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つづき 体温計が麻痺症を癒す
 
 そんなら「熱い」という観念、「火傷をする」という観念をとり去ってしまったら、火の中へ数時間坐っていても焼けないかと申しますと、そうはまいらないのであります。これは「火の中に坐っていれば焼ける」という人類全体の信念の力が、火中に坐っているただ一人の「焼けない」という信念の力に打ち勝つからであります。この人類全体の信念を人類意識(race consciousness)といいます。われわれがこの人類意識の外に超出しえない限り、われわれはその影響を受けるのであります。
 
昔、ある名僧は「心頭を減却すれば火もまた涼し」といって、炎の中に坐って、熱いという考えを心から除り去って、ぜんぜん熱いともなんとも思わずにいたけれども焼けて死んでしまったのであります。江間式心身鍛練法の講習などをみると、刃渡りの術といって、抜き身の刃の上を跣足(はだし)で歩く修行をさせたりしますが、この術を受けても必ずしも身体が鉄のように固くなって、どんな剣も槍(やり)もその肉体にとおらなくなるというのではありません。この刃(やいば)を上向きに並べた抜き身の上をわれわれは誰が歩いても力が平均にかかれば足の裏は切れるものではないのであります。このためにこの実験に使う刀は刃を両方から研いでつけてあるのであって、片面研ぎのものを使うとこの刃渡りの術はできにくいのであります、この力 が平均に、片よらないで相手に向かうということが江間式に限らずいろいろの霊的修行の中心になるのであって、心に恐怖心ができれば、どこかにスキができて、本来なら自分が傷つかないのが当然であるべき相手にぶつかっても自分を傷つけることになるのであります。

ところがたいていの人は心に恐怖心があるために、本当に皮膚や肉が煮えてしまうほどの熱さにあわなくても火傷や火ぶくれができるのであります。砒素(ひそ)のような毒薬(どくやく)や硝酸(しょうさん)のような劇薬ならいざしらず、一般の人間がおよそ普通に食べている食物なら、これは人間が神から与えられているのですから、それを食べたからとて本来なら胃腸を害するなどということは決してないのであります。しかし胃腸病の患者にかぎって、あれを食べると胸が焼けるの、これを食べると下痢するのと、しじゅう恐怖心で食べ物の小言ばかりをいっていますから、ますます言葉の力で食物に対する恐怖が強くなるのであります。この恐怖のために自分の心が相手の食べ物に対して平然として片よらないで立ち向かうことができない。そのために消化液の成分にも片よりができて胃酸が多くなったり、ペプシンの分泌が少なくなったりして、食べた物が完全な消化をえないで腐敗することになるので、これが胃腸病の本体であります。それはちょうど、踏んでいる足の力が平均に刀の刃に立ち向かわなかったら足の裏が切れるのと同じで、本来なら傷つかずにすむべき胃腸がまず食べ物に「気合い負け」して、食べ物に傷つけられることになるのです。

クリスチャン・サイエンスの開祖エディ夫人は砒素(ひそ)のような毒薬を飲んでそれで人間が死ぬのは砒素という物質の力が人間を殺すのではない。砒素を飲んだら死ぬという人類の信念が人間を殺すのだ、とまで極言しているのであります。「それなら毒殺せられる人や、毒と知らずに食物をたべて中毒するような人は、心でそれが毒だと信じないで死ぬではないか」とエディ夫人に反問した人がありました。するとエディ夫人は、「毒と知らずに食べた人やその周囲の数名は毒だと思わなかったかもしれないが、人類の大多数の腹の底に隠れている信念が、それを毒だと認めているから、大多数の人類の信念が合併して実に大きな信念となって、その信念の力によってそれが毒となって、それを飲む人を殺したので、物質そのものには決して人を殺す力などはないのだ」と答えたのであります。

このエディ夫人の答えは なかなかおもしろい答えであります。人間というものが、本来「心」であって「物質」でないならば、物質が人間を生かしたり殺したりするということはできないはずであります「心」は「心」自身のはたらきで生き生きとしたり、弱ったりするほかに生きる道も死ぬる道もないのであります。また人間というものが本来「心」ではなくてその本質が物質であるならば「心」のない物質には生きるも死ぬるもないのですから、それではぜんぜん問題にはならないのであります。

それで、こういうことが解るのであります。物質がわれわれを治したり、殺したりするのは、第一、人間というものが「物質」ではなく「心」でできている生命(いきもの)であるということ。第二、物質というものは色や形や特有の性質をもっているように思われるけれども、ほんらいそんなものは無であること、すなわち『般若心経(はんにゃしんぎよう)』にも説いてあるように物質の色声香味触法等(しきしょうこうみそくほうとう)の諸性質はすべて無であって、ただその背後(うしろ)に個人の信念、または人類の信念という「心」の作用が働いておって、この信念の力が人間という「心の生物」を治しもすれば殺しもするということであります。

つまり人間は物質という死物でないからこそ生き死にがあり、物質だと思っていたものも、その実は「信念」(ひろくいって「人類意識」または「宇宙意識」)が仮に形をあらわしたものであるから、人間という心的存在に関係をもちうるということになるのであります。それでわれわれは人間と薬との関係を、物質と物質との関係のように思って いたのが誤りであることがわかり、人間と薬との関係は「心」と「心」との関係、意識と意識との関係であることが覚られるのであります。
 
 
大乗仏教(だいじょうぶつきょう)の神髄

物質は無い!何という大胆きわまる宣言でありましょうしかしこの真理こそいつの時代にも大切であって、この真理がいよいよはっきりするにしたがって人間は本当の自由が与えられ、自己の霊的自在性が完全に発揮されるのであります。釈迦は三干年前にすでにこの真理を明らかにせられた。「物質は無い!」色即是空だ。大乗仏教の経文の中心となっているのは、この五字の真理につきるといってもよいのであります。しかし釈迦は相手しだいでいろいろの方便をお使いになったらしく、薬を欲しがっている病人には薬をやって病気をお治しになったということも経文(きょうもん)には出ているのであります。信仰さえあれば体温計であろうがボタンであろうが、口に入れさせておけば病気は治るのですから、釈迦は物質を仲介にして病人の信仰を喚起(かんき)して治されたものとみえます。だからわれわれも決して薬剤を排斥するものではありません。


キリスト教の神髄

キリストになると病気や薬に対する態度はいっそうハッキリしているのであります。キリストはどんな病気でも難病だといわれたことはない。キリストにとつては、病(物質)は無いのだから、病に重いも軽いもないのであります。弟子が難病者の病気を癒(なお)しそこなって帰って来ると、「おお、なんじら信仰薄きものなるかな」と彼は嘆じているのであります。これは病の治ると治らぬとは「病の物質的軽重にあるのではない。信仰の深い浅いによるのだ」という意味であります。キリストは病の軽重(けいちょう)をみなかったばかりでなく、死をもみなかった。ラザロが死んでいるのをみても「死せるに非(あら)ず、眠れるなり」と断言した。,
この断定的な信仰の言葉によってラザロは肉体的にも復活してきた。これをみても肉体は信念の影だということがわかるのであります。またキリストは誰にも薬を処方してあげられたこともなければ、食養法を説かれたこともなく、あべこべに、「なんじら何を食らい何を飲まんと思い煩(わずら)うことなかれ」と切言(せつげん)せられているのであります。ラザロは万人(ばんにん)の目からみて現に死んで数日たつのに、キリストにとっては、「物質は無い!」のであるから、死んで腐りかかっているラザロの肉体などは心の目に触れなかったのであります。彼はラザロの靈なる「真の人間(リーアル・マン)」を見た。神によって造られたる神の子たる「神人(ゴッド・マン)」を見た。「真(しん)の人間(にんげん)」「生命の実相」「神人(しんじん)」を認めることによって「真の人間」が現象的にもノコノコ立ち上がって動き出した。これがラザロの復活であります。
 
つづく
 
谷口雅春著「生命の実相第一巻」より
 
特集 あらゆる人生苦の解決と実例
 
心の力で椎骨(ついこつ)は調整しうる

先日、岐阜の一読者からこういう手紙が来たのであります。「自分は数年来強度の顔面神経痛にかかって夜も眠られないほどの苦しみでありますが、あらゆる医療という医療、あらゆる治療法という治療法を試みたけれども、寸効(すんこう)もなく失望しています。近ごろある透視家に診てもらったところが頸椎骨(けいついこつ)に物理的の狂いがあるので、それを物理的に治さないかぎりはこの神経痛は治るものではないといいます。しかし当方は田舎でそんな椎骨(ついこつ)を治す医者はないのです。御地付近に椎骨(ついこつ)の矯正をする名医があれば知らしてください」というお尋ねの手紙です。わたしはさっそく、神戸のカイロプラクター桜井某(さくらいぼう)と、東京にある某々(ぼうぼう)椎骨矯正医二名の往所を知らしてあげ、それにつけ加えて、「あなたが物理的にその病気を治そうと思うならばこれらの人たちにかかってみてください。それも一つの方法です。しかし真理を申せば、物質はそれ自身において痛みを 感ずる力はないのです。

だから痛みを感ずるのは『念(こころ)』です。『痛いと思う念』が痛みを感じているのです。『念(こころ)』から『痛い』という思いをとってしまえば痛むものではありません。ところが、心はこれ『生命(せいめい)』のはたらきであって、『生命』は神から受けたものですから完全であって病気になるものではありません。病気だと思う『迷いの念(こころ)』が、痛むはずもない物質の肉体を痛むように思わせているのです。椎骨の脱臼ということをこのごろだいぶやかましくいいますが、椎骨と椎骨との間には伸び縮みの自由なゴムのような靱帯(じんたい)があって、それが椎骨を一定の位置にたもっているのです。その靱帯が一方へ痙攣(ひきつ)けて不平均(ふへいきん)でいれば椎骨が脱臼しているのです。この靱帯というものは物質だから、自分自身の力では一方へ痙攣ることはできないのです。もしそれが痙攣っているならば、あなたの心がこれを引きつらせたのです。あなたの心が引きつらせたのならば、あなたの心が健全に帰れば靱帯の不平均な一方への痙攣も治りますから、椎骨の脱臼も治ります。もし心で病気を治そうとお考えになるのでしたら、『神想観』を実修して神との一体感に完全に精神が統一したとき『自己の生命は神の子であって病気になるはずはない。そして物質には心がないから痛みを感ずるはずがない。
痛みは迷いである』と繰り返し繰り返し念じてごらんなさいきっと治ります」と書いてご返事を差し上げたのであります。この方が神想観の実修をされたのは六月二十日からであります。二十日から五日間はこちらからも「祈り」と「思念」とを送ってその実修をおたすけし、あとはその方の自修にまかせておきましたところ、翌月の五日出の葉書には、「おかげさまで昨今では数年にわたる難病もほとんど全快しました」という快報が来たのであります。「神想観」を実修せられてからまだ半月しかたたないのに、「生命の実相の自覚」さえ行なわれれば、数年間不治の難病でもこんなにすみやかに治るのであります、
こんなにもたやすく病気は治るものであるのに、医学が進歩しいろいろの物質的薬が発明せられてくると、かえって病気がなおらなくなるのみか、新しい病気が続々と殖えてくるのは、医学が進歩すればするほど、「生命は神の子だ」という信念がいよいよますます稀薄になってゆくからであります薬物に対する信仰が高まれば、「生命」に対する信仰、自己の「神性」の自覚はだんだん薄まるのであってこの二つはけっして両立しないのであります。だからできうる限りわれわれは、薬物その他の物質的方法に頼ることをやめて、「生命」の霊妙性を自覚するように努め、これによって、「生命」それ自身の力を発現せしめて病気を治すようにしたいものであります。

生理学者は人間の筋肉には随意筋と不随意筋とがあって、随意筋は自分の心で思うように動くけれども、不随意筋は自分の心では随意に動かすことができないといっているのであります。しかしこれはただ表面そう見えるだけのことで、心で動かない肉体組織はないのであります。骨の位置を定めている靱帯(じんたい)でさえも、前述のように心に真理を自覚すれば正しい位置にかえるのでありまして、胃腸や心臓の運動が心の力によって正しくなったり不整になったりするくらいはあたりまえのことであります。
 
 
体温計が麻痺症を癒す

心の作用(はたらき)は実に微妙なもので、信じて「治る」と思えば、どんな治療法を使おうが、どんな薬を使おうが治るのであります治らないのはその信じ方がたりないからであります。もうだいぶ古い話でありますが、アメリカにサー・ハムプリー・デビーという医者がありました。そこへ一人の麻痺症の男がやって来て治してくれというのです。麻痺のために(わき?)の下に体温計をはさみにくいので、体温計を口に入れさせて、体温をはかってみたのであります。かなり古い出来事であって、患者はこれまで体温計というものを口ヘ入れて検温するという経験がなかったので、これはテッキリ口ヘ入れておけば病気が治る機械だ、と信じて思い違いをしたのであります。この機械に対する信念が強かったものだから、その体温計を口から出すころには、さしもの麻痺症が治ってしまっていたので医者も驚いたのであります。クリスチャン・サイエンスの開祖エディ夫人は普通の食卓塩を水に薄めて、ぜんぜん塩からくないようにし、その稀薄な食塩水をいかにも高貴薬(こうきやく)のように一杯のコップの水に一滴たらし、その水を三時間ごとに茶さじ一杯ずつ、末期の腸チフス患者に与えてとうとう病気を治したという実例を発表しています。「鰯(いわし)の頭も信心から後光(ごこう)が射す」という言葉がありますが、それと同じことで体温計でも、食塩水でも、蒸溜水でも、信仰さえすれば病気が治るのであるとしましたら、何も自分の貴い生命以外のものを信仰する必要はないのであります。自分の「生命」を信仰し、神の子としての自分の「生命」の貴さを自覚し、これによって病気を治すことにしたならば、人間というものが物質にひざまずいて、どうぞ治してくださいとほかの物に頼む必要がなくなり、同時に自分の「生命」がどんなに霊妙な全能なものであるかということがわかってきますから、こん後病気を怖れなくなるばかりでなく、処世上にもあらゆる点において、この自己生命の強い生きる力の自覚が大いにわれわれを裨益(ひえき)してくれるのであります。

さきほど、私は肉体は物質であるから痛みを感ずるはずがないと申しました。厳密にいえば心のない物質はないのでありまして、物質がある形をあらわしているというのは、心が背後にあって、物質にそういう形を現わさしめているのであります。で、「物質には心がない」と前にいいましたのは、普通人が考えているところの「物質」というものはこんなものだという概念をまずひきあいに出してきて、そんなら肉体は物質だから痛みはないはずじゃないかといったのであります。この肉体の痛いと感じますのは心があって痛いと思うから痛いのであって、心がなければ痛いとは感じないのであります。たとえばちょっと熱い湯がかかれば、われわれの皮膚は赤くなって、しまいには水泡(みずぶくれ)までできてきますが、死骸にちょっとぐらい熱湯をかけても赤くもならず水泡もできないのであります。死骸はいわゆる「心」がないから、本当にクラクラ沸(たぎ)る湯の中へでも入れて本当に物質的に変化を起こすほどの時間煮なければ色が変わるようなことはないのであります。ところが生きているわれわれは、ちょっとした熱湯をあびてもスグ皮膚の色が変わり爛(ただ)れて来たりすることがあるのであります。これは熱湯をあびたから火傷をするに違いない、皮膚が赤くなって水泡(みずぶくれ)ができるに違いないというわれわれの心の信仰が肉体の形や色に変化を与えるのであります。だから「熱い」という観念、「火傷をする」という観念をわれわれの心のうちから取り去ってしまうと、炎の中へしばらくぐらいは手を突っ込んでも、焼け火箸(ひばし)を手でしごいても火傷をしないでいることができるのであって、これは御嶽教行者(おんたけきょうぎょうじゃ)の「火渡(ひわた)りの術」などにも見ることができるのであります。

 
 
つづく
 
谷口雅春著「生命の実相第一巻」より
 
 
あらゆる人生苦の解決と実例
真理の治験例ー1

わたしは多年の間、癌と肺結核とのために苦しんでいました。わたしはニューヨーク、ミネアポリス、ダリュース等、各地の名医という名医をたずねて診察をこうたけれども、けっきょく不治症との宣告を受けたのでした。肺結核にかかっていた近隣の人が本を読んで治ったというので、その人が深切にもわたしにエディ夫人著の『真理と健康』という本を貸してくださった。わたしはそれを読んで興味を覚えているうちに、早くも三ヵ月にして癒(いや)されてしまったのです。この書がわたしに伝えてくれた真理がわたしを癒してくれたのでした。ただに病気が治ったばかりでなく、わたしの精神状態全体が改造されてしまいました。それ以来十一年間というもの、わたしは一日も病床についたことはありません。この期間にわたしはずいぶんいろいろの体験に接しました。幾多の火のような試煉をも通過しましたが、この恵まれた真理がわたしをしてそれに耐えさせてくれました。時にはわたしはただ一人で誰もわたしに味方してくれる者がないと思われるような時もありましたが、神が常にわたしと偕にいてくださいました。

わたしはここに無痛分娩の実例を書いておきたいと思います。それは、わたしがこのアイダホに来てからの体験です。このわたしの体験はこの種の「真理の治験例」を求めていられる愛姉たちの励ましとなると思うので書かせていただきます。ここでは手助けをしてくれる人がありませんので産褥(さんじょく)につく時まで家事に従事していましたが、完全に健康でした。或る朝、 午前五時にわたしは良人を起こしました。午前五時半にはもう子供が生まれていました。わたしと良人とのほか誰も産む時にはいなかったのです。生まれた子供をかかえて暖炉のそばの椅子にかけているわたしを見て家族のほかの者はびっくりしました。息子が朝食を運んで来てくれましたのでウンとわたしは食べたものです。昼食にはもう食堂に出かけて皆と一緒にたべました。第二日には室内を散歩し、第三日には庭園を散歩し、それから、最近まで三年間ズッと健康でとおしています。これまで常に産科医のやっかいになって苦しみとおしてきたお産の経験あるわたしには奇跡のようなことです。真理を求めていられる愛姉たちにこれが参考となることを祈ります。(アィダホ州、リュースィストン市、F・CC夫人)

真理の治験例ー2

九年前のことです。わたしのひとり子は生死の境をさまようていました。ボストン市きっての名医は不治の宣告をくだして、もし死ななくても生涯病気に苦しみまたちんばになってしまうだろうといいました。禁食品が多くて食べ物の種類はきわめてわずかに限られていました。注意に注意を加えていましても半日に一度は痙撃?(けいれん)を起こしました。子供はまた佝僂病にもかかって手足の骨が曲っていまして、医者はこの子供の身体には普通人の骨はないのだといいました。

わたしがはじめてクリスチャン・サイエンスのことを知った当時は子供が苦しんでいる最中で、わたしが失望の暗黒のどん底に沈んでいる時でした。救いの神のみ手が、或る人を通じて、神の真理が現代に演じつつある奇跡をきたりて見よ、という福音(ふくいん)をわたしにもたらしてくれたのでした。わたしは自分の子供を助けることができるためならぱどんなことでもしたいと思っていたところでしたから、さっそくその招きに応じたのであります。やがて金曜日の夕方、はじめてわたしはクリスチャン・サイエンスの集まりに列席しました。毎週のふっうの礼拝日であるにかかわらず、礼拝がはじまるまでに席はすっかり一杯になっていましたのでまず驚いたことでした。その席で、いろいろ病気の治った体験談をききました。翌日治療をしてくださる先生のお宅をたずねましたが、あまりに諸方から患者に招ばれていらしってお目にかかることができませんでした。わたしは前夜聞いた治療の体験談のうちに単に『真理と健康』の本を読んで治ったという人々の話を聴き、この本を一部借りたいと思いましたが、この書を借りることが友だちにとってそんなに犠牲を払わしめることだろうとは夢にも思いおよばなかったのであります。ところが友だちにこの本を貸してくれといいますと、その友だちはまるで自分の生命に別れでもするようにその書と別れることを惜しみながら貸してくれたものです。

わたしは家にかえってこの書を昼も夜も読みました。黙って読んだり、声をあげて読んだりしました。わたしにはこの書はむずかしくて十分わからないような気がしました。しかしさっそく「真理の療能」があらわれはじめました。痙攣(けいれん)で苦しんでいた子供が常態に復して、すぐ病床から離れて、他の子供と同じように家の周囲を跳び廻って遊ぶようなりました。ちようどその頃、米国西部へはるばる移転せねばならぬような事情が、突発(とっぱつ)しました。

まだ「真理の道」に入って間もないわたしのことです。良人はこの旅行で子供の病気が後戻りをしないだろうか、と心配しました。しかし子供はますますよくなって行きました。わたしは間断なく聖書と『真理と健康』の真理の治験例などを読みました。われわれは二週間の汽車旅行で、汽車に酔わない人といってはただわれわれ家族の者ばかりでした。子供の手足は完全にまっすぐになってしまいました。子供は欲しいものはなんでも食べることができるようになり、それいらいもう数年聞、どこも不足のない壮健な子供として暮しています。付近に激烈な伝染性の小児病がはやった時も彼は少しも感染せずにすみました、わたしは数ヵ月間自分自身の多くの持病をかえりみる余裕もなしに『真理と健康』の本を読みつづけました。わたしはがんらいあまり強壮ではなかったのです。医学の法則と遺伝の法則とを信じて不健康な生活をたどたどしく送っていたのです。わたしは『真理と健康』を読みはじめるちょうど前日、ボストンの有名な眼科医に眼の診断を受けました。眼科医はわたしの眼がひどい状態になっていると診断して、生涯眼鏡をかけていなければならないといつたのです。そのうちに『真理と健康』を読み始めたのでしたが、自分の眼に気がついたときには、眼鏡の必要がスッカリなくなっていました。この本を読んでいる間中わたしは夜となく昼となく眼を酷使(こくし)し、いろいろ細い手仕事をも眼鏡をかけずにしたものです。子供の病気をなおしたい一念で真理の本を読んでいますと、わたし自身の病気も全部なおってしまったのです。外にあらわれた病気はただ破壊されんがためのみに表面に浮かびあがってきたものでした。歯痛も起こらなくなり、知らず識らず顔の斑点(しみ)までとれてしまいましたが、こんなことはわたしのえた魂の向上に比べればとるにたりない小事です。わたしは感謝に満ちた心で一切のものを受けています。(カリフォルニア州ロスアンゼルス、MTW夫人)

真理の治験例
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ながい間わたしは耳と咽喉との病気に苦しんで、英国でも米国でも専門家の治療を受けましたが、少しもよくならず に悪くなる一方でした。ところがクリスチヤン・サイエンスで治ったある人から『真理と健康』の本を買って研究するようにすすめられました。最初、わたしはいやいやながらに買ってみたのですが、五十ぺージも読んでいるうちにわたしの魂を解放する真理を発見したように感じました。それ以来わたしの病気は拭(ぬぐ)うようによくなり、二度と再発しなかったのであります。
先日、三歳になるわたしの娘が誤って肩の関節を脱いたのであります。その時家にいるはわたしば かりでした。娘は激しく痛むので顔色は蒼白(まっさお)になっていました。わたしは極力心霊治療をやってみましたが、一方では誰かが来たらすぐ医者へ駈けつけてもらおうと思っていま彼女はますます苦しみ激しく泣き叫びました。わたしは幼女の着物をぬがせて関節をはめこもうとしました。しかしそれは患部の痛みを増させるばかりなのでわたしはとうとう恐ろくなりました。その時きらめくように、「お前は治療家がそばにいないときにどうしたら好いか考えよ。今この神の力と実在とを実証すべき時ではないか?」という考えが浮かびました。わたしは『真理と健康』の本を声高(こわだか)に読みはじめました半時間もすると幼女は脱けた方の手を上げようとしだしましたが、しましたが、また痛そうに叫んで顔を蒼白にしました。わたしはまた声高に読みつづけました。するきんどは幼女はお菓子を口のところへもってゆこうとするのです。なんと嬉しいではありませんか、脱けた方の手がほとんど口のところまで届いても痛みがないのです。わたしはなおも『真理と健康』を読みつづけていますと、わたしの妹が子供の二人の兄をつれて帰って来ました。幼女は兄弟が帰って来たのを見るとすっかり手の痛みを忘れてベツドから走り出て「わたしは腕をぬいて痛かったの。だけどお母さんが本を読んで治してくださったわ」と申しました。この出来事は午前十時から午後三時までのことであります。それきり幼女は何事もなかったように外で遊んでいました。(ウインペヅグ市、W.G夫人)

以上は病気についてのクリスチャン・サイエンスの治験例でありますが、次 には「生命の実相」で、癒されて健康と運命を改善せられた実例を、皆さんの信念を強めるために申し上げようと思います。月刊の『生命の実相』誌には毎号この種の実際の礼状がのっていますから、それもあわせてお読みください。
 
つづく
 
谷口雅春著「生命の実相第一巻」より
 
 
あらゆる人生苦の解決と実例

光の子とならんために光のある間(うち)に光を信ぜよ、われは光として世にきたれり。
(
『ヨハネ伝』第十二章)
皆さんが「生命の実相」の説くところ読んだり「神想観」を実修したりして、神の子たる自己の生命の実相に触れ、真理をサトッテ病気(その他の人生の凡ゆる不幸)が治るのは、他の類似の治療法のおよびもつかぬ根本的な治療であります。なぜなら、それは自己の生命の実相が自覚されてくるにしたがって、本物でない、ウソの、仮の、迷いの、実際はありもせぬのにあるようにみえているいろいろのあらゆる人生苦が、あたかも光が輝き出せば闇が消えてしまうように消えてしまうからであります。


他の治療はすべて、毒をもって毒を制するとでもいいましようか、無明(むみよう)もつて無明(まよい)を征服するとでもいいましょうか、ともかく一つのまちがった信念ーたとえば、病は、あるという信念ーを、他のまちがっている信念ー物質()が生命を補うという信念ーによって破壊する方法であります。病があるという信念よりも薬が生命を補うという信念の方が強く働けばこれで病気はなおるのであります。


生命みずからで治(なお)せ

「薬が生命を補う」という信念で病気が治るのは、いっけん、非常に結構ではあるけれども、同時にそれは逆に生命は薬によって、補填(つぎはぎ)しなければ完全ではないーという消極的信念を喚(よ)び起こすことになり、自己の「生命」それ自身の完全性の自覚をそれだけ弱めることになります。自己の「生命」に対してその完全性を自信することができなくなったが最後、その人はもはや物質の奴隷または家来であって、物質によって生殺与奪(せいさつよだつ)の権を握られている悲惨このうえもない人間になるのであります。それでは霊的療法なら他の霊力ある人に頼って治してもらってもよかろうといわれる方があるかもしれませんが、それは薬物療法でも霊的療法でも結局は同じことであって、自分以外の他の物に頼らねば自分が自分を治す力がないという信念をつぎこまれるということは、しょうらい自己の「生命」が生長の本道(ほんみち)をたどってゆくうえに重大な障害となるのであります。
で、私は皆さんはむろんのこと、皆さんの知人のかたにも、「みずから起(た)て。生命みずからの力で自分自身を治すことができるならば、なんの弊害もない、弊害がないばかりか、治すたびごとに「生命」自身の霊妙な力についての自信ができてくるのであります。


真理はなんじを自由ならしめん

「生命」自身の力で治すには「生命」とはいったいどんなものであるかということを知らねばなりません。表面(うわつら)の心で知るだけではなく、奥底の心で知らねばなりません。「生命とは神の子である」一一言にしてこういえばなんでもないけれども、なかなかこの真理が本当にわかるにわかる人が少ない。本当にこれがわかれば自分で自分を治すことができる。病気だけではなく境遇でも運命でも自分で治すことができる。治すのでなく、真理を本当に知ったときひとりでに治っているのである。つまり、キリストのいった「真理はなんじを自由ならしめん」とはこのことであります。釈迦のいった「大覚(さとり)をうれば因縁を超越してしまう」とはこのことであります。「真理を知る」というのも「大覚をうる」というのもひっきょうは自分の生命の本質すなわち実相を知ることで、これができれば因縁を超越して完全な自由がえられるのであります。その人は因縁を超越しますから、物質的な原因結果に束縛されるようなことがけっしてなくなる。遺伝がどうの、体質がどうの、冷たい空気がどうの、固い食物がどうのーそんなことに縛られないで「生命」それ自身の本質の完全な状態ーすなわち「真の人間(リーアル・マン)」が表に出てくる、そのときすなわち病気が治ってしまうのであります。
真理を知って病気がなおるのは、恐怖心と不安とが去って、精神的に安心ができるからでであろうから、神経的な病気は治っても実質的な病気は治るまいと思われる方がありましようが、それは物質とはいったいなんであるかを知られない方のいわれることであります前章の「近代科学の空即是色的展開」にもちょっとのべておきましたように、
・・・・中略・・・・
多くの病気は、心から曇りを吐き出して掃除してしまえば薬も靈術もなしに自然に治るあります。心の中から曇りを吐き出すことを精神分析学では観念洗浄(かんねんせんじょう)といっていますが、宗教では「懺悔(ざんげ)」といっている。「懺悔」すると病気が治る。なぜ治(なお)るかといいますと、「懺悔」して心の中の五目多(ごもくた)を放下してしまうと、「生命」本来の健全なる実相があらわれてくるからであります。

ともかく、「生命」の素地(きじ)を出すように磨(みが)きをかけさえすれば、「生命」が本当に完全な相(すがた)をあらわしてくるのであります。『生命の実相』のように真理を書いた書物を読むということはその一つの方法であります。「神想観」によって「生命の実相」を観ずることも一つの方法であります。クリスチャン・サイエンスの創始者エディ夫人はその晩年にはみずから病人に治療をしないで、「私の著書を読め、真理があなたを治すでしょう」といったそうであります。それでじっさいエディ夫人の著書を読んでたくさんの病人が治っているのであります。

最近ではユニティ協会という新しい実践キリスト教団の書物を読むだけで病気その他の不幸が消滅している事実もあり、われわれはユニティの出版物を要約して『人生の鍵シリーズ』(全五巻)として別に紹介しているのでありますが、クリスチャン・サイエンスやユニティはキリスト教の聖書のほかに興拠をもとめないが「生命の実相」は仏典にも、日本古典にも、最近の電子論、スピリチュアリズムにまでも典拠(てんきょ)をもとめて、古い人にも新しい人にも、またいかなる宗派の人びとにも、真理がみずからの宗教として悟れるように説いてあるのであります。真理はキリスト教のみにあるのではありませんから、一つの真理をクリスチャン・サイエンス(キリスト教の真理)として説くことも結構ですが、同時に仏教の真理、または日本古神道の真理としても説くことも必要であります。そうでないとキリスト教以外の多くの人々を救うことができないのであります。これがわれらの万教帰一的立場であって、説くところの真理は一つであるけれども博引傍捜(はくいんぼうそう)どこからでも真理を引っばって来てそれの自覚に入らせる道を講ずるのであります。その点において「生長の家」は非常に自由なのであります。つぎに本を読むだけでも、真理を悟れば、いかに各種の難病が治るものであるかの実例を示して、病気の本来「無」なることを明らかにし、病気で悩める人々への励ましとするために、試みにエディ夫人の著書の中から面白い治験例を引用することにいたします。
 
つづく
 
谷口雅春著「生命の実相第一巻」より
 
 
特集 「生命の実相」つづき
 
近代科学の空即是色的展開
 
 
・・・・省略・・・・
すなわち物質はどうしてこの世にできて来たものであるか。物質というものははたしてわれわれにとって破壊しえないほどの実在性を備えているものであろうか。心と物質との関係はどうであるか。物質というものはわれわれには存在するように見えてはいるが、実はそれは念の影なのではなかろうか。こういう複雑な問題についての根本的理解がないと、肉体といういっけん物質でできているわれわれのからだに起こる病気の解決が完全に行われないのであります。
・・・・中略・・・・
 
古典物理学において「物質」と名付けたものの概念は、一定の空間的容積を占める形あるものだったが、その物質を取り扱っているはずであった物理学や化学がついに物質とは形あるものでなく単に一種のエネルギー(生命力)が形にあらわれているものにすぎないというところまで、ほとんど実験的に説明しうるほどに漕ぎつけましたので、在来の唯物論は、物質科学それ自身の手で自壊してしまうことになったのであります。精神力で病気を治療するさいにもっとも邪魔になるのは、病気なるものが動かしえざる物質的根拠をもっているという一般人の信念であってこの信念を根本から打ち破って行かなければ病気の根源を絶滅するということができないのであります。そこで物質とは本来「無」であること、仏教でいえば「色即是空」すやわち「色」(物質)とはひっきょう「空」であるということ、キリスト教でいえば「すへての物はコトバにて造られる」すなわちコトバ(心の波動)が万物の創造者であるということ、
・・・・中略・・・・
 
液体やガス体の分子と分子との間が隔たっていることは解ったが、石や金のような固体は圧えてもなかなか小さくならないから、これらの物質分子相互間はそんなに隔たっていないだろうと言われる方があるかもしれません。ところがあにはからんや石や金属の分子などでもその分子の大きさを標準に比較していうならば、星と星との間に大きな距離があるほど分子間の距離が互いに隔たっているのであります。もしわれわれが分子の大きさほどの太さの針を作ることができるとすれば、この針で一直線に石なり、金なり、突き通せば、なんの苦もなくずんずんはいっていって、一個の分子にも衝突しないのでありまして、
・・・・省略・・・・
 
 
「生命の実相」の健康学

現代の「病理学」のみならずおよそ病気についての学問はかの人類をエデンの楽園より追放した「禁断の果実」中の一つであります。「悪魔」サタンすなわち人間の迷いの心がこの「病理学」という禁断の果実をたべたら、人間は神のような完全な健康になれるだろうと教えたのです。(創世紀第三章)ところがアダムすなわち「人間」は「病理学」という知恵の果実をたべたためにエデンの楽園から追い出された。人間はほんらい健康で病気になるべきではなかったのに、それからは、刻苦努力して、自分で造った「健康の法則」というものに従わねば健康がたもてぬようになってきたのであります。ごらんなさい、野獣には病気はないのであります。野獣は健康法をもっていない、薬をもっていない。それで完全な健康を生まれながらに備えている。けれども野獣をつれてきて人間界に同居させ動物園なり、牧場なりに放って飼うようにし、人間の思想の雰囲気内に入るようにしておきますと必ず病気になります。獣医がつききりで、野獣が山のなかでしたい放題の生活をしていた時分よりも、よほど衛生的規則的に生活させておいてさえも病気になるのであります。
これは人間の病的思想ーつまりいえば、こうしたら不衛生ではあるまいか、こうしたら病気になりはしないだろうかというような、本来「病気」が存在するということをあらかじめ信じておいて、それを避ける方法ばかりを考えている人間の思想の波動の中に住むから病気になるのであります。
 
 
キリストの超健康法

この点ではキリストは古今独歩の生命主義者であります。キリストは一度だってひとびとに衛生法や健康法を勧めたことはない。彼は口癖のようになんじの生活のために思い煩うなかれ、何を食らい何を飲まんと思い煩うなかれ、なんじの肉体に何を着んと思い煩うなかれというふうに、衛生のために心を労することにはぜんぜん反対されている。生を衛るのは人間のこざかしい知恵でできることではなく、生命そのものの自療力であるということをキリストは知っていられたのであります。
・・・・・中略・・・・
 
医学というものが一方では病気を治しながら、他方では人間の霊的自覚を奪ってゆき物質のまえに人間を無力にしていますから、差し引き計算してみると病気を治す数よりも、病気の起こりやすい精神状態を伝播する範囲の方が広いからであります。
 
 
肉体は想念(こころ)の影

人は心であり、物質は心に思い浮かべた想念が形に化したものでありますから、人の肉体は心で思うとおりになるのあります心が感じ、はたらき、または、はたらきを停止するのであって、胃が悪いとか、胃が消化不良であるとかいっても、実は胃という物質が悪いのではなく、胃をはたらかせている心が、何かの機会たとえば食い過ぎたとかお腹か冷えたとかいうことを感じ、それでは消化が悪くなるだろうと思い、その心のはたらきが胃の活動を鈍くし、消化液の分泌を悪くしたので最初は心に起こった「感じ」なり「思い」なりが肉体が実際病気になるまでにまず病気になって肉体の活力を止めてしまうので、昔から病気とは気を病むということだといわれているのはこういう意味であります。
・・・・中略・・・・・
 
まずあらゆる物質的な治療法をことごとくやってみたのちでないと、「大生命」の方へ心が向いてこないのであります。だから、そうした人間の心の天秤の中では、「生命」というものと「物質」というものとが常につりあいがとれていないで、「物質」ばかりに心の中を占領され、大自在の生命の自覚がないから病気になるのがあたりまえであります、しかしそういう人でも「生命の実相」を読み、自己生命の本然の自由さを自覚せられるようになると、おのずから病気が実際に回復して来るのであります。われわれは二つの主に仕えることはできない。「生命」を信じて、物質を奴隷にするか、「物質」を信じて「生命」をそれの奴隷とするかのほかない。薬物や衛生の奴隷になっているものは、生命の力をますます萎縮させてしまうのであります。薬を用いると、一時は薬に対する信仰から病気がよくなっても、結局はわれわれは大損害をする。
すなわち自己の霊的生命の自存力をますます弱くし、われわれの修養の根本的目的たるものからいよいよ遠ざかってしまうことになるのであります。これは実に惜しみてもなお余りあることであります。
 
 
病気は無い

いったい、皆さんは「病」というものが実際この世にあると信じておられますか。「病気」というものを神がこの世に造り給うたと信じておられますか。もし神にして「病気」というものをお造りにならないならば、病気は第一義的にいえば本当は存在しない。ただそれはあるように見えているにすぎないのです。それは本当は「無い」けれども、あるように見えている「迷い」なのです。「ない」ものをあると思っているから「迷い」という心的状態が客観的(かたち)にあらわれて映っている。これを病気とかいろいろの人生苦とかいうのであります。これをたとえていいますと、「大生命」は活動写真を映す機械の本源に輝いている光のような、不可思議光(光明生命)であります。それを無色透明の正念のレンズを透すとたた光輝燦然たる大生命の肖像ができる。これが神のつくり給うたままの光輝燦然たる人間そのままの姿であります、ただこのわれわれの生命にいろいろ影や不完全状態があらわれるのは、それにいろいろの迷いの姿を描いた「念というフィルム」をあてがうからで、われわれが「念しだいでどうでもなる」というのはこのことでります。
 
本来、われわれ自身の「生命」が「光明生命」でないならば、影さえも顕わすことができない。光がなかったら活動写真を映すことができないと同じであります。いろいろの病気や苦しみ以上の「光」がその本源にあるからで、この「光」こそ、われわれが大生命らいただいているわれわれの「真生命」なのであります。いい換えると、それは神が造り給いしままの「真の人間」リーアルマンであって、この「真の人間」そのままを観るとき、それは円満完全であって、なんらの欠点もない。むろん、病気や不幸はぜんぜんないのであります。各人の、この「真の人間」を観ることを「実相を観ずる」とか「本来の面目を観る」とかいうのです。「生命の実相を礼拝せよ」とあるのは各人に宿っている「真の人間」を礼し拝することをいうのであって、この「真の人間」というものは心でこれを認めれば認めるほど、明らかに形にも顕れてくるのであります。つまり「真の人間」を認めるということは、「真の人間」(光明生命)に陰影のあるフィルムを当てがわずに、「真の人間」そのものを直接に見ることになり、したがって陰影のある暗い映画が人生というスクリーンにあらわれなくなり、 「光明生命」ばかりが客観化してスクリーンにあらわれることになるのであります。
 
つづく
 
 
谷口雅春著「生命の実相第一巻」より
 
 

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