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謹んで新年のお慶びを申し上げます。今年も宜しくお願いしますね(^^)

イエス・キリストの教え

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コへルトの言葉

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旧約聖書の「コへルトの言葉」の中にこういう件がある。

  太陽の下に次のような不幸があって、人間を大きく支配をして
  いるのを私はみた。

  ある人に神は富や財宝・名誉を与え、この人の望むところは
  何一つ欠けていなかった。

  しかし神は、彼がそれを自ら享受することは許されなかった。
  他人がそれを得ることになったのだ。
  
  これ、また空しく大いに不幸なことだ。

何故、享受できなかったのか?それは書かれていない。

それは多分、お金を山ほど持ちながら病弱だったり、
忙しくて全く時間がなかったり、家庭が円満じゃない場合だってあると思う。

必死で作った財産を使うのは彼自身じゃなく、他の人が使うのである。

親不孝な息子や娘であったりしますよね。

何事も人生とは思い通りにいかないものなのかも。

上手くいったときは、運がよかったと考えるほうが無難なのかも知れませんね。


それから、これもコヘルトの言葉の件です。
あまりにも有名な言葉ですね。



   天の下の出来事には全て定められた時がある

   抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時

   保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時

   愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。


全てのものには適切な「時」があるということですね。

叉、時も変質していくのである。










   




   










   

















  

神が喜ぶ慈悲

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これはクリスチャンでもある曽野綾子さんが語られた話である。

戦後でモノが不自由だった時代、私は高校生だった。

ある日、学校に空き巣が入った。
体操の時間にグラウンドを出て、終って教室に帰って来たら
どうも各自の荷物の様子が変なのだ。

何人かのカバンの中身が床に散らばっており、
「あ〜〜〜お財布がないわ〜!!」
「上着がないぃ〜〜〜!!」ということになったのだ。

当時の日本は、ちょっと玄関先の靴を失敬したり、
干していた俎板なども拝借〜!という感じで持って行く人が多かったのだ。

モノ不足なので、お金が取られたりはないのです。。

そして、まもなくして犯人が捕まった。

友人の盗んだブレザーを着こんでいたので、すぐ足がついたのだ。

犯人は、ろくに着る物がなかったので、盗むと同時に着ていたのだ。

普通なら「何故、人のモノを盗む〜〜!!泥棒だ!」になりますよね?

しかし、私達の先生は違った。

友人の盗まれたブレザーを犯人に上げることを勧めたのだ。。

普通なら正義として、盗んだものを返すのが当たり前です。

しかし、この先生はそうは考えなかったのだ・・。

なぜか????


盗まれた友人は上着を一枚以上持っている。

それに対して盗んだ女性は一枚もなかった・・・。

優しい友人は改めて、上着を盗んだ女性に贈ることを承諾した。


当時の自分には解せなかったが後年、それを知ることになった。

この事件の背後にある「聖書の言葉」を知ったのだ。。

そのコトバとは・・・。いったい何だろう?



 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。



ーー当時のイスラエルでは下着を誰でも着替えを持っていたが、
上着は高価なウールだったので人々は一枚しか持ってないのが普通だったのだ。

そして、彼らのユダヤ教の教えでは、

 下着は質にとってもいいけれど、夜の寒さを防ぐのに必要な上着は
たとえ質草に取っても日没までには返さないといけない。。

そのような規定があったのだ。

しかし、イエス様は
それほどに必要な上着さえも「寒さに苦しむ人には与えるように」
と諭したのだ・・。

人と人との間に横軸で働く正義よりも、神の喜ぶ慈悲というものは
こういうものだったのだ。。

だからと言って悪いことをした人が、
自分に慈悲を持つのは当然だと要求するのは論理の間違いである。

人間社会の理屈を通すことも重大であるが、
必ずしも人と人の横の判断だけで終るということもないのかも。。




 

イエスの教え

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クリスマスも近いし、聖書の話を少しします。

聖書の中では、しばしば律法学者達がイエスの敵として登場します。

それは彼らが律法を優先していたからである。

人への愛を優先するイエスの姿勢とは違っていました。

それから、ファリサイ派というのも登場します。
その人達とは、どういう人なのでしょ?

律法を厳守し「地の民」と呼ばれていて、不浄な人達だと思われていたような
羊飼いなどとは絶対に交わらない誓約をした人達のことを言います。

福音書です。
ーーーイエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く神殿の境内に入られると、
民衆がみな御自分のところにやって来たので、座って教えられた。

そこへ律法学者達やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえた女を連れて来て、
真ん中に立たせ、イエスに言った。

「先生、この女は姦通している時に捕まりました。
こういう女は石で撃ち殺せと
モーゼは律法の中で命じています。
ところで貴方は、どうお考えになりますか?」

イエスを試して訴える口実を得るために、こう言ったのである。

「あなたたちの中で罪を犯した事の無い者が、まずこの女に石を投げなさい」

これを聞いた者は、
年長者から始って一人また一人と立ち去ってしまった。

そこに残ったのはイエスと女だけになった。

「婦人よ、誰もあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない。」

イエスは彼らの罠にかからなかったのです。

むしろ

彼らの仕掛けた罠が彼ら自身に跳ね返っていくようにしむけたのです。

律法学者とは、心も知識も生活の片々も聖書の教えから逸脱しないように、

かつその知識を深めるために捧げるために生きてきたような人達です。

彼らの目的は、全ユダヤの民を聖書の律法に従わせ
民全体を真のユダヤ人にすることにありました。

しかし、彼らも同じように罪を犯してる人間だったのです。

 イエスは本当の裁きとは神に委ねることを命じています。

そして、キリスト教とは性善説ではなく性悪説なのです。

私はいつも思うのですが、
作家はキリスト教徒になってる人が多いですよね〜?
それは、いつも人間の内面を見てるから、
そうなるのだと思うのです。

キリスト教は人間というものは、放って置けば悪いほうに傾きがちなことを
よくよく知ってるのです。

人間生きていたら自分の卑怯さ、愚かしさ、恐ろしさなどに
嫌でも直面するものである。

この場にいたユダヤ人達は、年長者ほど自分が過去にどれだけの罪を
犯してきたのかを覚えていた。
この女だけが大きな罪を犯したのではないことを認識したのだ。

まさに
聖人君子だけでなく、罪を犯す弱い人間が主役であるという聖書のテーマの
真髄を示す場面の話でした。

自分がいい人だと信じられるのは精神の形態としては、よく言えば若いけど
悪くいえば幼稚ということなのです。

聖書は、ありのままの自分を認識する勇気を高く評価しています。

人間性の成熟とは年長者、中年にならなければ
「私も、そういうことがありましたよ〜」
「私も、そうしたでしょうね〜」
と、さらりと言えるような器にはなれないのかも・・。

小さなことも含めて、許せるような人間になりたいものです。

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