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つづき 体温計が麻痺症を癒す
 
 そんなら「熱い」という観念、「火傷をする」という観念をとり去ってしまったら、火の中へ数時間坐っていても焼けないかと申しますと、そうはまいらないのであります。これは「火の中に坐っていれば焼ける」という人類全体の信念の力が、火中に坐っているただ一人の「焼けない」という信念の力に打ち勝つからであります。この人類全体の信念を人類意識(race consciousness)といいます。われわれがこの人類意識の外に超出しえない限り、われわれはその影響を受けるのであります。
 
昔、ある名僧は「心頭を減却すれば火もまた涼し」といって、炎の中に坐って、熱いという考えを心から除り去って、ぜんぜん熱いともなんとも思わずにいたけれども焼けて死んでしまったのであります。江間式心身鍛練法の講習などをみると、刃渡りの術といって、抜き身の刃の上を跣足(はだし)で歩く修行をさせたりしますが、この術を受けても必ずしも身体が鉄のように固くなって、どんな剣も槍(やり)もその肉体にとおらなくなるというのではありません。この刃(やいば)を上向きに並べた抜き身の上をわれわれは誰が歩いても力が平均にかかれば足の裏は切れるものではないのであります。このためにこの実験に使う刀は刃を両方から研いでつけてあるのであって、片面研ぎのものを使うとこの刃渡りの術はできにくいのであります、この力 が平均に、片よらないで相手に向かうということが江間式に限らずいろいろの霊的修行の中心になるのであって、心に恐怖心ができれば、どこかにスキができて、本来なら自分が傷つかないのが当然であるべき相手にぶつかっても自分を傷つけることになるのであります。

ところがたいていの人は心に恐怖心があるために、本当に皮膚や肉が煮えてしまうほどの熱さにあわなくても火傷や火ぶくれができるのであります。砒素(ひそ)のような毒薬(どくやく)や硝酸(しょうさん)のような劇薬ならいざしらず、一般の人間がおよそ普通に食べている食物なら、これは人間が神から与えられているのですから、それを食べたからとて本来なら胃腸を害するなどということは決してないのであります。しかし胃腸病の患者にかぎって、あれを食べると胸が焼けるの、これを食べると下痢するのと、しじゅう恐怖心で食べ物の小言ばかりをいっていますから、ますます言葉の力で食物に対する恐怖が強くなるのであります。この恐怖のために自分の心が相手の食べ物に対して平然として片よらないで立ち向かうことができない。そのために消化液の成分にも片よりができて胃酸が多くなったり、ペプシンの分泌が少なくなったりして、食べた物が完全な消化をえないで腐敗することになるので、これが胃腸病の本体であります。それはちょうど、踏んでいる足の力が平均に刀の刃に立ち向かわなかったら足の裏が切れるのと同じで、本来なら傷つかずにすむべき胃腸がまず食べ物に「気合い負け」して、食べ物に傷つけられることになるのです。

クリスチャン・サイエンスの開祖エディ夫人は砒素(ひそ)のような毒薬を飲んでそれで人間が死ぬのは砒素という物質の力が人間を殺すのではない。砒素を飲んだら死ぬという人類の信念が人間を殺すのだ、とまで極言しているのであります。「それなら毒殺せられる人や、毒と知らずに食物をたべて中毒するような人は、心でそれが毒だと信じないで死ぬではないか」とエディ夫人に反問した人がありました。するとエディ夫人は、「毒と知らずに食べた人やその周囲の数名は毒だと思わなかったかもしれないが、人類の大多数の腹の底に隠れている信念が、それを毒だと認めているから、大多数の人類の信念が合併して実に大きな信念となって、その信念の力によってそれが毒となって、それを飲む人を殺したので、物質そのものには決して人を殺す力などはないのだ」と答えたのであります。

このエディ夫人の答えは なかなかおもしろい答えであります。人間というものが、本来「心」であって「物質」でないならば、物質が人間を生かしたり殺したりするということはできないはずであります「心」は「心」自身のはたらきで生き生きとしたり、弱ったりするほかに生きる道も死ぬる道もないのであります。また人間というものが本来「心」ではなくてその本質が物質であるならば「心」のない物質には生きるも死ぬるもないのですから、それではぜんぜん問題にはならないのであります。

それで、こういうことが解るのであります。物質がわれわれを治したり、殺したりするのは、第一、人間というものが「物質」ではなく「心」でできている生命(いきもの)であるということ。第二、物質というものは色や形や特有の性質をもっているように思われるけれども、ほんらいそんなものは無であること、すなわち『般若心経(はんにゃしんぎよう)』にも説いてあるように物質の色声香味触法等(しきしょうこうみそくほうとう)の諸性質はすべて無であって、ただその背後(うしろ)に個人の信念、または人類の信念という「心」の作用が働いておって、この信念の力が人間という「心の生物」を治しもすれば殺しもするということであります。

つまり人間は物質という死物でないからこそ生き死にがあり、物質だと思っていたものも、その実は「信念」(ひろくいって「人類意識」または「宇宙意識」)が仮に形をあらわしたものであるから、人間という心的存在に関係をもちうるということになるのであります。それでわれわれは人間と薬との関係を、物質と物質との関係のように思って いたのが誤りであることがわかり、人間と薬との関係は「心」と「心」との関係、意識と意識との関係であることが覚られるのであります。
 
 
大乗仏教(だいじょうぶつきょう)の神髄

物質は無い!何という大胆きわまる宣言でありましょうしかしこの真理こそいつの時代にも大切であって、この真理がいよいよはっきりするにしたがって人間は本当の自由が与えられ、自己の霊的自在性が完全に発揮されるのであります。釈迦は三干年前にすでにこの真理を明らかにせられた。「物質は無い!」色即是空だ。大乗仏教の経文の中心となっているのは、この五字の真理につきるといってもよいのであります。しかし釈迦は相手しだいでいろいろの方便をお使いになったらしく、薬を欲しがっている病人には薬をやって病気をお治しになったということも経文(きょうもん)には出ているのであります。信仰さえあれば体温計であろうがボタンであろうが、口に入れさせておけば病気は治るのですから、釈迦は物質を仲介にして病人の信仰を喚起(かんき)して治されたものとみえます。だからわれわれも決して薬剤を排斥するものではありません。


キリスト教の神髄

キリストになると病気や薬に対する態度はいっそうハッキリしているのであります。キリストはどんな病気でも難病だといわれたことはない。キリストにとつては、病(物質)は無いのだから、病に重いも軽いもないのであります。弟子が難病者の病気を癒(なお)しそこなって帰って来ると、「おお、なんじら信仰薄きものなるかな」と彼は嘆じているのであります。これは病の治ると治らぬとは「病の物質的軽重にあるのではない。信仰の深い浅いによるのだ」という意味であります。キリストは病の軽重(けいちょう)をみなかったばかりでなく、死をもみなかった。ラザロが死んでいるのをみても「死せるに非(あら)ず、眠れるなり」と断言した。,
この断定的な信仰の言葉によってラザロは肉体的にも復活してきた。これをみても肉体は信念の影だということがわかるのであります。またキリストは誰にも薬を処方してあげられたこともなければ、食養法を説かれたこともなく、あべこべに、「なんじら何を食らい何を飲まんと思い煩(わずら)うことなかれ」と切言(せつげん)せられているのであります。ラザロは万人(ばんにん)の目からみて現に死んで数日たつのに、キリストにとっては、「物質は無い!」のであるから、死んで腐りかかっているラザロの肉体などは心の目に触れなかったのであります。彼はラザロの靈なる「真の人間(リーアル・マン)」を見た。神によって造られたる神の子たる「神人(ゴッド・マン)」を見た。「真(しん)の人間(にんげん)」「生命の実相」「神人(しんじん)」を認めることによって「真の人間」が現象的にもノコノコ立ち上がって動き出した。これがラザロの復活であります。
 
つづく
 
谷口雅春著「生命の実相第一巻」より
 

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