動の志士達の援助もしていたのです。
私財を全部投げ打ってまで援助したのですよね。
陰で支えた白石正一郎がいたからこそ奇兵隊を結成することが出来たのだと思う。
その後は自身も奇兵隊に入り、会計を担当しました。
封建社会の不条理が通る世の中を改革して行こうとした奇兵隊は
門閥制度を廃し、実力主義を中心にする軍隊であったため
革新的な組織となりました。
これが討幕維新へと導く言動力となったのです。
晋作の墓は自身の望みで奇兵隊の陣地があった
下関市吉田の小高い丘の上にあり、その麓の東行庵で梅処(おうの)が
明治42年に67歳で亡くなるまで志士達130人の菩提を弔っていました。
その東行庵とは、奇兵隊軍監の山県有朋が「無隣庵」と名付けて使ってた住まいを
梅処尼に譲り、後に伊藤博文らが新しく建てた庵を「東行庵」と改名したわけですね。
27歳で病死したけど、その人生は凄く太い人生だったと思います。
写真の上 東行庵(その前は草庵の無隣庵だったが、伊藤博文らが建て東行庵に改名)
下 山県有朋が詠み自身が書いてる歌碑です。
隣なき 世をかくれ家の うれしきは
月と虫とに あひやどりして
注)隣なき→隣に何もない無隣庵を指してます
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