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特集 あらゆる人生苦の解決と実例
 
心の力で椎骨(ついこつ)は調整しうる

先日、岐阜の一読者からこういう手紙が来たのであります。「自分は数年来強度の顔面神経痛にかかって夜も眠られないほどの苦しみでありますが、あらゆる医療という医療、あらゆる治療法という治療法を試みたけれども、寸効(すんこう)もなく失望しています。近ごろある透視家に診てもらったところが頸椎骨(けいついこつ)に物理的の狂いがあるので、それを物理的に治さないかぎりはこの神経痛は治るものではないといいます。しかし当方は田舎でそんな椎骨(ついこつ)を治す医者はないのです。御地付近に椎骨(ついこつ)の矯正をする名医があれば知らしてください」というお尋ねの手紙です。わたしはさっそく、神戸のカイロプラクター桜井某(さくらいぼう)と、東京にある某々(ぼうぼう)椎骨矯正医二名の往所を知らしてあげ、それにつけ加えて、「あなたが物理的にその病気を治そうと思うならばこれらの人たちにかかってみてください。それも一つの方法です。しかし真理を申せば、物質はそれ自身において痛みを 感ずる力はないのです。

だから痛みを感ずるのは『念(こころ)』です。『痛いと思う念』が痛みを感じているのです。『念(こころ)』から『痛い』という思いをとってしまえば痛むものではありません。ところが、心はこれ『生命(せいめい)』のはたらきであって、『生命』は神から受けたものですから完全であって病気になるものではありません。病気だと思う『迷いの念(こころ)』が、痛むはずもない物質の肉体を痛むように思わせているのです。椎骨の脱臼ということをこのごろだいぶやかましくいいますが、椎骨と椎骨との間には伸び縮みの自由なゴムのような靱帯(じんたい)があって、それが椎骨を一定の位置にたもっているのです。その靱帯が一方へ痙攣(ひきつ)けて不平均(ふへいきん)でいれば椎骨が脱臼しているのです。この靱帯というものは物質だから、自分自身の力では一方へ痙攣ることはできないのです。もしそれが痙攣っているならば、あなたの心がこれを引きつらせたのです。あなたの心が引きつらせたのならば、あなたの心が健全に帰れば靱帯の不平均な一方への痙攣も治りますから、椎骨の脱臼も治ります。もし心で病気を治そうとお考えになるのでしたら、『神想観』を実修して神との一体感に完全に精神が統一したとき『自己の生命は神の子であって病気になるはずはない。そして物質には心がないから痛みを感ずるはずがない。
痛みは迷いである』と繰り返し繰り返し念じてごらんなさいきっと治ります」と書いてご返事を差し上げたのであります。この方が神想観の実修をされたのは六月二十日からであります。二十日から五日間はこちらからも「祈り」と「思念」とを送ってその実修をおたすけし、あとはその方の自修にまかせておきましたところ、翌月の五日出の葉書には、「おかげさまで昨今では数年にわたる難病もほとんど全快しました」という快報が来たのであります。「神想観」を実修せられてからまだ半月しかたたないのに、「生命の実相の自覚」さえ行なわれれば、数年間不治の難病でもこんなにすみやかに治るのであります、
こんなにもたやすく病気は治るものであるのに、医学が進歩しいろいろの物質的薬が発明せられてくると、かえって病気がなおらなくなるのみか、新しい病気が続々と殖えてくるのは、医学が進歩すればするほど、「生命は神の子だ」という信念がいよいよますます稀薄になってゆくからであります薬物に対する信仰が高まれば、「生命」に対する信仰、自己の「神性」の自覚はだんだん薄まるのであってこの二つはけっして両立しないのであります。だからできうる限りわれわれは、薬物その他の物質的方法に頼ることをやめて、「生命」の霊妙性を自覚するように努め、これによって、「生命」それ自身の力を発現せしめて病気を治すようにしたいものであります。

生理学者は人間の筋肉には随意筋と不随意筋とがあって、随意筋は自分の心で思うように動くけれども、不随意筋は自分の心では随意に動かすことができないといっているのであります。しかしこれはただ表面そう見えるだけのことで、心で動かない肉体組織はないのであります。骨の位置を定めている靱帯(じんたい)でさえも、前述のように心に真理を自覚すれば正しい位置にかえるのでありまして、胃腸や心臓の運動が心の力によって正しくなったり不整になったりするくらいはあたりまえのことであります。
 
 
体温計が麻痺症を癒す

心の作用(はたらき)は実に微妙なもので、信じて「治る」と思えば、どんな治療法を使おうが、どんな薬を使おうが治るのであります治らないのはその信じ方がたりないからであります。もうだいぶ古い話でありますが、アメリカにサー・ハムプリー・デビーという医者がありました。そこへ一人の麻痺症の男がやって来て治してくれというのです。麻痺のために(わき?)の下に体温計をはさみにくいので、体温計を口に入れさせて、体温をはかってみたのであります。かなり古い出来事であって、患者はこれまで体温計というものを口ヘ入れて検温するという経験がなかったので、これはテッキリ口ヘ入れておけば病気が治る機械だ、と信じて思い違いをしたのであります。この機械に対する信念が強かったものだから、その体温計を口から出すころには、さしもの麻痺症が治ってしまっていたので医者も驚いたのであります。クリスチャン・サイエンスの開祖エディ夫人は普通の食卓塩を水に薄めて、ぜんぜん塩からくないようにし、その稀薄な食塩水をいかにも高貴薬(こうきやく)のように一杯のコップの水に一滴たらし、その水を三時間ごとに茶さじ一杯ずつ、末期の腸チフス患者に与えてとうとう病気を治したという実例を発表しています。「鰯(いわし)の頭も信心から後光(ごこう)が射す」という言葉がありますが、それと同じことで体温計でも、食塩水でも、蒸溜水でも、信仰さえすれば病気が治るのであるとしましたら、何も自分の貴い生命以外のものを信仰する必要はないのであります。自分の「生命」を信仰し、神の子としての自分の「生命」の貴さを自覚し、これによって病気を治すことにしたならば、人間というものが物質にひざまずいて、どうぞ治してくださいとほかの物に頼む必要がなくなり、同時に自分の「生命」がどんなに霊妙な全能なものであるかということがわかってきますから、こん後病気を怖れなくなるばかりでなく、処世上にもあらゆる点において、この自己生命の強い生きる力の自覚が大いにわれわれを裨益(ひえき)してくれるのであります。

さきほど、私は肉体は物質であるから痛みを感ずるはずがないと申しました。厳密にいえば心のない物質はないのでありまして、物質がある形をあらわしているというのは、心が背後にあって、物質にそういう形を現わさしめているのであります。で、「物質には心がない」と前にいいましたのは、普通人が考えているところの「物質」というものはこんなものだという概念をまずひきあいに出してきて、そんなら肉体は物質だから痛みはないはずじゃないかといったのであります。この肉体の痛いと感じますのは心があって痛いと思うから痛いのであって、心がなければ痛いとは感じないのであります。たとえばちょっと熱い湯がかかれば、われわれの皮膚は赤くなって、しまいには水泡(みずぶくれ)までできてきますが、死骸にちょっとぐらい熱湯をかけても赤くもならず水泡もできないのであります。死骸はいわゆる「心」がないから、本当にクラクラ沸(たぎ)る湯の中へでも入れて本当に物質的に変化を起こすほどの時間煮なければ色が変わるようなことはないのであります。ところが生きているわれわれは、ちょっとした熱湯をあびてもスグ皮膚の色が変わり爛(ただ)れて来たりすることがあるのであります。これは熱湯をあびたから火傷をするに違いない、皮膚が赤くなって水泡(みずぶくれ)ができるに違いないというわれわれの心の信仰が肉体の形や色に変化を与えるのであります。だから「熱い」という観念、「火傷をする」という観念をわれわれの心のうちから取り去ってしまうと、炎の中へしばらくぐらいは手を突っ込んでも、焼け火箸(ひばし)を手でしごいても火傷をしないでいることができるのであって、これは御嶽教行者(おんたけきょうぎょうじゃ)の「火渡(ひわた)りの術」などにも見ることができるのであります。

 
 
つづく
 
谷口雅春著「生命の実相第一巻」より
 
 

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